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富山市新庄城跡より裏崩れ一文字金・桂馬駒出土(長さん)

西暦2014年であるから、少し前の事である
が、表題の富山県富山市新庄城跡(戦国時代地
層)から、一枚だけだが、将棋駒が出土してい
るとの事である。
 新庄小学校体育館改修工事に伴う埋蔵文化財
発掘調査報告書であり”富山市新庄城跡発掘調
査概報”と題するPDFファイルがweb上に
出ている。著作は富山市教育委員会である。
 地層が何層かあり、水分の多い、戦国時代の
古い池状の場所から、木製品幾つかとともに、
この将棋駒は出土したらしい。

崩れ金桂馬.gif

スケッチによると、裏の金は楷書のようだが、
部分的に削れており、”^”+ホのような妙な
書体である。また、上の如く、戦国時代のもの
にしては、やや寸胴である。第一印象で成立年
代に関する情報が無ければ、南北朝時代の頃の
ものかと、私は思っただろう。

正直言って、複数枚出てほしかった。

よもや大将棋系の駒では無いとは思うのだが。
なお、将棋駒以外の共出土物は、形がモダンで、
近世に近い中世の遺物風である。(2020/01/11)

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月の黄経不等”出差”の精査。天文台説明で良い(長さん)

以下の記載は、月の視線直角の動きに関する
ものであり、視線方向の動きについて論じて
いない。

つまり、たとえばスーパームーンの理屈の
議論には使えない。

ここでは月の視位置に関する黄経の不等のう
ち、3体問題に起因するものの最大の項、
出差について精査した。

国立天文台暦計算室の2020年1月9日
時点のweb情報に”伸びると丸くなる”に
関して逆書きの図が描かれている疑い

が有ったからである。
 結論から述べると、天文台の説明で一応
良く、

以前の本ブログの愁いは杞憂

であったようだ。
本ブログで確認した所、
荒木俊馬氏の現代天文学事典(四訂新版)
恒星社、西暦1971年には259ページ
右側中段に以下の式があり、

国立天文台暦計算室図と挙動が合っている

ようである。セクション443(月運動の
不等性)のこの式には、
番号が付いてないが、以下のように書いて
ある。

(E.C)+(Evec).
=2esin(ψ*-経度ω*)+
5/4e^2sin2(ψ*-経度ω*)
+15/4mesin(2[ψ*-ψ’*]-[ψ*-
経度ω*])

ただし、ψ’*=n’t+ε’

(以上引用)
つまり、ψ*=nt+εでもある。(εは平
均運動)

では説明を続ける。
上の式で(E.C)は中心差、(Evec).
は出差。
 ”’”が付いているとき太陽に関する項、
印が無いとき月についてとみられる。
 (ψ*-経度ω*)は、ようするに、月の
近地点からの黄経と考えられる。なおωの上
に、荒木俊馬氏の成書では、近地点引数では
なくて、近地点経度である事を示す~が、実
際には付いている。
 また1~2段目が”中心差”の不等項であ
り3~4段目が出差の黄経の不等項であろう。
2[ψ*-ψ’*]は、[]内が月の満ち欠
け位相に、あたるもののようだ。
 mは前に述べたが、月と太陽の見かけ動き
の速さの比の逆数である。この成書には、
m=0.075との記載が、同じくセクショ
ン443の258ページの、右下の定数表に
有る。
2[ψ*-ψ’*]-[ψ*-経度ω*]が
大切で、ψ’*=経度ω*だと長軸が太陽方
向つまり新月近地点、ψ’*=経度ω*+90°
だと下弦近地点、ψ’*=経度ω*+180°
だと満月近地点、ψ’*=経度ω*+270°
だと上弦近地点の事だとみられる。
 つまり1段目と3~4段目は、まとめて考
える事が出来るのだがψ’*の値が

ψ’*=経度ω*+0°や同+180°のとき
に、強めあっていて、+90°や+270°の
ときに、逆向きになる。

つまり、長軸が太陽方向に向いたときに、

国立天文台暦計算室の図の説明通りで不等増加

している。だから、

国立天文台暦計算室の月の出差説明で良い

事になる。つまり、この表現は”正しい思想”
だという意味だ。
 次に、国立天文台暦計算室の説明通りに
書いてある成書として、次の著作がある。

株式会社地人書館発行、西暦1972年。
目で見る天文ブックス”月をひらく”
当時花山天文台の宮本正太郎(台長)、
松井宗一、赤羽徳英、(京都大学)服部昭。
月の運動36ページ”出差とよばれる”中段
やや下。

 上記成書に、国立天文台暦計算室の説明を、
文書で書くとすると、ほぼ同じような意味の
事が書いてある。

なお、実執筆が、上記4氏のうちの誰なのか
については、上の成書からは判断できない。
そこでこの件は、

国立天文台の説明でも問題無さそうだ

という結論に、落ち着いた。そこで本件は、
これでストップする事にした。
 ちなみにこの他に今回、国立天文台改称後
初代台長の古在由秀氏の著作を少数あたった。
啓蒙書の範囲内で、古在由秀氏が国立天文台
暦計算室が、現時点でしているやり方の説明
をしていると、明確に見られる資料は私には、
未だ発見できていない。軌道長半径が半月方
向で延びていて、離心率には変化が無いよう
な説明が、恒星社の現代天文学講座_2、
”月と小惑星”月の運動と環境、12ペー
ジの中央付近(1979年)にある。なお、
月に加わる重力の説明は、当然有る。だから、
話を総合すると、

