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増川宏一「将棋Ⅰ」に大将棋のだいしょうぎ読み(長さん)

うっかりしていたのだが、ものと人間の文化史
増川宏一(法政大学出版局)(1977)には、
固有名詞の所々に、振り仮名がふって有る。
 大将棋は「だいしょうぎ」と索引で振り仮名
がふって有るのだが。説明が有るのかどうかを、
45年間確かめたことが無かった。今回以上の
点について調べ、増川は諸象戯図式に関して、
大という字だと「おお」、太だと「たい」と読
み、大将棋は、索引の出現箇所表示の表現から
すると、諸象戯図式以外の文献で出てくると、

「だいしょうぎ」と読んでいた

ようである。なお本来漢字で「大」を含むもの
と「太」を含むもの4項目作るべきなのに。煩
雑だったのか、2つに圧縮した索引の書き方だ
けを見る限り摩訶大大将棋は特別で、
「摩訶太太将棋が正当。まかたいたいしょうぎ
の読みが良い」と増川は言っていた疑いがある。
つまり三択混沌状態だと、私には危惧されると
いう意味である。なお「太」・「大」等は1つ
でも2つでも良いと増川宏一も考えていたよう
に、将棋Ⅰの索引からは読み取れる。
 なお本文や序を読んでも、

大将棋が「だいしょうぎ」である根拠は、この
成書の範囲で、私には発見出来ていない。

が、増川宏一自身は二中歴大将棋と130枚制
後期大将棋の「大将棋」は索引「だいしょうぎ」
の読みで、研究の際にはどうやら、統一してい
たらしいと、この成書だけからでも推測できた。
 繰り返して言うと、使用する際そうしていた
という意味だが。西暦1977年時点では、大
将棋の読みが「だいしょうぎ」であるとの見解
に関して、あらわに根拠を示してい無かったよ
うに、この成書の、振り仮名表現を見る限り、
私には疑えるという事になる。(2022/11/20)

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群馬県前橋市下増田越渡遺跡で11C奔王釜土器(長さん)

今回は群馬県前橋市の前記古代の遺跡から、
漢字で奉王のように見える、釜と見られて
いる土器出土の話題である。用途から見て

祭祀と結びつかず、正直謎の物品

である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
15496_1_徳丸高堰II遺跡・徳丸仲田III遺跡・
西善尺司III遺跡・下.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
徳丸高堰Ⅱ遺跡・徳丸仲田Ⅲ遺跡・西善尺司Ⅲ遺跡・
下増田常木Ⅱ遺跡・下増田越渡Ⅳ遺跡、1999、
(群馬県)前橋市埋蔵文化財発掘調査団。
 今回話題にする遺物は下増田越渡Ⅳ遺跡
の古代の住居跡で出土したようであり、
この発掘調査は高速道路の改良事業に伴う
拡張工事で行われたので、それぞれの遺跡
が、直線状に並んで分布している。相互に
関連性は薄く、個々の遺跡の成立年代は、
ばらついていて、遺跡それぞれ個々の性格
さえ、少なくともこの調査の時点で、はっ
きりしなかったようである。
 発掘報告書末尾の抄録によると越渡遺跡
の場所は、群馬県前橋市上増田町1535。
遺物が出土したのは、西暦1998年前後
の事のようである。
 遺物の成立年代は、問題とする遺物が、
B区北側住居跡群の住居跡第9号で出土し
たが、発掘報告書の第51ページの記載に
よると、出土遺物の形等から10世紀後半~
11世紀にかけて存在した第9号住居跡の
カマドに有った鍋土器の破片とみられると
の事のようである。
 遺物の写真は、発掘報告書第51ページ
の下増田越渡Ⅳ遺跡編の写真図版第25の、
最下段左に有って住居跡(H)-9-4と
の旨、ナンバリングされている。寸胴型の
土器の一部のように、私には見える。

下増田越渡奔王.gif

 上図のように、ほぼ中央のやや下に漢字
で奉のようにも見える煤模様が、煤に被っ
て在り、その右に、主か王のようにも見え
る模様が在る。pdfにするときに感度が
落ちたようで、写真の解像度は余り良く無
いように見える。
 左から右へ、

