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11世紀中迄象棋無ミャンマーから雲南伝来の謎(長さん)

少なくとも伝説なので、定かでは無いのだが、
ミャンマー象棋のシットゥインは、アノーヤター
王が、モン族の都市国家の、ペグー(=パゴー)
及びタトン(ペグーの100km東の、兄弟国
家)を征服して、モン人を捕虜にして、ゲーム
を、領地内でさせるようになった時に、発生し
たという事になっている。
 所が本ブログでは、同じモン族の居住地、
ペグーないしタトンを経由して、パガン(地名)
→ピュー(国家名)→南詔国に、プロト原始
平安小将棋(8升目で、玉、金、飛車、桂馬、
飛龍動き駒が要素で、ポーン3段目、兵3段目
成りの取り捨て型)が西暦775年頃に伝来し
たと述べてきた。アノーヤター王伝説は、西暦
1050年程度だから、捕虜にしないのに、
275年も前に、ミャンマー人より雲南人の方
が、早く将棋を知りえたことになる。

どうして、雲南では知られている、”タトンの
将棋”が、275年間ビルマ内の、パガン王国
では知られていなかったのか

を、今回は論題とする。
 最初に、いつものように回答を書く。
 伝説が無いだけで、モン人と同じく、ミャン
マー人も、西暦775年~1050年の間にも、
将棋は指していたと思われる。別のバージョン
のゲームのカテゴリーなので、

シットゥイン史として、単に語られないだけ

である。では、説明を続ける。
 ミャンマーとインドは隣国で、

ガンジス川を下って、タームラリプティから
その船のままで、ペグーなりタトンの港へ行
けば、交易品の輸送はそれだけの事

である。また、インド~イスラム帝国間も、

インド・カナウジから西へ行き、マトラーを
へてカズニーへ行けば、イスラム・アッバー
ス帝国領内

だ。その他、スリランカ経由の海路もある。

マウカリ朝のカナウジで、インド二人制古チャ
トランガが、西暦625年頃発生すれば、

インド将棋は西暦650年には、タトン等到着。

イスラムアッパース朝で、イスラムシャトラン
ジが西暦750年に発生すれば、

シャトランジは西暦775年にはタトン等到着

というペースだったとみるのが自然だ。
 だから、アノーヤター王に捕虜にされるまで、

ミャンマーに将棋が無いわけが無い。

そもそも、
捕虜にされるまで、遊戯に過ぎない将棋を、

交易民族の商人が、門外不出にするわけが無い。

伝説だから、筋書きは不思議と感じても変えら
れず、その通りに後に伝える事だけが大切たっ
たので、そのままなのだろうが、話の内容から
見て、

この伝説は明らかに、前段が大きく抜けている。

 実際には、

シットゥインとして、タトンの将棋が確立した
時点で、歴史が始まる方が、聞いている相手に
理解しやすいので、不自然な話へ作り変えた

だけだと、私は解釈する。
 実際にはタトンやペクー(パゴー)の将棋は、
西暦650年に発生したと見る。そして、
西暦650~700までインド古チャトランガ。
西暦700~770まで兵相手陣最奥成り、兵
3段目配列インド古チャトランガ。
西暦770~780まで、兵相手陣3段目成り、
成りは初期位置駒から、大臣へ変更。兵3段目
配列インド古チャトランガ。
西暦780~900、兵相手陣3段目成り、
兵3段目配列イスラムシャトランジ。
西暦900~1000、兵相手陣3段目成り、
兵シットゥイン配列、象は角行も検討の上で
銀将動きに決定した、イスラムシャトランジ。
西暦1000~1050年頃は兵シッケチュウ
成、兵シットゥイン配列、象が銀将動きの
イスラムシャトランジ
西暦1050年頃:成り兵の副官(シッケ)は、
アノーヤター王の宗教改革で、1個に限定され
た、プロト・シットゥイン(固定初期配列)、

等に、変化したのでは無いかと、私は疑う。
なおモン族が、タトンやパゴーに都市国家を
形成したのは、西暦820年の少し前とされて
いる。のでその前は、インド・バルダナ朝
および、その後継の戦国国家と、先行してミャ
ンマーに存在した、ピュー王国間の、情報・
文物の運び屋の働きをする海岸沿い民族として、
彼らは存在していたのであろう。
 そしてこの間、西暦770年頃に、地名の
パガン経由で、ピュー王国に伝えたバージョン
が、プロト原始平安小将棋(香車が飛龍、
歩兵がまだ、ポーンの宝応将棋)そのもので
あったはずである。その際に、
雲南で西暦730年頃に成立した、南詔王に、
王を金将、大臣を銀将に変えると、兵が早
銀将成りして、鉱山王国での評判が良く、
その変更をした上で、ピュー国から南詔国へ、
再転送されたように、私には推定される。
 なお、ピー王国作成のビルマ暦は、
平朔平気法と聞く。星座は、西山峰雄氏から
昔、中国官組織星座とは全く違う、動物星座
だと聞いている。将棋へのブロッキング作用
は、ピュー国にも、無かったと見られる。
 またその後、西暦900年ころ、象(上将、
酔象)を、角行動きにするインド発情報も、
同じルートで雲南にも入ったのであろう。
 何れにしても、ミャンマー国内居住の
モン族が、タトンやパゴーで、アノーヤター
王が出る前から、当然将棋を指している
はずなのに。

征服されて、モン族がタトン等からパガンへ
移ると、ミャンマーに象棋が忽然と発生する
という話が、おかしい事だけはどう見ても確か

だと、私は疑うのである。(2019/11/10)

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(コラム)本ブログ、開設より3年(長さん)