そもそも、月の軌道はトータルとしては、
胃の蠕動運動のような変形をしていて、
全体とした離心率変化という単純なイメージ
ではない

という事なのかもしれない。
 だから、本ブログの考えが外れたのは、
起こっていることの実態が、楕円の離心率が、
挙動を計算する上で一定でなく、
(1+1/7)になったり(1-1/7)
になったり、黄経偏差を計算するときにする
という意味であり、黄経の不等が、近地点や
遠地点では、楕円軌道類似ではゼロに近く、
中間の平均黄経の所で、最大になるため、

そこの挙動が問題で、近地点・遠地点は、
本ブログの目論見とは違って、余り関係ない

というだけの事だったのかもしれない。つま
り月軌道の近地と遠地点の中間の、平均的場
所での離心率が、むしろ問題であるという事
の、本ブログによる見落しのせいとも思える。
 国立天文台暦計算室の記載や、成書”月を
ひらく”の説明方法は、私には依然

直感的に、反対向きに見えるので理解できず、
よって賛成も反対も、今の所しない

事にしたい。何れにしても、この議論は視線
直角方向の動きが、ならしたときと、どうズ
レるかという黄経不等に関するものであって、
地球から月までの距離、つまり動径の議論は
していない。だからスーパームーンの議論等
には、最初から使えない事だけは、どうみて
も確かだと、私には思える。
 なお今回たまたまだったが、引用文献に、
宇宙時代、西暦1970年代のものが並んだ。
著作者の一部に、他界された方もおいでだ。
法人著作的な文献も散見されると見るのだが。
本ブログで煩雑な手続きを踏んで、場合によっ
ては複数の権利者から、わざわざ著作権の許
諾を受け、

コンテンツ自体を複写する予定は今の所無い。

わが国に於いて”TPP著作権”が、大きく
web界に覆いかぶさる昨今。これらのコン
テンツの著作権権利が、いったい何時まで残
るのかについては、今の所謎だが。今後も本
ブログでは、こうしたいわゆる宇宙時代のコ
ンテンツについては、当然の如く、引用だけ
に徹するつもりだ。そもそも私のような個人
の力で、

名誉を他人が受けるという類の文物を、わざ
わざ普及し、法にひっかかって泣いていなく
てはならない、筋合いのものでも無い

だろうからだ。今の著作権法の概念には少な
くともその一部、今述べた点に関して、
事実は思想とは違うが、どちらも表現だとい
う事が有るために、文系世界の話と理系世界
の話が、渾然一体となってしまい、

現実として大きな勘違いが発生するケースが
起こり得る。

以上のような疑いが有るように、私には思え
るのである。(2020/01/10)

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国立天文台暦計算室の出差説明図に問題有り疑い(長さん)

以前、日本の文化の継承のため、国立天文台
暦計算室の月に対する太陽摂動の説明のうち、
特に出差に注目するように述べた。最近暦計
算室の、月の黄経不等に関する、出差の図を
確認した結果、西暦1971年四訂新版の、
荒木俊馬著”現代天文学事典”(恒星社)の

記載と合って居ないように見える

のに気がついた。

月の軌道の扁平加減に対する、太陽引力によ
る引き伸ばしと押しつぶしの方向が、90°
国立天文台説明は違う

との意味である。荒木俊馬氏著書§443の
259ページから260ページの間のへんに、
だいたい次のように書いてある。
(引用)
もちろんm=0(太陽の1年動きに対する、
月の1カ月動きとの比で、約1/13.368・・
注釈者本ブログ)のときにe*=e(定数)
となり、mが0でないならば、δもe*も変
化する。即ち式(7)から明らかなように、
朔望時に、

e*=e(1-15/8×m)~e(1-1/7)、

上下弦の時に、

e*=e(1+15/8×m)~e(1+1/7)、

そしてそれぞれの中間の、月太陽黄経差の
ときに、e*=eとなる。それゆえ月の離
心率はeより約1/7ほど増減して見える
わけである。
(以上引用)
(実際には、”中間の、月太陽黄経差のと
きに”のところには、”ψ*-ψ’*=±45°、
±135°の時に”と書いてある。)

つまり、太陽方向に対して平行ではなくて、
その直角に、月の軌道は潰れるという事

であるとみられる。なぜなら、
楕円は、離心率が1より遠くて0に近けれ
ば、離心円とだいたいおなじだからである。
 なお月の平均的な離心率eは0.055
前後である。
 つまり元々の楕円で、つぶれが目立つの
は、焦点と反対方向(近地点と遠地点)で
あり、中間の経度つまり焦点近く(近地点)
と、90°、270°違う所の、焦点から
の距離は、変形により余り目立たない。三
角関数のコサインが、0°近くでは、少し
ズレても1に近いからだ。効き方は、0°・
180°の組と、90°・270°の組と
で、数倍違うはずではなかろうか。だから、
荒木俊馬氏の説明から見て明らかに、

