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新潟県新潟市駒首潟遺跡で9C後奔鬼墨書土器(長さん)

今回は、発掘報告書で「物」と釈文された
墨書土器が、「奉鬼」等ではないかという
話題である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
38174_1_駒首潟遺跡第3次調査.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
駒首潟遺跡第3・4次調査、2009、
新潟県教育委員会。
 発掘報告書冒頭の例言によると遺跡の場
所は、新潟県新潟市江南区亀田早通字
駒首潟4224番地。ここで話題とする遺
物が出土したのは、西暦2006年前後の
事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第135
ページによると、遺跡自体が9世紀後半の
ものであり、遺物もその頃の古代の墨書遺
物であると、考えられているようである。
なお、遺跡は仏教と自然崇拝の祭祀が別々
に、それぞれ盛んに行われたとみられる
祭祀跡で、今回の遺物は自然崇拝祭祀の方
用のものであると、考えられているようで
ある。
 仏教祭祀墨書土器には柱40、柱10等、
仏像の数の意味ではないかとみられる文字
が書かれ、その方が比較的珍しいらしい。
 遺物の写真は、発掘報告書の写真図版第
70:”出土遺物土器21旧河川(3)”
の、第2段目左から2番目に在り、遺物番
号第642番との旨、ナンバリングされて
いる、杯の形の土器の底面である。

駒首潟奔鬼.gif

 上図のように「象」のような「鬼」のよ
うな、或いは「兎」のように見える墨書が
明らかに在り、よく見ると写真で「鬼」形
の左上に、「水」か「大」か「奉」のよう
に見える、極薄い模様が在る。2字合わせ
て「奉鬼」のようにも見える。呪術的祭祀
用の土器であり「駒首潟」という地名とも、
コワモテ感から、比較的合っているように
も、私には見える。
 発掘報告書では、この写真を時計回りに
120°程度回転させ、先に鬼等と読んだ
字につき「物」と釈文されている。不明確
な字であるため、物という字では無いと、
証明する事は難しいとは私も見る。しかし
ながら実際には、祭祀用土器が多数出土し
ている状態なので、鬼の方が自然ではない
かと、私は個人的には疑っているという事
である。
 仏像が多数在るところをみると、死者を
弔った仏教施設が近くに有るようにも思え、
9世紀であるから神仏習合で、地獄の鬼等
も、9世紀後半の新潟市付近では、神とし
て崇拝されていても、全く不思議とまでは
言えないように私は疑う。(2022/10/12)

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岐阜県飛騨市太江遺跡で飛鳥早山泰刻書土器(長さん)

今回は、岐阜の山間部で飛鳥時代早期7世紀
初成立とみられる杯土器の裏側に奉、側面に
山奉とみられる刻書ないし墨書があるように
見える遺物の紹介である。

山岳信仰は古墳時代と古代との間で、入替わ
り等は特に無かったようだ。

 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
1206_1_太江遺跡Ⅱ.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
岐阜県教育文化財団文化財保護センター調査報告書第94集
太江遺跡Ⅱ、2005、財団法人岐阜県教育文化財団。
 発掘報告書末尾の抄録によると遺跡の場所
は、岐阜県飛騨市占川町太江。ここで話題と
する遺物が出土したのは、西暦2003年
前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、246号遺構である、
特定の住居跡で出土したが、共出土した
遺物の形から7世紀初の、古墳時代終期~
飛鳥時代早期の境目頃のものとの旨が、発掘
報告書の第124ページ付近に記載されてい
る。遺跡の中で、古代グループの遺構として
は、古い方だという事である。
 遺物の写真は、発掘報告書の写真図版第9
の下から2段目の中央に在り、遺物番号第
60番との旨ナンバリングされている。
杯を伏せたような写真のように、私には見
える。

太江泰山.gif

 上図のように、側面の底の縁に漢字で、
「山」のように見える彫ったような墨のよう
な、その作成方法自体が、明確でない模様が
あり、その下に墨書で少し時計回りに回転
しているように見えるが「奉」のように、
私には見える、はっきりし無い模様が在る。
 だがそれよりも、底面に盛り上げて「奉」
と彫ったような模様が在る点が、更にユニー
クである。
 山岳信仰の祭祀用に見えるが、古墳時代と
古代のちょうど真ん中が成立時期と見られ、
信仰自体は、連続していたにすぎないように
見えるという点でも、貴重な遺品だと私は
思う。(2022/10/11)

