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山形県遊佐町上高田遺跡で平安前期山泰墨書土器(長さん)

今回は、古代のその墨跡が文句なしの「
山奉」墨書土器である。「山夲」と、発掘
報告書でも読む。飽海郡遊佐町の遺跡は、
過去2回ほど紹介したが、顕著な陸奥の
律令集落地帯との印象が濃く感じられた。
 遺物の写真がweb上に公開されていて
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
5993_1_上高田遺跡第2・3次発掘調査報告書.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
山形県埋蔵文化財センター調査報告書第57集
上高田遺跡第2・3次発掘調査報告書、
1998、財団法人山形県埋蔵文化財センター。
 発掘報告書末尾の本文最後尾と写真図版
の間に在る抄録によると、遺跡の場所は、
山形県飽海郡遊佐町大字富岡字上家ノ前。
遺物が出土したのは、西暦1997年前後
の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第113
ページの「まとめ」によると、遺跡自体が、
8世紀後半~10世紀後半の間の、奈良時
代末から平安時代前半の間に収まるととれ
る記載が有るように、私には認識される。
 遺物の写真は3枚有り、特に最初の2枚
の山奉類墨書は、鮮明である。
 一枚目は、発掘報告書の写真図版第15
の左下段カラムの4枚の、字が鮮明な墨書
土器のうちの右上に在り、遺物番号第
328番との旨ナンバリングされている。
皿の底の写真のように、私には見える。

上高田山泰.gif

 文句無しに山夲であり、発掘報告書でも
そう読まれ、山岳崇拝であろうとみられる。
 二枚目は、発掘報告書の写真図版第16
の左上段カラムの2枚の、これも字が鮮明
な墨書土器のうちの左に在り、遺物番号第
348番との旨ナンバリングされている。
何らかの容器の土器の底の写真のように、
私には見える。

上高田山奔.gif

 山奔のように見え、字体が徳島県川西
遺跡の奔横の卅と書く奔の字に似ている。
 三枚目は、発掘報告書の写真図版第24
の左上段カラムの2枚の、上から4段目の
左端に在り、これは

木製の椀の底のよう

に、私には見える。遺物番号は第811番
との旨ナンバリングされている。

上高田811泰山.gif

 上図のように、濃さは申し分ないが第1
字目が不明解であり、奉のように私には見
え、「奉山」と書いてある疑いが有ると私
見する。
 以上のように、この遺跡には古代の山岳
信仰が元と見られる、跳び抜けて鮮明な、
墨書遺物が、複数枚出土していると、私に
は認識される。(2022/10/21)

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兵庫県西宮市西宮神社社頭遺跡で近代角行刻・墨書瓦(長さん)

今回は、時代が下って明治の頃成立と
読取れる、兵庫県西宮市の中心部に在る
表題の遺跡から、角行と書いてあるので
はないかと疑われる瓦のカケラ状の遺物
の出土の話題である。

行の字が不明確であり、偶然模様

と疑われる。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
20203_3_西宮神社社頭遺跡発掘調査報告書.pdf
 発掘穂刻書の名称は以下の通りである。
兵庫県文化財調査報告第388冊西宮神社社頭遺跡
発掘報告書、西暦2011年、兵庫県教育委員会。
 発掘報告書冒頭の例言によると遺跡の場
所は、兵庫県西宮市社家町・本町・馬場町。
遺物が出土したのは、発掘報告書末尾の抄
録により西暦2005年前後のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第1本文
pdfの第28ページによると、形から、
近世後半~近代のものと解釈されている旨
記載されている。
 遺物の写真は、発掘報告書第3写真図版
pdfの写真図版第16:”出土遺物5”
の、最下段に在って、遺物番号第113番
との旨ナンバリングされている。模様が見
えるのは右側の方であり、小型の瓦カケラ
のように、私には見える。

