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福島県本宮市高木・北ノ脇遺跡で古墳期龍将・奔王墨書土器(長さん)

 今回は、古墳時代で比較的はっきりした字で
龍王墨書遺物が出土したとの旨を紹介した福島
県本宮市高木遺跡等で、龍王系の別墨書土器、
近接する北ノ脇遺跡で、奉王・山奉墨書土器が
出土し、複数の祭祀用の古墳期墨書遺物が在る
と証明できたとの旨紹介する。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 以前に紹介したが、pdfファイル名と、
発掘報告書名を繰り返すと、以下の通りである。
23411_2_阿武隈川右岸築堤遺跡発掘調査報告.pdf
報告書名は、以下の通りである。
福島県文化財調査報告書第401集
阿武隈川右岸築堤遺跡発掘調査報告2
高木・北ノ脇遺跡、2002年11月、
福島県教育委員会・
(財)福島県文化振興事業団・
国土交通省東北地方整備局福島工事事務所。
 発掘報告書の末尾の抄録によると高木遺跡の
場所は、福島県本宮市大字高木字高木。北ノ脇
遺跡は、その北東に隣接していて同大字高木字
北ノ脇に所在とのことである。発掘されたは、
両方西暦1999年前後のようである。
 遺物の成立年代は、以下述べる高木遺跡発掘
分が発掘報告書第1本文pdfの第343ペー
ジ付近の記載によると、第108号住居跡から
出土し、古墳時代末の7世紀初との旨が、第1
本文pdfの第13ページから読取れる。
 北ノ脇遺跡の出土遺物については、発掘報告
書第2pdf前半の本文部の88ページの記載
から第2番目は6世紀頃、古墳時代後期の遺物
と読取れるようである。また、第2pdf前半
の本文部の12ページや14ページの記載から、
第3番目も6世紀頃のものと読取れるように思
われる。
 なお前に紹介した龍王墨書土器も6世紀頃の
ものであり、正確には一致しないが、古墳時代
から飛鳥時代早期であるという点で、大差が無
いように思う。
 遺物の写真は、高木遺跡の第2号住居跡で出
土したとみられる遺物が発掘報告書第2pdf
の後半写真図版の部分の、高木遺跡の写真図版
第583:”第108号住居跡出土遺物”の、
最下段左に在り、遺物番号として、第108号
住居跡の遺物番号第3番との旨、ナンバリング
されている。
 以下のように甕のような形の土器に見える。

阿武隈左岸龍将.gif

 上図のように煤模様が多いが、土器の最上部
に左から右へ横に、図では比較的小さくなって
しまったが「龍将」と読めるような薄い模様が
在り、以前の龍王と、字の濃さが良く似ている。
 北ノ脇遺跡の第26号住居跡で出土した遺物
の写真は同じく第2写真図版pdfの、北ノ脇
の写真図版第72番:”25号・26号住居跡
出土遺物”の最下段左に在り、スケッチ図
第64図の第4番との旨、ナンバリングされて
いて、やはり甕のような形の土器である。

北の脇奔王.gif

 上図のように、ど真ん中に”王”の字が有り、
その左に、四角の枠型の汚れと重なっていて、
不明確であるが同じような大きさで奉と書かれ、
奉王墨書土器のようにも、私には見える。
 北ノ脇遺跡の第2号住居跡で出土した遺物の
写真は、同じく第2写真図版pdfの、北ノ脇
遺跡の写真図版第64番:”1号・2号住居跡
出土遺物”の最下段右に在り、スケッチ図第7
図の第5番との旨、ナンバリングされていて、
こちらは椀のような形の土器のようである。

北の脇山泰2.gif

 上図のように、この遺物についてはやや、見
難いが、写真の左隅に縦に、小さく”山奉”に
見える模様が在ると見る。図では画像処理をし
たが、山だけ濃くなってしまい、返って字が読
み辛くなってしまった。お手数ですが、もとの
発掘報告書でも確認されたい。ともあれ。
 遺跡は近接しているし、時代も重なっている
ので、阿武隈川左岸の、高木・北ノ脇両方の遺
跡で古墳期ないし飛鳥時代の早期に、龍神信仰・
山岳信仰が行われ、更には地域の有力者に対し
て貢物を差し出す行為もあったことを、ひょっ
として示しているのではないかと、私は疑う。
(2022/10/19)

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