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二中歴の記載は将棋が主で大将棋は従(長さん)

これもまた、本ブログの管理人が以前には
読み落とししていたという内容である。
 二中歴の記載より、著者は日本の将棋に
関して、大将棋が西暦1200年頃の標準
では無いと、明らかに思っていた事が判る。
 もしそうで無いならば将棋の説明で、

大将棋を先に書き、「簡易版として、将棋
がある」と記載するはず

である。
 大将棋がどうして従だったかは、著者が
平安小将棋の棋士であったからであると、
強弁出来無くもないのであるが。小を付け
ないところを見ても、文面の通り(平安小)
将棋がいわゆる、日本の将棋であり、それ
とは別に、大将棋があると見られたので、
そのように書いて、挙中歴(ほぼ手帳だろ
う)としておかしく無かった可能性の方が、
少なくとも高いのであろう。
 この事から、平安小将棋が名人を出すよ
うなゲームではなくて、子供の遊戯として
日本に現れ、その後結果的には、大人が指
しておかしく無い体裁の、大将棋を作ろう
とした形跡が明らかに有るように私見する。
 平安小将棋の発生ないし伝来は、子供用
だった事を示唆しているのでは無いのか。
 とすると船で外国から、大枚をはたいて
伝来させるのに、下々の子供の為とわざわ
ざというのも、無いとは言い切れないであ
ろうが。当時として可能性が、余り高くは、
無いように思える。
 つまり、

もともと日本の将棋は発生時皇族の子息用

だったとするならば、自然伝来だとすると、
少なくとも囲碁を盛んに指す、ゲームの出
来に目の肥えた国で、子供用だけ伝えて、
幻の大理国大将棋を無視する点の不自然さ
は消えるように、私には思えるという事で
ある。
 そして親王のうち、跳びぬけて存在に期
待の掛かった人物といえば、ちょうど将棋
発生のタイミングの10世紀後半から、
西暦1058年迄の間と絞れば、敦成親王
用に伝来というのが、最初からそれだけで、
かなり疑われて然るべきだったように、私
には思えるように反省が必要との気分に、
ここへ来て正直なって来た。(2023/10/31)

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