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朝鮮半島の古囲碁”巡将碁”の囲碁盤は地理図(長さん)

本ブログでは、囲碁盤のモデルは、メルカトル
図法で表現した半天恒星図と述べている。この
考えは、現在の国際試合ルールの碁、日本の碁、
中国古代の碁については正しい。なぜなら、

碁石を最後まで動かさず、星座の形が保たれる

からである。アゲハマを使って勝敗を決定する
という内容だが、これは領地の計算をすばやく
するための、計算方法の工夫の意味に過ぎない
ように私には見える。
 国際試合ルールのように、境界線の石と内部
の地を数えているのと、対局中に白・黒置石が、
偶数手で止めれば同数である事を使って、アゲ
ハマで後集計している日本方式等は、

本質的に石形を特に変形させようとしていない
という点で、互いにいっしょのゲーム種

のように門外漢の私には見えると言う事である。
 それに対して、表題の朝鮮半島の古囲碁、巡
将碁は、

ゲームの目的が、微妙に違う。

”閉領域を作り、石に囲まれた地の目数が、結
果としてより多くなった方が、勝ちというもの
だからである。

投了後に石形を変形して飛び地が複数有る、地
上の領土のような形にする事を前提にしている

ので、日本の碁や中国の碁とは違うと私は思う。
 しかも、この巡将碁のゲームの目的(終端条
件)は、

囲碁盤を天文図というよりは地理図と見ている

とみられる。
 よって、このゲームが囲碁の始原だとすると、
本ブログの論に対して明らかに、

破壊的である。

では、朝鮮半島の巡将碁の、最後に閉鎖領域に
局面を作り変えるルールの存在で、

”囲碁盤は半天恒星図が元”との本ブログの、
これまでの論が、破壊されないのかどうか

を今回は、論題とする。
 回答を書く。

破壊されない。

朝鮮半島の巡将碁は、7世紀の

東大寺の正倉院の木画紫檀棊局が、最古の史料。

そのため、囲碁そのものの発生、遅くとも西暦
前100年より、

ずっと新しく、

巡将碁から少なくとも古代中国碁が分岐したと
は考えにくい。
 そのため本ブログの、囲碁が中国古代天文道・
暦道との間に強い相関があるとの説を、少なく
とも完全に破壊する要因になるとは考えにくい。
 では、以下に論を続ける。東大寺の正倉院の
”木画紫檀棊局の成立が、巡将碁の発生時期と、
いっしょである”という説も有り、

韓国の安玲二と日本囲碁の日本棋院所属の林裕、
日本の囲碁ライターの大島正雄

が、その説を採ると言う。一例では、NHK
出版、西暦2000年、”コミック 奥義秘伝
囲碁3000年”大島正雄等著で、大島正雄氏
自身が、その旨記載している。二番手史料は、
更に新しくなるのであろう。根拠は木画紫檀棊
局には特に、アゲハマを置く工夫が、見当たら
ないからのようである。
 従って巡将碁が、それより遡る事が出来ない
とすれば、今の所、

本ブログの囲碁盤の本質論と、露に矛盾する
情報では無い

と、結論せざるを得ないと、私は考える。
 よって巡将碁以前にも中国に囲碁が有り、日
本にも、飛鳥時代の藤原京から碁石が出土して
いる以上、囲碁盤は西暦前100年より中国で、
元々は半天恒星図だったが、新作ゲームとして、
囲碁盤を地理図と見るような、巡将碁が朝鮮半
島で、後から出来たと考えるのが自然。また、
これ以外に各国ルールのカテゴリーで、本ブロ
グの論を破壊する可能性の有る、要因が特に見
あたら無い。だとすれば、囲碁の各国ルール関
連で、囲碁・中国天文暦道強相関説と、露に矛
盾する史料・情報は、今の所存在しなようだと、
考えざるを得ないではないか。以上のように、
私は思うのである。(2019/12/11)

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徳島県徳島市近郊川西遺跡の不明駒”横行”か?(長さん)

前に何度も見た事があるのだが。西暦2009
年徳島市郊外の上八万町川西遺跡出土将棋駒は、
本横、金将、金将、不明の4枚だとされている。
たぶん、私は写真を何度も見ているはずだが、
このうち不明駒に、

薄く”(ツクリが)黄+行”と書いてあるよう
に見える

のを、最近発見した。同じ写真が何枚か、we
b上にあるはずだが。江戸東京博物館に展示さ
れた当時の写真で、下のURLの歴歩氏の
ブログ、2009-03-13 23:23:56に出ている。
この記事も、私は前にも見たように思う。

https://blog.goo.ne.jp/thetaoh

この後に、
/e/3033543e7d690388399f9d1c53bad14bを付け
ると、出てくるページの、先頭の方に写真がある
ようだ。

川西横行.gif

単に、私に読む気が無かったので、気がつかなかっ
ただけなのか。詳細は不明である。
 なお、川西大将棋は、本ブログによると、西暦
1230年前後の成立であり、自陣四段型の
平安大将棋に奔横と、飛車が入った将棋なため、
横行は有るのが当然とみられる。なお横行は、
傍らへ行く(走る)ため、本ブログの水無瀬兼成、
将棋纂図部類抄、中将棋部の末尾仲人解釈により、
平安大将棋では不成りと予想されている。また今
まで本ブログでは、不明駒は、大きさから、玉将類
かもしれないと見られていた。
 なお徳島市では最近、徳島城博物館にて将棋史
に関するイベントを行った。そこのサイトで、上
記の駒に関するトピック的な紹介は、特に公開さ
れていない。もし川西駒を4枚とも展示していた
とすれば、観覧者の誰か気が付く可能性が大きい
ため、最近のその展示会では、本横駒しか、展示
していなかったと推定される。(2019/12/10)

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中国古代官製天文道担当の囲碁用語の利用方法例(長さん)

本ブログでは、イスラムシャトランジ、インド
2人制古チャトランガ系ゲームが、日本に西暦
1015年までは流行らない理由として、囲碁
のゲーマーのゲームの出来に関する、目利きを
仮定している。更に、囲碁は中国古代の天文道
と強関連し、中国古代星座を使い暦法が中国式
である地域では、囲碁が盛んなはずだと仮定し
ている。つまり、中国古代暦法文化と、
イスラムシャトランジ、インド古代のチャトラ
ンガ等、西暦650年~西暦1015年頃の、
将棋様ゲームとは、特定の地域での、互いの存
在に関して

逆相関だという意味

である。
 中国古代の暦法は、月の視位置の中国星図上
座標の観測で、平朔から定朔型へ進展した事を
述べた。そして、中国の古代官製の天文観測家
は、恒星の天球上の位置を、囲碁基本用語を
使用して把握したが故に、中国暦天文道と、
ゲームとしての囲碁が、中国王朝時代の各国で
は、存在に関して強い正相関が出来たと述べた。
 更にその際、囲碁の基本用語を古代の天文家
が恒星位置の把握に転用した事は自明だろうと、
本ブログでは表現した。が、この点がやや判り
にくいので今回は、

例を作成してみたので紹介する。

以下は、中国宋代の星図、新儀象法要の、今様
の”きりん座”付近の星座とみられる、”八穀”
座の形である。なお判り難いが、右隣は、
カシオペア座付近である。

八穀宋星図.gif

この中国星座は、観測のときに、囲碁の基本的
用語の中の死活に関する、以下の”マガリ四目”
の黒石の形と表現されたであろうと、考えられる。

死活マガリ四目.gif

石の数と星の数が、上記両図で合わないが、

星図、新儀象法要の星座の形は略図

であろう。中国星図は、形が余り正確ではない
事が知られている。そこで、実際の星野に近い
星図である、中野繁著、広瀬秀雄監修の、
新標準星図(地人書館、西暦1967年。19
50年分点、実質的に東京天文台著作。医師、
中野繁氏の現在の居所、察知不能)を見てみる。

新標準星図.gif

以上のように、実際の星座は、一角に相手の白
石が食い込んで、14個に星が並んでいて、
囲碁の石の生き死にの基本形であるマガリ四目

と、形がぴたりと一致

している事が判る。なお、きりん座ガンマ星は、
肉眼的重星とみられる。また、この星座は特定
が難しく、異論が有ると見られる。ちなみに、
囲碁の用語では、14星で囲まれた中の領域に、
石は置かれて居無い状態のものを指す。実際の
星野では、相手がヤケになって、領域内の端に
ホウリコンだ石Aを、味方がBで取ってしまう
局面の所になっている。以上は、ほとんど碁は
出来ないので、他人から聞いて私は書いている。
つまりこの黒地は、生きているそうだ。

唐・宋代等の実際の天文観測官は、以上のよう
に、星の並びを表現した

のであろう。なお、月はきりん座は通らない。
 きりん座に、新星(客星)が現われる事も、
さほど無かったろう。が仮に、この並びの図の
N地点に新星が仮に現われたら、

それでもヤケになって、相手が更に石をホウリ
コンだ位置に客星が現れた

と、仲間の天文官に、申し送ったのであろう。
 以上のように、囲碁の用語は、今の八穀座の
例にもあるように、抽象的な中国星座を把握す
るのに、明らかに使用できるものである。
 今のは一例である。が、中国星座には、
かんむり座状の輪の形が多い。全天で9つ位
ある。これも、ナカデという、囲碁の生き死に
の基本形で、表現されるのではないかと思う。
 また、バツ印が多数書かれた星座もある。
これは私には自信が無いが、相手に石を取られ
ないように、斜めに連続して石を打つ、コスミ
戦法の一種に準え、表現するのではなかろうか。
 無論、歩天歌等、幾つかの星野表現は組み合
わせるのであろうが。囲碁の基本用語が、中国
星座を理解するのに、全く役立たないとは私に
は、到底思えないのである。(2019/12/09)