西宮神社角行.gif

 上図のように、写真の中央に、刻書で漢
字の「角」のように見える白い筋模様が在
る。そしてその下部に、煤が被って黒い面
に、やはり白い筋で行の字が埋もれている
ように、そう言われて見れば、見えなくも
無い模様が在る。
 日本将棋が成立していた時代であるから、
たまたま将棋の角行の名を書いても、特に
おかしくは無いとは言える。割れた破片で
あるが、割れる前の表面の部分とは形から
推定できそうではある。
 瓦の側面だった部分のように見えるが、
角行と書いた可能性が無いとは言えないが、
行の字が、余りに不明解である。なので、
今のところ偶然模様では無いかとしておく。
(2022/10/20)

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福島県本宮市高木・北ノ脇遺跡で古墳期龍将・奔王墨書土器(長さん)

 今回は、古墳時代で比較的はっきりした字で
龍王墨書遺物が出土したとの旨を紹介した福島
県本宮市高木遺跡等で、龍王系の別墨書土器、
近接する北ノ脇遺跡で、奉王・山奉墨書土器が
出土し、複数の祭祀用の古墳期墨書遺物が在る
と証明できたとの旨紹介する。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 以前に紹介したが、pdfファイル名と、
発掘報告書名を繰り返すと、以下の通りである。
23411_2_阿武隈川右岸築堤遺跡発掘調査報告.pdf
報告書名は、以下の通りである。
福島県文化財調査報告書第401集
阿武隈川右岸築堤遺跡発掘調査報告2
高木・北ノ脇遺跡、2002年11月、
福島県教育委員会・
(財)福島県文化振興事業団・
国土交通省東北地方整備局福島工事事務所。
 発掘報告書の末尾の抄録によると高木遺跡の
場所は、福島県本宮市大字高木字高木。北ノ脇
遺跡は、その北東に隣接していて同大字高木字
北ノ脇に所在とのことである。発掘されたは、
両方西暦1999年前後のようである。
 遺物の成立年代は、以下述べる高木遺跡発掘
分が発掘報告書第1本文pdfの第343ペー
ジ付近の記載によると、第108号住居跡から
出土し、古墳時代末の7世紀初との旨が、第1
本文pdfの第13ページから読取れる。
 北ノ脇遺跡の出土遺物については、発掘報告
書第2pdf前半の本文部の88ページの記載
から第2番目は6世紀頃、古墳時代後期の遺物
と読取れるようである。また、第2pdf前半
の本文部の12ページや14ページの記載から、
第3番目も6世紀頃のものと読取れるように思
われる。
 なお前に紹介した龍王墨書土器も6世紀頃の
ものであり、正確には一致しないが、古墳時代
から飛鳥時代早期であるという点で、大差が無
いように思う。
 遺物の写真は、高木遺跡の第2号住居跡で出
土したとみられる遺物が発掘報告書第2pdf
の後半写真図版の部分の、高木遺跡の写真図版
第583:”第108号住居跡出土遺物”の、
最下段左に在り、遺物番号として、第108号
住居跡の遺物番号第3番との旨、ナンバリング
されている。
 以下のように甕のような形の土器に見える。

阿武隈左岸龍将.gif

 上図のように煤模様が多いが、土器の最上部
に左から右へ横に、図では比較的小さくなって
しまったが「龍将」と読めるような薄い模様が
在り、以前の龍王と、字の濃さが良く似ている。
 北ノ脇遺跡の第26号住居跡で出土した遺物
の写真は同じく第2写真図版pdfの、北ノ脇
の写真図版第72番:”25号・26号住居跡
出土遺物”の最下段左に在り、スケッチ図
第64図の第4番との旨、ナンバリングされて
いて、やはり甕のような形の土器である。

