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なぜ将棋・象棋には囲碁のように異称が余り無い(長さん)

囲碁史の成書を適宜開いて見ると、最初の
方で”囲碁には古来より東アジアで愛好さ
れ、いろいろな異称が存在する”との旨書
いてある(たとえば、石井妙子”囲碁の力”
洋泉社、西暦2002年)。しかしながら、
中国シャンチーを象棋ではなくて”象奕”
と多少変形して呼んでいる例が幸田露伴の、
将棋雑考の、中国象棋の項目に出ているが、
将棋と完全に違う呼び名は、余り紹介され
ている例が無い。今回は、これがなぜなの
かを、論題とする。回答から書く。

中国シャンチーの主要な着手が中産階級
以下であって、知識人がレアーだったため、
文壇等で、別称が生まれ難かったからだ

と考えられる。では、説明を開始する。
 まず、囲碁の別称だが、先に挙げた成書
では、”爛柯””橘中の楽””忘憂清楽”
”坐隠””手談”の5つを挙げているよう
だ。
 しかしながら結局の所、私が見る限り、

囲碁の別称と言うものも中国からの輸入品

であるように、私には認識される。だから、
もしそうだとすると、元々中国に、中国
シャンチーの別称を作るような空気がない
とすると、日本にもそれは無いと見て良い
のではなかろうか。中世まで日本人には、
他の日本人よりも、中国の知識人の用語の
方が権威が有ったと見てよいのではないか。
だから、中国から”熟語”が来なければ、
日本発で、ゲームの愛称を誰かが作ると、
皆がそれを真似るという、空気が無かった
のではないかと、私には疑われる。
 囲碁は、中国の絵描きも題材にしたほど、
いわゆる知識人階級に浸透していたと考え
られる。しかしながら、中国シャンチーの
中国での中世の指手は、大半が”シャンチー
だけは強い博師”のイメージが、囲碁に比
べて強かったのではないか。そもそも、囲
碁に関連して天文とのつながりは、表わさ
れたものの、囲碁ほどには天文道に関連付
けて保護される遊戯ではなかったはずであ
る。中国ではシャンチーの棋士は、囲碁の
それとは異なり、大半は賭けの儲けで身を
立てていたのではないのだろうか。
 そのため、中国シャンチーには強いが、
文壇にも食い込んで、シャンチーの愛称を、
後に残すほどの人物は、囲碁に比べると、
中国では少なかったのであろう。
 囲碁にしても将棋にしても、日本人が
国内で異称を作っても、権威は無いので、
当の日本では残らなかった。囲碁に愛称が
複数有るのは、中国の文壇で巾の利く著名
人が囲碁も打って、かつ、愛称も残したか
らなのであろう。
 日本では、藤原定家が将棋も指す等、知
識人の間にも、元々大将棋の浸透もあって
ゲーム自体は広まり、”将碁”が、中国か
らの熟語と私には疑われる、色葉字類抄で
見られる”象戯”よりも、むしろ成立が、
早いかった。すなわち西暦1100年以前
の、新猿楽記では”将碁”であった。しか
し一例だが、大江匡房が”将棊”と表現し
たら、それ以外の名前が広がるほどには、
日本人の知識層に対する、日本人の権威も
無かったのであろう。そのため、中国から
来なければ、囲碁と異なり、ケームの別称
は、将棋では特には、残らなかったのであ
ろう。
 よって冒頭のように、囲碁と異なり将棋
に明確な愛称が存在しないのは、中国での
象棋の、中世中国の宋~清王朝期には、中
国シャンチーの指手の階層が、日本の古代
末の将棋とは少し異なり、貴族や僧侶では
なかった。つまり、より一般庶民が親しむ
遊戯であったという事を、恐らく反映して
いるのではないかと、私は思っているので
ある。(2020/03/21)

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大阪商大谷岡一郎著囲碁十九路盤の起源に元嘉暦(長さん)

奈良県立橿原考古学研究所の清水康二氏の
明治大学大学院文学研究科の学位請求論文
(2016年度)”東アジア盤上遊戯史研究”
の囲碁の所で引用されていた、大阪商業大学
の谷岡一郎氏の成書”囲碁十九路盤の起源”
に、”日本への囲碁の伝来と、(百済経由で
知られる)古暦の元嘉暦との間に、密接な
関係が有る。”との旨が、web上の