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日本人は中国雲南省が牛の国なのを何で知ったか(長さん)

本ブログによれば、後期大将棋等の猛牛は、
牛の国と、牛相撲のタケル牛とのひっかけと
いう事になっている。後者については、思い
つくのは自明だが、前者については、そう
だとすると、当然

中国雲南省が、牛の多い地域の小国家、
牛の居るムアンの群であるという事が、元代
13世紀に、日本人には知られていなければ
ならない

事になる。西暦1250年~1300年には、
日本と元王朝との間で、交易があったが、交
流は敵対国家間なために、新安沖沈没船の船
員のように、いつも上陸して、自由に見聞が
出来たのかどうか、不明な状態だったとみら
れる。にも係わらず、もとの大理国の領域、
すなわち中国雲南省に牛の国がある事を、何
で知ったのか。またそこから、本ブログによ
れば、将棋の伝来元にひっかけて、大将棋の
牛駒を、猛牛という名称にできたのか。
 また猛牛駒は、中将棋が発生したとき頃に
成立したとみられる、猛豹、悪狼、猫叉の
西暦1320年頃成立の約70年前、西暦
1250年頃と見て、本当に間違いが無いの
かを、今回は論題とする。回答から書く。

間違いないとみられる。
平安時代末期までに、中国より唐物書籍の
一つとして、『太平寰(かん)宇記』

が入っていて、その書籍の雲南省記載部分か
らの情報で、タイ族のムアンで、牛が名物な
のを知ったとみられる。
 では、以下に論を続ける。
 本ブログによれば、西暦1260年時点の
大将棋の2段目配列は、
反車、飛龍、嗔猪、猛牛、猛虎、空升、酔象、
空升、猛虎、猛牛、嗔猪、飛龍、反車の、以
上13枚という事になっている。このうち、
飛龍、嗔猪、猛牛、猛虎、の4枚のうちの2
枚、飛龍と猛虎は、西暦1300年までの、
二中歴の成立期までに成立。反車も、行き所
が不明確なので、奔車を変えたものであり、
基本的に飛車が加わった、鎌倉時代初期、西
暦1230年頃の成立と、ここでは見ている。
 それに対して嗔猪と猛牛は、この中ではよ
り遅く、成立は西暦1250年頃と見ている。
少し前に、酔象が復活して、元々そこに有っ
た横行を3段目の端から2列目へ、追いやっ
た後との見解である。
 しかしながら、後期大将棋の、悪狼、猫叉
は、西暦1320年頃の、鎌倉末期に悪党が
跋扈した時代の成立。猛豹も、本ブログの認
識では、猛将の洒落であり、同じく西暦13
20年以降成立と見て、更に遅くなっている。
 嗔猪は、普通唱導集の大将棋の唱導唄第2
節に、仲人等と組で現われ、1300年頃初
出なので、万葉集の嗔猪(いかりい)からだ
と、私は思うが問題は無い。唄われて居無い、

猛牛だけが、問題

になるのである。傍証としては、十二支有り
の別尊曼荼羅の大威徳明王図と、配列が対応
するのが見えているので、牛駒が入る所まで
は、尤もらしいというのが、本ブログの、
これまでの説明だった。
 しかし、雲南省から日本の将棋が来た事に
ちなんで猛を付けて、猛牛にしたと言うには、
雲南省にタイ族のムアン(猛、正確にはイ族
漢字で孟ヘンに力)が有り、そこに牛が特産
品として存在するという、

世界地理の知識が必要

である。問題はよって、当時の日本人に、
中国雲南省の白衣蛮居住区付近に関する地理
的知識が、有ったのかどうかという事になる。
 そこで本ブログでは、少なくとも日本で
11世紀から12世紀にかけては、

はぶりが良いので、唐物として北宋・南宋の
書籍は、中国からどんどん輸入していた

という事実に着目した。
 根拠としては、

日本にしか、太平御覧の1000巻のうちの、
945巻が現実、世界の何処にも残っていな
かった

という事実が挙げられる。また本ブログでは、
平安大将棋は、太平広記の、玄怪録『岑順』
が、西暦1110年頃、日本の陰陽寮で参照
された結果の、横行の2段目中央配列なのだ
ろうという事になっている。つまり、日本に
太平御覧の945/1000巻、太平広記も
相当巻ある事が推定できるから、同時代の
太平寰(かん)宇記の200巻中の、中国雲
南に関する、南蛮夷の記載が、日本へ唐物と
して輸入された、書籍の中に当時から在ると
見て自然だと言う事になるのである。
 恐らく太平寰(かん)宇記は、12世紀の
中頃までには、日本に有ったのであろう。日
本の朝廷等では、一頭から肉が、600キロ
グラムもとれる牛が、雲南省にはそこらじゅ
うにざらに居るというような

