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周文裔1020年来訪は後一条天皇の徳化を慶んで(長さん)

 以前本ブログでは、東洋大学の森公章氏の
「朱仁聰と周文裔・周良史 :来日宋商人の様態
と藤原道長の対外政策」(2014年)を紹介
し、西暦1012年前後に続いて北宋貿易商人
の周文裔が、刀伊の入寇直後の西暦1020年
にも博多に来訪しているという史実を指摘した。
 最近、藤原実資の日記に関する成書:
倉本一宏編「現代語訳小右記」10(2020)、
吉川弘文館に、対応するとみられる記事が有る
のに、私も気がついた。
 西暦1020年相当の宣明暦9月14日の、
秋の頃に、日本に恐らく周文裔が来日との事の
日記内容が記載されているようである。
 日記によると、前後に後一条天皇が、体調を
崩したとの旨の記事が続いており、ざっと読む
と、何者かの情報により、表題のように周文裔
が、天皇の見舞いを兼て、刀伊の入寇の後始末
の為の物品を売りに来ているようでもあり、そ
の為規定よりも、頻度のすぎる来日が、京都の
公家の間で問題になっているように、私には読
取れる。
 御殿で、当時右大臣の藤原公季が、交易商人
の来日は、「後一条天皇の徳化を感じた為」と、
公家の前で公表したという事らしい。個人的に
は、「刀伊の入寇は、成長して能力を持つよう
になった後一条天皇の作戦指示で追い払われた」
と周文裔は言いたいのだろうと、私には取れる。
繰り返すが、疲労して体調を崩された御様子だ
というのも、何者からか、周文裔と見られる
交易商人に情報が伝送されているようでもある。

持参した交易品は様々なのだろうが。後一条
天皇に以前送った事の有る物品に関連した物品
が、何か含まれている

ようでも有りそうだ。経帙牌を例えば数百枚持っ
てきたと、本ブログで既に述べたが。小右記の
記載はその来訪が過剰に頻繁な「交易商人」が、
理由を、後一条天皇に絡めていることから見て、
またしても将棋道具も持ってきたとする、本ブ
ログの論を、少なくとも完全否定する内容では
無さそうであると考える。
 振り返って見れば、西暦1019年宣明暦の
4月13日前後の、対刀伊軍に対する、大宰府
の反撃は、大理国将棋で、参謀としての腕を磨
いて徳化を得た、後一条天皇の采配で行われた
という「空気」を作り出した方が、大宰府や、
博多の現場と交易を、西暦1020年以降も
スムーズにしたい、その「交易商人」にとって
は有利なように私には思える。仮に寄せ集めで
も、現地の平安武者は「官軍」にただちに昇格
するからだ。
 天皇がそうだから普段から現場も、将棋を指
すという同じ手法で、参謀としての能力を磨い
て、刀伊の入寇を克服したというストーリーに
したいので。その時点で上陸していた原始的な
平安小将棋が、更に広まるような活動を交易商
人が西暦1020年9月前後時点で付加しても、
少なくとも不自然な話で無い。以上のように私
は、この成書のこの記載を読み、依然として疑
うようになっている。(2023/10/17)

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