北の脇奔王.gif

 上図のように、ど真ん中に”王”の字が有り、
その左に、四角の枠型の汚れと重なっていて、
不明確であるが同じような大きさで奉と書かれ、
奉王墨書土器のようにも、私には見える。
 北ノ脇遺跡の第2号住居跡で出土した遺物の
写真は、同じく第2写真図版pdfの、北ノ脇
遺跡の写真図版第64番:”1号・2号住居跡
出土遺物”の最下段右に在り、スケッチ図第7
図の第5番との旨、ナンバリングされていて、
こちらは椀のような形の土器のようである。

北の脇山泰2.gif

 上図のように、この遺物についてはやや、見
難いが、写真の左隅に縦に、小さく”山奉”に
見える模様が在ると見る。図では画像処理をし
たが、山だけ濃くなってしまい、返って字が読
み辛くなってしまった。お手数ですが、もとの
発掘報告書でも確認されたい。ともあれ。
 遺跡は近接しているし、時代も重なっている
ので、阿武隈川左岸の、高木・北ノ脇両方の遺
跡で古墳期ないし飛鳥時代の早期に、龍神信仰・
山岳信仰が行われ、更には地域の有力者に対し
て貢物を差し出す行為もあったことを、ひょっ
として示しているのではないかと、私は疑う。
(2022/10/19)

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長野県佐久西一本柳遺跡で飛鳥早奔王墨書土器(長さん)

今回は以前酔象成り太子墨書土器と疑われる、
煤模様のある弥生時代成立の遺物が出土した
表題の遺跡で、時代が違うが飛鳥早期の奉王
墨書土器破片という、本ブログ流では、より

ありきたりの墨書遺物も出土している

との話題である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
620_1_一本柳遺跡群西一本柳遺跡.pdf
 発掘報告書の名称・遺跡の場所・出土時期
は以前に紹介した通り、以下の通りである。
1999、佐久市埋蔵文化財調査報告書
第73集一本柳遺跡群西一本柳Ⅲ・Ⅳ、
佐久市・佐久市教育委員会。
 発掘報告書の冒頭例言に以下の情報が在る。
遺跡の場所は、長野県佐久市岩村田字
西一本柳・常本。発掘調査は1996年前後
に行われた。
 遺構個々につき、この報告書では成立年代
を遺物から判断している。問題の遺物は第
195号住居址から出土したが、発掘報告書
第543ページ付近の「総括」の古墳時代
住居址成立時期に関する表によると、第
195号住居址は、6世紀末から7世紀初の、
飛鳥時代早期とみられているように、本ブロ
グ管理人からは認識される。
 遺物の写真は、発掘報告書写真図版第
203番の最上段中央にあり、第195号
住居址出土の、第2番杯型土器の意味とみら
れる、ナンバリングが在る。

一本柳奔王.gif

 上図のように、やや右の土器の縁下に、
第1字目の左下と第2字目の右上が重なって
いるがやや小振りで「奉王」のように読める
漢字に、見ようと思えば見えるという程度の
煤模様が有る。ので飛鳥期に入り律令地帯が
形成されて、朝廷に対する献上物を入れる器
が発生したのではないかと私には疑われる。
 この回の発掘で、20個余りの墨書土器が
出土しており、この遺物には墨書の指摘が
無いが。律令時代の集落に普通に識字層の住
民が混在して存在していた事を、発掘報告書
が総括で示唆しているが、それで正しいよう
に取れると、私にも解釈される。(2022/10/18)

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長野県飯田市龍江阿高遺跡で古代角行墨書土器(長さん)