話は、平安時代末期までには、知られていた

と言う意味である。
 だから、猛牛という駒は、もし必要なら、
実際に作られたとみられる、西暦1250年
の、約100年前であっても、平安時代の
高級貴族層レベルならば、日本の将棋の伝来
元が、少なくとも本ブログによれば、中国の
雲南の、大理国王侯貴族である事にひっかけ
て、必要な牛駒に猛牛と命名する事は、充分
に可能だったはずである。
 以上のように、私には猛牛という駒は、
中国北宋時代の唐物貴重書”太平”シリーズ
の一つ、地理・民族事典書『太平寰(かん)
宇記』の中の、雲南省の大理国周辺の、地理・
少数民族に関する知識がもとだと、思えるの
である。(2019/12/08)

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観光施設”天龍八部城”に雲南史料が匂う囲碁盤(長さん)

中国雲南省の大理市に、西暦2003年に完成
したという、テレビ映画のロケ地にちなんだ、
観光用の城”天龍八部城”がある。そしてその
”大理王宮館エリア”との旨の屋外等に、囲碁
盤の壊れた形を造形にしたモニュメントがある。
またそれとは別に、19路聖目無しの囲碁盤の
展示物、詰め碁のモニュメント等が有ると言う
事である。
 これらの紹介は、web以下のurlの、”
たくせん氏のブログ”の西暦2019年08月
01日のページ、2009年09月07日のペー
ジ等にある。
エイチティティピー://takusen2.seesaa.net/
 ネットで調べてみれば直ぐに判るが、
”天龍八部”というのは、中国の今世紀初め頃
放映されたテレビの時代劇シリーズの事である。
 雲南省の大理市郊外に、映画ロケ地のテーマ
パークとして、娯楽施設が近年出来、観光客が
訪れている場所の、以上は造形物の話である。
 そのテレビ時代劇シリーズの中で”宋代大理
国の時代に、大理国の貴族も囲碁を打つ”とい
うシーンが、

一回出て来るそうだ。

私が知る限り、中国雲南省付近に大理国の時代、
囲碁が存在した、唯一の証拠(?)である。
 なお、中国雲南省大理市の天龍八部城は、そ
の天龍八部という時代劇全体に因んだものであ
る。だから、映画の中にはこれとは別、設定が

7世紀の”武媚娘傳奇の碁”という一幕が有る

らしい。こちらは雲南省の話ではない。後者
については、前記たくせん氏の詳しい解説があ
る。碁笥の置き方が左右逆。4子の置き碁が無
い等、たくせん氏のこのシーンに関するチェッ
クは手厳しい。この場面に出てくる囲碁盤につ
いては、更に

聖目が9星だが、7世紀の中国なら4子前置き
しやすいように、5星が今のところ正しいであ
ろう

と、本ブログでも追撃を加えておこう。
 なお、たくせん氏は、日本人のようである。

よって、大理国の貴族が囲碁を打ったという話
も、充分な時代考証をした上での話では無い

と、特定される。なお、たくせん氏も、役者の
碁の打ち回しが尤もらしかったと褒めているが、
”大理国貴族が、宋代に打ったはずの碁”の
歴史的内容について、特に言及は無い。
 また雲南省の観光施設”天龍八部城”には、
雲南の城の館等が有る。その近くの庭に、囲碁
のモニュメント等が有るらしいが、それらを置
く等に当って、大理国で囲碁が宋代に打たれた
史料が、実際にあるかどうか等との旨の、

雲南省博物館の指導等は、映画の時代考証の
レベルの低さから見ても、どうやら無かった

事が推定できる。なおそれより少し手前の所に
”詰め囲碁のモニュメント”と、女流棋士の
来訪記念碑があるという事だ。また屋外の囲碁
盤破片モニュメントの傍に建つ館、その中には
別の小型の碁盤、以上があるらしい。これらに
ついても前記たくせん氏のブログで、写真や、
内容が紹介されていた。
 野外の壊れた囲碁盤モニュメントが最も有名
なようであり、別の中国人の観光客が撮った写
真も、web上に何枚か出ている。
 特に屋内展示品については元史料の存在を、
今回の本ブログの表題のように匂わせている。
この囲碁盤は実物大で19路で、聖目は無い。
これがどんな出土史料と、実対応するのか、