奉王とも読めるが、王の上に点が有り、
「奉主」と読むべき

かもしれない。
 カマドで使う鍋を、朝廷や国衙に献上す
るというのは変なので。11世紀頃の、こ
の棟の住人によって

奉主と書かれ、器物を廃棄等するときの、
つくも神信仰等の縁起カツギを示している

のではないかと私は想像する。が、はっき
り断定する力は、私には無い。(2022/11/19)

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熊本県八千代市興善寺遺跡で奈良期山泰墨書瓦(長さん)

今回は、九州熊本県の古代当時の大きな寺
の瓦に、漢字の墨書で神道系の山奉と書か
れた遺物があるとの旨の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
16345_2_興善寺.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
熊本県文化財調査報告第45集興善寺Ⅰ、
1980年、熊本県教育委員会。
 発掘報告書冒頭の例言によると遺跡の
場所は、熊本県八千代市興善寺町。遺物が
出土したのは、西暦1977年前後の事の
のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第1本文
pdfの第45ページによれば、寺の建立
記録との関係から話題とする瓦片は、8世
紀半ばの奈良時代に成立と、考えられてい
るように読取れる。
 遺物の写真は、発掘報告書第2写真図版
pdfの、写真図版第43有って、遺物番
号第373番とナンバリングされている。
昔の興善寺の奈良時代の瓦の破片を、つな
ぎ合わせた物品のようであり、凸側のよう
に見える上側の写真に、問題の模様が有る。

興善寺山泰.gif

 上図のように、右上の破片それぞれ1枚
づつに、上から漢字で山奉と書かれたよう
な、煤模様が見える。
 遺跡は地図から山際のようであり、山岳
信仰が有っておかしくない。が、奈良時代
に既に神仏習合であった事を、はっきり示
している、比較的貴重な史料例のように私
は思う。(2022/11/18)

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日葡辞典(安土桃山)の大合戦は「おぅがっせん」(長さん)

以前述べた通り本ブログでは、大将棋の読み
は小学館日本国語大辞典等の「だいしょうぎ」
と新編大言海(1982)大槻文彦(冨山房)
の「おおしょうぎ」が並立という立場を取っ
ている。
 大将棋という見出し項目で、新しい情報は
無いのだが、今回

安土桃山時代末成立の日葡辞書の「大合戦」
が「だいがっせん」では無く「おぅがっせん」
と発音されているとの情報を得た。

 日葡辞書の第704ページの左上にローマ
字に近い綴りで大合戦は「Vogaxxen」
(ポルトガル語)との旨が記載されている。
 元々は、大修館金田一春彦他編の、
日本語百科大辞典で湯桶読み一覧を見ていて、
日葡辞書の大合戦が、「おおがっせん」になっ
ているのを発見して、確かめたという経緯
であった。
 異制庭訓往来によれば、将棋と合戦とは、
概念近似だと見られるので。安土桃山時代か
ら江戸時代の初めにかけて、大将棋を、
「おおしょうぎ」と読んでいた人間が居ても、
おかしくは無いという事は確かなのであろう。
両方在るという本ブログの説を、淡いが裏付
ける情報の一つと言えると考える。(2022/11/17)

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愛知県豊田市水入遺跡で古代奔王墨書土器(長さん)

今回は、愛知県豊田市の遺跡で古代の奉王墨書
土器が出土したとの旨の話題である。墨書に、
山の絵が描いて在り、奈良・平安期に古墳時代
の豪族の頭領が、山の神として信仰されていた
記憶が存在した事を示しているようにも見える。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている
 pdfファイル名は以下の通りである。
1550_3_水入遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
愛知県埋蔵文化財センター調査報告書第108集
水入遺跡、2005年、財団法人愛知県
教育サービスセンター・愛知県埋蔵文化財センター。
 発掘報告書第1本文pdfの冒頭の例言によ
ると、遺跡の場所は愛知県豊田市渡刈町西糟目・
大屋敷。遺物が出土したのは、西暦1999年
前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書、同じく第1
本文pdfの、第203ページ付近の記載によ
ると、広く古代のどこかの時代に成立したと考
えられているように読取れる。ここでは、古墳
時代に続く、飛鳥・奈良期と仮定して以下に議
論する。なお遺物には墨書が有るとされ、
「公寺」と釈文されているようである。
 遺物の写真は発掘報告書第3写真図版pdf
の写真図版第72:”遺物”の最上段左端に在
り、遺物番号第1723番との旨ナンバリング
されていて、写真は外面だという事である。皿
のように私には見える。

