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大阪府八尾市八尾南遺跡で5C泰山墨書土器(長さん)

 今回は、大阪府八尾市の八尾南遺跡で、
古墳時代中期、5世紀頃に成立したとさ
れる土器に、漢字で「奉山」と書かれて
いるように見える遺物があるとの旨の話
題である。継続して大阪に在住の住人が、
各地の山間部に入っていた事を示唆して
いるのではないかと考える。
 遺物の写真がweb上に公開されて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書デタベース
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
4904_1_八尾市埋蔵文化財発掘調査概要.pdf
発掘報告書の名称は以下の通りである。
(財)八尾市文化財調査研究会報告6
八尾市埋蔵文化財発掘調査概要、1985年、
(財)八尾市文化財調査研究会。
 なお、今回の遺物は八尾市の八尾南遺
跡で出土したようである。
 発掘報告書八尾南遺跡編の冒頭例言に
よると、遺跡の場所は大阪府八尾市
西木の本4丁目4番。遺物が出土したの
は西暦1979年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、遺物は第5番土坑
で出土したが、遺跡自体が古墳時代の、
大集落跡であると見られており、発掘報
告の第26ページ付近の記載から、遺構
の属する、発掘現場Aトレンチは、古墳
時代中期の5世紀成立であり、遺物も、
その時代のものと見られているように私
には読み取れる。
 遺物の写真は発掘報告書写真図版第
18の第2段目左に在り、遺物番号第
87番との旨、ナンバリングされている。
古墳に副葬される広口の壷のように、私
には見えるが、発掘報告書では甕と解釈
されているようである。

八尾市泰山.gif

 上図のように、遺物写真の左中段やや
上部に、右から左に漢字で「奉山」と書
かれているように見える、模様がある。
 本ブログでは、この類の遺物は大阪府
で弥生時代の後期には、渡来人が作成し
て残しているとの見方を従来取ってきた。
八尾市の大集落の住人が、5世紀に於い
てもより内陸の山間部に入り、何らかの
生産活動、林業・牧畜・鉱業生産などを
行っていた事を、よって示唆するものな
のかもしれないと私見する。(2023/05/21)

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大阪府阪南市玉田山2号墳で7C初奔王墨書土器(長さん)

 今回は、古墳の当時の副葬土器ではと
される土器に、それを支持する「奉王」
と漢字で書かれたような黒い模様がある
遺物の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開され、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が
奈良文化財研究所発掘報告書デタベース
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
5119_1_玉田山2号墳発掘調査報告書.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
阪南市埋蔵文化財報告34玉田山2号墳
発掘調査報告書、2004年、阪南市教育委員会。
 発掘報告書末尾抄録により遺跡の場所
は、大阪府阪南市自然田。遺物が出土し
たのは西暦2003年前後のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第9ペー
ジ付近の記載により、遺物は羨道北側の
側壁石が欠損落した壁面から出土した
須恵器であり、7世紀初の古墳時代末と
みられているように読取れる。
 遺物の写真は発掘報告書写真図版第7
の最下段に在り、遺物番号第4番とナン
バリングされている。土器の破片である。
瓶のような形の土器の口部分の破片と、
発掘報告書では説明されているように考
える。

玉田山奔王.gif

 上図のように、極薄いし第2字目の
「王」が不明確だが「奉王」と漢字で書
かれているようにも見え、玉田山第2号
墳の埋葬者が、古墳時代後期に「王」と
称されていた事を、示唆しているように
も見える。発掘報告書の主張通り、古墳
に副葬する須恵器の破片であり、その生
産が近くで行われていた事をも示す、重
要証拠と私見する。(2023/05/20)

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富山県小矢部市下川原遺跡で8C奔王墨書土器(長さん)