本2019年11月初旬をもって、本ブログも
開設より、まる3年が経過した。
 当初正直、これほど記事数が増やせるとは、
予想もしなかった。独自の論を主張し、それが
終えたところで、そのつど新発見事項を、時折
追加する程度になるだろうと、予想していたが、
はずれた。
 はずれた原因は、解けないだろうと思われた
問題が、この分野の史料の内容が、予想を上回っ
て良く、展開できないはずの論が、意外に展開
出来た事にある。単なる娯楽にしては、祖先の
思い入れが、国が何処であるかには関係なく、
ことのほか強い分野だったと、感心させられた。
 ただし、投稿数1000を越えると、さすが
に最近は、連続投稿は苦しくなってきた。ここ
5日~10日位で、毎日将棋史の内容を書くの
は、残念だが途切れてしまう見通しである。
 しかし何とかその後も、余り日を空けないで、
この分野の記事の投稿を続けたいと考えている。
 当初は、将棋史関連の主張に関する私の意見
を、まとまって書くために、ブログを立ち上げ
た。立ち上げた時点で、他人に読まれるかどう
かという点については、余り関心が無かった。
自己主張をする場を、自分で作っていなかった
事に対する羞恥心から、立ち上げたブログだっ
たのである。
 しかし、ブログの管理人になってみて、ブロ
グのホストが読者の数を、希望しなくても、
デフォルトで表示するという事実を、始めて知っ
た。狭い分野の話しか、していない割りには、
数字が数倍予想よりも多く、ランキングも1桁
上になり、たいへんありがたかった。
 読者の皆さんに、深く感謝を申し上げたい。
 他方ブログをその人の、個別の日常の、日記
代わりに使っている方の話だと、普通は、私の
読者数の数分の1程度だという話である。日本
は今平和なので、そのような、ブログの立ち上
げ方だと、管理人が私よりずっと有能でも、そ
の程度の読者数になるのだろう。それに対して
将棋は、将棋ソフトが強くなり、本質的に今は、
非常事態の時代だ。
 それに加えて遊戯史通史の啓蒙量が、将棋の
半分程度の、やはりソフト優勢の囲碁に比べて、
将棋史名うての論者の、増川宏一氏等が過去、
将棋史での啓蒙を、元々旨くした結果、同様に
面白いはずだが、将棋史の方を、ブログ・テー
マに選んだ私は、どうやら当たりくじを引いた
ようであった。
 そのため、覗いて頂く方が、囲碁史をテーマ
にするよりもむしろ多くなった。ようするに、
他人のフンドシで相撲を取った私は、先達のお
かげで、少なくともこれまでは、たいへん助かっ
たように感じられた。誠にありがたい事である。
 何れにしても、できるだけがんばりますので、
これからも読者の皆さん、よろしく御願いいた
します。(2019/11/09の2)

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新猿楽記の将棋の将棋種は何か(長さん)

(伝)藤原明衡著の新猿楽記は、将棋の言葉
の初出として著名である。それ以前には、酔
像入り小将棋とみられるものが、興福寺で、
成立1058年に出土しているというのが、
現史料の全てである。また、本ブログの推定
や、論旨の整合性から、この史料の成立の
だいたい10年位前になってから、玉駒が双
王将で、盤が現行日本将棋の9升目盤を使う、
標準型平安小将棋が存在すると、本ブログで
は見ている。
 他方中国では、司馬温光が作成されたとさ
れる、七国将棋や、ヒムリー図で有名な、
北宋象棋が、先行してある。その他イスラム
シャトランジは、吉備真備は知っていた可能
性がある。が、新猿楽記の時代には、忘れ去
られていただろう。
 では、以上のように史料や記録から見た整
合性が有ると言う点で、可能性がある”将棋
種”の中から選ぶというふうに、多少話を限
定する事にして、今回は、(伝)藤原明衡が、

何を”将棋”と言っているのかを論題

にする。回答から書く。

日本に伝来した、原始平安小将棋(8升目型)
と、新猿楽記の”将棋”とは同じ物

だと、ここでは見る。
 では以下に論を始める。
 新猿楽記で将棋が出てくる文面の流れからし
て、羅列された手習い(術芸)項目一覧の1つ
が将棋という表現である。

私は、新猿楽記の時代、将棋にはタイトル・ホ
ルダーとしての名人はおらず、上手という意味
での匠人がいただけだ

と考える。新猿楽記に書かれた、術芸の上手は、

日本一の名人ではなくて、高段者に近い

のであろう。将棋の名人と表現されているが、
今の言い方だと、将棋の名人よりも、全国選手
権があるという話は余り聞かない、ハーモニカ
の名人にたとえば近い、ニョアンスに違いない。
そこで、ここでは以下、新猿楽記の世界の名人
等は

達者人と言い換える

事にする。
 ところで新猿楽記に書かれた、将棋の達者人
に、誰がなるべきなのかだが、

日本の貴族としてなるべき、達者人

と、新猿楽記の物語りの流れから取れると思う。
 所で以前に述べたが、西暦1080年時点で、
中国の北宋将棋と日本の、初期伝来型8升目
原始平安小将棋優劣比較が、初期院政の、
後三条天皇、白河天皇、大江匡房らによって
行われたと、本ブログでは仮定している。

だから、それよりほんの少し後の成立と、
今の所疑われている新猿楽記では、別の国の
稽古事と朝廷内で解釈されている、北宋象棋等、

中国象棋系列は、除外できる

と、本ブログでは考える。
 だから、残りは興福寺の小将棋すなわち、
本ブログの言う、大理国原始平安小将棋か、
後一条天皇の玩具の将棋である、本ブログ
1015年伝来と見る、原始平安小将棋(取捨
て、8升目)、そして白河天皇、大江匡房推薦
の、9升目標準型平安小将棋(金2枚型)の

3択

である。
 そこで、次に本ブログでは、後一条天皇の
面前で藤原隆家が、”軍の指揮を取る者は、
(今述べた2択のうちの後者の、)原始平安
小将棋(取捨て、8升目)の達者人になるの
が必須”と、諭したと仮定されている点に
着目する。
 天皇と、日本の軍の将と、貴族は違うのか
もしれないが、