別のサイトのところで、紹介されている

事がさいきん、私にも判った。
 記載箇所はweb上で、谷岡一郎氏著の”
囲碁十九路盤の起源 創生と伝播に関する
「統合〈元嘉暦〉仮説」” (大阪商業大学
アミューズメント研究叢書)(2013)
を書籍として宣伝しているサイトである。
本ブログの管理人の手元に、現物成書は今の
所無い。本ブログでは中国名が麒徳暦である

儀凰暦の定朔が、日本に、より前に伝来した
囲碁熱を、いわゆる今に残る”お月見の習慣”
と同時に、いっきに押し上げる原因となった
と、今の所想定

している。
が、先行研究として、谷岡一郎氏の成書

”囲碁十九路盤の起源 創生と伝播に関する
「統合〈元嘉暦〉仮説」”を挙げなかったの
は遺憾

であった。宣伝文句だけから見ても、

中国暦法の伝来と、囲碁の伝播とが密接に関
連ありとの説が、本ブログの指摘よりも数年
以上前から有った事は明らか

だ。なお、清水氏の論文には、日本への囲碁
の伝来元国と、ゲーム内容に関して、
谷岡一郎氏の成書を何回か引いている。が、
日本の囲碁の状況に関連した副題”創生と伝
播に関する「統合〈元嘉暦〉仮説」”の紹介、
および元嘉暦等への言及が、清水氏の冒頭紹
介した論文には特に無かった。
ではあるにしても、

清水論文で引用している、谷岡一郎氏の文献
自体を、マークしなかったのは、私のうかつ

であった。なお、上記のweb上の成書の宣
伝紹介では詳しく書いていないが、谷岡一郎
氏の17路→19路転換経過説については、
清水氏が冒頭論文内で、要約して述べている。
 清水氏の冒頭論文では、”転換の原因は謎、
谷岡一郎氏は『改悪』と判断”となっている。
清水氏の”谷岡一郎氏説”説明、成書”囲碁
十九路盤の起源”のweb上宣伝解説を総合
して判断すると、

”こぐま座アルファー星の赤緯変化が、囲碁
の路数の、縦横2路増加の原因”説というは、
たぶんだが、本ブログが最初

だと、今の所はみられるようである。
(2020/03/20)

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呉座勇一氏栃木県小山市神鳥谷遺跡関連新発見か(長さん)

この記事の約一週間前から掲載されていた
ようであるが、faceBookに、
2020年5月5日、目黒区緑ヶ丘にて、
「小山義政の乱と小山若犬丸の乱―
『鎌倉大草紙』を読みなおす」という講演会
の”第1弾”が”南北朝時代を楽しむ会”の
主催で有るようである。

受講料4000円

との事であるが、何か小山市市史に関連し、

講師で中世史で著名な呉座勇一氏が新発見

したのであろうか。と言うのも、同一講師で

同名の講演会を栃木県小山市で無料で聞いた

覚えが本ブログの管理人にはあるからである。

お金を取るのと、無料とで違うはずは無い

から、情報の質について、それなりの差が無
いとおかしいはずであろう。
 残念ながら、faceBook自体に、
本ブログの管理人が個人的に、アクセス困難
である。よく判らないが、栃木県小山市神鳥
谷曲輪、裏一文字金(也?)角行駒と、なん
らかの関連性が有る発見を、呉座勇一がして
いたとすれば、本ブログの論への影響が大き
い。よって呉座勇一氏の、ここ3年程度の北
関東関連の研究には、少なくとも本ブログで
は、注意したいと考えている。(2020/03/19)

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なぜ天竺大将棋を将棋六種図式は取り上げないか(長さん)

通説によれば、表題の将棋六種之図式は、
伊藤看寿関連の、将棋図式や諸将棋図式
よりは、成立が後である。しかしながら、
本の題名より明らかなように、この棋書
では、日本将棋、中将棋、大将棋(後期)、
大大将棋、摩訶大大将棋、泰将棋が論題
とされており、天竺大将棋を積極的に
紹介している様子が見当たらない。年代
が、より古い将棋の書物に天竺大将棋が
有るのに、さして系統が離れて居ない、
この将棋種を積極紹介していないのはな
ぜなのかを今回は論題とする。回答から
書く。