私には、別のページで調べても確認できない。

察するに、近年大理市付近に、囲碁具の製造メー
カーが進出したので、このようなものが存在す
るのではないかと、私には疑われる。
 以上のことから、囲碁が雲南省に宋代の大理
国時代にあったとする物的証拠は、今の所こう
した、近代の観光用のモニュメント程度しか、
無いらしいと判る。
 雲南省の観光施設での、モニュメント類の内
容からみて、そこには

北宋の頃に、雲南省大理市付近に囲碁が有った
のか、無かったのかという点に関して、意味の
有る情報が含まれないようだ。

以上のように、たくせん氏の、番組ロケ記念施
設”天龍八部城”に関する彼のブログでの解説
から、私にもようやく状況の理解が、できるよ
うになってきた。囲碁の強い方が、実際に雲南
省大理市を訪れた記録が、web上に有る事は、
とてもありがたい事だと思う。(2019/12/07)

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明代”葉子戯”と、本ブログ普通唱導集大将棋(長さん)

本ブログの普通唱導集大将棋の初期配列の特徴
は、自陣4段配列で、駒がびっしりに並ぶとい
う点にある。前から、トランプの7並べを、私
は連想していたが。トランプの起源について、
正直これまで調べた事が無かった。どうせ

西洋起源だろうと思っていたが、中国らしい。

表題の明代”葉子戯”の中に、スペード、ハー
ト、クラブ、ダイヤではないが、4スードある
ものがあり、それが西洋に渡って、トランプに
なったという説が、比較的有力だと言うのであ
る。さらに、その柄のモデルは、数字は連番の
ものが多いので全部ではないが、多分ジャック、
クイーン、キングに当る3枚が、百、千、万、
となっているスードもあるからだろう。これら
が、元王朝時代の紙幣がモデルだとの話を、
増川宏一氏等が、紹介しているらしい。
 なお明代”葉子戯”は通常1組40枚らしい。
 普通唱導集大将棋(本ブログ版)は、片方の
プレーヤーの駒数が108枚の1/2で54枚。
仲人が、中央(0位置)から袖に向かって3番
目の角行の2つ前の升目に有るので、それを除
くと、トランプのジョーカーを除く枚数と同じ
く、52枚になっている。並べ方が、特定のスー
ドが13枚づつ有る、トランプと同じなので、
7並べをすると、同じ縦横配列になる。なお、
花札・カルタよりも、トランプの方が始原的と、
私は聞いている。
 駒字は言うまでもなく、将棋駒に書いてある
のだが。仮に、盤の初期配列で、各将棋の駒が
置いてある升目に名前を転記して、駒を取り去
ると、

字がびっしり並んでいるという点で、
絵すごろくに、少し似た感じにもなる。

ちなみに、明より少し前の唐・宋の時代の
”葉子戯”は、そういった感じの、出世絵双六
だったのではないかと、考えられているようだ。
 唐・宋の並んだ絵双六の字を切り取って、カー
ドにしたのが、明代の”葉子戯”のデザインの
元らしい。
 書いてある字の内容は、大将棋とトランプの
7並べとで、

最下段の駒の行き所数は別にして

ほぼ無関係だが。
 トランプは直ぐ近くの国の、日本の中世が起
源の説があるとは。今まで私は、うっかりして
いたものだと、恐れ入った。(2019/12/06)

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南宋三国象棋よりシャンチーの疑いは晴れないか(長さん)

本ブログでは、西暦1200年前後に、
中国シャンチーは、日本へ自然漂着した。
が、日本人は、シャンチーの帥・将軍は、
唐連合と任那の戦いを表現していると考え、
警戒して指さなかったと推定している。
 だが、中国象棋の歴史書によるとその時
代、三国象棋が有って、中国象棋は、

中国国内の戦争を模したものであるとの示
唆がある

とされている。三国象棋が魏、蜀、呉の3
軍である事は明らかなので、その類推から、
日本人が、中国シャンチーは、漢と楚の争
いだと

考え直して受け入れる事は本当に無かった

のかを、今回は論題とする。
 回答を書く。西暦1200年頃南宋から
三国象棋の情報は、朝廷には入った可能性
はある。がそれでシャンチーのイメージは

変わらなかったので、象棋は指さなかった。
娯楽小説の中に出てきた、架空のゲーム

と考えられたとみられる。
 では、以下に論を進める。
本ブログにとって今の所、岡野伸氏の自費
出版書”中国の諸将棋”が、南宋時代の方
の、三国将棋についての情報の、全てであ
る。それによると、元出典は以下の通り。
まず①南宋の晁公武が著した”郡斎読書誌”
の15巻の中の1巻を使って、”三国図格”
という表題で、三国象棋(南宋版)を、
紹介しているとの事である。また、②南宋
時代の陳振孫が著した”直斎書録解題”
の第14巻に”三象戯図”を載せているそ
うである。
 以上の事から、