宮廷世界では、原始平安小将棋の達者人になっ
た方が良いと、そこの人間の結局は類である
藤原隆家が言っているというのと、ほぼいっ
しょ

だろう。だから、識字階級である貴族は、
あくまで、本ブログのこれまで述べてきた論
を前提にしての話だが、新猿楽記で稽古事と
解釈されている、

この架空の物語り中の将棋は、8升目制、
西暦1015年伝来の原始平安小将棋と解釈
できる

と、私は断定する。
 他方、興福寺の酔象入り、大理国原始平安
小将棋については、当時生存していた貴族に、
めんとう向かって、

酔象将棋で匠になるべきと、諭した人間が
居ると、考えられる史料、形跡が無い

と私は解釈する。
 つまり興福寺で指していたと見られる、
大理国原始平安小将棋(右酔象タイプ)には、
藤原隆家の責任で購入した、原始平安小将棋
のような、

具体的実績が、無いと考えられる

という事になる。
 更には、もう一つの選択肢である、
9升目制の標準平安小将棋は、新猿楽記の成
立の時点で、出来て10年程度であるから、

皆でコツを研究している段階で、達者人は
まだ居無いと見るのが自然

ではないかと、私は見る。
 以上のように、史料が有り、またはそれが
あると考えると、史料と整合性という点で限
定して、論を狭めた上で考えただけであるが、
新猿楽記の”将棋”とは、後一条天皇の玩具
将棋とみられる、原始平安小将棋を指してい
る、九州大宰府の、”やんごとなき”武者の
うちの、将棋が旨くなった者の類のような、
貴族というイメージで、(伝)藤原明衡が、
空想小説中で人物を描いている疑いが濃いと、
私は現時点で考えるのである。(2019/11/09)

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白河天皇の時代に日本へ北宋将棋は伝来したか(長さん)

以前紹介したが、巾11路×段10段の北宋
将棋は、中原から離れた、西の山岳部で、
指された形跡が有る。盤らしき石物が存在す
るからである。今回は、その将棋が日本へも
流行らなかったが、伝来したのかどうかを、
論題とする。回答から書く。

白河天皇の時代に文献上、朝廷レベルでは
公知になっていた。

そのため、大江匡房等が8×8升目金一枚
の原始平安小将棋を、9×9升目金二枚の
標準型平安小将棋へ、規格化、標準化する
理由になったとみられる。
 では、論を始める。
 以下、北宋将棋の大臣は、偏・裨ではなく
て、裨×2の、士駒であるとして、説明する。
後者の方が玉(将)守りが堅く、北宋将棋の
偏・裨型は、日本人が文句無く捨てたであろ
うからである。
 この将棋の将が真ん中にあり、士駒が2枚
だったのを口実に、集団指導体制だった、摂
関政治を模したような、原始平安小将棋を否
定したのが、大江匡房等の西暦1080年前
後の初期院政の基本姿勢だったと、本ブログ
では見ている。
 この時代、中国からまだ、シャンチー駒は
出土していない。だから今の所、中国シャン
チーは未成立だったと考えるしか無いと、私
は思う。
 北宋将棋をゆび指して、大江匡房等は、
”そうれ中国の象棋も、中国の官製をモデル
にして王が真ん中に在り、金は左右に2つに
なっているであろうが”と、

保守的な摂関家を、牽制してみせた

のであろう。その結果、標準型平安小将棋は、
将棋伝来約65年後になって始めて、めでた
く成立したというのが、本ブログの論だ。
 そのためには、ゲームとしては依然
出来が悪いが、中国中原発の文書から日本で
公知になるという形で、西暦1080年まで
に北宋将棋が、唐物書籍が潤沢にある、日本
の朝廷レベルで公知でなければ、おかしい
はずである。
 なお、民間への伝来は、
プレーヤーが面白いと感じて、じわじわ伝達
して到来する形であるから、この時代には、

朝廷公知と民間周知の間に数十年の差がある

のだろう。例として、
中国シャンチーが日本の朝廷に知られたのは、
源師時日記の長秋期の西暦1132年の鳥羽
天皇時代。公周知になったのは、二中暦の成
立前後の、1180年頃であろうと、私は見
る。つまり”新院占い”駒は、本ブログでは、
デザイン上、微妙に歩兵を小さく作っている、
日本の当時の小将棋駒では無くて、中国シャ
ンチー駒でしていると、見ているのである。
 なお北宋将棋は、出来が悪かったので、
囲碁文化圏(定朔太陰太陽暦)である
朝鮮半島通過時点でブロックされ、日本の
民間には、伝来していないと、ここでは見る。
 以上の観点から見ると、権威者がデザイン
したために、北宋将棋の砲駒最下段タイプ等
は、比較的、平安時代後期の中国文献には、
当時は良く探せば、判る程度に出ていたので
あろう。権威者がデザインしたので、地方官
僚も中国では、政治的思惑から指し、遺物が
山岳部でも見られる程度に、残ったのかもし
れない。
 しかし、北宋の権力者も、高麗国に権力は
及ばないので、朝鮮半島で北宋将棋は、恐ら
く指されず、中国北宋王朝国内限定になり、
日本へは、民間へは、認知されなかったので
あろう。
 以上が説明だが、この論法だと、大理国
原始平安小将棋が、西暦1065年頃には、

自然伝来、しなければならないという矛盾

が生じるので、補足する。
 本ブログでは、後一条天皇へ進上された、
藤原行成のコマ伝説記載の、

トップ権力者だけが、誰も知らない中国文書
情報や文物を、朝廷に披露する事ができた

との旨の記載は、

本当の事

であると見ている。つまり、大理国の原始
平安小将棋は、

トップ権力者である一例、藤原道長クラスが
介在して、始めて日本に伝来する、当時とし
てもレアーな情報

だと、少なくとも本ブログでは、見ていると
言う事である。
 だから、つまり藤原道長の権力のおかげで、
日本に将棋は西暦1015年程度に伝来した
のであり、それが有ると知っていて、必死に
情報を探した、興福寺の情報担当者だけが、

西暦1055年頃になって、やっと

本当は象の入った、大理国原始平安小将棋の
実体を、知りえる程度だった。以上の解釈で、

つじつまが合うと考えられる

のである。
 結局全体として、以上のように考えると、
全ての事の経緯は、ほぼ矛盾無く説明できる
ように、私には思えるのである。(2019/11/08)