後期大将棋と泰将棋の初期配列での、
仲人位置の混乱が、天竺大将棋の追加で
増幅されていると、作者が疑っていると
みられるため

である。では、議論を開始する。
 将棋六種之図式では、それ以前の駒数
多数将棋の紹介書に関して、正確性に関
し、ネガティブな見方を表明している。
 一例が古時鳥であり、本ブログでは、
古蜀国のホトトギスと見ているが、
将棋六種之図式では、淮南子の仙鶴の間
違いであると決め付けている。また具体
的書名を紹介して居ないようだが”奔獏
を奔横と間違える例がある”とも指摘し
ている。
 調べても、今となっては当否を確認確
定し得ないが、全般的に他の江戸時代棋
書に、将棋六種之図式の著者は、万全の
信頼を置いて居ないようである。そして、
初期配列に関して限れば、そのルールは、
この棋書は、その他の江戸時代のものに
比べて相対的に、

水無瀬兼成の将棋纂図部類抄に、より近
くなっている

との印象である。注意点は以前に述べた
ように、最前列の仲人、畸犬、犬の位置
である。畸犬は、将棋図式、諸将棋図式、
将棋六種之図式で同じだが、後期大将棋
の仲人と、泰将棋の仲人が違う。
将棋図式(松浦大六氏所蔵)では、
後期大将棋は竪行前、泰将棋も竪行前。
諸将棋図式では、
後期大将棋右仲人竪行前、左仲人龍馬前。
泰将棋は竪行前。
将棋六種之図式では、
後期大将棋は角行前、泰将棋は猛熊前
であり、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄と
同じである。なお、大大将棋の行鳥が、
水無瀬の将棋纂図部類抄では行鳥だが、
将棋六種之図式では行馬になっていると
web上で指摘されている。
 何れにしても、

将棋六種之図式は水無瀬将棋纂図部類抄
に、合わせようとはしているとみられる。

 よって、将棋六種之図式が、将棋図式
や諸将棋図式を、余り重くは見て居ない
のではないかと、当然疑われる。
 では、なぜ疑ったのかと言えば、
将棋図式や諸将棋図式に関して、将棋六
種之図式の執筆者の所持していた写本等
に、次の問題があったと推定される。
 天竺大将棋が指せない書写者の本だっ
たために、縦横走りの飛鷲の前に犬が置
かれているのにツラレて、仲人を安直に、
猛熊や角行の前から竪行の前に、移動さ
せたのではないかと、将棋六種之図式の
著作者は疑った。
 つまり、天竺大将棋の犬は、斜め後ろ
動きなので、角将や中将棋絹篩等では、
隣接前升目で停止できないとされる角鷹
の前の歩兵に紐をつけるために、飛鷲の
前に置くのが正着である。だが犬の動き
をチェックし忘れて、仲人に関して、そ
れのマネをして、聖目・仲人位置を将棋
図式や諸将棋図式に関して泰将棋でシフ
トさせるように作り変えたとも見られる。
このような、

将棋図式や諸将棋図式の書写者の行為に、
将棋六種之図式の作者は疑念を抱いたと
考えられる

という意味である。後期大将棋と泰将棋
とでつながりがある理由は、江戸時代に
はまだ記憶が残っていたのだろう。それ
は普通唱導集大将棋が、本当は108枚
制で、自陣びっしり配列であった。そし
てそれを、泰将棋のデザインのときに、
泰将棋のデザイナー(恐らく水無瀬兼成)
がマネたという”口伝”だったと、本ブ
ログでは推定する。今述べた事が、江戸
時代にはまだ、残っていたのだろう。
 泰将棋と後期大将棋の文献上のゲーム
名が、将棋纂図部類抄で類似に書かれて
いるのは、本当は

豊臣秀次が、異制庭訓往来を読んでいて、
”泰将棋が大将棋の事”だと頭から信じ
込んでいた為に、水無瀬兼成が、殿様に
逆らえずに、泰将棋を大将棋にしただけ

であったのかもしれないのだが。
 何れにしても、その為に発生したと見
られる泰将棋の配列形式を、後期大将棋
に援用するという思考に将棋六種之図式
の執筆者は、嫌気がさしていたに違いな
い。そこで彼は、

大将棋を泰将棋と名前を変えてしまった
し、その補強根拠となった天竺大将棋の
初期配列紹介も、特段しなかった

のであろう。つまり、将棋図式や
諸将棋図式の泰将棋と後期大将棋の仲人
位置に、特にトラブルが無かったとした
ら、将棋六種之図式には成立後であった、
天竺大将棋の初期配列が、記載されてい
た可能性が高いと、私は考えるのである。
(2020/03/18)

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諸将棋図式の太将棋=後期大将棋仲人の位置が変(長さん)