②”直斎書録解題”は、単に初期配列図が
あるだけ。

①”三国図格”は、歴史小説等の中で、
三国象棋の話を、単に登場させただけのも
のの、更に解説書と書名からは推定される。
 私は原書に当って居無いが、朝鮮チャン
ギのように、”郡斎読書誌”の中に紹介さ
れた”三国図格”で、玉駒が魏・蜀・呉と
表現されていて、現中国シャンチーの、”
漢界楚河”を、連想させているかどうかは、

かなり疑わしい

と私は思う。
 漫画”こちら亀有公園前派出所”の四人将
棋のパターンといっしょで、娯楽小説等の
中で、三人象棋が、キャラクターとして出
てくるというのが、①と②で共通な感じが、
私にはする。

実際に存在するゲームという感覚が乏しい

のではないだろうか。玉駒も、岡野伸氏が
所蔵している、国名が七国将棋の玉駒のパ
ターンとなる魏、蜀、呉ではなくて、原書
では曹操、劉備、孫権等と、紹介されてい
るのかもしれないと、私は疑う。よって、
少なくとも、出典からみて、これらの原書
を見た、日本の朝廷の貴族が、

中国シャンチーのモデルは、唐/倭の戦い
ではなくて、漢/楚の戦い等であると考え
直す事は無かった

のではないかと疑われる。
 それに加えて、少なくとも岡野伸氏の
著書の、南宋版三国象棋の図を見る限り、
中間の三角升目領域で、兵卒と馬がどうい
う、駒の動かし方ルールになるのか、少な
くとも私にはよく判らない。ので、

こんなゲームはあるはずが無い

と私には思える。
 よって以上の事から、南宋時代の中国の
三国象棋は、清朝時代の三友象棋とは異な
り、単に紙に書いただけの、象棋ゲームの
作り話、なのではないだろうか。
 だから、唐物の蔵書が潤沢な日本にも、
”郡斎読書誌”も”直斎書録解題”も、
西暦1200年頃には輸入されていて、
少なくとも平安末期から鎌倉草創期の貴族
には、中国シャンチーの変形として、三国
時代の中国を模した、象棋の話があるとい
う事が判ったのかもしれない。しかしそう
だとしても、そのようなゲームを頭の中で、
実際には無いのに、有るかのように考える
事は、中国人にでも日本人にでも

空想としては自由に出来る。ので、実際に
中国に存在する、軍事の色の濃いと疑われ
た中国シャンチーの現実的用途とは無関係

と、日本人全体への影響力の強い、知識階
級に、はねつけられた疑いが、強いのでは
なかろうか。以上のようにやはり私には、
疑われるのである。(2019/12/05)

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江戸時代の屋根板の将棋駒名墨書(長さん)

将棋駒は、太宰府の木簡等の例は除けば、1枚
づつ、バラバラに出るので、初期配列に関する
情報が欠けている。しかし、将棋の配列図が、
落書きで書かれて残る例は、探せば有りそうだ。
 以下は、福井県文書館の下のページに有る
もので、18世紀の将棋の最下段の初期配列が、
今と同じである事を示している。

福井県文書館 収蔵資料紹介 これまでの展示
2015年(平成27)7・8月。福井の春日
神社の屋根板(江戸時代、西暦1774年成立)

実は、この板には、疫病と大火の記録が、この
裏側に記載されていて、そちらの方が貴重だと
されているようだ。このwebの将棋駒名に、
福井県が注目している様子は、余り無い。情報
という無体物の価値については、有体物に比べ
て、まだまだ注視されない傾向が、存在すると
いう事かもしれない。

福井春日神社屋根板.gif

なお、一番下のはわかりにくいが、たぶん銀将
と書いて、出来が悪いので消したつもりなので
あろう。
 18世紀には、日本将棋なのは自明だから、
この板自体には、大きな価値は無い。しかし、
今でも江戸時代程度の屋根が、神社に残ってい
る例があるらしく、将棋駒自体ではなくて、屋
根板なために、駒名が一つだけでおしまいとは、
限らない事がありそうだ。
 もっと古い例が福井県等に仮にあるとしたら、
言うまでも無いが、とんでもなく貴重な史料が、
埋もれていた事に、もしかするとなるのかもし
れない。何と言っても福井県は、出土駒の名産
地だからだ。(2019/12/04)

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囲碁盤。17路→19路変更を指導したのは誰(長さん)