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マークルックのコーンは、人の意味のよう(長さん)

マークルックのコーン駒は、日本将棋の
銀将に対応し、かつ駒の動かし方が同じ
なため、特に注目されている。私は、
コーンは植物の”根”の意味かと思って
いた。がこの解釈は、web情報と合っ
て居無い事が、さいきん私も知った。

コーンは、”人”の意味のようである。

慌てて、他のマークルック駒も調べたら、
web上の情報では、次のようになって
いるようだ。

クン→立派な平民
メット→種
コーン→人
マー→馬
ルア→船
ビア→昔の時代のお金の貝

クンも、どうやら王では無いようだ。
王の一族のある種の者。または王が与え
たある種の、名誉ある称号、あるいは立
派な平民の事で、英語のMr.とおなじ、
使い方もすると、webに載っていた。
なお”王”は、”ワン”のようである。

クンとコーン以外は問題無かったようだ。

尚ルアーは船釣りのイメージが、釣りを
知らない私には、漠然と今まで有った。
が、釣の乗り物ではなくて、通常は道具
が問題であり、ルアーフィッシングとは、
疑似餌釣りの事である。その場合の、
英語の動詞の”引き付ける”のLure
とは、自明な関係は無いようだ。
 また象は、チャーン。問題の”根”は、
ラークと書いてあった。これ以上詳しい
事は今の所、私にはよく判らない。何れ
にしても、一度調べてみて良かったと思
う。(2019/11/07)

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中国雲南省博物館学術論文集に陰陽暦の記載(長さん)

以前、web上のかなり昔に公開された
サイトに、中国雲南省のイ族に、独自の
太陰太陽暦があるらしいという話を、
本ブログでした。中国の文献にあるよう
だが、フォントが私のpcでは、文字化け
して、読めなかった。
 文献の種類は違うし、暦法の詳しい説明
は無いのだが、以下の文献に、雲南から
四川にかけて、トンパ文字を使用するので
有名な、ナシ族にも太陰暦があり、その
説明の中で、イ族の暦が、太陰暦系である
という記載がある成書を、最近私は発見
した。

雲南人民出版社発行(1989年)
雲南省博物館学術論文集、雲南省博物館編

その中の、民族文化研究、朱宝田氏他執筆
で、”ナシ族の二十八宿占星術より”に、
ナシ族が、純粋太陰暦を使用しているとの
旨の説明がある。

1カ月を29.5日、一年を354日
とするという、散漫な方法と、書いてある。

なお28宿占いに関連して一恒星月も、
雲南ナシ族の暦は、27.5333日とし
ていて、実際の27.32166日とは、
かなりズレているという。
 雲南省のタイ族にも、同類の古暦があり、
30日一ヶ月と、29日一ヶ月の入れ方が、
ナシ族と逆なだけだとも書いてあった。
 暦例を見た限りは、中国の旧正月に、
ナシ暦は、あわせて居るように書いてある
ので、実際には、

雲南ナシ族の暦は閏月を入れる、太陰
太陽暦と疑える

ようで

前記成書に書いてあるほど、レベルは低く
無い

かもしれない。
 なお、雲南ナシ族の星座は、”織女座”
が、こと座はもちろんの事、おとめ座から、
いて座の領域まで、広く春と夏の星空を覆
う、巨大な一星座となっており、中国星座
はもちろんの事、インド、アラブ、西洋星
座の何れとも全く違う、独自の体系となっ
ているようだ。
 そのような記載の直ぐ後で、”イ族は、
一恒星月を、正しい数値に近いあわせ方を
している”との旨を、1月の日数が、規則
的に繰り返すことを、示唆する記載と共に
書いている。ので、ほぼ

イ族に、平朔の太陰太陽暦がある事を示す
記載になっている。

ナシ族の、誤差の大きな恒星月は、28宿
での2/3日強の多すぎの誤差を、
354日に6回、1宿飛ばしをした結果、
その占い暦の恒星月値が、27.5333
に日なるためとの旨の、説明がある。
 恐らくナシ族よりレベルが上とのイ族は、
まず12太陰月を、354.000日に
しないで、月の大小を入れ替えて調整して、
354.36708日程度にするだろうし、
閏月は章法に近いような入れ方を、したの
だろう。
 そして28.0宿の、27.32166
日より、2/3日程度の大きすぎは、4太陰
年続けて、4カ月に一回、1月(つき)内で
星宿を1つ飛ばしは、しない月にする。
そのあと1太陰年だけ、3カ月に一回、1月(
つき)内で、星宿を1つ飛ばしはしない月
にする。残りの月には、その月末に、月の
居る28宿を1つ、必ず飛ばし、補正する。
そしてこれを計5太陰年一組で循環させる。
そうして1恒星月を、27.3215日
程度にしたのではないかと私には疑われた。
 なぜなら、1989年に朱宝田氏らが
執筆した、中国雲南省博物館学術論文集の
中の計算は、いま述べたのと、

答えが同じにならない、計算が狂った説明
をしている

からである。つまりこの成書の暦計算に関
する詳細説明は、真偽が当てにならないと、
私は思う。
 なおイ族は”年に一回頻度で、月位置を
観測して、平均としての恒星月の数値を、
チェックするような、天体観測をしていた”
との旨、この成書に書いてある。やはりイ
族の古王国である、南詔国の暦担当者には、

月の黄経の短周期の偏差を、詳しく把握す
る事だけが、めんどくさかった

だけだったのであろう。
 つまり、

囲碁を打つにしても、”たまに”にしたかった

という意味である。
 何れにしても、1月(つき)の長さの入
れ方が規則的との表現が、この成書にある
よう

なので、中国雲南省のタイ族、ナシ族、
イ族の民族暦が全部、平朔法なのは、ほぼ
間違い無い

事であろうと、私には思われた。(2019/11/06)

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マークルックは、兵、ビアと判る史料が欠乏(長さん)