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群馬県前橋市茂木山神遺跡で飛鳥期奔馬墨書土器(長さん)

今回は、群馬県の古墳時代から平安時代の集
落跡とみられる遺跡から、飛鳥期7世紀頃の
奉馬墨書甕が出土しているとの話題である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は以下の通りである。
15397_1_茂木山神II遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
群馬県勢多郡大胡町大字茂木;茂木山神Ⅱ遺跡、
2001年、群馬県勢多郡大胡町教育委員会。
 発掘報告書第12ページ付近の抄録による
と遺跡の場所は群馬県前橋市(勢多郡大胡町
:当時)大字茂木字山神(一部:字小林・字
諏訪前)。話題とする遺物が出土したのは、
1999年前後のようである。
 遺物の成立年代は、第6号住居跡より出土
したが、発掘報告書の第192ページ付近の
一覧表によると、住居跡は7世紀の飛鳥期と
みられているようである。
 遺物の写真は発掘報告書の写真図版(PL)
第55の、上段カラム住居跡(H)6の左最
上段に在り、遺物番号住居跡第6号の第2番
との旨、ナンバリングされている。大きな、
甕の形の土器のように、私には見える。

茂木山神奔馬.gif

 上図のように、左下にかなり大きく、はっ
きりとはしないが、漢字で「奉」に見えるよ
うな煤模様が有り、その右に、これについて
もはっきりしないが、「馬」のように見える
煤模様がやはり有って、左から右へ「奉馬」
のように見える。ヤマト朝廷へ献上する馬用
の水入れか、飼葉入れ等の感じである。
 字が不明解だが立派であり、献上馬は群馬
県前橋市や伊勢崎市等では官営の牧場等で飼
われており、話題の土器を使用する馬は、国
衙や大和朝廷へ献上する為の、駿馬だったの
ではないかと私は疑う。(2022/10/10)

 
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長野県小諸市宮ノ反A遺跡で古代山奉墨書土器(長さん)

今回は長野県小諸市のしなの鉄道線平原駅
付近の遺跡で、浅間山山岳信仰が疑われる、
山奉墨書土器が出土しているとの旨の話題
である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
314_1_三子塚遺跡群東下原・大下原・宮ノ反A遺跡群竹花・舟窪・大塚原.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
小諸市埋蔵文化財発掘調査報告書第17集
三子塚遺跡群下原・大下原・宮ノ反A遺跡群竹花・丼震・大塚原、
1994.3、長野県小諸市教育委員会。
 遺物はこのうち、宮ノ反A遺跡群竹花で
出土したようである。
 発掘報告書冒頭抄録によると遺跡の場所
は、長野県小諸市大字御影新田字竹花。
遺物が出土したのは、西暦1991年前後
のようである。
 遺物の成立年代は発掘報告書の第119
ページ付近の記載によると、ここで話題に
する遺物は、第32号住居址で出土したが、
古代成立とみられるとの旨、記載されてい
るように読取れる。なお、遺跡は古代の通
常律令集落のようである。
 遺物の写真は発掘報告書の写真図版第
48の下カラム”第32号住居址”の、
第2段目中央に在り、スケッチ図第337
の遺物番号第5番との旨、ナンバリングさ
れている、杯のような形の土器である。

宮ノ反337_5.gif

 上図のように、中央やや右に漢字で第1
字目として”山”のように見える模様が有
り、その右下に、反時計回りに回転してい
て、やや不自然感が有るものの、奉のよう
に見える模様が在る。
 山奉と読め、浅間山を望む位置で、古代
に山を奉じる山岳信仰が在ったのではない
かと、疑われると私見される。(2022/10/09)

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岩手県花巻市似内遺跡で平安期泰山墨書土器(長さん)