まだ一部の研究者の間だけのようだが。現在
では定説の、中国での囲碁盤の路数変更に関
して、指揮者が居るという説がある。具体的
にそれは、公的権力に属する者と、考えられ
ているようだ。詳しくは西暦2017年出の、
清水康二氏の明治大学学位論文で、引用され
ている。本ブログの情報は、その孫引きだ。
 今回は、この点に関する本ブログの立場を
明らかにしたい。結論から述べる。
 本ブログでも、囲碁盤が、現行のように
19路になった点に関して

指揮者は居たと考える。

しかし公的権力、たとえば王朝国立天文台の
広報普及室等の担当の活動は、参入したのが
後発であって、唐代等の科学館の学芸員、

民間の天文家の活躍がより大きかったはずだ

とここでは推定する。では以下に論を進める。
本ブログでは、

こぐま座アルファー星が、歳差によって、

中国の唐代以降に、赤緯が+85°を越えて
しまい、メルカトル図法で示した半天恒星図
がモデルと、当時は、はっきりと認識されて
いた、囲碁盤に、

赤緯±90°線が必要になったのが、囲碁盤
2線増加の原因

だと見ている。これに気がついたのは、むろ
ん公的権力の一部であるところの、

五胡十六国時代の、東晋王朝内の暦天文学者

が、中国では最初、西洋ではヒッパルコスだっ
たとみられる。
 しかし、暦学者一人の主張で、囲碁盤の作
成メーカーの責任者や、国土の辺境に至るま
で、碁のゲーマーが皆、本当に動くとは考え
にくいと私は思う。特に唐王朝時代は、囲碁
は、広く分布していただろうから、尚更だ。
 天球儀等を所持した各地方の中国王朝立の

天文館の学芸員や、天文に詳しい人間からの
口コミに、科挙の試験を目指す程度の知識人
が反応し、それが囲碁ゲーマーへ伝わったの
が大きかった

のではないかと、本ブログでは予測している。
つまりは、囲碁の用語は、中国古天文暦道で、
日月星辰の位置を示す際の、専門知識だった
ので、囲碁道自体が無くなるのは、当時の中
国の天文台にとって、大きな痛手だったが、
”北極星視位置の経年変化の話”に関しては、
その道の”総大将”が、手を出すほどの事も
無い、

ズブの素人啓蒙向けの話題だ

と、公的権力は、軽く考えただろうという事
である。
 ここで重要な事は、このケースに関しては、
囲碁盤師や囲碁のゲーマーが、暴力・武力等
の後ろ盾の恐怖から、19路にしたのではな
くて、理屈で、きちんと説明を受けた上で、

”そう言われて見れば、17路の囲碁盤では
おかしい”と、納得づくで19路に変更した

とみられるという点である。囲碁の専門家の
分析によると、17路の方が19路よりも、
ゲームの出来自体は、少し良かった疑いが有
るそうだ。それも、前記、清水論文で指摘さ
れている。囲碁棋士は当然だが今もたくさん
おいでなので、異議もあるようだ。
 しかし、少なくとも中国文化圏では、

囲碁盤は、半天恒星図とフォームが完全一致
しなければならない

という論が、前漢から唐代まで鉄則だったの
であろう。でないと、囲碁のゲーマーの社会
的価値も低下したはずだからである。しかも、
こぐま座アルファー星は、9世紀から22世
紀までじりじりと、赤緯+85°を越えて、
天の北極に、近づき続けるという性質のもの
である。囲碁のゲーマーが星空を仰ぐたびに、
こぐま座アルファー星が、囲碁盤の端線から、
更に外側に動いてゆけば、
その辺の、アマチュア天文家が言う程度の事
でも、何百年も、そのような状況が続き、
繰り返して警告されると、遂には捨て置けな
くなってきたのは、当然なのではあるまいか。
 だから、囲碁盤の線数を17路から19路
に変えるには、唐等の王朝内の暦担当者等の

公的権力は当時、”そうするべきだと主張す
る一人”程度で充分だった

のではないかと、私は大いに疑う。以上のよ
うに、囲碁の路数を、2線増やす事に関し、
指導者が居たと、私も考えるのだが。その強
いた人間の性格に関して、私には異議が有る
のである。(2019/12/03)

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碁聖目中国朝鮮日本吐蕃5、17、9、13は何(長さん)

歴史上、日本の碁のように、予め幾つかの
碁石を碁盤に置かないで、自由に碁を打つ
事は余り無かったと聞いている。碁盤に、
聖目があるのは、最初に置く碁石の位置を、
表示するためのものだというのが、定説で
ある。中国では5聖目碁盤が用いられ、
朝鮮半島では17聖目碁盤が用いられ、
日本へは9聖目碁盤が、飛鳥時代に伝来し
て定着し、シッキム盤の基になった、チベッ
トでは、13聖目碁盤が、少なくとも歴史
上は使用されたと聞いている。今回は、こ
うした聖目の数のパータンが、囲碁と恒星
天文道ないし暦道に関する、強い関連性を
仮定する、本ブログの論と矛盾しないかど
うかを、論題にする。回答を書く。
 置き石ルールは、碁盤に合わせたと考え、
聖目数は、半天恒星図の100°区切りが
起源。陰陽道と天文科学が未分離なほど、
科学的な”半天恒星図”感覚が減少し、
呪術化たため、