水入遺跡奔王.gif

 上図のように、第1字目の上の方のハの字が、
山の絵のように私には見え、それを取り除くと、
上部が「止」のようでもあり悩ましいが。奉の
下が擦れた字が、やや反時計回りに回転して書
いてあるようでもあり、第2字目は王に見える。
 王の第1画目は字であるにも係わらず汚れと
見た上で「寺」の土とし、寸は下に切れて欠け
ていると、発掘報告書は見たのかもしれないが。
それで、絶対に間違いないというほど、明確に、
墨書の字自体が書いてはいないと私見する。
 山岳信仰の祭祀用の皿土器であり、山には王
が祀られていると、飛鳥・奈良期の時点でも見
ていたのではないか。すなわち現代人がイメー
ジする山ノ神ではなくて、大陸からの帰化人子
孫である古墳時代豪族王崇拝・被支配の記憶が、
愛知県豊田市に古代に、まだ残っていたのでは
ないかと、私は疑っているという事である。
(2022/11/16)

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福岡県筑後市古四ヶ所遺跡で14C将棋駒型板(長さん)

今回は、長さが7センチくらいでやや、
長すぎるものの、朝倉氏館遺跡の香車駒の
形をした板片が4世紀初頃成立とされて、
福岡県の古四ヶ所遺跡で、西暦1992年
頃に発掘されているとの旨の話題である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
1621_1_四ケ所古四ケ所遺跡将棋駒.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
四ケ所古四ケ所遺跡、1994年、筑後市
教育委員会。
 発掘報告書冒頭の例言によると、遺跡の
場所は、福岡県筑後市大字四ヶ所字
古四ヶ所154。遺物が出土したのは、繰
り返すと西暦1992年前後の事のようで
ある。
 遺物の成立年代は、発掘報告書の第32
ページ付近の記載によると、第30番遺溝
から話題とする遺物は出土したが、共出土
遺物の形態から13世紀~14世紀の成立
ではないかと、発掘報告書では考えられて
いるように読取れる。若干広い。真ん中を
取ると鎌倉時代末の新安沖沈没船出土駒と、
同程度の頃成立とも取れ、以下そう仮定し
て議論する。
 遺物の写真は、発掘報告書の写真図版第
17の下半分のカラム:”木製品”の左端
の3段目に在り、駒名は書いて無いが、戦
国時代の頃の香車駒のような形である。遺
物番号は、私には確認できていない。

四ケ所古四ケ所遺跡将棋駒.gif

 上図遺品に関して発掘報告書のスケッチ
図には縮尺の記載が在り、冒頭に述べた通
り、長さが7センチ程度と、将棋駒として
は、かなり長い。発掘報告書に記載の通り、
建築部材の疑いが濃いが、将棋駒型をした、
鎌倉時代末成立の木製品として、比較的九
州福岡県では、珍しい部類のように思う。
 将棋駒だとしたら、持駒ルールの成立時
期と関連して、重要視すべき遺物になる事
は、言うまでも無い。(2022/11/15)

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岩手県北上市西川目遺跡で近世山泰墨書土器(長さん)