以前に、橿原考古学研究所の西暦2016年
の清水康ニ論文、”東アジア盤上遊戯史研究”
(pdfファイルで、web上にある)を
紹介して考察した。今回は、その続きであり、
タイのマークルックの出土駒について、
紹介する。結論を述べると、
3カ所の遺跡の出土駒が紹介されているが、
まとまった小ぶりで、兵の類と見られる駒の
出土していると主張されている遺跡は、15
世紀以降の一箇所だけであり、情報が限られ、

解明が依然として、完全とまでは行かない

とみられた。
 では、論を始める。
 マークルックでは、現行の立体駒の兵駒を
相手陣3段目で、副官、大臣駒に成らせるの
で、成り大臣のゲーム内での出現枚数が多く、
それを大理国貴族等とは違って、財力がさほ
ど無いので、兵を、天地がわかるように、頭
を平らに作ってひっくり返して、日本の将棋
の”成り『と金』歩兵駒”を作る感じで、
現代は表現している。
 だから当然、昔はどうだったかが問題だ。
清水氏が、表題の論文で論じる前は、

廃棄する貝等で歩兵を表現し、捨てていた
ので、遺物には無く、よく判らない

とも言われていた。(将棋Ⅰ、増川宏一)
 タイの博物館所蔵の1遺跡(/3)の、兵
の無い出土駒のパターンは、依然それで説明
できるように、私には見える。
 それに対して清水氏は、残りの2箇所の遺
跡の遺物のうち、北部の一箇所の鋳物の遺物
について、起き上がりコボシの小さい形の、
マークルック駒とする遺物駒数点が、

頭が尖がっているマークルック兵駒だと主張

していると、読み取れた。本ブログの解釈で
正しいかどうかについては、web上の、元
文献にあたるように薦める。だから現実は、

3カ所とも全部違うように見え、清水氏の、
この論文での論法は、どうもはっきりしない

と言うのが、本ブログの見方である。
問題の北部一箇所遺物の、起き上がりコボシ
のような駒は、

気まぐれに、大臣駒あるいは金将駒とは形を
別にした、この遺跡だけで出る”と金(ビア
ガイ)”かもしれない

という疑いが有るというのが、本ブログの見
解だ。つまり清水氏の言う、この北部15世
紀程度の成立年代の遺跡の、ピア擬似駒の、
更に半分の、小さなドーム駒がビアで、残り
の、起き上がりコボシがビアガイなら、

私は万々歳だ。

 そもそも本ブログでは、歩兵型駒と、”と
金”型駒(金将駒と同一物品で数が多い)が、
セパレートの形式で、大理国から日本に伝来
したと見ている。ただしタイの15世紀程度
の遺物の”起き上がりコボシ”は、もう少し
大きいように写真からは見えるメット駒(生
金将、生大臣)の形では、このケース無い。
15世紀タイでは、12世紀の大理国の、”
黄金のメット成り駒”の面影は、もはや無い
のであろう。
 つまりは、本ブログの論は

木村義徳氏の論とは、以上の点が違う

のである。
 ただし松岡信行論とは、成り”と金”歩兵
が、誰の発明なのかという点に関し、

日本人説を取るので同一

だ。
 だから、どのみち、その仲間に違いない、
中世のタイ駒が、歩兵の他に、”と金”も同
時出土すれば、本ブログにとっては、誠にあ
りがたい事なのである。

実際のこの北部遺跡遺物は、その疑いも有り

そうだ。
 本ブログは、将棋史学会では無名なので、
”成り『と金』歩兵駒、タイより伝来論”を
駆逐してしまえば、日本の将棋のタイ伝来説
が、潰れるだろうと、

清水康ニ氏には、勘違いされているだけ

だと、本ブログでは考える。
 なおこの論文では、現在の”成りビアガイ
ビア駒”が、15世紀の北タイ遺跡には無く、
成りを、ひっくり返し方式では表現出来ない
と、清水氏は、現象論を述べるだけに、留め
ている。”タイ起源説は潰れた”と言うのは、
この論文だけ読んだ限りでは、”取り巻きが
主張しているだけ”のように見えるように、
清水氏自身が、訂正しているようだ。
 他方、発端となった木村義徳氏の論には、
とり捨てルールだと、立体駒で成り金将駒、
または”と金”をたくさん作って控えて置き、
三段目に達して成らせたい時に、取替え方式
にすれば元駒を問題にしないので、それでも
良いという

論筋の、”見落とし”が、本ブログの見解で
は、存在する事になっている

のである。繰り返すと、
日本で、『成り”と金”歩兵駒』が発明され
たと見る本ブログでは、タイの中世駒は歩兵

(ビア)と、と金(ビアガイ)が、別個体な
らむしろ、発明日本人説論法とは、よく合う

ので、結構な事なのである。
 他の2箇所の遺跡のうちの、残りの古いほ
うの個人コレクション(?)遺物についても、
小ぶりの頭に角のある、四角の”大臣駒”が、
多少余分に作られていて、それが”と金”と、
もしかすると”金将=大臣”として、どちら
にも使うのかもしれないと思う。この個人所
蔵(?)遺物に関しては、本ブログの主張す
る、単純交換方式を、サイコロ型のビアから、
ビアガイにするには、直方体で角のある、
大臣を、ビアガイとして使って、取り替えな
ければならない、やりかたである事を示すの
かもしれないと、私には疑われた。
 なお立方体のような遺物を兵駒と、この論
文で、清水氏は、慎重に言っていると、私は
理解する。私は、厳密に

このサイコロのような駒は、ひっくり返して
も形が同じなので、ビアガイとして使えない

と思う。なお残りの円筒形の不明駒は、高さ/
底面円半径比の如何に係わらず、今の所、
車駒とみなさないと、わけが判らないように、
私には見えた。
 そして残りの、15世紀すぎ成立の、博物
館の兵なし将棋駒セットは、歩兵/と金兼用
の日本将棋駒方式であり、その際の歩兵駒は、
使うと適当に廃棄したので、博物館遺物駒の
セットからは失われているという、増川論法
で、一応合っているのかもしれないと思う。
 ようするにタイ民族は、マークルックを指
すとき

