SSブログ

藤原隆家1015年4月大宰府下向~第二次内裏火災(長さん)

既に本ブログでは将棋史に関連する、
西暦1014年~1015年までの
藤原隆家の、西暦1014年2月9日
の1010年代第1次内裏火災から、
西暦1015年4月22日の藤原隆家
への藤原道長の、大宰府下向命令まで
の動向は述べた。
 そこで今回はその後、1010年代
第2次内裏火災の西暦1015年11
月17日頃までの、藤原隆家が大宰府
に居ると見られる時期の動向を、藤原
実資の小右記でチェックしてみた。
 西暦1015年宣明暦9月24日着
で、藤原隆家は大宰府/博多から唐物
を、大量に京都に送っているが、

西暦1015年宣明暦正6月2日著作
で、その行動を示唆する予告手紙を、
藤原隆家が藤原実資に、同宣明暦閏6
月2日着で、京都へ送っているらしい

という事が判った。
 そのとき西暦1015年正6月1日
に、かなり深いと見られる日蝕が京都
でも大宰府でも恐らく見られたようで
ある。そしてこの天文現象が、どのよ
うに縁起が悪いのかという点に興味を
持っていた藤原実資は、「この日蝕が、
西暦967年(康保4年)宣明暦6月
1日の(部分)日蝕によく似ている」
との旨、西暦1015年正6月1日に
日記、小右記に記録している。
 しかしながら、西暦1015年と
西暦967年は48年違いなので、約
9年0ヶ月5.5日で繰り返される、

サロス周期の「蝕の季節」と藤原実資
の小右記の記載は、合ってい無い。

 実は、

西暦967年ではなくて西暦960年
であって、天徳4年と康保4年の、年
号を藤原実資が、間違えたと仮定する
と、西暦1015年との差が前者では、
55年になるので、蝕の季節と6倍差
に近くなって、ツジツマが合う

のである。
 そして次が重要だが。藤原隆家は、
大宰府で西暦1015年正6月1日の
深い部分日蝕は観察して、藤原実資へ
の同月正6月2日に作成した手紙には、
「大宰府でも日蝕が見えた」旨を記載
し、藤原実資へは、その話が約30日
後の西暦1015年宣明暦閏6月2日
に届いたとみられる。

 実は、西暦960年(天徳4年)に、
「平安時代になってから初の、内裏の
火災が起こっている」と、wiki-
pediaに記載

されているのである。
 「西暦960年のように、内裏と
大内裏の燃えた、西暦1014年宣明
暦2月9日及び、宣明暦3月12日」
と、藤原隆家は藤原実資への手紙で表
現したに違いない。つまり「

同じような日蝕の起こる西暦1014~
15年は、内裏が火災し易いので、必
要な宝物を、我(藤原隆家)は、これ
からどんどん京都に送るつもりだ」と
いうのが、藤原隆家西暦1015年宣
明暦閏6月2日京都着手紙の中身

では無いかと推定できると、本ブログ
の管理人は、私見すると言う事である。
 なお、本ブログの管理人は西暦
960年代の日蝕記録をチェックして
い無い。ので上記藤原実資勘違い説は、
真偽が確定的とまでは、至ってい無い。
 仮に、藤原実資が天文道に彼の言う、
「康保4年6月ついたちの件」を問え
ば、年号違いだとすれば、「天徳4年
6月ついたちの件」だと、問われた
天文道担当の方は、具注暦の原稿位、
陰陽寮に残っていただろうから、直ぐ
に気がついたに違いない。藤原隆家に
ついては、一ヶ月経ってようやく藤原
実資に届いた手紙の中で、唐物取り扱
い責任者として、内裏火災にたまたま
興味が有ったので、「天徳4年」は、
連絡のときに、間違え無かったのであ
ろうとも考えられる。
 その後webを調べたところ、以下
のサイトに日蝕リストが有った。
https://www.wagoyomi.info/sennmyou_nissyokuhyou_v3.html
今回述べた議論で、5.5日の差を
落としているのと、西暦1015年の
宣明暦が6月は閏前で進んでいるのを
考慮すると、西暦967年宣明暦6月
1日も蝕の季節内となり、同暦6月1
日に、日蝕が京都で記録されていて、
藤原実資が正しく、私が間違いだと判っ
た。
 ところが、蝕分が西暦967年宣明
暦6月1日日蝕は20%程度で浅く、

西暦960年宣明暦5月1日の日蝕と、
西暦1015年宣明暦正6月1日の
日蝕とは、だいたい半分位で欠けぐわ
いが同じ

と判った。藤原実資の日記、小右記で
は訂正し無かったが。陰陽寮では、指
摘を受けて、今述べた「康保4年6月
ついたちの件」は、「天徳4年5月つ
いたちの件」だと、「認識の訂正」を、
当然しただろうと私は考える。(2023/10/03)

nice!(9)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー