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山梨県甲府市ヂクヤ遺跡で10世紀前奔龍墨書土器(長さん)

 今回は、少なくとも近世初頭には沼地
であったとされる表題の、水域に囲まれ
た小高い台地に存在したと見られる発掘
現場の平安時代遺構から、沼の竜神信仰
とみられる、漢字で”奉龍”と書かれて
いるように見える、杯型土器が出土して
いるとの旨の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書デタベース
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
7281_1_ヂクヤ遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
甲府市文化財調査報告22ヂクヤ遺跡、
2003、甲府市・甲府市教育委員会。
 発掘報告書末尾の抄録によると遺跡の
場所は山梨県甲府市蓬沢町1014番地・
西高橋町3891番地。遺物が出土した
のは、西暦2001年前後の事のようで
ある。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第19
ページによると、遺物は第4号竪穴建物
跡で出土したが、共出土土器の形から、
10世紀前半の平安時代中期の頃の建物
跡であり話題とする遺物も、その頃の物
品であると、推定されているように、私
には読み取れる。
 遺物の写真は、発掘報告書写真図版第
8”4・5・6・7号竪穴建物出土遺物
の、左の一番上のカラム”4号竪穴建物
跡出土杯型土器”の最下段左から2番目
に在り、第4号竪穴建物出土遺物の番号
第12番との旨ナンバリングされている。
杯型土器の、内面の底の写真のように私
には見える。

ヂクヤ遺跡奔龍.gif

 上図のように、かなり黒くはっきりと、
中央に固まった模様が写真で上下に計2
つ有り、上は漢字で”奉”、下は意匠と
して最下段の画を右に延ばした漢字の
”龍”のように私には見える。竜神崇拝
用の杯であって、”奉龍”と書いた祭祀
用の、遺物のようでもあると私は考える。
(2023/05/11)

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長野県飯山市トトノ池南遺跡で平安期王奔墨書陶器(長さん)

今回は、「平安時代の陶器」と発掘担当
者に見られている遺物の内面の底に、いっ
けん漢字で、王奉と読んでしまいそうな
模様が在るが、第1字目の王の字の縦棒
が右にカーブしていて「国」であり、
「国奉」と書かれている、比較的単語の
内容の珍しい墨書遺物の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が
奈良文化財研究所発掘報告書デタベース
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
7433_2_新堤遺跡・トトノ池南遺跡.pdf
発掘報告書の名称は以下の通りである。
長野県飯山市埋蔵文化財調査報告第24集
新堤遺跡・トトノ池南遺跡、1991.3、
長野県飯山市教育委員会。
 ここで今回話題にする遺物は、後半の
トトノ池南遺跡で出土したようである。
 発掘報告書冒頭「調査と整理」が書か
れた第1本文pdfの第5ページ付近の
記載によると遺跡の場所は長野県飯山市
大字一山字雪坪3138-5。
遺物が出土したのは西暦1990年前後
の事のようである。
 遺物の成立年代は図版の下に平安時代
の陶器・灰袖陶器と記載され、平安時代
成立と認識されている事が判る。また、
発掘報告書第1本文pdfの第149ペー
ジ付近の記載によると、遺跡の井戸跡の
周辺部から本遺物の他にもかたまって共
出土物の出土があり、ほぼ平安時代のも
のと、考えられているように読み取れる。
 遺物の写真は発掘報告書写真図版
(PL)第44の最上段右端にある。
ナンバリングは特に付与されてい無いよ
うである。発掘報告書第1本文pdfの
第138ページ第53図の第49番陶器
の事であり、裏に「天□作徳□」と釈文
された、墨書があるとされているものと
同じ物品の、裏表写真なのかもしれない。
なお私見では、反対面の文字は
「天吉作徳穂」のようにも見える。

トトノ池南王奔.gif

 上図のように、中央下端にかなり明確
に漢字で「奉」と読めるような模様が有
ると私見され、縦に第1字目に「王」と
読んでしまう模様がある。しかしながら、
王と見た場合に縦棒が真っ直ぐでは無く
て、下へ行くと右にカーブしている事と、
国ガマエが見える事から、旧字の国であ
ると読めるように、私は思う。
 朝廷へ収穫した米を献上するというよ
うなイメージが表と裏と見られる墨書を
組み合わせると有ると思う。墨書として
は同義であるとみられるが、平安時代に
はまだ「王奉」と表現される事がが多い
中、「国奉」と、慶んで年貢を納めると
露骨に書かれている、珍しい例のように
私には見える。
 しかも当時は土師器と比べて高級だっ
たと私には認識される、陶器の破片であ
ることにも、注目すべきかもしれない。
山間部の遺跡のようだが、何らかの理由
で京都から派遣されたコメ作りの技術者
等が農産物のテスト生産を、平安時代に
していたような、文面内容だと私は思う。
(2023/05/10)