太陽は月の対地球軌道を直角に潰している

事が記載から判る。上の説明で1/7の直
ぐ前の所に付いた、プラスとマイナス記号
の、どちらが、どちらかが重要だ。これは、

国立天文台、暦計算室の月の太陽による
摂動に関する出差の説明図で、潰れる方向
が、90°違うように見える

という意味になると、私は思う。
 もう少し、以上の論理が正しいかどうか、
精査が要るとみられる。今述べた論が正し
い事が仮に判ったら、本ブログより、

日本の伝統文化の継承・保存のため、

然るべき連絡を国立天文台にするつもりだ。
国立天文台のページが間違っているという
のが事実だとしたら、これは相当にヤバイ。
(2020/01/09)

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墨書土器、瓦類の将棋文字(長さん)

webに試験運用で、明治大学古代学研究所の
出土墨書データベースが有るようである。実際
に検索して、将棋関連の文字の書かれた、瓦等
が有るのかどうか、今回は試しに検索してみた。
 余りめぼしいものは無いようだが、神奈川県
平塚市の神明久保遺跡の、江戸時代の土器製の
陶器に、王口と書かれたものがあるそうだ。

神明久保遺跡.gif

二文字目は、補いで”区”との説もあるようだ
が、不確定だという。本ブログでは、将と読み
たい所だが、かなり苦しい。この他この遺跡か
らは、泥メンコが出土しているらしい。
 江戸時代に成立のようなので、何れにしても
新発見には結びつけにくい。やはり、有力な
九州の窯業釜の遺跡を除くと、将棋の文字を、
瓦等に書いた例は、少ないようである。将棋
というと、道具の材質は木だというイメージが、
日本人には昔から、相当に強かったのだろう。
(2020/01/08)

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日本将棋伝来元現北タイのハリプンジャヤ国説(長さん)

本ブログでは今の所、日本の将棋の伝来元国と
して、タイ中央部のドヴァーラヴァティ国の可
能性は少ないと見ている。現カンボジアのクメー
ル国に侵略され、将棋文化が西暦1000年前
後には、たぶん残って居ないと考えているから
である。なおドヴァーラヴァティ国は、現タイ
のモン族の国家である。
 ただし、現在のミャンマーの南の海岸付近に
有った、モン族都市国家のパゴーやタトンの東
側内陸部のメナム川の源流域付近、現タイの、
ランパーンを首都とする、

ハリブンジャヤ国という国家が10世記過ぎか
ら、13世紀初まで有った

という情報がある。これもモン族の国家で、
ドヴァーラヴァティ国が、カンボジアのクメー
ル国の侵略を受けたときには、北に外れた位置
なので、滅亡しなかったという。そこで今回は、
日本の原始的平安小将棋がこのハリブンジャヤ
国起源の可能性は無いのかどうかを、議論する。
回答を書く。

恐らくこの国では無いとみられる。

理由は3つ有る。
①貴金属、銀の産出地から北にズレている。
②ホータン玉が手に入りにくい。
③メナム川の下流がクメール国占領地区で、
係争地帯であり、交易するには政情が不安定で
ある。
 では、以下に論を開始する。
 8世記後半に今問題にする、ハリブンジャヤ
国にタトンないしパゴーから、自陣3段目型
2人制古チャトランガ、副官成りが伝来したと
仮定しそのときに、この国はまだ小国家だった
と考えられる。そのうちの後のハリブンジャヤ
国で、日本の将棋化したとしなければならない。
 しかしながら、貴金属の銀は南のドヴァーラ
ヴァティ国に有り、後にカンボジア・クメール
国が占領所有していたとみられ、黄金将棋具が
作れない。
 それに加えて大理国と異なり、ホータン玉に
興味を持った中国人王朝宋朝に、ハリブンジャ
ヤ国は接して居ない。そのため、将駒が玉、金、
銀に拡張展開するという、動機付けがそもそも
無い。ただし、ミャンマーに近いから、ハリブ
ンジャヤ国の国の貴族や王は、ヒスイが入手で
きたかもしれない。なお中国人は、当時この地
域を”白衣蛮”と、一括して認識していたよう
である。

何れにしても、鉱山が他国領である。

 それに加えて、ハリブンジャヤ国の首都は、
メナム川の源流付近であり、南部には10世紀
末に、ドヴァーラヴァティ国を侵略したとみら
れる、カンボジア・クメール王国軍が、引き続
いて駐屯していたと考えられる。治安は悪かろう。
 中国の交易商人が、ソンコイ川の替わりに、
メナム川上流域に、宝玉将棋具を取りに行く事
は、たとえそれが存在するとしても、治安が
悪いので

考えにくい。

以上の事から、特に最後の治安の問題で、海岸
都市タトンのようにパガンに征服されず、南部
下流のドヴァーラヴァティ国のように、カンボ
ジア・クメールにも侵略されなかったとしても、
係争地帯を通らなければ、物の買い付けが困難
なため、

恐らく、現タイ国北部、メナム川上流山沿い地
帯から、日本の将棋が伝来してくるという可能
性は少ない

のではないかと、私は疑っている。
 なお問題の古代国家領土内からマークルック
駒とみられる象棋駒は出土しており、バンコク
の博物館に有ると聞く。出土史料として

将棋駒が有る点では大理国よりハリブンジャヤ
国の方が少しマシ

かもしれない。ただし出土将棋駒の成立は13
世紀以降であり、スコタイ王朝の頃と聞く。
 よって、可能性ゼロと決め付けるのは困難で
あるが。

南側に1000年頃に紛争地を抱えているのと、
銀山から遠い事、玉将を金将、銀将の上位に持っ
てこれたのかどうかが、謎であるの以上3点

から、ハリブンジャヤ国の方が、中国雲南省の
大理国より有利であるとは、かならずしも言え
ないのではないか。以上のように私は、今の所
考えている。
 なお、どこかの王朝の中心地が、日本の将棋
の伝来元だとした場合、