今回は、誤記だとみられるが、諸将棋図式
の後期大将棋の事である”太将棋”の、
仲人の位置が左右ズレしている点について、
原因を論題にする。回答から書く。

当初、左ページに10筋、右ページに5筋
書くつもりが、前付け文章が長くなって1
列ハミダシ、最初に入れた聖目位置がズレ
たので勘違いした

とみられる。では、以下に説明を開始する。
諸将棋図式の”太将棋”の記載は、以下の
ようなイメージのものである。

諸将棋図式大将棋.gif

web上では2020年3月中の現在、
以下のurlで概略見れる。ただし、駒の
動かし方ルールが実物には記載されている
が、そこまでは判らない。東京にある国立
公文書館へ行き、確か数千円程度の代金を
払わないと現物は入手できなかったはずだ。

https://blog.goo.ne.jp/shiotetsu_2011
/e/1b368d1c4e0b0b20b359e7e06cf03237

(上のurlの一行目のブログを呼び出し
2行目を付加すると、後期大将棋のページ
へ飛ぶ。)
 6段目仲人の位置が、右に1升目づつ寄っ
ている。
 先行関連研究として、大阪電気通信大学
の高見友幸氏の研究がある。太将棋(後期
大将棋)についてではなくて、太太将棋と
記された大大将棋の図に関するものである。
盤升目が17間ではなくて、17”目”と、
大大将棋だけ目にしており、『大大将棋が、
元々囲碁のように、交点置きだった』と、
高見友幸氏は説明している。太将棋の仲人
については、言及が確認されない。そこで
以下はたぶん本ブログがオリジナルだろう。
 上記の現物のページを見る限り、縁部分
に、大将棋がどんな戦に準えられているか
が、記載されているように読める。その縁
だが、巾がちょうど1升目のようである。
 そこで元々10筋分、左ページに作るつ
もりで線を引き、

そのつもりで左ページに、聖目を盤だけの
状態で、恐らく最初に書いたのではないか

と私には疑われる。最下段の駒を右から入
れ、縁の分がもう1列有るのに気が付いた
後で、左ページには6筋作り、升目を書い
てから、2段目より上段の駒を入れていっ
たのであろう。5段目まで正常に書いたが、

6線目の右聖目がズレているのを忘れ、
聖目を基準にして、うっかり仲人位置を間
違えて書いた

と考えれば、この図の間違いの原因は、一
応説明できるように、私には思われる。
 たぶんだが、諸将棋図式は、将棋図式
(松浦大六氏所蔵)よりも、成立が後だっ
たのであろう。松浦大六氏所蔵の将棋図式
の後期大将棋の仲人位置が、角行ではなく、

竪行の2列前になっていたために、ミスに
更に気がつきにくくなった

と考えられる。なお元々の問題は、
水無瀬兼成が、本ブログの説によれば
泰将棋を、将棋ゲームデザイナーとして作
成した時に、猛熊の位置が袖に1つズレる
ような、駒構成にしなければならなかった
のに、そうしなかったのが、発端だったと
みられる。そのため将棋図式(松浦大六氏
所蔵)で、泰将棋の仲人を、竪行の所に移
動させたのが、後期大将棋に波及したよう
にも見える。その混乱が諸将棋図式の後期
大将棋(太将棋)の仲人位置の混乱に繋がっ
たのかもしれない。
 以上の事から、諸将棋図式の太将棋の、
仲人位置の1升目ズレは、やはり基本的に
記載ミスで説明できるように私には思える。
諸将棋図式に関しては、大将棋を頻繁に指
す人間が写した書写本が、今に伝わるとま
では、恐らく言えないのであろう。
(2020/03/17)

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なぜ普通唱導集大将棋車駒三種は不自然感が無い(長さん)

以前述べたが本ブログに於いては、既に飛車の、
大将棋への導入は、徳島県川西大将棋時代の、
西暦1230年程度に有ると考えられている。
実証できるのは、だいたい西暦1300年頃成
立の、普通唱導集の大将棋唱導唄の第1節から
である。何れにしても本ブログでは、大将棋で、

飛車、反車、香車で、最初の3組駒が出来た

と考えている。なお、第三の飛車自体は、中国
シャンチーの普通の車や、更に前に伝来した、
東南アジア系か、イスラムシャトランジの普通
の車がモデルだと考える。何れにしてもこの史
論が妥当として、飛車の動きを考える事自体は
簡単で、かつ名称も、古代からある単語なので
可能だとは言える。しかしながら、平安大将棋
の作者が、それぞれ縦と横と斜め走りの3種類
の駒を作り、それぞれを奔車、横行、飛龍で表
したから、奔車が香車の前に来たのであろうが。