”と金(ビアガイ)”専用駒をも苦心して、
作って使う事も、12世頃より16世紀頃に
は、時々有った

と疑おうと思えば、疑う事もできそうな駒セッ
トも2箇所ある。そしてその遺物セットのう
ちの、15世紀の北部の出土遺物の中の駒が、
本当はビアガイなのに、ビアと勘違いされた
結果、ひっくり返しては、起き上がりコボシ
型なので、使えないと、清水氏に主張されて
いると見られる。この部分が、かなり大きく、
情報として、将棋史界に流布しているらしい
という事が、私にもだんだんに、つかめて来
たという事のようだ。
 そのうちタイ人は、山田長政等に教わって、
起き上がりコボシの、頭の平らで底が重く無
いのを作るか、貝で代用して、成ると交換し
ないで、元の物品をひっくり返すように、なっ
たのだろう。そうして博物館駒が、出土した
とみても、個別、遺跡によって、出方のパター
ンがバラバラなので、本当は、それで良いの
かもしれないと、私には見えた。
 何れにしても小ぶりの、いかにも日本将棋
で言う、歩兵駒だと断定出来るものが、現象
として

タイの象棋遺物には割合が有意に少ないので、
どう論を組み立てても、はっきりしない結果
になるように見える

のは残念な事だ。以上のように、今の所私は
感じているのは確かである。(2019/11/05)

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橿原考古学研究所清水康ニ論文に穴開き象棋駒(長さん)

さいきんweb上で、”明治大学大学院文学
研究科 2016年 博士学位請求論文”
(たぶん、次が題で)”東アジア盤上遊戯史
研究”というpdfファイルを発見した。
「東アジア」と「盤上遊戯史」、「遊戯史」
と「研究」の間に、それぞれ、”の”は無い。
”の”が無いと、副題のように見えるから、
日本語は不思議だ。それはともかくとして。
 3年前のものだが『庶民の遊戯である将棋』
考・・で始まる論文とは、一部に内容の転記
があるかもしれないが、別物だった。著者は、
言うまでも無く、将棋史では著名な、
橿原考古学研究所の清水康ニ氏である。
 内容を読み、最初の方で気がついたのが、
表題の中国大陸での、シャンチー出土駒の、
”穴”である。結論を言うと、清水氏の

”貨幣と対応する”と言う指摘は、見事

という他は無いと私も思う。
 どうやら宋代前後の中国人は、青銅製の
シャンチー駒を、貴金属製の高価な駒と、
見立てていたようだ。
 これは清水氏の表現のように不思議で無く
て、北宋期には、晩唐の時代の

玄怪録の時代の記憶がまだ鮮明で、中国の
新興シャンチーを、黄金駒の雲南宝応将棋に
見立てていた

からだというのが、本ブログの見方である。
 以上が結論だが、ではもう少し説明する。
 シャンチー駒は、本来円筒形であり、穴が
空いていないが、遊戯場の跡よりも中国では、

宝を隠した秘密の穴のような所で、出土する

との旨を、清水康ニ氏は、表題の論文で指摘
している。
 囲碁のように、墓に埋葬した例はレアーケー
スで、

牛僧儒の玄怪録が、空想の話としても例外的

だとも、清水氏は言っている。正確な表現に
ついては、検索して、元のPDFで清水氏の
実際の言い回しを確認してもらうと、本ブロ
グとしては、ありがたい。
 以前に囲碁と天文道の関係を、本ブログで
は強調したが、将棋を墓に埋めないのが異常
なのではなくて、

囲碁が変なのであり、

天文道つまり、あの世の中国王朝と係わる
遊戯なので、死後と関係が有り、

他の物品とは違って、墓に選択的に埋める傾
向が有る

と見るのが、”本ブログの思考方式”である。
なお、牛僧儒の怪奇小説は、怪奇小説なので、
盤上遊戯という点で、同じカテゴリーなので、
物語上、将棋駒と盤を墓に埋めてみたのであ
ろう。
 それと違い、将棋には、雲南貴族の財宝の
イメージが、北宋の時代の中国には特に、
鮮明に残っていたのであろう。なお当時、
大理国は当然健在だ。
 特に加工が容易な、青銅製のシャンチー駒
は、使用中や使用後に、真ん中に穴を開けて、

貨幣に見立る

という事を、中国では盛んにしたようだ。更
に、戦乱が原因だろうと、清水氏は書いてい
るが、財宝を埋める秘密の穴に、本来なら、
金銭的価値が極端に、高いわけでもない、
将棋の駒を、財宝といっしょに、避難させた
という事らしい。
 日本では、玄怪録自体が、ずっと後世に、
後一条天皇の財宝駒とは、縁の無い庶民には
伝わったため、五角形駒が、代替だと言って
も、財宝よりも願掛け札に見えた。そのため
中国での象棋駒の、貨幣状物品への加工の習
慣は、日本ではマネられなかったようである。
 何れにしても、考古史料に普段から接して
いる研究者の目は、我々とは違うものだと、
清水氏の論題の論文を読んで、先ずは感心し
た。
 続いて、マークルック駒について、”兵が、
頭が平らで無いので、ひっくり返せない”と
いう話の後日に、何か判ったのかどうか。
この論文を、更に読み進める事にした。
(2019/11/04)

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旧暦モドキを作成し、定朔のたいへんさを実感(長さん)

本ブログでは、南詔で囲碁が打たれず、
出来のよいゲームに対する目が失われたのは、
定朔の暦への移行が原因。日本で飛鳥京から、
碁石が出土するのは、負けずに定朔の暦法に
対応したためであると、これまで主張して来
た。囲碁のゲームとしての出来の良さとの
落差から、将棋は敬遠され、

西暦700年から西暦1000年の間には、
わが国に将棋は無い

というのが、本ブログのテーマにとっては、
大事な推論の筋道である。
 今回は、太陰太陽暦をざっとだが、実際に
作成し、平朔から定朔にするのはしんどいの
を、身をもって体験してみた。結論だが、