今回は、成立年代がはっきりせず、縄文時代
から平安時代の溝址だとされる場所から、
平安時代の可能性も有る、角行に見える墨書
が有るような、土器の小さなカケラ出土の
紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡登録総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
8598_1_龍江城・龍江阿高遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
龍江城・龍江阿高遺跡、1997年、
長野県飯田市教育委員会。
 ここで話題にする遺物は、龍江阿高遺跡の
TAD・A地点で出土したとの事である。
龍江城遺跡と龍江阿高遺跡の間の距離は、
200~300m位で、天竜川沿いに隣接し
ているようである。龍江城は、地名のようで
ある。今田原城という城跡があるが、発掘地
点よりは、天竜川の上流らしい。
 発掘報告書末尾抄録によると遺跡の場所は、
長野県飯田市龍江。遺物が出土したのは西暦
1994年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書に確定でき
なかったとの旨の記載が、第24ページに有
り、土器のカケラは全体として奈良・平安期
だろうとの事である。12世紀成立の遺物と
して以下に議論する。この不確定性は、おお
いに問題である。
 遺物の写真は、発掘報告書写真図版第14
の右下カラム”TAD・A溝址出土遺物”の、
右上に在り、遺物番号は写真図版に記載が無
い。土器のカケラと見られているように、ス
ケッチ図からは認識される。

龍江阿高角行.gif

 上図のように、写真の中央やや右にズレて、
黒い煤模様に埋もれて、漢字で角行と書かれ
ているようにも見える暗い模様が在る。
 12世紀の平安末に、将棋の角行が成立し
ている事を、もしかするとこの遺物も、過去
何例かの紹介例同様、示しているのかもしれ
ないと私見される。
 将棋の角行の成立時期に関連するとみられ
る為、土器片の成立年代が絞り込めないのは
たいへん残念である。(2022/10/17)

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(コラム)2022年10月16日に東京近郊でモミジアオイ(長さん)

以下の花は、夏の気温上昇が最高の時に通常満開に
なる、アオイ科の里花、モミジアオイの赤花である。
湿ったところが好きで、元々はアメリカ南東部の、
沼のホトリに咲いていたと聞くが、明治の頃、日本
に侵入したが、一度に咲く花の数が少ないので、人
気は、今でも鳴かず飛ばずだとは聞く。
 今年は関東南部で、住宅の庭に植えられた花が
10月16日・日曜日に、最後の一輪として開花し
た模様だ。

回転モミジアオイ10_16.gif

 この写真は

都市環境に住む生物一般の季節時計が、人工環境・
都市型環境で、大きく狂う事

を示している。
 実はこの花株は耐寒用の囲いで、寒波が直接当た
る事の無い戸外に地植えされているうえに、更には
一日おきに、温水の打ち水を朝受けていた。
 今年は、多少涼しかった日があった位で、南関東
は湿度が高くなま暖かい秋であり、湿り気の好きな
モミジアオイには、残った最後のつぼみが、寒波で
萎まないという絶好の条件が揃ってはいた。
 しかしながら、風の当たる所に置かれた別の
モミジアオイは10月初には、正常に紅葉しており、
この株は1株だけ、

気候がどうなっているのか、分かりにくい街中温室
に置かれた

のだ。
 恐らく生き物なら皆同じで、特に昨今はコロナで
巣ごもりも進んだので。以前よりも人間も環境変化
に対し、相当鈍感になっているはずだ。
 この花が真夏の花である事、今は秋たけなわであ
るという点に注意して。軟くなっているはずの自分
の体に、どうか皆さま警戒を強めて頂きたいと思う。
(2022/10/16の2)
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三重県松坂市朝見遺跡で10C後奔王墨書陶器(長さん)

今回は、三重県松坂町の遺跡で、奔の字が
はっきりしないが、奉王では無く奔王のよう
にも見える、10世紀後半成立の遺物の紹介
である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
21154_1_朝見遺跡第1・2次発掘調査報告.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
朝見遺跡(第1・2次)発掘調査報告、2014年10月、
三重県埋蔵文化財センター。
 発掘報告書末尾の抄録によると遺跡の場所
は、三重県松坂市和屋町。遺物が出土したの
は、遺跡の第7区で西暦2011年前後の事
のようである。
 遺物の成立年代は、土坑第49号の下層で
出土し、発掘報告書の第88ページによると、
10世紀後半ではないかと書かれているよう
に読取れる。官衙の遺物のようである。
 遺物の写真は、発掘報告書写真図版第24:
”出土遺物墨書土器(3)”の、下から2段
目の右から2番目に在り、遺物番号第
1246番との旨、ナンバリングされている。
 杯状の陶器の破片の底の部分のように、私
には写真は見える。