川西大将棋(仮説)の時点で2種を3種類の車駒に、
増量すること自体を不自然と思わなかったのは
なぜなのか、

一応普通唱導集の唱導唄が、その通りになって
いるので、事実として正しい事は確かとしても、

なぜ3組駒が、こうも早く簡単に作れたかのか

についてを、今回は論題とする。
 回答から書く。

 中国星座の、上・中・下台座から、思いつい
たのかもしれない。

 では論を開始する。
 平安大将棋が陰陽寮で作成されたと、ひとま
ず仮定する。陰陽道の占いでは、北斗七星が
占い盤の模様として描かれるほど、それとの連
想性が高い。平安大将棋は、西暦1110年に、
陰陽道流の星辰の運行に関連付けられて作られ
たと、川西大将棋の作者には、西暦1230年
より少し前に、了解されたに違いない。
 ところで北斗七星は、

中国漢代より天帝の乗る車

である。だから端筋に、北斗七星の車を連想さ
せる、車駒が大将棋で配列されたと連想しやす
いだろう。ところで、中国星座でも、

おおぐま座は、全体としてまとまりを持って
理解され、西洋星座の熊の足に対応する、
2星一組で構成される、3つある一列の並びに、

自動車の車体の下部を連想させる、上台座、
中台座、下台座という星座が存在する。

これらは、西洋星座で言う、おおぐま座ι・κ
星の組を上台、おおぐま座λ・μ星の組を中台、
おおぐま座ν、ξ星の組を下台の星座に、先頭
の西から、後続東に向かって、それぞれしたも
のである。つまり、

車輪は片側に3個のように、表現されている

とも取れる。なお漢代の壁画では、上、中、下
台を、天帝の乗る車の車体の下部とは、見てい
るように書かれて居ない。しかしながら、見よ
うと思えば、そう見るしか無いはずである。
 以上のような事は、平安大将棋から西暦12
30年頃に、

川西大将棋を作成するときに、考慮に入れられ
てもおかしくない

ように私には思える。平安大将棋は陰陽寮作だ
ったのだろうが。川西大将棋の作者も、陰陽道
に絡んだ者か、または、平安大将棋が、そのよ
うなもりである事を理解して、真似る程度の能
力を持った者の作だったのであろう。
 そのため、北斗七星の南方にある、おおぐま
座としてみる、熊の足先の3組の2星ペアを、
車輪と連想して、車駒を2種類から3種類へ、
自然に増やせたのではないか。モデルとしては、
だから、平安大将棋の初期陣形は全体として、
中国の天帝と、その乗る車のようなイメージの
形で、整形されるような方向で、まさしく陰陽
道流に進んだのでは無いか。
 以上のように、本ブログでは、推定するので
ある。(2020/03/16)

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八条院跡出土”中兵”駒は健寿御前日記と関連(長さん)

本ブログではかなり後になって八条院跡遺跡
で、鎌倉時代後期成立とみられる”中兵”駒
が、西暦1995年前後に、出土していた事
を知った。更にそれに加えてうっかりしてい
たが、西暦1183年にそこに住んでいた、
八条院暲子内親王が、貝覆と将棋を指してい
た事は、健寿御前日記で知られている。なお、
日記自体のその部分は、回想し西暦1220
年頃に書いたらしい。

時代が異なるので”中兵”は後代に八条院跡
に居た、別の者が使ったものに違いなさそう

だ。なお、健寿御前日記の作者の健寿御前
こと、健御前、or健春門院中納言、
or八条院中納言は、

藤原定家の姉の一人(同腹)

との事である。それどころか”健寿御前日記”
の後半部分は、藤原定家の編集加筆によるも
のだそうだ。ただし、問題の部分は健寿御前、
健御前が、”八条院中納言時代”つまり、
八条院暲子内親王に仕えた時代の日記を、
たまたま自分で書いた部分らしい。情報源は
以下の成書にある。
新日本古典文学大系”とはずがたり・たまき
はる”校注三角洋一、岩波書店、1994年。
なお、この成書の”たまきはる”という書名
と、”健寿御前日記”は同一だ。
 蛇足だが、藤原定家や健御前(健寿御前)
は、両親が若年で他界して葉室家の養子になっ
た、藤原俊成の子供であるという事である。
そこで将棋が出てくる、明月記の”四位仲房”
は、本ブログでは前に勝手に決め付けてしまっ
たが、葉室仲房がイミナである疑いが、やは
り濃そうである。
 さて上記成書で、前後の文脈を読むと、

