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1019年11月藤原隆家権帥辞表表明(長さん)

藤原隆家は大宰府権帥として西暦1019年に
刀伊の入寇の侵略を追い払い、翌1020年に
帰還して、藤原行成と交代している。藤原実資
の小右記には、大宰府解として藤原隆家が刀伊
の入寇の様子を、京都に詳しく連絡している様
子が書かれているようである。
 権帥への着任が、眼病の治療であり自発的で
あるというのが通説であるが、上の表題のよう
に交代も希望してである事が、小右記から判る。
 実際には「除目」と表現される、貴族の役職
の交代は、西暦1019年宣命暦12月21日
に前後に発表されたようである。
 辞任希望表明の理由は1019年6月29日
より少し以前に、藤原隆家が京都へ、
「刀伊の入寇勲功者注文」を連絡しているのに、
同日、勲功そのものをするかどうかでモメたか
らであろう。形式的にしても「京都の名代」の
隆家の顔は現地でまるツブれだったとみられる。
 藤原隆家にしてみれば、「藤原道長に近く、
名代そのものであるように、見るからに見える
一例藤原行成と、とっとと交代させてくれ」と
いったところであろうか。この希望は「どのみ
ち1020年年初に、役職交代は有るので無駄」
という理由で却下されたと、同西暦1019年
宣明暦11月23日の小右記には書かれている
ようだ。
 この事から、藤原隆家が仮に、西暦1015
年のユリウス暦の年初に、後一条天皇に周文裔
等から購入した、軍事参謀訓練用と解釈できる
大理国将棋盤駒等を本当に渡しているとすれば、
それが”反撃要因”になる事は明らかなように、

本ブログの管理人には思える。

 「天皇といっしょの道具を使って作戦を練り、
刀伊の入寇を見事追い払った」という”空気”
を世情して作り、実質「作戦は、後一条天皇の
指令だったとしても同一になる」という論理を
広めるという手法の、”反撃の手筋”が発生す
るとみられるからである。
 従って、いわゆる日本の将棋が1015年ユ
リウス暦年初に、予め日本に上陸していたとす
ればという前提のもとだが。刀伊の入寇は、

将棋の流行を、今述べたメカニズムでもたらす
少なくとも一因になる

ように、やはり本ブログの管理人には疑われる。
 「刀伊の入寇が余りに突然だったので、事の
『前半』に関しては後一条天皇の軍事采配を、
自分(藤原隆家)が代わってした」という
ストーリーの話にするのに、天皇と自分とで、

同じゲームで、参謀としての訓練をしていると
アピールする事が有効

であって、逆に全く無駄と言い切るには無理が
あると、私には思えるからである。
 そもそも藤原実資は、後一条天皇の言葉に関
しては三条天皇と違い、余り日記に書いて、い
無いように、本ブログの管理人には、現代語訳
小右記の一読程度から認識される。が藤原隆家
に関しては、藤原実資とは異なり、後一条天皇
と距離を置こうとしていたという話も、管理人
は余り聞かない。
 ので藤原隆家が転送する「天皇の言葉」は、
三条天皇並みに、後一条天皇に関しても、ある
程度は有って、おかしくは無いように、私には
思える。

辞表を堂々と京都に叩きつけるというからには、
論争に関して、藤原隆家には何か勝算が有った

からなのであろう。
 よって「藤原隆家は、刀伊の入寇勲功者注文
に対する京都の対応に、腹を立てていた」と仮
定する説の例示としてはポジティブとみられる、
11月10日~23日前後の辞表要求の事実は、
将棋具を北宋交易商人の、一例周文裔が西暦
1015年年初のタイミングで、博多からは
藤原隆家の運搬で、京都に届くようにもたらし
ているという仮説と、少なくとも大きくは矛盾
して、い無い史実のように、依然として私には
理解される。(2023/10/18)

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