今回は、以前に平安期に成立したとされる、
住居遺構の埋設土壌層から、奉金の字に見え
る墨書土器が出土したと紹介した、岩手県の
同じ遺跡・同じ発掘調査の報告書で、奉山と
墨書されている土器の出土写真も在り、山岳
信仰と、鉱山開発とは関連しているとの、本
ブログ管理人の説明をサポートするとみられ
る遺物の紹介である。なお、この遺跡のその
回の発掘のおり、ずばり金粒も出土したとさ
れる。
 遺物の写真は、web上に公開され発掘報
告書は同様に、奈良文化財研究所発掘報告書
データベース、全国遺跡報告総覧に登録され
ているものの中に、pdfとして有る。
pdfファイル名は、以下の通りであり、
1590_1_似内遺跡発掘調査報告書.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りであった。
岩手県文化振興事業団埋蔵文化財調査報告書第344集
似内遺跡発掘調査報告書、西暦2000年、
(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター。
 遺跡の場所は、発掘報告書末尾の抄録によ
ると、岩手県花巻市上似内第10地割。同じ
く抄録によると、話題とする遺物が出土した
のは、西暦1999年前後の事。
 遺物の成立年代は、第7号住居跡より、
話題とする遺物は出土しているが、第7号
住居跡も、発掘報告書第36ページの記載に
より、他の28棟(第1番~第29番)同様、
漠然と平安時代の住居跡であると考えられて
いると読み取れる。
 遺物の写真は、写真図版第75:
”遺構内出土遺物(6)”の、最下段左に在
り、”7号住居跡”と付記され、遺物番号で、
第72番との旨、ナンバリングされ、大型の
瓶のような形の土器である。

似内遺跡泰山.gif

 上図のように、写真のほぼ中央少し右に、
縦に、カスレかけた文字で、かなり大きく、
奉山と書かれているように見える。字が擦れ
ているので、前回この発掘報告書を見たとき
には、見逃したようである。なお、奉の字の
左上にも、少し小さめに漢字の王に見える
模様も在る。王奉山か奉山のようである。
 金粉、奉金墨書が出土しているので、花巻
市のこの遺物は、山岳信仰と鉱山採掘が古代
に関連していたことを、表している遺物の疑
いがあると私見される。(2022/10/08)

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岡山県久世町木谷古墳群で飛鳥期奔王墨書古墳遺物(長さん)

今回は、古墳から出土した遺物に、奉王と
書かれている例の紹介で、大型な集団埋葬
墳墓であり、飛鳥時代頃、現地で王とされ
た人物を、その墳墓に埋葬していると疑わ
れる例の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
4753_1_中山西遺跡城山東遺跡下郷原和田遺跡
下郷原田代遺跡木谷古墳群中.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
中山西遺跡・城山東遺跡・下郷原和田遺跡・
下郷原田代遺跡・木谷古墳群・中原古墳群。
 遺物は、このうち木谷古墳群の第6号墳
で、出土したとのことである。なお発掘調
査は、中国横断(高速)自動車道の建設に
より、行われたもので、紹介した前記の、
発掘報告書には、そのうちの一部、前述6
箇所の遺跡の、発掘報告結果が記載されて
いる。遺跡同志の相互の関連性は薄い。
 発掘報告書第1ページの調査概要による
と遺跡の場所は岡山県真庭郡久世町。遺物
が出土したのは、西暦1989年前後の事
のようである。
 遺物は提瓶といわれる土器。6号墳より
出土。発掘報告書の第283ページ付近の
記載によると、第6号墳の成立時期は、
7世紀頃の飛鳥時代であると読取れる。
 遺物の写真は、発掘報告書写真図版第
56の下から3段目の左から2個目の土器
で、繰り返すと古墳に埋められた提瓶で、
膨らんだ側に模様がある。尚写真は、側面
と、膨らみ面の2方向が撮影され、右側の
写真に、模様が撮影されている。

木谷古墳群68奔王.gif

 上図のように、やや左の口の下に漢字で
奉のように見える煤模様が有り、その真下
に王のように見える、同じ位の濃さの煤模
様がある。奉王だろうと見られる。
 第6号墳に埋葬された人物のうち、長老
格の者がおり、飛鳥時代の7世紀に現地で、
王と称されていた疑いがある、証拠遺物の
ように私には見える。(2022/10/07)

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熊本県菊池市隅府土井ノ外遺跡で14C奔人墨書土器(長さん)

今回は熊本県菊池市の南北朝時代から室町
時代前期、14世紀後半から15世紀前半
にかけての遺跡から摩訶大大将棋/
摩訶大将棋の駒名として有る、奔人に似た、
奉人とも読める、明らかな墨書土器が出土
したとの旨の話題である。
 奔人ではなくて奉人のようであり、

将棋とは直接は繋がらない祭祀用の土器で
あると考える。

 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
15933_1_隈府土井ノ外遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
熊本県文化財調査報告第248集隅府土井ノ外遺跡、
2009年3月、熊本県教育委員会。
 なお題字に”伝菊池館跡”の付記が有る。
 発掘報告書末尾の抄録によると遺跡の場
所は、熊本県菊池市隅府1332-1の
県立菊池高等学校敷地内。遺物が出土した
のは西暦2006年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、共出土した貝類の殻
の炭素14年代測定から、14世紀後半か
ら15世紀前半の南北朝時代から室町時代
初にかけてと、みられているように、発掘
報告書第87ページ付近の、記載から読取
れる。
 遺物の写真は、発掘報告書写真図版第
115:”1区出土遺物”の第2段目右か
ら2番目に在り、スケッチ図第40図の、
上段第2段目の右から2番目の、遺物第
35番と同一物であろうとみられる。なお、
発掘報告書では墨書土器であり、舎人と、
釈文されているように読取れる。

隅府土井ノ外奔人.gif

 上図のように摩訶大大将棋/摩訶大将棋
が成立したと、本ブログが見ている時代に
近い室町前期の、藤原隆家の配下の子孫で
ある(伝)菊池氏館とみられる場所での出
土のため、将棋との関連で注目される。が、
第1字目が”奔”である可能性は、ほぼ無
いように見える。更に私見だが、舎人だと
すると、「八」の部分が、割れて消失した
部分に含まれる為見え無いはずで、

発掘報告書の読みも違う

のではないかと疑う。将棋関連疑惑を漂わ
せる物品であって、古代からの官職名等で
は、無い疑いが有るのではなかろうか。
しかし繰り返すと、

どう見ても、下部は十十であって十廿では
無いので、奔人と読むのも苦しく、

「供物を奉じた神社の氏子」の意味の祭祀
用ではないかとは疑うのだが。何れにして
も、ぱっと見だけであるが、興味をそそら
れる遺物が、学校の敷地内から出土したも
のだと、感心して私は見ている。(2022/10/06)

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長野県松本市神戸遺跡で11C泰山墨書土器(長さん)

今回は、山岳地帯長野県松本市の神戸遺跡で、
平安時代後期11C成立とみられる杯土器に、
漢字で奉山と書かれているように見える遺物
の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
8208_2_松本市内その2神戸遺跡・上二子遺跡・中二子遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
財団法人長野県埋蔵文化財センター発掘調査報告書5
神戸遺跡・上二子遺跡・中二子遺跡、1989年、
日本道路公団名古屋建設局・長野県教育委員会・
財団法人長野県埋蔵文化財センター。
 なお遺物はこのうち、最初の神戸遺跡で出
土したようである。
 発掘報告書末尾の抄録によると、神戸遺跡
の場所は、発掘報告書第1本文pdfの冒頭
第1ページの”遺跡の概観”によると長野県
松本市大字笹賀字神戸。遺物が出土したのは、
第1ページ”調査の概要”によると、西暦
1980年前後のようである。
 遺物の成立年代は、第15号住居跡から出
土し、平安時代の第13期に成立とあるが、
発掘報告書の第73ページによると、第15
期が12世紀であり、それより少し前である
から11世紀であろうと、本ブログの管理人
は解釈することとした。
 遺物の写真は、発掘報告書第2写真図版
pdfの、写真図版(PL)第16の、中段、
SB15出土土器と付記された、左列の上か
ら5段目に在る、杯型の土器の側面である。

神戸遺跡泰山.gif

 上図のように、縦にはっきりしないが漢字
で、奉山と書いて在るように見える。なお、
この遺物について、墨書の指摘は発掘報告書
に無い。が複数の墨書土器が、神戸遺跡のこ
のときの発掘で、見つかっているようである。
 長野県松本市からは穂高岳・槍ヶ岳等、
北アルプス連峰が一望され、古代に祭祀で、
山を奉じる儀式が行われたと考えて、大きな
矛盾は無いと私は考える。(2022/10/05)