この他に11世紀頃に、伝来国になりそうな、
囲碁が入らず、イスラムシャトランジではなくて
かつ、遠くも無いめぼしい国は、今の所特に
見当たら無い。

よって本ブログの論によれば、日本の将棋は、
中国の雲南省起源。以上が最も有力なように、
今の所私には依然見える。(2020/01/07)

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滋賀県長浜市潮津港遺跡裏備品王将駒は何故単独(長さん)

今回は、この遺物が神社の近所から出土した
という情報を知った上で、コソ泥の捨てていっ
たものであると、結論する事にする。
 結論は以上なので、さっそく論を開始する。
 まず滋賀県は既に、遺物の出土環境につい
ては、成立時期と場所の情報を発表している。
時代は12世紀で、場所は神社跡の横の、水
分が過多で、将棋駒が保存できる地面の下で
ある。
 次にこの王将駒は、裏に”備品”と書いて
あると見て、仮に正しいとする。そうすると、
共通場所で、当時の民が、共通に使用するも
のなので、

盗んで、私物化しないようにしようとして、
管理者の神社の神主等が”備品”と書いた

と解釈するのが、最も判りやすいとみられる。
 ところで、当時の将棋駒が1セット32枚
だったとすると、備品と書いたのは王将×2
と金将×2の計4枚、1セット36枚だとす
ると、王将×2と金将×4の計6枚まで、
書こうと思えば、裏の無地の部分に書ける。
 もし、このようだとすると、コソ泥の盗難
は防げたに違いない。盗んでおいて、盗品だ
と判る4~6枚を廃棄すると、新しく作るの
がたいへんだからだ。たぶん、たまたま王将
1~2枚だけ”備品”というふうに、公共物
である旨が書いてあった。のでコソ泥に付け
入られてしまい、盗まれて王将だけ、別方法
で調達しようと、されてしまったのであろう。
 王将は高々2枚だけなので、この遺物が普
通に使っているうちに、散乱させて一部が出
土したと考えると、

名札付きの王将駒が、たまたま出る確率が、
16分の1ないし、18分の1のため不自然

である。
 泥棒が盗んだが、神社から盗んだのがバレ
るので、所有者の名前の書いた駒だけ、盗ん
だその近くの神社の横に捨てて、逃げていっ
た跡が検出されたと見るのが自然なように、
私には思えてきたのである。
 ちなみに、どうして備品と書いただけで、
神社の備品になるのかは、日本語の歴史に弱
い私には、今の所正確には判らない。
 備品という単語が、平安時代末の12世紀
には、”備え”は”供え”と同意味が存在し、
神社に奉納した、つまり”御供え物”という
意味が有り、”品”は古い仏典でよく使われ、
演劇の”一幕”の意味に近いものだったはず
だが、なぜか種別を表して備品として当時は
存在し、

たまたま12世紀には”(つまりは)神社の
持ち物”の意味が強かったと、取り合えず、
ここでは仮定

しておく。当時の特に、滋賀県長浜市潮津港
遺跡の将棋駒が出土した、元の神社周辺では、
”備(ソナエ)品”は”供(ソナエ)品”だっ
たという意味である。
 ではコソ泥に、どうして捨てた王将を、調
達できるアテがあったのかというと、元の出
土品の神社の所有者は恐らく、36枚制の、
取り捨てタイプの標準平安小将棋の道具を、
持っていたためだろうと、私は推理する。
金将は32枚制より2枚多く、裏に王将と書
いてから、表の金将の金を何らかのザラザラ
な面を使って擦って削り落として、王将に改
造すると、元の金将の2枚を使って王将2枚
として、32枚制の、賭博用原始平安小将棋、
取捨てタイプに使えるようになったと、私は
思う。
 つまり、①駒は取捨て将棋用だったので、
王将と金将は元々同じ大きさであり、②賭博
によく使用されたと推定される、コソ泥用の
32枚制ではなくて、金将と歩兵が2枚多い、
皇族の使う、36枚制の標準型平安小将棋
(取り捨て型)に対応できる枚数が、その神
社には、元々揃っていたと私は見るのである。
 ちなみに、将棋盤も9×9だったのかもし
れないが。庶民賭博程度ならば、布に書いた
盤なり、地面に線を引いたものなりで、充分
だった。ので8×8升目将棋は、将棋駒が揃
うだけで、12世紀の当時は特に、問題が無
かったのであろう。
 以上のように、2枚の王将と4枚の金将に
全部”備品”と書いておけば、盗まれなかっ
たのだろうが。たまたま運悪く王将1枚ない
し2枚にだけ、所有者の筆を入れただけだっ
た。そのために、駒が1セットまるまる盗ま
れて、しかも、それらは出土地点の神社から、
遠く離れた所へ持ち去られたため、出土しな
かった。しかし足が付くのをコソ泥が恐れて、
備品という所有者の筆印が入った王将駒だけ
を、現場近くに捨てて逃げた。そのためその
裏備品王将だけが1枚、出土したと考えると、
冒頭の結論のように、出土品の様子がよく説
明できるのに、私はさいきんになって、気が
ついたという事なのである。
 つまりこの史料は、所有者名を加えるとい
うアイディアは平凡だが。少なくとも当時の
小将棋が、取捨てタイプで、興福寺駒や中尊
寺駒同様、駒種で大きさに差が無い事を、コ
ソ泥にとって、名札付きの王将の代替が、同
時存在する2枚の金将を作り変えさえすれば
容易である事を示唆する事によって、当時の