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長野県上田市国分寺周辺遺跡で山泰墨書土器(長さん)

今回は、表題の遺跡で漢字で山奉と書いた
ように見える墨書土器が出土しているが、
第1字目の「山」の字がやや不明確である。
ところがたまたまか。よく似た出土品が2
個有り、信頼性がやや有るように見えると
いう、比較的珍しい例の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
7485_5_上田市内・坂城町内国分寺周辺遺跡群・上田城跡・
風呂川古墳・弥.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
財団法人長野県埋蔵文化財センター発掘調査報告書 31
国分寺周辺這跡群・上田城跡・風呂川古墳・
弥勒堂遺跡・開畝遺跡、1998年、
日本鉄道建設公団北陸新幹線建設局・上田市・
長野県教育委員会・財団法人長野県埋蔵文化財
センター。
 遺物はこのうち上田市坂城町内に在る、
国分寺周辺遺跡群で出土したようである。
 なお以前この発掘調査で、その国分寺
周辺遺跡から2枚の「奉馬」等の墨書土器
が出土した旨本ブログで紹介した。そのと
きには以下紹介する遺物の存在が、本ブロ
グ管理人に、見逃されたという事になる。
 さて、それでは詳細を述べることにする。
 発掘報告書末尾抄録によると遺跡の場所
は、長野県上田市国分字西沖。遺物が出土
したのは、西暦1994年前後のことのよ
うである。
 遺物の成立年代は、住居跡428号と、
住居跡434号より遺物は其々出土したが、
発掘報告書第1本文pdfの第143ペー
ジの記載から、第428号住居跡について
は6世紀前半ころの遺構であるとみられ、
出土遺物も古墳時代後半の、その時代のも
のと見られているように私には読み取れる。
また、発掘報告書の第2続本文pdfの第
148ページ付近の記載から、第434号
住居跡については、9世紀後半とみられ、
遺物も平安時代前期のものと、考えられて
いるように私には読み取れる。
 遺物写真は発掘報告書の写真図版第78
と79:”国分寺周辺遺跡古墳中期~平安
時代の土器(の旨)”の写真図版78分は、
第3段中央段の右側で、住居跡第428の
第4番とナンバリングした杯型土器物品。
写真図版79分は、住居跡第434の第6
番とナンバリングされた、杯型土器物品の
計2枚である。

国分寺周辺遺跡山泰1.gif

 上図は、国分寺周辺遺跡の今回の発掘遺
跡の6世紀前半の杯型土器である。

国分寺周辺遺跡山泰2.gif

 次の上図は、国分寺周辺遺跡の今回の発
掘遺跡の9世紀後半の杯型土器である。
 何れの遺物にも、たまたまであるが画像
の真ん中付近に、写真図版79分について
は軸が、反時計回りに同じように少し傾い
ているものの、漢字で「山奉」と、書いて
あるような模様が見える。山がはっきりせ
ず、第1画の縦棒だけ黒く、水平線や残り
の左右縦棒が薄い点が互いによく似ている。
約350年にわたり、この地点で「山」は、
写真の墨書のように山頂だけ目立つと表現
されたためか。
 何れにしても、やや不明確な墨書である
が、似たような書体の物品が2枚同時に出
土したので。浅間山等を崇拝する祭祀用の
杯が、上田市の国分寺周辺遺跡付近で、古
墳時代から古代にかけて、存在した事を示
唆しているようにも私には見える。(2023/05/09)

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宮崎県小林市奈佐木城跡で戦国期山泰墨書土器(長さん)