今回は岩手県北上市の律令時代からの集落
跡で、近世・江戸期に成立の山奉墨書土器
が出土したとの旨の話題である。山岳信仰
の時代幅の広さに、改めて驚かされる。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
12419_1_西川目・堰向Ⅱ遺跡発掘調査報告書.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
岩手県文化振興事業団埋蔵文化財調査報告書第464集
西川目・堰向Ⅱ遺跡発掘調査報告書、2005、
岩手県北上地方振興局農林部農村整備室・
(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター。
 遺物はこのうち、前者の西川目遺跡で出
土したとの事である。
 発掘報告書末尾の抄録によると遺跡の場
所は、岩手県北上市二子町西川目66。
遺物が出土したのは西暦2003年前後と
の事である。
 遺物の成立年代は、話題としている遺物
土器が、A区Pitの第Ⅲ層に掘り込んで
埋められているとの旨の記載が、発掘報告
書の第78ページ付近に在り、近世のもの
と考えられているように読取れる。元々置
かれただけの物品だとしたら、古代成立と
いう事になったようである。
 遺物の写真は写真図版第103:”西川
目遺跡Pit・遺構外出土遺物”の最上段
左に在り、遺物番号第355番との旨ナン
バリングされている。土器のカケラのよう
である。

西川目・堰向Ⅱ遺跡山泰.gif

 上図のように、写真の中央やや下に、か
なりはっきりとして黒い模様が在り、漢字
で「山奉」のようにも見える。
 近世に付近で、山岳信仰が存在した事を、
示しているのであろうが、土器の形はまる
で古代のそれを象った、物品のままだ。
(2022/11/14)
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大阪府茨木市安威城跡遺跡で5C初奔馬墨書壷土器(長さん)

今回は、古墳時代中期頃成立で、大阪府の
遺跡から、鉄製遺物と共に奉馬墨書土器が
出土したとの旨の話題であり、大陸からの
鉄文化が引き続き隆盛するとと共に、軍馬
等の飼育が、引き続き行われたようだとの
趣旨の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファィル名は、以下の通りである。
17736_1_安威城跡Ⅲ.pdf
発掘報告書の名称は以下の通りである。
大阪府埋蔵文化財調査報告2014-4安威城跡Ⅲ、
西暦2015年3月、大阪府教育委員会。
 発掘報告書末尾の抄録によると遺跡の場
所は大阪府茨木市安威二丁目。遺物が出土
したのは、西暦2013年前後の事のよう
である。なお城跡だが、古墳時代には大き
な集落が有った、その跡のようだとの事で
ある。
 遺物の成立年代は、発掘報告書の第48
ページ付近の記載によると、遺物は第16
土坑中層で出土したが、遺物群の特徴から、
4世紀後半から、5世紀初頭の古墳時代の
成立とみられているように読取れる。
 遺物の写真は、発掘報告書の写真図版
第28:”平成25年度調査区出土遺物
(3)”の最上段左に在り、遺物番号第
74番との旨ナンバリングされていて、
古墳時代風の口に鍔の在る壷型の土器の
ように、私には見える。

安威城奔馬.gif

 上図のように中央に、漢字で、やや崩れ
ているが奉のようにも読める煤の中に、埋
もれた模様が有り、その右下に小さく馬と
書いてあって、その右隣に「島」の異字で
あるとみられる「嶌」と、重なって書かれ
ているようにも見える。「奉島の馬」の意
味のようでもある。
 日本列島から、軍馬を神戸港付近で船舶
に乗せ、大陸方面に古墳時代に輸出するケー
スが有った事を、示している疑いが有るよ
うに私見する。本ブログでは、こうした行
為が中国の前漢王朝の武帝の時代の頃から、
大陸から渡来した日本在住の中国人によっ
て営まれており、中国が六朝時代に入って、
日本に諸侯分立の古墳時代になると、特に
近畿方面では、古墳期の有力者を通して、
鉄や軍馬の行き来が行われたのではないか
と見ていて、それを示唆するようでもある。
(2022/11/13)

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栃木県宇都宮市権現山北遺跡で古墳期奔車土器(長さん)