朝見遺跡1246奔王.gif

 上図のように、第2字目は、右下が欠けて
いるが王のように見え、その上に第1字目が
有るが、下部は奔のようでも卅のようでもあ
り、その上に毋が乗っているようにも見える
が、はっきりしない。発掘報告書では、全体
で1字と見て、「葉」ではないかとしている。
なお、発掘報告書ではこれとは別の、遺物番
号で1240番とナンバリングした遺物と、
同じ文字と見ているようである。発掘報告書
が間違いと決め付けるのは困難だが。葉に、
絶対間違い無いとまでは、言い切れないので
はないかと私見する。なお2文字で「奔王」
の可能性は皆無ではないが、奉王である可能
性は、このケースにはほぼ無いだろう。
 すると何故奔王と10世紀後半に書いたの
かは謎ではある。
 そこで更に、imeパッドで字をチェック
して行くと、

発掘報告書の言うように、1文字の可能性が
浮かぶ。

だが「葉」では無く、「勤」等の字の左側を
見ているように見える。官衙の守り神とか、
守りにはげむといったような意味のように
感じられる。本ブログの管理人にははっきり
とは意味が分からない。(2022/10/16)

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兵庫県朝来市柴遺跡で古代山泰刻書土器(長さん)

今回は墨書ではなく刻書だとみられ、表題
の遺跡で奈良・平安前期に成立した須恵器
であるとされる、遺物土器の話題である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
48413_1_柴遺跡.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
兵庫県文化財調査報告第360冊朝来市所在
柴遺跡、西暦2009年、兵庫県教育委員会。
 発掘報告書末尾の抄録によると遺跡の場
所は兵庫県朝来市山東町柴字別久。ここで
話題にする遺物が出土したのは、西暦
2000年前後のようである。昔の但馬国
と丹波国の境の遠阪峠付近、山間部の遺跡
のように、冒頭紹介されている。
 遺物の成立年代は、発掘報告書の第28
ページ付近の記載によると、遺物はB地区
第Ⅱ層から出土したが、古代の遺物の層で
あり、形から8世紀~10世紀の間の奈良・
平安前期の成立であるとみられるとの事の
ように読取れる。
 遺物の写真は、発掘報告書の写真図版第
44の上から3段目の左から2番目中央に
在り、遺物番号第268番とナンバリング
された、須恵器の杯土器と、発掘報告書で
される土器のカケラの一つである。

紫遺跡268山泰.gif

 上図のように、墨書ではなくて削って、
漢字で「山奉」と書いたような、擦れた模
様が土器の底在り、もともとは

かなり立派な物

のように、私には見える。兵庫県朝来市で、
山岳崇拝の祭祀用に用いるものだが、官衙
クラスの遺跡をこの遺物だけからでも連想
させ、実際他の多数の共出土物品から、発
掘報告書の第53ページにあるように、そ
のように結論されていると解釈される。
(2022/10/15)

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鳥取県鳥取市倭文古墳で4C後奔王女墨書土器(長さん)

今回は鳥取市の遺跡で、古墳期の奉王墨書
土器の類であると見られるが、墳墓に埋葬
の土器に、奉王女と書いて有るように見え
る、出土遺物の話題である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
13714_3_倭文所在城跡・倭文古墳群.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
鳥取市倭文所在城跡・倭文古墳群、2004、
財団法人鳥取市文化財団。
 発掘報告書末尾の抄録によると遺跡の場
所は、鳥取県鳥取市倭文。ここで話題にす
る遺物が出土したのは、西暦2003年前
後のようである。
 遺物の成立年代は、土墳墓群3第11主
体部で出土したが、発掘報告書第1本文
pdf第116ページによると、この墓群
は、古墳時代前期後半の4世紀後半とみら
れるとの事である。
 遺物の写真は、発掘報告書第3写真図版
pdfの写真図版第60の最上段右側に
あり、遺物番号第19とナンバリングされ
ている、私には甕の形の土器に見える遺物
である。発掘報告書第1本文pdfの第
114ページの記載によると、棺桶の片方
と、解釈されているようである。

