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将棋伝来時将棋にどんな字が充てられた(長さん)

象戯という字は別として、将棋の「ショウ」
に将が充てられている場合、棋にはその旧
字体の下木の其:「棊」では無くて、「基」
や「碁」が充てられる等史料は様々である。
では将棋の伝来時、仲介したと推定される、
交易船団の中国人等は、日本に伝来させた、
いわゆる、今に繋がる日本の将棋を、どう
漢字で書いて紹介したのであろうか。
 回答から書けば、

恐らく「将其」と書いて「しょうぎ」と
読んでいた疑いが濃い

ように、私は思う。
 ただし、残っている史料で最も初期の、
新猿楽記で藤原明衡は「将基」に近い字を
書いていると、私は認識している。従って、
伝来時に「将基」と表現されてい無かった
と、完全に言い切るのは無理だとは思う。
 またイスラムシャトランジを象棋と訳し
ていたのは確実な、北宋王朝の中国人が、
日本に伝来させる将棋も、「象棋」と書い
ていた可能性は、ほぼ無いのではないかと
思う。北周の武天王作の象経のゲームが、
イスラムシャトランジの源だと思って象棋
と訳したであろうが。囲碁のように交点置
きし無い、しかも、雲南等周辺国の遊びが、
中国皇帝の天象占いに、肩を並べるとは思っ
てい無かったので、将棋状日本ゲームの棋
に、占い兼用の将棋盤付きを表す「木」を、
付ける気は、到底無かったのではないかと
私は思うからである。私見を蛇足すると、
将棋伝来時、日本の天皇は三条であり、最
初の将棋は、たまたま「敦成親王向け」だっ
たのではないかと、私は疑う。
 特に伝来者は誰でも、日本用の将棋の
ルールを説明するときには、将駒が3種類
あって、「将」のゲームであると説明する
であろうから。将棋の将は、紛らわしいの
で「象」には、し無かったであろう。お遊
び半分に、

「其の将ゲーム」・「将々ゲーム」の意味
で、「将其」と書いた

り、駒がどっしりとしていて、比較的スワ
リが安定で、倒れない形であったので、
1基・2基と数えるような将棋駒のイメー
ジで将基と書いたりして、かなり曖昧だっ
たのではないか。そのせいで、後に日本に
入っても、日本の将棋は、将棋の棋の下木
旧字の異字「棊」では無くて、将基と書か
れたり、将碁と書かれたり、いろいろになっ
てしまったのではないかと、私は、疑って
いるのである。(2023/10/20)

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