 今回は、宮崎県小林市の奈佐木城跡遺
跡で、戦国時代の城の主郭から出土した
香炉の破片に、漢字で山奉と書いてある
ように見える土器遺物があるとの旨の紹
介である。
 戦国時代の山城でも山岳崇拝があった
ようである。
 遺物の写真がweb上に公開されて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が
奈良文化財研究所発掘報告書デタベース
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
7738_1_二原遺跡1区・2区宮地遺跡1区宮地遺跡2区奈佐木城跡.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
小林市文化財調査報告書第6集:二原遺跡1区・2区・
宮地遺跡1区・宮地遺跡2区・奈佐木城跡、
西暦2011年3月、小林市教育委員会。
 今回紹介する遺物は、このうち奈佐木
城跡で出土したとの事である。
 発掘報告書末尾抄録により遺跡の場所
は宮崎県小林市須木奈佐木字上奈佐木。
遺物が出土したのは西暦2000年前後
のことのようである。
 遺物の成立年代は、遺物は城跡の曲輪
1(主郭)で出土したが、発掘報告書第
55ページ付近の記載によれば香炉の破
片で、同じく発掘報告書第53ページの
記載によると、共出土した陶磁器の形や
銅銭の種類から室町時代~戦国時代成立
と考えられているように読み取れる。
 遺物の写真は発掘報告書写真図版第8
の中央段やや左寄りにある大きな写真の
遺物で、第21番との旨、ナンバリング
されている。

奈佐木城山泰.gif

 上図のように、香炉の破片とされる土
器の出土品の図で中央より少し上の、帯
の領域のやや左に、やや小さく漢字で
「山」と書いてありその下に、よりボヤ
ケて「奉」のようにも見える、煤模様が
ある。そこで全体として縦に、「山奉」
と読めるように私には見える墨書がある
ように私見する。なおその左にも、やや
大きく一文字「山」と書いてあるように
も見えるようである。宮崎県小林市の
上奈佐木の山城で戦国期に、霧島方面の
山々を崇拝する、山岳崇拝が有ったと疑
われると私見する。(2023/05/08)

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長野県松本市岡田西裏遺跡で平安初泰山墨書土器(長さん)

 以前本ブログで、長野県松本市生妻
遺跡で大きな甕型土器に、奉山と書いて
あるが、たまたま写真で左端に寄りすぎ
ていて、よくわからないという例を紹介
した。
 今回は、同じ松本市の岡田西遺跡で、
西暦1985年頃、すなわち生妻遺跡の
例より少し前出土の土器に、同様な例の
ように見える「奉山」墨書土器があるよ
うだとの旨、以下に紹介する。
 遺物の写真がweb上に公開されて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書デタベース
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
7907_1_松本市岡田西裏遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
松本市文化財調査報告No.44
松本市岡田西裏遺跡、1986年3月、
長野県松本建設事務所・松本市教育委員会。
発掘報告書第4ページ付近の記載により
 遺跡の場所は松本市岡田出張所の西隣
敷地内のようであり、遺物が出土したの
は、発掘報告書第2ページ付近の
「作業日誌」により西暦1985年前後
の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第12
ページ付近の記載により、遺物は第1号
住居址で出土したが、共出土遺物のうち
割合の多い物品の形から9世紀後半の、
平安時代初成立と、見られているように
読み取れる。生妻遺跡のケースと、ほぼ
同じ頃のようである。
 遺物の写真は発掘報告書写真図版第3
の中段右にあり、遺物番号第9番との旨
ナンバリングされている。このケースも
甕型土器の、今回は底の方だけが、再現
された出土品のように私には見える。

岡田西裏泰山.gif

 上図のように中央やや左に寄って縦に、
残存した部分に対してはかなり大きめに
「奉山」と、輪郭が白抜けして書いてあ
るように、私には見える。
 同じ松本市の生妻遺跡で出土した甕型
土器の類ではないだろうか。今度こそ
長野県松本市から見える連峰の山は、
平安時代の前期の9世紀には奉じられて
いたと結論出来る、期待が持てるのでは
ないかと私見する。(2023/05/07)

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長野県松本市生妻遺跡で平安初泰山墨書土器(長さん)

 今回は、長野県松本市の扇状地、生妻
遺跡で、平安初期成立とみられる甕型の
出土土器に、大きく「奉山」と読めるよ
うな、煤模様があるとの旨の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が
奈良文化財研究所発掘報告書デタベース
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
8091_1_松本市生妻遺跡緊急発掘調査報告書.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
松本市文化財調査報告No.89松本市
生妻遺跡、1991.3、松本市教育委員会。
 発掘報告書冒頭例言によると遺跡の場
所は、長野県松本市中山下和泉。遺物が
出土したのは西暦1989年前後の事の
ようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第31
ページ付近の記載より遺物の形から9世
紀半ばの平安時代初と、推定されている
ように読み取れる。排水用溝とみられる
遺構から出土したとの事である。
 遺物の写真は発掘報告書写真図版の部、
第68ページの第2段目右に在って遺物
番号第106番との旨ナンバリングされ
ている甕型土器とみられる出土品である。