倭文古墳奔王女.gif

 上図のように、写真の左側に縦に漢字で、
奉王女と読めるような、ヨゴレに埋もれた
煤模様が在り、更に右側には縦にも、はっ
きりしないが、何か文字が書いて在るよう
にも見える。

鳥取市付近に4世紀後半、識字可能な渡来
人等がおり王家と表され、夭折子息が王女
とされ、埋葬された

のではないか。
 大陸から製鉄等が伝わったにも関わらず、
古墳時代に渡来人が、西日本の鳥取県に居
無いとすれば、かえって妙な話ではないか
と私見する。(2022/10/14)

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兵庫県神戸市上脇遺跡で9C山泰等墨書杯土器

今回は、以前に古墳時代の王将に見えるが、
字の大きさがバラバラであり、偶然模様で
あろうとした表題の遺跡で、時代は9世紀
と違うが、山奉の類の墨書杯土器が複数出
土しているとの旨の話題である。

 山を奉じる場所ではしばしば、古代には
牧場も存在した

事を示しているとみられる。
 遺物の写真は以前述べたように、奈良文
化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
20175_3_上脇遺跡.pdf
 発掘報告書の表題は以下の通りである。
兵庫県文化財調査報告第232冊
神戸西バイパス関係埋蔵文化財調査報告書Ⅲ
上脇遺跡Ⅰ、2002年2月、
兵庫県教育委員会。
 発掘報告書の末尾抄録によると、遺跡の
場所は、兵庫県神戸市西区伊川谷町上脇で
あるという事である。また、以下の遺物が
出土したのは、以前紹介した王将墨書疑い
土器と同様、西暦1993年前後との事で
ある。
 遺物の成立年代は、以下に紹介する遺物
はほぼ、同系統で同じ時期のものと推定さ
れているようであり、発掘報告書第1本文
pdfの第45ページ付近の説明によると、
9世紀、平安時代初期の頃ではないかと見
られているように読取れる。
 遺物の写真は3枚あり、1枚目は、発掘
報告書第3写真pdfの、写真図版第
143の左上の写真のうち、下の底面の写
真に、明らかな墨書が在る。遺物番号は、
第1569番となっている。

上脇山泰1.gif

 上図のように「山夲」と読めるが、発掘
報告書でも、そう釈文されている。
 2枚目、3枚目は同じ写真図版に並んで
載っている。同じく第3写真図版pdfの
写真図版第162の右側第2段目に左に2
番目、右に3番目と2つ並んでいて、2番
目は第1826番、3番目は第1827番
と、それぞれナンバリングされている。

上脇山泰2.gif

 上図は2枚目で「山夲」のようであり、
発掘報告書でも、その旨釈文されていると
認識する。

上脇山行馬.gif

 上図は3枚目であるが、第2字目は「夲」
とは発掘報告書の主張のように特定できな
い程度に、カスレすぎていると私見される。
在か、行か、夲か良くわからず、更には、
第3文字目として、字の輪郭だけが残って
いるに過ぎないが馬という字が在り山在馬
か山行馬のようでもある。明確ではないが、
かつて、神戸市西区の山の裾野に牧場が有っ
た事を示しているのかもしれないと、私見
される。
 3枚の遺物から、山を奉じる祭祀が遺跡
の場所で盛んだった事は確かであると見ら
れるが、ひょっとすると牧場も在って、古
代にも、鉱物探索で山を開発すると同時に、
軍馬を飼育するため、神戸市西区付近でも、
牧場が営まれていた疑いも、或いは有るの
ではないかと私は考える。(2022/10/13)

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