将棋駒の形を推定可能にしているという点で、

かなり貴重なものだと、みられるという事に
なるのである。(2020/01/06)

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佐藤敬商店中将棋付属”中将棋の指し方”権利者(長さん)

2019年年初の、改正法の施行前ならばの話
であるが。西暦2020年12月末に法人著作
なら権利が満了する予定であった、現代国語で
書かれた、中将棋ルール書としてオリジナルな
重要文書”中将棋の指し方”岡崎史明著の
著作権権利者について、さいきん調査した。
 答えから書くと、日本将棋連盟本体であり、
法人著作後、現行法では70年年末で、権利が
満了するとみられる。
 ただし”中将棋のおもしろさ”と、
”大山名人対岡崎七段(中将棋)”の付帯
文書については、大山康晴永世名人の他界が
比較的最近であるため、本ブログでは満了時期
を保障しない。岡崎史明当時七段は、現在から
見て40年程度前に亡くなられており、内容の
重要性、保存の必須性から、本ブログでは、

法人著作とみなして

表紙、P4~P17のweb上での写真掲載は、
著作権消滅後、なるべく早くすべきだと考えて
いる。
 では、詳細を紹介する。奥付によれば、この
中将棋盤駒セット(佐藤敬商店)に付帯されて
いた小冊子は、”古棋書編集部”が作成したも
のである。webで調査すると”古棋書編集部”
ないし”古棋書会”とは、古棋書復刻委員会の
事であり、二上達也当時の理事が責任者で作ら
れた、日本将棋連盟内の組織のようである。
 さいきんネット・オークションに、以下のよ
うな、この組織の会報(季刊)”古棋書会報”
が、出展されていた。

古棋書会報.gif

 当時の古棋書復刻委員会の”古棋書会報”に
添付で、”中将棋の指し方”が会員向けにも配
布されていたらしく、上記写真の例では、セッ
トで売りに出されている。
 古棋書復刻委員会が、日本将棋連盟の、古棋
書復刻事業で作られたものである事は、会報の
先頭ページの、右下の記載から判る。
 よって、西暦1970年に発行された小冊子、
”中将棋の指し方”の著作権は、法人としての
日本将棋連盟そのものにあり、著作権者も

実際上、日本将棋連盟のみである事は明らか

なようである。
 他方著名な雑誌、”将棋世界”絡み部分の、
大山康晴氏の著作の文章は、該雑誌からの転載
であり、”転載”の記載が有る事自体による、
著作権手続上の処理煩雑性がある。つまり雑誌
は一般に、団体と同好者を結ぶ目的のものであ
り、日本将棋連盟からは半独立的と考えられる。
何れにしても、

著作権に関して管理者が、複数人存在すると見
られる状態は、手続き上煩雑なのは明らかだ。

 更には大山名人絡み部分は、将棋仲間意識の
高揚のため、個人名義で”大山康晴名人”が、
フランクに書いた、文章とのイメージなので、
大山康晴名人(当時。現永世名人)著作部分は、
連盟組織の業務としてしたと認定し辛いと考え
られる。よって著作権が個人所有である疑いが
有る。
 さらには、この文章自体の内容が、日本将棋
とは別ゲーム種を、大いに推薦するような内容
なため、当時の日本将棋連盟の責任にて著作し
た事につき、100%確実視する事自体が不自
然である。
 以上のような事から、これらは法人著作との
解釈から除外した方が良いと、私は思っている。
 なお、大山氏本人は充分判って書いたために、

中将棋の”おてつき”の規定がハショッて書い
てあり、公開すると寧ろ物議を醸し出しそうだ。

 他方今の所、本ブログでは研究成果の広報と
みられる、残りの岡崎史明単独著者名の著作物
を、権利期間内に複写する意思は無い。実際に
自由に使える事を、

飛びぬけて悦ばしい事

だと本ブログでは、立場上認識しているからで
ある。なぜなら中将棋が有るおかげで、駒数多
数将棋の問題が解けるケースが、とても多いか
らである。
 よって、この小冊子のケースに関しては、

大山康晴永世名人絡みの部分以外の冊子内容は、
本来なら多数のサイトで、原簿が見かけられる
ようになるのが正義

だと、本ブログでは考える。

ネットを開けば、元祖の中将棋は身近な世界。

これは、今とは全く違う景色だと私は考えると
いう意味である。
 それにしても、元々はアメリカのディズニー
プロダクションの著作権を、引き伸ばすための
法改正シリーズだったはずなのに。当のアメリ
カがその路線が明白な、TPP自体を降りてし
まった後で、今更TPPの著作権条約を持ち出
して、