八条院暲子内親王の好みは、囲碁より将棋の
疑いが濃い。だから、八条院跡は将棋ゆかり
の可能性が、やはり相当に高そうだ。

 というのも、”健寿御前日記”には、碁道
具が5回も出てくるが、皆八条院暲子内親王
の所ではなくて、後白河天皇の皇后で、
高倉天皇の母の御平滋子の居た、健春門院に
有ったと書いてあるからである。特に二番目
に記載の、新日本古典文学大系”とはずがた
り・たまきはる”で言うと、271ページの
真ん中頃、5行目に書いてある”碁”は、
囲碁をしているとの旨であり、大番所の人間
も打った事が判り、平家の関係者も、将棋は
依然謎だが囲碁はしたと見られるようである。
 更に以下蛇足だが。西暦1220年の時点
で、藤原定家は出家していたようで、囲碁・
将棋は僧職は禁止なのだろう。自分の執筆部
では、両方とも一度も、囲碁・将棋に触れて
居ないようである。何れにしても、明月記に
関連して、”健寿御前日記”の著作者である
健御前(健寿御前)も、将棋を指した可能性
は、かなり高そうである。記載箇所の前後の
文脈も、日ごろの奉公の苦労を労うために、
健御前の好きな、貝覆や将棋をしているよう
にも取れその可能性は更に高いと感じられる。
もっとも、指された将棋種は良く判らないが。
私の勝手な予想では、健御前(健寿御前)自
体は、藤原定家や葉室仲房に教わって、

両方指せ、かつかなり詳し

かった疑いがある。そして、日記のように
健御前(健寿御前)対八条院暲子内親王では、
標準型平安小将棋。それに対してその子息と
指す、
健御前(健寿御前)対春華門院(昇子内親王)
では、平安大将棋自陣4段型ないし、
徳島県川西大将棋を指した。そのため、
”皇族は平安小将棋を、双王で指すべき”と
の、昇子内親王の乳母、民部卿の局の主張と
衝突して、結局健御前は、

春華門院(昇子内親王)養育係を下ろされた。

そこで更に、”思い出深”く、後の語り草だっ
たのかもしれないと私は疑う。なお、日記に
手を入れて助成したのは、藤原定家が、平安
大将棋の改善推進に、やはり関与して、
春華門院(昇子内親王)養育のときに、将棋
のルールを変える原因となっている事に対す
る、罪滅ぼしからかもしれない。
 何れにしても藤原定家と健御前は、趣味が
近いのであろう。
 ちなみに、文書に対応する遺物が存在する
例は、場所が同一なら良いと条件を緩めても、
相当に少ない。八条院跡出土駒は、その種類
が特殊である以前に、今述べた点で、明らか
に大きな価値がある。(2020/03/15)

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陰陽寮安倍泰長の玄怪録岑順参照は事物紀原から(長さん)

本ブログでは、平安大将棋が西暦1110年頃
に成立した際、2段目中央に横行が入ったり、
日月星辰信仰にちなんで、飛龍、猛虎を導入し
たのは、太平広記の玄怪録の岑順を、陰陽寮の
安倍泰長の時代の者が参照参酌して作成した為
だとしている。しかし、将棋ゲームをデザイン
するのに、陰陽寮に有るとはいえ、怪奇小説に
ヒントがあるのが、いとも簡単に判ったのかど
うか、多少の心配も有る事には有った。そこで
今回は、

どうして、西暦1110年頃に、怪奇小説に、
将棋ゲームデザインのヒントがあることが判っ
たのか

を、論題にする。回答を書く。

北宋神宗の元豊年間(1078~1085)頃
に高承が巽した、”事物紀原”か、その元本の
どちらかが、日本の大内裏に有った

とみられる。
 では、以下に説明する。
 この書に関連して、日本で一般に出回ったの
は明代の出版書であり、江戸時代である。しか
し唐物が豊富な日本の平安時代の朝廷の所には、