生妻泰山.gif

 上図のように、写真の左の縁に縦に大
きく「奉山」のように見える煤のような
模様がある。「奉」の字の左側は大きな
煤に覆われているように写真から見える。
が、模様が前面に来るような写真が撮影
されていたら、より興味深かったように
思う。松本市市内から見える付近の山を、
古代奉じた祭祀用なのかもしれないと私
は疑う。(2023/05/06)

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長野県伊那市辻西幅遺跡で平安後期泰山墨書陶器(長さん)

 今回は平安時代後期に成立したとされ
る灰袖陶器に「山奉」と書いてあるよう
に見えるが、字がかなり小さいという例
の紹介である。かなり

状況からは尤もらしいが、偶然模様の例

という意味である。
 遺物の写真がweb上に公開されて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書デタベース
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
8335_1_辻西幅遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
辻西幅遺跡、1995.3、長野県
伊那市教育委員会。
 発掘報告書末尾の例言により遺跡の場
所は、長野県伊那市手良沢岡。遺物が出
土したのは、西暦1994年前後の事の
ようである。
 遺物の成立年代は遺物は第2号住居址
にて出土したが、発掘報告書第20ペー
ジ付近の記載によると、遺物の形態から
平安時代後期の遺構であり、話題とする
遺物も、その頃の物品と考えられている
ように読み取れる。
 遺物の写真は発掘報告書の写真図版第
10の最下段左に在り、遺物番号として
”灰釉陶器(第2号住居址No.93)”
と付記されている。

辻西幅山泰.gif

 上図のように、写真の左に寄って縦に
漢字で奉山と書いてあるようにも見える
が、たぶん器に対して、かなり小さいと
みられる。伊那市からは山が見え、その
点では不自然さは無い。他に墨書遺物で、
漢字で「王」と記載された器が、近隣の
住居跡から、複数出土しているようであ
り墨書はいかにも尤もらしい。が、字の
大きさが小さく、この遺物については、
本物の墨書であるかどうか、不自然であ
る。更に第1字目の「山」が、実際に「
山山」と2つの字が、字そのもの幅の
四分の一で重ねて書かれたような、妙な
字形である。日本に将棋が成立していた
疑いの濃い時代ではあるが、少なくとも
第2字目は泰山の泰ではなく「奉」であ
って将棋に関連の有る可能性は少なく、
当時のこの遺跡付近の住民が、山々を王
に準えて奉じていたと、解釈される例で
はあると疑う。(2023/05/05)

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長野県長野市浅川端遺跡で弥生後期後半泰山墨書土器(長さん)

今回は長野県長野市の淺川端遺跡で、
弥生土器に漢字で「奉山」と書かれている
ように見える遺物出土の話題である。
 遺物の写真がweb上に公開され、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
8511_1_二ツ宮遺跡3・浅川端遺跡3.pdf
 上記pdfには2冊の発掘報告書が1冊
にまとめられ、後半の浅川端遺跡編に、
以下話題とする遺物が載っている。後半の
部の発掘報告書名は以下の通りである。
長野市の埋蔵文化財第122集淺川端遺跡(3)、
2008年3月、長野市教育委員会。
 発掘報告書末尾抄録によると遺跡の場所
は、長野県長野市吉田2丁目278-1。
遺物が出土したのは西暦2007年前後
の事のようである。
 ここで話題とする遺物の成立年代は、
包含層で発掘されたが、大半の遺物は形か
ら弥生時代後期後半の2世紀前後の成立と
され、問題の遺物も発掘報告書第34ペー
ジ付近の記載により、弥生時代後期後半
の弥生土器の一つであると考えられている
ように読み取れる。
 遺物の写真は発掘報告書の第33ページ
に、淺川端遺跡でこの発掘の際に出土した
土器類として写真が載り、最下段の左端に
土器遺物番号第10番として記載され、
弥生時代の土器の甕の破片であると考えら
れているようである。

淺川端泰山.gif

 上図のように写真の遺物の右端に縦に、
漢字で奉山と書かれているように、私には
読める。弥生時代後期に、長野県北長野駅
付近から遠方に山の見えるこの遺跡付近に
大陸から渡来人が入り、鉱物資源の捜索を
行なう、ベースキャンプ等としていた疑い
があると私見する。前に飯田市の例でも書
いたが。その渡来人の死後、景色の山の主
として、子孫または近隣の識字出来る者に
より、鉱物資源開発者のその渡来人が、
奉じられたと、本ブログでは疑っていると
いう一例だと考える。(2023/05/04)