今回は以前に「下野」とみられるが王将に
も誤認される墨書土器を紹介した、栃木県
宇都宮市権現山北遺跡で、発掘報告書でも
墨書土器と明示された、将棋駒名を連想さ
せる別の墨書土器が出土。しかし本ブログ
の管理人がうっかりと、見落としていたと
みられるという旨の紹介である。
 発掘報告書は前に紹介した以下の、奈良
文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されたもの
である。pdfファイル名と、発掘報告書
名を順に示す。
1482_2_権現山北遺跡.pdf
宇都宮市埋蔵文化財調査報告第5集
権現山北遺跡、1979年3月、
宇都宮市教育委員会。
 遺跡の場所は、栃木県宇都宮市茂原
字花欠。発掘調査は1977年前後。
 遺物の成立年代は、古墳時代中期から
後期の、5世紀から6世紀前半とされてい
るようとの事であった。なお、以下の遺物
は、17号住居址、2号住居址、それぞれ
で発掘されている。前者は明らかな墨書土
器。成立年代は住居址全体が、古墳期中~
後期とされていたと認識する。
 遺物の写真は、発掘報告書前記第2写真
図版(PL.)の第63図に第17号住居
址の分が在り、第17号住居址土器の第1
番との旨、ナンバリングされているようで
ある。

権現山北奔車.gif

 上図のように文字数が多く、発掘報告書
の第1本文pdfの第185ページの
久保哲三氏の読みによると「大大上(車へ
んに重)念念右」の7文字だということで
ある。図版には文字は全部撮影されている
と多分だが、久保氏は見ているとみられる。
本ブログは仮に「奉奉車金奉奉」と6文字
と読み、「大上」は「奉」、「念念右」は、
「金奉(一部上書)奉」で心と右で最後の
字の奉だと見る。車の字のツクリ(重)は
ヨゴレとみる。
 古墳時代に栃木県の宇都宮市へ

車が大陸から輸入されており、金と共に、
土地の有力者へ、献上されたことを示して
いる祭祀土器

ではないかと疑っているという事である。
 ところで、この遺跡の玉将墨書は下野と
読んだが、もう一つ淡いが、王将にも見え
なくも無い遺物が有るのに気がついた。
 発掘報告書第2写真pdfの写真図版第
32(PL.32)の、最下段右に在り、
2号住居址の第5番との旨、ナンバリング
されている、金魚鉢のような形の土器の側
面である。

権現山北王将2.gif

 上図のように、中央やや右に縦に、漢字
で王将に見えなくも無い模様が在る。なお、
王の上部が、かなり濃い。将の字が、薄い
がかなり大きめである。
 特に将の部分が淡すぎてはっきりせず、
この模様の「将」は今のところ、偶然模様
ではないかと私は疑っている。(2022/11/12)

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岐阜県各務原市広畑野口遺跡で中世後期山泰墨書土器(長さん)

今回は、岐阜県の遺跡の中世成立の土器に、
山奉と墨書されている疑いの在る、皿型の
土師器土器出土物の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
1732_1_広畑野口遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
岐阜県文化財保護センター調査報告書第113集
広畑野口遺跡、2010年、岐阜県文化財保護センター。
 発掘報告書末尾の抄録によると遺跡の場
所は、岐阜県各務原市蘇原青雲町。遺物が
出土したのは西暦2008年前後の事のよ
うである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書の第24
ページによると、遺物自体の形から、15
世紀の室町時代以降の成立の土師器皿と見
られているように読み取れる。発掘報告書
第245ページの遺物観察表にも、同様の
旨記載が在る。中世における遺跡の性格は、
発掘が一部分のため、良く判っていないよ
うである。ここでは仮に、遺物は中世後期
と表現し、以下に議論する。
 遺物の写真は、発掘報告書の写真図版第
72:”包含層出土土器(10)”の、下
から3段目中央に在り、遺物番号第781
番との旨、ナンバリングされている。確か
に皿の形の土器のように、私にも見える。

広畑野口781泰山.gif

 上図のように、写真の右の方に横に、第
1字目が第2字目に、添えられているよう
な格好で、かつ反時計回りに回転して、右
から左に、漢字で薄く”山奉”と書かれて
いるようにも見える。供え物を置くという
用途が、だいたい連想できる。木曽川付近
の山間部間近の扇状地の遺跡のようであり、
山岳信仰が存在して、不自然感は無いよう
である。(2022/11/11)

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