 今回は、発掘報告書で8世紀第2四半
期の年号、漢字で「天平」と書かれてい
る土器が出土していると紹介されている
遺物について、漢字で「奉王山」の意
(奉が「夫」の横線3本書体で、下部の
「キ」が無い)の、ようにも見えるとの
旨の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開され、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書デタベース、
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
5555_1_開馞大滝遺跡・五社遺跡・五社条里遺跡・
水牧遺跡・下川原遺跡発.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
富山県文化振興財団埋蔵文化財発掘調査報告
第49集開馞大滝遺跡・五社遺跡・五社条里遺跡・
水牧遺跡・下川原遺跡発掘調査報告。
 遺物はこのうち、最後の下川原遺跡で
出土したようである。新幹線建設に伴う
発掘調査であり、遺跡同士の関連性は、
薄いとみられる。
 発掘報告書末尾抄録により遺跡の場所
は富山県小矢部市野端。遺物が出土した
のは西暦2006年~2007年、その
前後のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第
132ページ付近によると、漢字で墨書
が「天平」と読め、8世紀の第2四半期
と考えられているように、解釈できる。
奈良時代程度の物なのであろう。
 遺物の写真は発掘報告書写真図版第
70:”下川原遺跡土器(古代)土溝第
9号・10号・包含層”の最下段右に在、
遺物番号第196番との旨紹介されてい
る皿型の土器の底裏のように、私には見
える写真で、発掘報告書で繰り返し、8
世紀第3四半記成立の”天平”年号土器
とされている遺物である。発掘報告書で
は「湾岸の集落遺跡であり、遣渤海使の
帰国に関連している」ともされているよ
うにこの遺跡についても取れてしまうよ
うに私には読めるが、この遺跡自体盆地
で遠方に山が見え、近隣に河川部:小矢
部川のある場所では無かろうかと疑う。

下川原奔王.gif

 上図のように、平の2点部分が不明快
だと私見され、縦棒は1直線では無く、
漢字で3文字墨書で「夫王山」の夫の、
横棒が3本書体の、「奉」の意味のよう
にも見える。ないし、将棋駒名からは遠
くなるが、「天王山」かもしれない。
 発掘報告書の「祭祀用」は的確だが。
年号墨書の割合が多くは無い事から見て、
本当に天平かどうかが怪しく、経緯の詳
しい特定まで出来るかどうかについては、
100%確実とまでは行かないのではな
いかと、本ブログでは疑っている。
(2023/05/19)

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山形県天童市永源寺跡遺跡で9C山泰墨書土器(長さん)

 今回は、山形県天童市の表題遺跡で西暦
2000年前後に、9世紀成立で杯型土器
の破片とみられる発掘土器出土品に山奉と
漢字で書かれているように見える、物品が
あるとの旨の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
5897_1_永源寺跡遺跡発掘調査報告書.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
山形県埋蔵文化財センター調査報告書第56集
永源寺跡遺跡発掘調査報告書、西暦2001年、
山形県埋蔵文化財センター。
 発掘報告書冒頭例言により遺跡の場所は、
山形県天童市大字清池字笠仏。遺物が出土
したのは、西暦2000年前後の事のよう
である。
 遺物の成立年代は、遺物は第865竪穴
式住居付のカマド跡から出土したが、発掘
報告書第6ページ付近によると、この遺跡
の主体となるのは、奈良・平安期の遺構で
あり、発掘報告書第121ページ付近に、
9世紀前後のカマドではないかと、記載
されているように読み取れる。
 遺物の写真は発掘報告書写真図版第25
の中央下から3段目に在り、スケッチ図第
34の遺物番号158番と旨ナンバリング
されている。たまたま台形に割れた、土器
の破片のように私には見える。杯の破片と
発掘報告書には記載されているように思う。

永源寺山泰.gif

 上図のように、遺物の中央に漢字で”奉”
のように見える模様が在り、その左上に、
”山”のように見える模様が薄く在って、
合わせて”山奉”と書かれているように見
える。古代の集落で天童市周辺の山を拝む、
祭祀が行われたのではないかと私見する。
(2023/05/18)

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富山県高岡市五十里沼田遺跡で5C泰山墨書土器(長さん)

 今回は、富山県高岡市の海岸付近の丘の
麓にある、近隣に古墳が存在する遺跡で、
奉山と書かれた、瓶のような形の土器の下
部とみられる遺物が出土したとの旨の紹介
である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
5948_1_五十里沼田遺跡調査概報.pdf
発掘報告書の名称は以下の通りである。
高岡市埋蔵文化財調査情報第61冊五十里沼田遺跡
調査概報、西暦2005年3月、高岡市教育委員会。
 発掘報告書、本文末尾抄録により遺跡の
場所は、富山県高岡市五十里。遺物が出土
したのは西暦2003年前後の事のようで
ある。
 遺物の成立年代は、遺物は第4遺物集積
遺構から出土したが、発掘報告書第7ペー
ジ付近の記載から、この遺構から出土する
遺物は古墳時代中期、5世紀前後のものと、
見られているように読み取れる。
遺物の写真は発掘報告書写真図版第403:
”土師器壺。小型丸底土器・鉢(古墳時代
前期~後期)”の第3段目左に在り、遺物
番号第2043番との旨ナンバリングされ
ている、丸瓶の底部分のような土器の一部
の、底に近い側面である。