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宮城県多賀城市市川橋遺跡で古代泰山墨書土器(長さん)

今回は、宮城県多賀城市の多賀城跡と関連
する寺院跡に近いとされる、市川橋遺跡で、
神道系の祭祀用土器とみられるが、「奉山」
と書かれたように見える皿にような形の
土器の出土の話題である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
130720_1_市川橋遺跡第96次調査発掘調査報告書.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
多賀城市文化財調査報告書第151集
市川橋遺跡第96次調査発掘調査報告書。
西暦2022年3月、宮城県多賀城市教育委員会。
 発掘報告書末尾抄録により遺跡の場所は、
宮城県多賀城市市川字伏石16番2など。
遺物が出土したのは西暦2019年前後の
事のようである。なお、付近は平安時代の
地方中核都市の、地域内に属すということ
である。
 遺物の成立年代は、遺物は古代の人工池
とみられる、第3623番特殊遺構から
出土し、遺物の形等から9世紀後半から
10世紀前半の人工構造物ではないかとみ
られ、ここで話題にする遺物もその頃のも
のと考えられているように、発掘報告書第
87ページ付近の記載から私には読取れる。
 遺物の写真は発掘報告書写真図版第13
番の第2段目右に在り、遺物番号第6番
(R7)との旨ナンバリングされていて、
繰り返すと皿のように私には見える土器の、
砕けた出土物である。杯型土器とみられて
いるようである。

市川橋R7泰山.gif

 上図のように、このケースは土器の側面
に、ほぼ中段左より第1字目と、右より第
2字目の2文字横に、煤にまみれてやや小
さく「奉山」と、私には読めるような、か
なり薄い模様が有るように私見する。
 遠方の山を奉じた、神道の儀式用ではな
いかと私は考える。尚前述のように、古代
の人工池と見られている、第3623番遺
構からは、複数の鬼等と私には読める呪い
用の杯ないし、皿状の土器が複数共出土し
ているようである。現代の、奉山と書いた、
神道の祭祀用徳利型瀬戸物と、東北の古代
中核都市で出土したこの遺物の場合、意味
に、ほとんど差が無いように私には感じら
れる。(2023/05/03)
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長野県飯田市はりつけ原遺跡で弥生期山泰墨書土器(長さん)

 今回は、弥生時代後期とみられる長野
県飯田市の遺跡で、壷型弥生土器の一部
とみられる遺物に漢字で、山奉と書かれ
ているように見える物品が出土している
との旨の話題である。漢代から六朝期の
初めの頃にかけて、鉱物捜索のために、
中国等から渡来人が、日本の山岳地帯に
入っている疑いがあるとの、本フログの
仮説を、依然支持するものと考えられる
例である。
 遺物の写真がweb上に公開されて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書デタベース
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
8960_1_はりつけ原遺跡2.pdf
発掘報告書の名称は以下の通りである。
はりつけ原遺跡Ⅱ、1998年3月、
長野県飯田市教育委員会。
 発掘報告書末尾抄録により遺跡の場所
は、長野県飯田市大瀬木。遺物が出土し
たのは西暦1996年前後の事のようで
ある。
 発掘報告書の末尾抄録により、遺物の
成立年代は弥生時代とみられておりかつ、
発掘報告書の第14ページ付近の記載に
より、竪穴住居跡自体が遺物の形から、
弥生時代後期の2世紀頃のものとみられ、
遺物も、その頃のものと考えられている
ように私には読み取れる。
 遺物の写真は発掘報告書写真図版第
24の最下段左端に在り”竪穴住居跡
(SB)06出土土器”との旨、注記さ
れているようである。
 壷型土器の破片のように私には見える。

はりつけ原山泰.gif

上図のように、写真の左下に2列に3つ
の塊の黒い模様が在る。が、そのうちの
右の列の2個の塊が、漢字で縦に「山奉」
の字のようにも見える。
 弥生時代後期に、長野県飯田市の山間
部に、大陸から渡来人が入り、鉱物資源
の捜索を行っていた疑いがあると私見す
る。その渡来人の死後、山の主として、
子孫または近隣の識字出来る者により、
奉じられたと本ブログでは疑うのである。
(2023/05/02)

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