朔の日が判ってさえいれば、太陰太陽暦の
作成は楽勝

である事が判った。では、以下に論を続ける。
 回帰年が365.2422日(現行約2000年
で、0.0001位減るが、webによると、3万年
後位から、朔望月の増加分を、一気に取り戻
すらしいが定かでない。)、平均朔望月が、
29.530593日なのは、それだけの事であり、
それは判っているとする。
 次に、章法に近い暦を作るため、メトン周期
に関する知識は上の事から、既知とする。
235朔望月が19回帰年に近いという意味で
ある。
 そこで、元期を何処にするのか、考えた。
webに、2014年が朔旦冬至だったと出て
いた。
 そこで、2014年の冬に閏を入れ、その前
は2012年の春最初の閏として。
2011年を新太陰暦モドキの元期(0年)に
すれば良い事は、ただちに判った。
2012年の年初3月に閏を入れて、西暦
2012年を、この暦の元年とし、2014年
冬の12月に閏を入れる、次は西暦2017年
の秋の9月である。そうすると11季節ごとの
閏を、規則正しく繰り替えす、

中世以降の従来の中国流、太陰太陽暦によら
ない、規則的な閏月規則に最初からして、この
旧暦モドキの特徴になる暦にする

事にした。こうすると、中気で、月名が決ま
らないかわりに、

西暦2033年問題が発生しない。
だから、この暦は、日本の今に伝わる旧暦よ
り、優れている事は明らか

だ。
 具体的な規則は、今述べたとおり閏は3月、
6月、9月、12月の4通りしか無く、
章法(メトン周期)を満たすように、

3カ月ごとの季節数でかぞえて、

間隔が、
11、11,11,11,11,11,10
と繰りかえして、最初の季節の中央の月に、
閏を入れ、19回帰年に7閏月になるように、
する事にした。
 次に、破章法処理だが。
まず、西暦2600年12月には11、11,
11,11,11,11,10のパターンの、
最後の10の最初のシーズン月に、閏月が
存在して、周期が終わるところのはずである。
次に西暦の2601年の、この暦の3月に、
本来なら、新しい周期の最初の閏があるはず
だ。が、それを6月の次に一つズラし、6月閏
に変える。つまり、次の11シーズンは、始ま
りが本来西暦2601年の、2月に元々なら
有ったはずなのだが、3か月ずれて、
5月開始になるのである。つまり上のパター
ンを、
11、11,11,11,11,11,11
に、1箇所だけ、

ほんの僅かに

西暦2011年の589年後に、変えるとい
う意味である。
 その後、西暦3201年、3801年、
4401年と600年ごとに、この暦の、そ
の年のこの暦の暫定年初から見て、10の次
の、初11シーズンの本来の挿入予定閏月
(11か月単位が始まる初日より、1朔望月後)
の月初に、日数が最も近い方のどちらかの閏を、
11,11,11,11,11、11、10
のパターンの最後の、本来なら10シーズン
であるはずの、終わりシーズンの次に、1シー
ズン入れたのちに、次の11、11,11,11,
11、11、10シーズンの初め閏パターンを開始
して、閏月位置を1シーズンずらす。つまり
結果として、パターンを、
11、11,11,11,11,11,11
に、1箇所だけ変わるようにする。こうする
事で、回帰年が、365.2422日にほぼ、
ぴったりとなる。つまり

平均して600年に一度、10→11に変更
するというやり方

である。
 どのみちグレゴリオ暦と暦年差は、一定で
2011であり、3000年に1日の精度で、
いっしょになるので、グレゴリオ暦で言って
も、この暦の年数で言っても、以上のように、
以降、だいたい

608年、589年、608年、・・
というパターンで、閏の置き方が、僅かに
長くなるようにして、メトン周期の誤差を、
吸収する、一種の破章法を取る事にしている

という事になる。なお、この暦を形式的に
辿ると、前回の10→11変更は西暦
1992年の、この暦の12月に当たる部分
の次への閏12月の挿入を、1993年の、
この暦の3月に当たる部分の次への、春の閏
月への挿入へ、変更したイベントであった。
 今回の工夫は、ここが事実上の、考えどこ
ろの中心点だった。これは、本ブログのやり
方が、
365.2422×45619年=16661983.・・
29.53059×564228=16661985.・・
となり、45619年に2日は、0と見なせ
る誤差だという理屈を、根拠としているとい
う事である。なお通常の中国暦では、
1000年より長い、共通分母は探した暦法
は、余り無い。
 つまり、45600年を564000月と
して、本来なら45600年の12倍は、
547200なので、16800閏を入れた
上で、余剰の19年を、1年を朔望12か月
の228カ月と、短くするというのは、
600年に一度つまり45600年に76回、
閏の全く無い3カ月(1シーズン)を足すと
いう意味である。
 ちなみに今はグレゴリオ暦の2019年だ
が、この暦の元期では第8年である。
 次に、朔日は日本の明石天文台を基準にし、
朔の瞬間の入る日を1日とした。

この計算が無いと、どうなるかが、今回の
論のポイント

である。
 ついで、月名の決め方だが、
中国の周よりあとの暦の、虎月正月は止めて、
グレゴリオ暦に近い、牛月正月にした。

だから普通の旧暦のように、月遅れでは無い。

つまり、朔旦冬至の月は、普通の天保暦では
11月だが、

ここでは、クリスマスの12月

である。ただし10日位、グレゴリオ暦より
もまだ遅い。
 この牛月正月の方が、陰陽道や五行を理解
するときに、時刻制度との関連で、むしろ混
乱が少ない事は、前に本ブログでは述べた。