我が国固有文化の、日本の将棋の研究の障害物

となる、”中将棋のおもしろさ”の著作権の、
20年の引き伸ばしを、安直にしてしまうとは。
 法改正に賛成した、当時の日本の国会議員は、
さぞや末代まで、”物知らず者”として、人類
子孫に笑われ続ける事になるだろう。(2020/01/05)

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中国象棋は18世紀のチベットへ普及し無かった(長さん)

以前に17世紀にインド歴法がチベットへ
流入したので、チベットが囲碁文化圏に
復帰したのだろうと述べたが、

これは誤りだ。

なぜなら、インド暦法には月の黄経運動の
不等に関し、出差以下の高次項を問題にす
る動機付けが無く、天体観測を促進する効
果が無いと、結論したからである。
 だから、ダライ=ラマに囲碁が打てても、
17世紀に復活したものでは無い。
結論から書くと、18世紀に清王朝の支配
下に入った事で、チベットも囲碁文化圏に
復帰したとしか、考えられない。
 ところで、清王朝が欧州による分割の
時代を迎えるのは、典型的には19世紀だ。
18世紀には欧州列強は中国を支配してい
なかったのに、出来の悪いイスラムシャト
ランジを駆逐して、強大な清王朝下で
中国シャンチーが、チベットへ入れなかっ
たのは何故なのか。中国をチベットが吐蕃
以来”別の国家”視していたとしたら、

出来の悪いシャトランジ自体が廃れて、
チェス文化自体が18世紀に消滅、西洋チェ
スの時代が、チェス・象棋型ゲーム系統自体
が廃れたために、19世紀から始まらないと
いう事は無いのか

を今回は論題とする。
 回答を書く。

清王朝時代の暦編纂は欧州の宣教師が荷った。

 のでチベットへは、中国暦とシャンチー
では無くて、チェスをセットで運んできた。
そのお陰で、

欧州チェス文化は、18世紀にはチベット
に入った

と考えられる。
 では、論を展開する。
 17世紀にチベットで、ダライ=ラマ統一
政権が生じた頃に、イスラムシャトランジが
壊滅しなかったのは、インド暦に天文道の
要素が希薄なのに加えて、チベット近傍に、
ボハラ汗国とカンジガル汗国という、イスラ
ム系の国家があった為だと、本ブログでは一
応、今の所見る。
 18世紀に入るとチベットは、明末から清
王朝にかけて、中国王朝支配領域になり、
中国暦法が流入した。本来なら、囲碁文化に
回帰して、イスラムシャトランジの欠点に気
がつき、出来の良い、別の象棋型ゲームへ移
行するはずだが、

囲碁文化圏に回帰すると同時に、清王朝の暦
を運搬してきた欧州宣教師の影響下になった
為、中国シャンチーは伝わらなかったと考え
られる。

つまり初期のダライ=ラマ国の王は、
チベット囲碁を打つようになったと同時に、

出来の良い西洋チェスに接することが出来た

と考えられる。清王朝の時代には、日本の
天保暦と同じく、暦計算が、ほぼ完全に中国
では欧米化していたのである。しかも、暦編
纂している

担当官自体が欧米人だった

と私は聞く。吐蕃の時代から、チベットは、
中国とは別の国だと、チベット王が考えて
いたとすれば、出来の良いチェス・象棋型ゲー
ムとして、中国チャンチーを選択せずに、
既に18世紀には、暦を伝来させた中国王朝
所属の欧米宣教師のおかげで、少なくとも
宮廷レベルでは、

西洋チェスが、選択できた

という意味である。
 清王朝や、南のムガール帝国を西洋列強が
侵略し、北からはロシアが南下して、モンゴ
ルをチェス化してから、しばらくたってから、
ようやくロシアやイギリスのチェスがチベッ
トに達したと見られるが、

清王朝に居た、暦専門の欧米の宣教師の方が、
チベットへは早く来れた

と推定できるようである。
 だから、インド暦法が17世紀に伝来して
もチベットでは、イスラムシャトランジは、
中央アジアのイスラム小国が、残存していた
事もあって、廃れなかったが、19世紀に、
西洋列強が周辺を支配する約100年前の

18世紀に、イスラムシャトランジが廃れて
も空白期が出来ずに、西洋チェスに移行した
可能性が、意外にも中国と接触する事で存在
する。

以上のように、推定できるようなのである。
(2020/01/04)

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Yahooブログ閉鎖と普通唱導集唱導唄再掲載(長さん)

うっかりして見逃したが、先月15日に表題のよう
に、Yahooブログが閉鎖していた。溝口和彦氏
のブログの移行が、確認できないので、とりあえず、
無くなる事による、本ブログにとっての最大の痛手
である、普通唱導集の大将棋、小将棋等の唱導唄の、
原文を再掲載しておく。
以下、溝口ブログの記載の要部。