五十里泰山.gif

 上図のように淡いが、写真の中央に漢字
で”奉”その右側に、やや黒く”山”のよ
うに私には見える模様がある。古墳時代に、
高岡市の遺跡付近から見える北側の、小高
い山の峰を拝む神事に使用する、祭祀用の
土器なのかもしれないと私見される。模様
がはっきりしないが。5世紀にも祭祀用の
奉山という文字が、日本で書かれていた証
拠のひとつではないかと、私は考えている。
(2023/05/17)

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山形県遊佐町筋田遺跡で平安中泰山刻書土器(長さん)

 今回は表題の平安時代の遺跡から、
煤のような黒い地に、刻んで付けた
ようにも見える、白抜け部分が有って、
漢字で「奉山」等のように見える古代
甕型土器が出土しているとの旨の紹介
である。
 遺物の写真がweb上に公開され、
発掘報告書に載っている。発掘報告書
が奈良文化財研究所発掘報告書データ
ベース、全国遺跡報告総覧に登録・
公開されている。
pdfファイル名は以下の通りである
6088_1_筋田遺跡発掘調査報告書.pdf
発掘報告書の名称は以下の通りである。
山形県埋蔵文化財調査報告書第187集
筋田遺跡発掘調査報告書、1993年、
山形県・山形県教育委員会。
 発掘報告書冒頭例言によると遺跡の
場所は、山形県飽海郡遊佐町大字北目
字筋田。遺物が出土したのは西暦
1992年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書冒頭
遺跡の立地と環境から遺跡自体が9世
紀から10世紀半ばの平安時代前~中
期とみられているように、私には読み
取れる。出土場所は第19河川跡で、
遺物は9世紀のものとの事らしい。
 遺物の写真は発掘報告書写真図版第
17の最上段左から2番目にあり、
遺物番号でスケッチ図第16の2番と
の旨、ナンバリングされている。甕の
底の部分の土器の破片のように私には
見える出土品である。

筋田泰山.gif

 上図のように、文字は探しにくいが、
通例と違い、刻書なのか白色素なのか
白抜きになっていて、中央やや上に漢
字で「奉」その左斜め少し下に「山」
のように見える、煤の間から抜けたよ
うな模様がある。
 なお、同じ第19河川跡から、スケッ
チ図16の1に山の絵、16-4に、
漢字でかなり明確に「山」と墨書され
たように見える、黒い模様の有る土器
が、同時に出土しているようである。
 古代に鳥海山等を信仰する、この
遺跡付近の山岳信仰に使用される祭祀
用土器の疑いが有るように私見される。
(2023/05/16)

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山形県酒田市後田遺跡で10C半ば泰山墨書土器(長さん)

今回は、出羽国府跡に近い表題の遺跡で、
幾つかの墨書遺物と共に、漢字で奉山と書い
てあるように見える土器が出土し、出羽地方
の山を平安時代中期に国府等で、拝んでいた
疑いがあるという、遺物例の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
6225_1_農林事業関係遺跡2発掘調査報告書.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
山形県埋蔵文化財調査報告書第64集
農林事業関係遺跡(2)発掘調査報告書、
1983年、山形県教育委員会。
 なお、発掘報告書には後田遺跡と俵田遺跡
(第1次)が載っており、遺物はこのうち、
最初の方の出羽国府に近い後田遺跡で出土
したとの事である。
 発掘報告書冒頭の、(後田遺跡の)立地と
環境により遺跡の場所は山形県酒田市(当時:
飽海郡八幡町)大字政所字後田および遠沖。
遺物が出土したのは、西暦1979年前後の
事のようである。
 遺物の成立年代は発掘報告書第12ページ
付近の記載によると、遺物は土壙第148号
で出土したが、遺構自体が共出土遺物の形態
から10世紀半ばの平安時代中頃のものと、
みられているように読み取れる。出羽国府の
機能した時代のものと、考えられているよう
である。
 遺物の写真は、発掘報告書の後田遺跡の第
12番:”土溝出土土器”の第2段目右に在
り、遺物番号第58番との旨、ナンバリング
されている、杯のような形の土器の、割れて
劣化した物品である。