太平広記も、初版の事物紀原かその元本も存在
したとみるのが自然

だと、私は疑う。よって、西暦1110年頃に
は、陰陽寮の安倍泰長は、どちらも読めたと
私は推定する。
 所で、事物紀原には将棋の項目があり、
牛僧儒の玄怪録岑順も紹介されているし、”
北周の武帝が象経を著作したので、駒の動きが
日月星辰のそれに則る”も既に出ている。だか
ら、陰陽道流に将棋駒種を決める事や、横行を
導入する事は陰陽寮の安倍泰長等が平安大将棋
を作成する際に、可能だったと見るのは自然で
ある。
 ”新たに将棋ゲームを作成しろ”というのが、
藤原摂関の当時の恐らく、藤原忠実からの依頼
だっただろうから、参考書をあたるのは自明だ。
よって、西暦1110年時点では、

事物紀原かその元本を読んでそれや玄怪録岑順
を参照して、新しい将棋ゲームを作成しようと
する事は、一応可能な状況なのではないか

と私は疑う。なお言い忘れたが、事物紀元につ
いては、問題の部分が、清水康二氏の
”『一条帝宮廷サロン将棋発祥説』批判”の
235ページに、webで見るとすれば、見れ
るようである。”巽者が高承”という事になっ
ているが、それについては、高承の時代に中国
シャンチーが中国完全成立しているかどうかが
謎なので、個人的には元本の書き方を、明代成
立本ではかなり直していないと、話のツジツマ
が合わない感じはする。つまり、
”北周の武帝によれば、『将棋とは』”
ではなくて、”北周の武帝(王)によれば、
『象経の新発明』に於いては”というのが元本
の表現でないと、まだ中国シャンチーが完全確
立されては、いない時代の成立だとすれば、変
だという事ではある。
 が、新猿楽記に将棋が初出した11世紀の末
頃に日本人の京都の上流階級が”事物紀原”の
将棋の項目の存在自体を、よく知っていた可能
性は、結構高いのではないかと私は疑う。なお
繰り返すが、中身はオリジナルと多少違ってい
ても良いが、玄怪録と”日月星辰の世界が駒種”
を紹介してはいたという意味である。すなわち
この時点で、中国シャンチーは、完全成立に近
い状態だったが、広く普及するのは少し後だっ
たのではないかと、今の所本ブログでは疑って
いる。だから項目”将棋”に関して巽者の高承
が、現在の中国シャンチーをイメージして、そ
の項目を解説していては、変だと言う事である。
 そして平安大将棋をデザインするときに、他
に情報が無かったとは断言できないが。陰陽寮
では将棋ゲームを作成するときに、玄怪録を参
照しようと言う動機付けに、事物紀原がなった
可能性が、あるという事は確かだと見るのであ
る。(2020/03/14)

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京都市八条院跡遺跡”中兵”六朝時代中国官名か(長さん)

以前、滋賀県文化財保護協会の三宅弘氏
の”将棋史研究ノート9”(西暦2018
年)に、表題の”中兵”が1995年前後
に京都市左京区八条三坊十四区(八条院跡)
遺跡にて出土したという内容が書かれてい
る事実を、本ブログで紹介した。そのとき
には”中兵は仲人の誤記か”と述べた。
その後、諸橋徹次著書の大漢和辞典の1巻
311ページ(漢字”中”)の所に、表題
のように、古代中国の官名であると記載が
あったので、報告する。
 諸橋徹次氏の大漢和辞典には、以下のよ
うな旨が、記載されている。
【中兵】読み:ちゅうへい。官名。
三国鼎立時代の、魏の五兵尚書のひとつで
ある。畿内の兵隊を掌どる。南北朝時代、
南朝の宋代には、左中兵、右中兵に分けら
れた。隋の時代に廃止になり、西晋時代に
別途存在した”中兵参軍”だけが残った。
通典、職官典、”兵部尚書”に”魏の時代
に、中兵、外兵、騎兵、別兵、都兵の
五兵尚書を置いたが、南朝の宋代の太康時
代に(?)、中兵と外兵が左右に分かれた・・

以上のような意味の事が、諸橋徹次氏の大
漢和辞典に書いてあるようである。
 以上の事から、八条院跡遺跡の将棋駒の
駒師が諸橋徹次氏の大漢和辞典に書いてあ
るような意味での中兵を作成したとしたら、

五兵尚書が中兵、外兵、騎兵、別兵、都兵
の5職

である事を、なんらかの方法で、知ってい
たという事になろう。
 荻生徂徠の広将棋の駒の名前の付け方の
ような駒だと言う事になれば、その例が、
江戸時代から鎌倉時代後期に、いっきに遡
る事にはなりそうだ。
 他の4兵の何れかの駒が、今後京都市市
内から出土したとしたら、以上の可能性も、
考慮に入れるべきだろうと私は思う。
(2020/03/13)