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宮城県山元町熊の作遺跡で古代大師墨書土器(長さん)

今回は太平洋岸で宮城県南端の表題地点で、
郡衙の発掘が行われ、長官の意味の大領と
書かれた土器が何枚か出土したが、そのう
ちの一枚だけ、大師にも読めるという話題
である。仏教寺院も郡衙の付近に有って、
弘法大師が崇拝されていても、特に不思議
は無いのではと見る。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
19036_1_熊の作遺跡ほか.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
宮城県文化財調査報告書第243集
熊の作遺跡ほか;戸花山遺跡・狐塚遺跡・
向山遺跡・熊の作遺跡・犬塚遺跡・新中永窪遺跡・
雷神遺跡・山ノ上遺跡、西暦2016年、宮城県
教育委員会・東日本旅客鉄道会社。
 遺物はこのうち、最大の発見とされる、
郡衙跡とみられる熊の作遺跡で出土したよ
うである。
 発掘報告書末尾の抄録によると、遺跡の
場所は宮城県亘理郡山元町坂元字熊の作。
遺物が出土したのは、西暦2014年前後
の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書212
ページ付近の記載等から湿地帯・柱跡から
話題にする遺物及び、類似の模様「大領」
の墨跡の有る遺物が出土したが、8世紀後
半から9世紀前半の古代、奈良時代後期か
ら平安時代初と考えられているように、読
取れる。平安期、古代の遺物なのであろう。
 遺物の写真は、発掘報告書の写真図版第
37:”熊の作2地点出土遺物(12)
墨書土器”の第3段目左から2番目に在り、
遺物番号図版37の第7番との旨、ナンバ
リングされている。杯土器の破片を底面か
ら見ているように、私には見える。

熊の作大師.gif

 上図のように、発掘報告書でも墨書土器
とされ、他の何枚かの墨書土器の漢字読み
「大領」から、この土器も郡衙の長官と思
われる、「大領」であるとされているが、
この遺物だけ領の字のへんが下にズレすぎ
ていて、大局将棋の駒名としても有る、

大師と書かれている

ようにも見える。ひょっとして、長官用で
はなくて、この遺物だけ弘法大師に供える
祭礼用の杯等なのではなかろうか。場所が
律令の郡衙の近辺であり、当時は街中とい
う場所であろうから真言宗の寺院が在って、
弘法大師が祭られていても、特段の不思議
は無いのではないかと疑う。(2022/10/04)

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奈良県御所市観音寺本馬遺跡で弥生後期奔馬墨書土器棺(長さん)

今回は奈良県御所市の観音寺本馬遺跡で、
奉馬墨書棺甕墓土器がかなり以前に出土し
ているとの旨の紹介である。奈良時代では
なく、

2世紀前後の弥生時代の遺物らしい。

 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
19640_1_観音寺本馬遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
御所市文化財調査報告書第48集観音寺本馬遺跡、
2015年12月、御所市教育委員会。
 発掘報告書末尾の抄録によると遺跡の場
所は、奈良県御所市大字本馬。遺物が出土
したのは、西暦2009年前後の事のよう
である。
 遺物は、A西2-2区の第3遺構面で
出土したが、遺物の形態から、弥生時代後
期後半の2世紀前後に成立と取れる旨が、
発掘報告書の第105ページ付近に記載さ
れている。
 遺物の写真は発掘報告書の写真図版第
33の下段に在り、第84-1番との旨、
ナンバリングされていて”A西2区下層
トレンチ2-2区土器棺墓1”との旨、
付記されている。かなり大きな、甕型の
物品である。

観音寺本馬奔馬.gif

 上図のように、黒い地に、更に黒く、
中央かなり下の部分に、漢字で「馬のよう
に読める煤模様が在り、その上に大きめに、
はっきりしないが「奉」のようにも見える
模様が薄く在る。

戦闘に利用する馬の、骨等を入れたのでは
ないだろうか。

 時期も弥生時代末で早く、畿内では、
かなり早くから、帰化人等により軍事目的
と見られる馬が飼育されていて、その痕跡
が、土器や地名にさえ残っている疑いが有
るのかも知れないと、私はこの例に関して
疑っている。(2022/10/03)

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