農林事業泰山.gif

 繋いで杯に戻した写真の側面だとみられる
が、上図のように右端に漢字で「奉」その、
左やや下に、煤がかぶって不明快だがたぶん
「山」と書かれているように、私には見える。
恐らく「王」では無く、出羽の山々を国府の
関係者が奉じる、祭祀用なのではないかと個
人的に疑う。「山」と「王」が重なったよう
にも見える点が、ダブらせているのか。当時
は天皇は、大型の山体に準えられていたと取
れるという点である意味興味深い。(2023/05/15)

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山形県鶴岡市矢馳A遺跡で平安初竜王等墨書土器(長さん)

 今回は、山形県鶴岡市の表題の大山川
流域の、現在水田地帯とみられる流水域
の遺跡で、平安初の竜神信仰とみられる、
漢字で「竜王」と読める墨書遺物等が、
出土しているとの旨の、紹介である。
 遺物の写真がweb上に紹介され、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が
奈良文化財研究所発掘報告書デタベース、
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
6444_2_矢馳A遺跡第2~4次発掘調査報告書.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
矢馳A遺跡第2~4次発掘調査報告書、
2012年、財団法人山形県埋蔵文化財センター。
 発掘報告書冒頭調査要綱によると遺跡
の場所は山形県鶴岡市大字矢馳字下矢馳。
遺物が出土したのは西暦2006年前後
の事のようである。
 遺物の成立年代は2個の遺物は何れも、
第833番河川跡から出土したが、発掘
報告書第1本文pdfの第354ページ
付近の記載から、遺物の形態から8世紀
中頃から9世紀初の、奈良時代から平安
時代初の成立とみられているように、私
には読み取れる。
 以下に表題の「竜王」墨書土器を示す。
 遺物の写真は発掘報告書第2写真図版
pdfの写真図版第167:”北東部遺
構群出土土器、SG833出土須恵器坏
(1)”の右側最下段に在り、遺物には
スケッチ図第161番の遺物番号第10
番との旨付記されているようである。

矢馳10竜王.gif

 上図のように、明快に墨書があり、私
には漢字で竜王と記載されているように
見える。発掘報告書では、「廣人」と
釈文されている。真ん中の黒い煤模様は、
何れの解釈でも解明してい無い為、両方
確定的では無いと私見する。本ブログの
見方を取るとすればだが。河川氾濫地帯
の古代の竜神信仰からくる祭祀用ではな
いかと、考えられるのではと思う。
 次にこの発掘では同じ河川跡から漢字
で、奉王のように見える、別の土器が出
土している。
 遺物の写真は発掘報告書第2写真図版
pdfの写真図版第166:”北東部遺
構群出土土器、SG833出土土師器坏・
須恵器坏”の下から2段目の左に在り、
遺物にはスケッチ図第160番の、遺物
番号第16番との旨付記されているよう
である。

矢馳16奔王.gif

 上図のように、今度はかなり薄いが、
図の中央やや右に寄って、縦に漢字で
「奉王」と書かれているように私見する。
古代の京都朝廷への貢物に関連する物品
容器のように、私には後者については見
る。恐らく両者は、だいたい同じ時代の、
同系統のものであろうと思う。(2023/05/14)

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山梨県中央市小井川遺跡で室町期妙将墨書カワラケ再(長さん)

今回は、以前紹介した明治期の獅子吼女
塔婆が出土した小井川遺跡で、その発掘
調査引き続いて行われた発掘で室町時代
の地層から、結論から言うと「妙尉」と
読めるカワラケが出土したとの旨の紹介
である。
 なお「この遺物は以前に「姉将」かも
しれないが、判らない」と本ブログで既
に内容を論じた遺物である。つまり