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なぜ韓国8角駒17星碁盤日本5角駒9星囲碁盤(長さん)

本ブログでは、日本の将棋駒が五角形で安定
したのは、五行説が相対的に盛ん。碁盤の聖
星が9星占いの中央位置打点型で、将棋盤の
聖星が、9星占いの線交点打ちであるのは、
9星占いが盛んであった為と見る。
 それに対して朝鮮半島では将棋(チャンギ)
駒が8角形で、碁盤の星が中央1星で周辺
16星の17星盤が存在したのは、だいたい
は、八卦が日本に比べて盛んであるためと、
考えている。今回は、遊戯史を少し離れるが、
その根本原因を論題にする。
さっそく回答から書く。

日本は火山が多く、露天掘りに近い天然資源
が朝鮮半島より比較において多いので、精練
が古代から始まり、その頃より盛んで、化学
への興味が強く、よって五行理論が古代に於
いて、より流行りやすい為

であろうと考える。では、論を開始する。
 5行説が盛んだと、五角形駒になるのは良
いとして、9星盤が卓越して17星盤になら
ない理由を最初に明らかに考えなければなら
なくなる。これも答えを先に書いてしまうと、

24方位が使われやすくなり、16方位が
使いにくくなるので、朝鮮半島の囲碁盤の
聖目型が日本では廃れた

からだと考えられる。中央の聖目の周りに、
16の聖目を置くのは、八卦を更に進めたケー
スに於いては、16分割を考えやすいからで
ある。
 それに対して、近世までの日本では、
甲乙丙丁戊己庚辛壬癸の戊己を抜き、
乾兌離震巽坎艮坤の艮巽坤乾を使って、24
方位を作っている。なお艮巽坤乾は当然16
方位を作るときにも使うので、日本と韓国等
とで同じと見られる。
 問題は甲乙丙丁庚辛壬癸を入れて24方位
を、古代に良く使っていたとみられるのが、

日本だけだ

と考えられる点だろう。24方位法だったの
で、16+1型の囲碁升目は、日本ではメジ
ャーにならなかったと考えるのが、自然だと
私は思う。なお、現代人は西洋流の16方位
が理解できても、24方位がピンとこないの
で、”年の恵方”を正確に表せなというのは、
著名な話である。では、24方位が日本人に
はスイスイ使える理由だが、

土星が邪魔なのを、五行に慣れていたので
よく知っていた為

だと私は思う。土用がややこしかったり、
そもそも9星占いが複雑なのは、土星が当て
はめられた項目の処理が、易学でややこしい
ためである。それに関して、火山と鉱脈が、
古代から結構よく知られていて、化学に関連
した五行に興味を持つ日本人にとっては、

五行木火土金水の処理の思考が見慣れていた

と考えられる。そのため、24方位で土星が
割り当てられた、戊己がなぜ抜けるのか、

誰もがピンときた。

それに対して、火山と鉱脈がより少ない朝鮮
半島では、北朝鮮の金鉱山の開発がアメリカ
資本による、江戸時代末で有った事から判る
ように、戦国時代に石見銀山のあった日本よ
りもかなり遅れ、五行や五亡星を使う習慣が、
日本に比べて、古代に関しては少しレアだっ
た。ので、古代には北朝鮮・

韓国では24方位法自体が、流行らなかった

のではないかと疑われる。盛んに使われたの
は日本よりも、こちらは導入が早かったと聞
く”風水”の導入による中世・李氏朝鮮時代
からなのではないか。
 古代に大陸からの帰化人が多かったのは、
本国では鉱山技術者が飽和して、元々アブレ
気味であったのに対し、白村江の戦いで敗戦
して朝鮮半島自体に足場を無くし、鉱物資源
も自前開発しなければならなくなった大和朝
廷の日本に、大陸の鉱山技術者が仕事の有る
のに、気がついたからなのかもしれないと、
私は疑う。何れにしても、朝鮮半島では以上
の結果、碁盤の17聖目や、16方位や八卦
の紋章・国旗が、より残りやすくなったので
はないか。
 以上から冒頭のような、遊戯駒と遊戯盤の
朝鮮半島と日本での性質の違いに関する結論
が、たぶん導き出せるのではないかと考える。
 蛇足だが、シッキムないしチベットで碁盤
が13聖目なのは、中国よりもより西方に近
く、西洋12星座の影響が、より強く現われ
たからだと私は思う。(2020/03/12)

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