 『普通唱導集』は1297~1302年頃、良季
によって編纂される。
上巻「世間部」に俗世間の職業別追悼文例集の如き
記事がある。


 博打 伏惟 々々々々

 或時打梨而無衣 直垂打入而姿衰

 或時折花而有粧 小袖折重而頸短


 囲碁 伏惟 々々々々

 算一両之目算 誠通神既難測

 弁生死之意趣 縦如仏豈夫及


 小将基 伏惟 々々々々

 昇歩兵而成金 入聖目既無程

 飛桂馬而替銀 驚敵人亦有興


 大将基 伏惟 々々々々

 反車香車之破耳 退飛車而取勝

 仲人嗔猪之合腹 昇桂馬而支得


 双六 伏惟 々々々々

 五六重六 天骨而任其手

 要金入金 地躰只得其骨

以上、溝口和彦氏のブログよりの転載。
今まで上記の内容は必要に応じて、溝口和彦氏の、
Yahooブログを参照していた。直接ブログに
跳んでいたので、ホストのアナウンスを私は聞き
漏らしてしまった。
 今回の閉鎖に関しては、ブログホスト全般の、
持続性に関する信用度は、どこもオーダーとして
は、数十年以下と言う事であり、当人が他界して、
遺族にフォロー不可能となれば、そのようになる
のは、仕方が無い事だと思っている。
 そもそもnetは緊急時に、情報をなるべく早
く、広めるような使い方が最も適しており、長く
保存する事を、主体にしているようには、思えな
い。だから最近、昔の史料を捜索していて思うが、
長く主張を残したいと思うのなら、小型の陶器状
の物品多数に、墨黒のペンで字を書いて、方々に
埋設して置くのが、1000年、2000年といっ
た時間の長さを考えたときに、情報を最も長持ち
させる最善方法だと感じている。生分解しないよ
うに今時はむしろ、工夫して作られたプラスチッ
クは、とても適した代替だが、生態系の打撃にな
るので、ここでは特には御薦めしない。
 話を元に戻すと、溝口和彦氏のブログは、記事
が305ページあり、主張は多岐にわたっていた。
が、少なくとも現在webで確認する限り、彼の
主張で著名なのは、普通唱導集の大将棋唱導唄に
関する、彼の解釈についてである。つまり、上記
史料の考察が、肝という事である。解説書はかな
り高価な専門書籍だし、今の所、良季が別の所で、
将棋史に関連する主張をしているという情報も無
い。よって、漫然とだったが、元文献をあたらず、
私は、溝口氏のブログの孫引きを、これまで通し
てしまった。なお、13升目を連想させる13仏
が、南北朝時代には存在しない事を示唆する文献
としても普通唱導集は有名だ。つまり、むしろ本
ブログにとっては、ネガティブな要素も共存する
史料である。何れにしても、

個人的には、上に書いた部分を仮に保管して
いなかったとしたら、相当の打撃

になる所であった。
欲を言ったらきりが無いが。コメントを消したり
出したりのYahooブログの”例の件”の時代
に、将棋史の意見を彼のブログに、私は書くばか
りでなく、彼のブログのシステム自体に対して、
自分から率先して加勢するべきだったと、今は反
省させられている。なお、今の著作権法は緊急の
場合の規定が無いので、こうした対応への足かせ
となる。よって私と違って能力が有る方も、著作
権法には御注意頂きたい。なお”言っている本人”
についてだが。

普通唱導集の遊戯物4種類の記載の中で、他の3
つの唱導唄は、局面が上のように、特に局所的で
は無い。しかし、普通唱導集大将棋は、ゲームの
コツに関して、述べられている事柄しか肝が無い
というのが本ブログの解釈であり、鎌倉市今小路
西遺跡、小町JR鎌倉駅前出土”搦口口口口口王
馬馬仲口”木片もそれを示唆するので致命的問題
だと本ブログでは見て居ない。

以上のように”引用”して、このページの著作権
法違反は回避しておく。(2020/01/03)

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インド囲碁不振理由はプトレマイオス業績の不在(長さん)

インドで囲碁が発祥したとしても隆盛しなかった
のは、大半の理由は、①西洋星座に近かったから
である。特に黄道付近は、線で結べば意味が判る
星座だったので、囲碁用語はイスラム圏同様不要
だったのだろう。しかし、新星や彗星の発見の為
に、黄緯の高い部分の星の配列を表現しようとし
て囲碁を導入していたなら、西暦600年前後
には、ゲームの出来に関する目が肥えてしまい、

そもそもインド古チャトランガは発生しなかった

とみられる。だいたい天体観測が盛んなら、新星
や彗星の存在に気がつくはずなので、インドでは、

古代中国、朝鮮、日本ほどには、天体観測をしな
かった

と推定できる。ここでは、インドで天体観測施設
が、中国文化圏やイスラム世界ほどには、盛んに
残っている形跡が無く、ひょっとするとインドで
囲碁が発生したのかもしれないが隆盛せず、他方
チェス系ゲームが発生出来た原因について、イン
ド2人制古

チャトランガが発生しても、間もなく廃れてしま
うという懸念が、無い理由を説明するために考察

する。まずは回答を書く。
②月の視位置挙動が、近地点が移動するケプラー
第2法則型である事が、
ヒッパルコスの理論が、4~5世記に導入され、
インドでは知られていた。そして大切な点は、

それで済むと考え、月の黄経運動についての不等
に関する恐怖心が薄かった為、天体観測が、それ
以上隆盛しなかったと考えられる

為である。
 では論を開始する。
インドの天文学は、科学思想の入ったものは嫌わ
れた。そのため、

ブトレマイオスの業績は無視された

と、本ブログでは見ている。ところで、

月の黄経の不等に関して”出差”を発見したのは、
ブトレマイオスである。

その結果、月の黄経の不等は、中心差と出差の2
成分と、プトレマイオス後は認識された。ところ
がインドでは、プトレマイオスの出差の発見は
考慮され無かったので、月の運動の黄経の不等は、
中心差だけであった。これなら、近点月を求めた
上で、ケプラーの方程式を一回解いて、黄経の
不等に関する”補正表”を作っておく程度なので、
平朔の暦から、中心差補正朔の暦を作れば良いだ
けだった。
 インドの月の運動論は、以上のレベルで止まっ
た。そのため、