今回は釈文の再挑戦である。

 結局この小井川遺跡からは、室町時代
と明治時代の将棋駒名が疑われる墨書が、
計2個、出土はしていたという事になる。
 奈良文化財研究所発掘報告書デ-タベー
スの全国遺跡報告総覧に登録公開された、
本遺物のpdfファイル名、発掘報告書
名、遺跡の場所、出土した年、成立時期、
写真の位置は、再録すると以下のように
順になる。
 pdfファイル名は以下の通りである。
7149_1_小井川遺跡Ⅲ.pdf
なお以前には小井川遺跡Ⅱに書かれた
明治時代遺物を本ブログで別途紹介した。
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
小井川遺跡Ⅲ、2008年3月、
山梨県教育委員会・山梨県土木部。
 発掘報告書末尾抄録により遺跡の場所
は、山梨県中央市布施地。遺物が出土し
たのは、西暦2005年前後の事のよう
である。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第27
ページ付近の記載により、墨書カワラケ
の類の成立年代は、15世紀前半の室町
時代頃とみられているように私には読み
取れるとの事だった。
 遺物の写真は発掘報告書写真図版第
23の下から2段目左にあり、遺物番号
第723番との旨、ナンバリングされて
いる。杯土器ではなくて発掘報告書には
中世カワラケと記載されていた。その側
面とみられる部分に、明らかな墨書の有
る遺物である。拡大すると以下のように
なっている。

小井川妙将拡.gif

 上図のように、きわめてはっきりと
墨書きがあるが、第2字目の上部が不明
快である。第1字目は他にも同系統の墨
書遺物が出土していて、今回良く見ると、
「姉」では無く「妙」だと初めて読めた。
発掘報告書の釈文は今のところ、私には
以前と相変わらず、発見されてい無い。
 つまり「妙将」のように、私は読み直
した。これでは意味はなおも不明である。
使用者の名である旨が、複数出土した墨
書に関し、発掘報告書にその旨の指摘が
有る事に、今回気がついた。
 そこで今回はマイクロソフトのime
パッドで、入念に解析した。その結果、
上図の第2字目は、

「尉」が最も近いとようやく納得できた。

 発掘報告書の解釈通り「妙尉」という
僧侶の使用者名のようであった。第2字
目の上部が将の上の方のツブレだと見る
のは、詳細に見ると、このケースの場合
にはかなり無理だったと結論出来る。
(2023/05/13)

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山梨県中央市小井川遺跡で明治期獅子吼犬墨書塔婆(長さん)

今回は、山梨県中央市の河川氾濫源地帯
とされる墓地跡とみられる発掘現場から、
漢字で「獅子吼女」と書かれていると見
られる明治時代の、卒塔婆が出土してい
るとの旨の紹介である。

故人の悪口を書いたような内容の為、
後世薄気味悪がられ放置されて残存した

のではないかと、個人的に疑っている。
 遺物の写真がweb上に公開されて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書デタベース、
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
7253_1_小井川遺跡Ⅱ.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
山梨県埋蔵文化財センター調査報告書第241集
小井川遺跡Ⅱ、2007. 3、山梨県教育委員会・
山梨県土木部。
 発掘報告書末尾抄録によると遺跡の場
所は山梨県中央市布施地。遺物が出土し
たのは、西暦2005年前後の事のよう
である。
 遺物の成立年代は、同じく発掘報告書
末尾例言により遺跡全体が明治時代の墓
所と見られ、人骨が複数出土しているよ
うである。
 遺物の写真は発掘報告書写真図版の第
18の左下にあり、ナンバリングされて
いないが、「塔婆」であるとの旨付記さ
れている。

小井川獅子.gif

 上図のように2本、内容はいっしょの
ようであり、特に右側にははっきりと、
「獅子吼何がし」と4文字程度の漢字が
書かれていて、発掘報告書でも第4文字
目不明で、竹カンムリの漢字かと記載さ
れている。内容に関する発掘報告書での
議論は、私には発見され無い。
 本ブログでは第4文字目に関して、む
しろ左側の塔婆の方が良く残っていて、
「女」と読む。なお、諸橋哲治の大漢和
辞典によると、4文字熟語の指摘は無く、
3文字熟語であって「獅子吼」で、文字
通りの意味の他、「口うるさい女房」と
の悪口の意味が中国には有るようである。

獅子吼女という熟語は、日本語としても
恐らく無いが、他界した配偶者に対する
男ヤモメの自分で書いた悪口

のようにも見える。元よりこれだけでは
事情は不明だが。塔婆に書かれた内容が
奇異なため、後世気味が悪いので、処分
せずに放置したところ、腐らずに残って
21世紀に出土した疑いがあるように私
には感じられる。獅子・狛犬・吼犬と書
かれていたとしたら大局将棋関連だが。
第4文字目が「犬」である可能性は、上
図を見る限り、少ないように私は思う。
(2023/05/12)

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