だから、今回作った暦は、旧暦と1カ月づつ
だいたいズレ、グレゴリオ暦に近い。

ちなみに、本日は2019年11月03日だ
が、この暦では、晩秋11月の7日の月と、
表現される日になる。
 これで、来年(西暦2020年、本暦第9
年)の暦を作ると、グレゴリオ暦の日付と、
本暦のツイタチは、次のように対応する。
西暦2020年   朔(01日の月)日
寒冬の月(第01月) 2019年12月26日
早春の月(第02月) 01月25日
中春の月(第03月) 02月24日
盛春の月(第04月) 03月24日
初夏の月(第05月) 04月23日
紫陽花月(第06月) 05月23日
夏の閏月(第06月閏)06月21日(閏月夏至)
熱夏の月(第07月) 07月21日
暦秋の月(第08月) 08月19日
仲秋の月(第09月) 09月17日
盛秋の月(第10月) 10月17日
晩秋の月(第11月) 11月15日
師走の月(第12月) 12月15日
寒冬の月(第01月) 2021年01月13日
 なお、普及している”旧暦”とは、月名
が1カ月づつ、ずれているのは、今述べた
通りだが、閏月も、入れ方がこのやり方は、
機械的なので、1月分ヅレて、遅く入って
いる。数百年経つと、早く入れすぎるよう
になるので、今はこれでちょうど良いので
ある。
 そこで、既存の旧暦と、張り合いたくな
いため、月名は、頭に示したようなパター
ンが良いように思う。暫定的に入れてみた
が、もっと良い名前が有れば、変えるべき
だろう。
 日名も、カレンダーであるというよりは、

月の形を把握する道具である事を強調し、

次のように、表現すると良いように思えた。
01日~10日:ツイタチ、2日月、3日月、
4日月、・・9日月、トオカ月。
11日~19日:11夜、12夜、13夜、
・・、18夜、19夜
20日~29日:ハツカ月、ニジュウイチ
ニチ月、22日月、23日月、・・・
28日月、29日月(場合により、ツゴモリ)
30日:(ツゴモリ、またはミソカ)。
以上のように言う事を、推薦する事とする。
 以上だが作ってみて、太陰太陽暦の製作は

朔日(時間で分の精度)の、国立天文台の
暦計算室作成のリストがありさえすれば、
ごく簡単だ

と、しみじみ感じられた。
 ”朔日は各々で、天体観測して、三体問題
を解いて、月の黄経不均の最初の5項の周期、
振幅、元期位は自分達で決めろ”と、唐王朝
の暦担当者に、仮に意地悪を言われたら、

南詔国の暦博士は、定朔に、する事自体の
やる気を失ったのは、自明

だと考えるのは、ごく自然だと思われた。
 なおその他、予めケプラーの方程式を解い
て、地球の近点角を求めておく必要もある。
 そもそも、更にはその前に、三角関数表を
自分で作らなければならず、それは借りると
すれば、何かを見て答えを出しているという
点では、日本の国立天文台暦計算室の数値デー
タを見ているのと、本質的にいっしょだ。
 日本のように、なんとか、唐代の暦法には
ついてゆけるが、百済の命運が危なそうだ
から、自分でも考えるという意識ならば、

下級役人の尻を叩いて、囲碁の勉強をさせな
がら、日本の朝廷のように、定朔に変えると
言う事は、日食が怖ければ有った

のかもしれない。しかし、中国雲南では、
それも無かった。つまりは、

唐王朝期の、暦の定朔への移行時の民族間の
対応の差が、西暦1000年までは、別の所
で指されていて、日本では将棋として普及し
なかったという運命を、予め決めていた

と考えて良いのではないか。
 以上のテストから、私にはそう、推定され
たのである。
 なお流星学の方でも著名だが。上に述べた
定朔にするための計算方法の普及等、暦学
との関連でも知られる、元国立天文台の職員
で、東京都在住の長沢工博士が、西暦
2019年10月28日、(本暦の第8年、
晩秋11月のツイタチ朔日)に他界された。
私のような者にも、娘さん作の、イラスト入
り年賀状を、毎年送って頂いていた。謹んで
御冥福を祈るとともに、近々、御自宅へ線香
を上げに行こうかと考えている。(2019/11/03)

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雲南イ族の古暦の一。太陰太陽暦は平朔法(長さん)

サイトの正体が不明だが、古暦に関するアプリ
ケーションソフトを紹介しているような所が、
web上に有る。中国雲南の南詔国の王族”蒙
氏”の種族だったとされる、イ族に、

10カ月、18カ月制の太陽暦のほか、
太陰太陽暦が残されているとの旨の、一覧表

”WHEN.EXE Ver2.081でサポートする暦の一覧表”
なるものである。1999年版のようなので、
間もなくweb上から、消失してしまうかもし
れない。ともあれそれによると、後者の
中国雲南イ族の古暦の太陰太陽暦は、中国古代、
唐暦と違い、

平朔法

だと言う事である。

エイチティティピー://www.asahi-net.or.jp/~dd6t-sg/when/catalog.html

同じサイトの別のページに、中国のだとみられ
るが、元文献のリストもある。ただし、私の
PCでは、中国の漢字が表示されず、残念なが
ら、情報の出所の詳細が不明である。
 恐らく以前に、中国で調査された結果を、示
しているのであろう。
 一応正しい情報だとすると、

南詔国では、朔日を実際に厳密にあわせるのを、
唐暦の時代に諦めたとする、本ブログの推定に、
一応理がある

情報のようである。
 なお、中国国内関連では、チベットでは、
定朔の古暦が使われているらしい。吐蕃国の
文化レベルは、やはり唐王朝に、近かったと
見られる。なお他には、少数民族固有
の作暦による、中華人民共和国内での根本的な
暦法の分裂は、上のサイトには紹介されて居無
い。その他近隣国では、ミャンマー、アラカン、
タイ、ラオスの古暦が、平朔であるという紹介
が有る。
 以上の事から雲南では、定朔の暦に付いてゆ
く為の天文道が衰微し、囲碁から遠ざかり、
その結果、

ゲームの出来の良し悪しを見抜く目が失われて、
出来の良くないインド二人制古チャトランガ系、
自陣3段組将棋(後の日本の”はさみ将棋より
は、少しマシな”平安小将棋ゲーム、11世紀~
13世紀の類)が逐次唐代の8世紀に侵入した

疑いが、やはりかなり有るように私には思えた。
(2019/11/02)

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