聖目数が増加したとしても、大きな矛盾は
無い

と考えられる。では、説明を続ける。
 現在の定説は”置き碁ルールが聖目パター
ンを決めた”である。このケースは、最初
は中国古代100°の印の4聖目制だった
という状態から、ゲーマーが勝手に聖目数
を増やしたと考えればよいから、史料と天
文囲碁関連説とは、最初から矛盾が出ない。
 問題は、理由が不明なまま、聖目だけ増
えて、ゲーマーが合わせたとしたときに、
”半天恒星図”としての囲碁盤からの、
聖目増加の理由が説明できないケースが

有り得るという懸念

だと思われる。

しかし、理由付けは現実としては容易

なのではなかろうか。すなわち、概ね次の
ように、理由づけすれば、良いのだけでは
なかろうか。

中国5聖目盤・・元々天元に星は無かった。
が、五行説の影響で、星が5個になった。
朝鮮17聖目盤・・八卦の影響で、8個、
黒番、白番共に碁石を置くルールが生じた。
天元は中国の影響でそのままとし、残りの
16聖目は、八卦に関する易学と、関連す
る挙動だった。
日本9聖目盤・・日本では寺院で、9星
占いが流行っていたので、18升目とみた
場合に、9領域の中央に星が一つづつある
デザインが、特に好まれて定着した。置き
碁をしないのに、聖目だけ付けられたまま
残ったのは特に中世、日本で呪術が盛んだっ
たからである。
チベット13聖目盤・・12神将等に
ちなんだ、やはり宗教的デザインが元なの
ではないか。天元の聖目も、形から見ても
いかにも”天の中心”等、宗教感覚で付与
したもののようである。

つまり、元々科学的だった、恒星図として
の囲碁盤に、非科学的な占い・呪術が

後から入り込んだ

で、全部説明できるのではないかという、
意味である。
 この中で、中国の5聖目が、9聖目に、
中国中原領域で、進化したとの史料が、今
の所無い点が、重要なように私には見える。
 易学や9星占いは、中国が本場だが、
天体観測をするセクションと、9星占いを
公的にするセクションとが

未分離なのは日本であって、中国では特に
唐王朝以後には無い

事が知られている。(たとえば、日本の暦、
岡田芳朗著、木耳社(1972)64ペー
ジ。)つまり、初期科学としての天文学と、
呪術としての天文道が、組織が大きい中国
の歴代王朝内では、はっきりと分離してい
た点が、日本の碁盤との、大きな差になっ
たと私は考える。つまり、

安倍晴明のように、

天体観測をする専門家が、おどろおどろし
い、呪術の伝説をも合わせ持つという例が、
人材が豊富で、分業が、当時から進んでい
たと見られる

中国には、余り無いという意味

である。そのため、原始的な化学としての、
五行説の取り入れ位で中国の碁盤は、進化
がおしまいだったと、今の所考えてよいと
いうのが、出土した史料の、状態パターン
なのではないのか。むろん今後発掘が進む
と、そのような物が無いから、有る程度は
有るへ、ひっくり変えるかもしれない。
たとえば今述べたの趣旨の事を、西暦20
17年に、清水康二氏が、自身の明治大学
学位論文で書いている。

中国で、19路9聖目盤が、今後見つかる
可能性もある。その通りであろう。

 しかしいかにも、星図の座標に100毎
に、印を付けただけな感じの、四聖目盤が、
仮想中国新出土品の9聖目盤よりも、マイ
ナーという認識に、将来本当に遊戯史界が、

変化するかどうかまでは、断言できない

ように、私には思える。
 つまり、たとえばイスラム帝国との戦争
で、精神論では勝てず、科学技術力が必要
と痛感した国では、平和で王朝も交代しな
かったような国に比べて、非科学的な遊戯
盤の普及は鈍かったと考える。そうすると、
日本が、今でも9星聖目囲碁盤で、中国で
は漢代から、日本よりも科学的な4星聖目
盤なり5星聖目囲碁盤である事が、かなり
尤もらしく、説明できるのではないのか。
 そうだとすれば、半天恒星図が囲碁盤の
デザインの元であるという本ブログの論と、

各国出土・伝来等の囲碁盤の聖目パターン
は、仮説を破壊するほどには、大きく矛盾
しては居無い

のではないか。
 以上のように、やはり私には思われるの
である。(2019/12/02)

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