出差による、実際とのズレに対する恐怖感が、
日本の藤原京時代のようには、生じなかった

と見られる。つまりなまじ、ソコソコ月の運動に
合う法則を、古代の西洋から入知恵されていたの
で、天体観測の必要性に関する観念と、それが無
い事による恐怖感が、

日本に比べて、小さかった

と考えられる。その結果、

インドでは、中国、朝鮮半島、日本ほどには、新
星や彗星を記録する、天体観測が発達しなかった

と考えられ、囲碁文化を、中国から逆輸入する
動きも、鈍かったのではないかと予想される。
 インドの旧暦は少なくとも現在は、太陽と月と
の間の黄経の差を1/12して、任意の日の24
時に置ける黄経差の1/12の数(但し0のとき
には、30にする。切り上げにすると、日本の旧暦
に合う)を、日付けにする程度に、月の満ち欠け
に厳密な暦である。
 しかしながら、その元になる計算方法は、少な
くとも古チャトランガが発生した7世記頃には、
月の軌道を”近地点が移動する、2体問題に関す
るケプラー運動”とみなす今述べた、中心差を考
慮して、出差、二均差、年差、月角差・・という
高次項は無視する程度に、単略化したものであっ
たと考えられる。そこで今の我々が、日本の国立
天文台の暦編纂室のサイトを読んでイメージする、

太陽が、朔望月+(朔望月-近点月)周期で月に
与える摂動を表現するために、出差の補正のため
の周点円を付け加えたようなケプラー楕円モデル

を使用したものでは、無かったと考えられる。
 出差に起因する補正は、気が付き出すと、朔日
を決定しようとする暦作成者には、3天体即ち、
地球、月、太陽の力学系を解かなければ理解でき
ない3体問題という内容のものなので、その神秘
性と複雑性(実は、未来永劫まで一般解を解くの
は無理)から、今から約1300年前の当時は、

非常な恐怖に駆られるようなものだった

と考えられるのである。
 なお太陽が原因だから、例えば朔や望のように、
朔からの位相角を固定すると、出差の挙動は、
朔地点の月の真近点角で決まるものであり、他方
一定の形の月は、朔日の真近点角との差が、互い
に別の日のものであっても、その数値が一定だと
いう性質のものなので、決まった月の形の所で、
月の位置を観測するだけにしてしまうと、出差を
繰り込んだ補正表が作れる事が、極めて熱心に、
天体観測を続ければ、判ったのかもしれない。
中国暦法でも結果としては、今述べた性質を使う
簡略法になっているようだ。
 が、月の位置観測は、朔は新月なので不能だし、

満月も明るすぎて、小さな星の光を消すので困難

だ。だから、月の黄経の不等に関する出差は、
いろいろな月の形の日のデータ同士をつなげると、
天体観測を続ければ、何れは発見できてしまうと
いう、目で見て判る性格のものである。
 なお、周期”朔望月+(朔望月-近点月)”の
出差というのはようするに、概ね数周期のサイン
カーブごとに、だいたい半年周期の、

AMラジオ波の、変調状うなり模様を作り出す
ための、少し違った周期のサインカーブの混ぜ
合わせという意味

での、数式上の付加的項という形だ。つまり、
楕円は180°回転すると、重なる図形だから、
太陽の引力は、半年事でだいたい同じ効果を
月の軌道に与えるという事が、特に目立つという
意味である。このページの上の方で書いた

付加的周点円とは半年毎に、楕円軌道の月軌道の
楕円を、潰したり膨らませたりしているような、
効果を与えるものというイメージ

である。これは、高校の教科書に書いてある、
惑星軌道の図とは、同じ軌道図でも違うものであ
る。同じニュートン力学でも、高校のは2体問題
である。
 よってインドのように、ヒッパルコスを取り入
れ、プトレマイオスを、たまたま取り入れなかっ
た事は、本当は複雑なのに気がつかず、月の軌道
に関して、今述べた高校の惑星軌道図の類似で、
精神的に満足できたという意味であり、

知らぬが仏で幸せ

だったと考えられるのである。
 インド人から現代の日本人は、余りに月の視位
置に無頓着な民族だと、日本人を知っているケー
スには、概ね下げすまされているようである。
 しかし、約1300年位前の我々の祖先は、月
の黄経不等の出差の存在に恐怖心を駆られる位に、
定朔の麟徳暦(儀鳳暦が日本名)対応のための、
月の視位置の観測を熱心に行ったのである。よっ
て今の我々も、日本の

国立天文台の暦編纂室の該当ページを見て考えれ
ば、状況は判る事

なので、太陽系の

惑星のケプラー運動の図は知っているが、より身
近な地球の月の軌道について子供に説明できない

という事が無いよう、自国の古代文明を自慢する、
現代インド人に馬鹿にされないように、お互い、
”民族伝来の常識”を身に着けたいものである。
(2020/01/02)

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