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なぜ大・中将棋の奔王と龍馬間に龍王が有るか(長さん)

後期大将棋でも中将棋でもそうであるが、
中央歩兵列下には、真ん中の列から
奔王、龍王、龍馬と並ぶ。今回は、名称と
して、このうち中央の駒が龍王である事の

正当性

について議論する。議論する理由は、

本当に西暦1300年頃、普通唱導集の
大将棋で、本ブログ説のように、中央歩兵
下列が、このような並びだったのかどうか、

その尤もらしさ

を考察するためである。なお、以前に龍駒
を片方6枚にしているのは、蒙古来襲時の
呪術的意味が大きいと、本ブログでは論じ
ている。回答を書く。

3種類組駒に関して、1字合わせをする事
を狙って龍馬と奔王の間の駒は龍王とした

と見られる。
 では論を続ける。
 出土駒として出ておらず、よって、
普通唱導集時代の駒については、

不確定性の最も大きい駒種は、今や龍王

である。本ブログを開始した頃には不確定
性最大の駒は、”猛牛”と意識されたので
あったが、2段目配列が、別尊曼荼羅図の
大威徳明王図がモデルで有る事が、明白と
なってきた上に、雲南省のムアンの600
kg/1頭の肉を取れる牛が、猛牛(うし
のくに)元々の意味で有る事も、判ってき
た。ので猛牛が、西暦1300年から有る
という論は、少なくとも最近の本ブログで
は、ほぼ確実視されるようになっている。
 それに対し、実際に史料が乏しいのは、
普通唱導集大将棋の本ブログ版では、龍王
と意識されるようになった。ただし、本ブ
ログ盤の歩兵下段配列は、元々中将棋と、
後期大将棋とは類似になってはいる。
堅田B出土駒が、年代確定してきたので、
龍馬の存在も、だんだん確実視されるよう
になった。そこで龍馬が有るなら、龍王が
有りそうだという話には、なってきている。
 今回は更に他に材料は無いのかと言うの
が、議論の内容である。実は、

飛車、反車、香車の三つ組は、普通唱導集
の大将棋唱導唄で唄われているので確定

である。そこから眺めてみると、九星占い
が盛んな、わが国中・近世では、3つ組駒
が3種類有ると言うのが、比較的尤もらし
く思えてくる。なお、酔象、麒麟、鳳凰の
組も3つ組だが、西暦1260年を境にし
て、残りの3組はその前、酔象、麒麟、鳳
凰の組は、その後で、結局は1290頃年
時点で4組の三つ組み駒が出来たとしよう。
 以上が回答であるが、もう少し説明を続
ける。
 そうすると、普通唱導集大将棋は、1~
5段目が、
5段目:口口口口口口仲人口口口口口口口口・・・
4段目:歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵・・・
3段目:飛車横行竪行角行龍馬龍王奔王龍王・・・
2段目:反車飛龍嗔猪猛牛猛虎麒麟酔象鳳凰・・・
1段目:香車桂馬鉄将銅将銀将金将玉将金将・・・
であったから、3組が、
香車、反車、飛車
横行、竪行、角行
龍馬、龍王、奔王
という事になる。この9種が西暦1260
年頃までに、陰陽道流で、9星に準えられ
たので作られたのであろう。特徴は、

3つ組の中の、1字が隣同士で共通

な事である。鎌倉時代以降の武家の系図で、
殿様のイミナが、1字づつ共通になってい
るような感じである。しかし、車駒と行駒
と異なり、龍馬、龍王、奔王は、離れた
龍馬と奔王との間に、字の共通性が元々無
い。奔王の方が、少し前に作られたからで
あろう。
 つまり、

どちらにも1字だけ同じ字を入れる事が出
来るので、本来は龍を意味する、龍王と
いう駒を考えたとみるのが、かなり尤もら
しいことだ

と言うことになる。
 最近まで、今述べた事に気がつかなかっ
たので、龍王の駒の存在の必然性には、個
人的には、かなり悩んでいた。
 しかし、他に3つ組駒が2種類、
普通唱導集時代の大将棋に存在する事は、
栃木県小山市神鳥谷曲輪裏一文字金角行駒
という出土駒のパターンや、普通唱導集の
大将棋唱導唄の内容である、斜め走り駒の
存在示唆、更には、
鎌倉市の”搦口口口口口王馬馬仲口”木片
の存在から見て、かなり確かなのであろう。
 そのため9星占いが盛んなわが国では、
奔王と龍馬も3つ組駒の要素にするという
のがかなり尤もらしく、その場合は両側の
駒である、奔王と龍馬のどちらにも共通字
で、かつ、走り方向が4方向の大駒を、
作りやすい龍の字の入った龍王が、出来や
すいという事は、元々あるのだろう。それ
に加えて、蒙古から日本を守っているとい
う神道が作った竜神伝説もあり、龍は大将
棋に、飛龍、龍王、龍馬という具合にたく
さん有ってよく、ゆえに龍の本家の龍王が
更に作られた、という考え方で、余り矛盾
は無いのであろう。(2020/03/11)

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大内裏の火災時、藤原道長金銀処理は小右記記載(長さん)

藤原道長の御堂関白記は、三条天皇時代の
西暦1014年の部分を欠いている。この年
2月9日に内裏が火災で焼失し、藤原道長が
翌日焼け跡から金銀を回収させたと言われる。
今回は、この史実がweb上では、
https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/files/public/4/42832/
20170426094124502469/Shijin_3_54.pdf
の、広島大学とみられる下向井龍彦氏の
”『小右記』こぼれ話麝香は「へそ」と数える”、
史人、第3号、2011にあり、

藤原実資の”小右記”が出典である

点について確定したので述べる。以下、論を
開始する。
 本ブログでは、日本への将棋の伝来は、
天皇家へ大理国から将棋具が輸送された事に
よって起こり、それは西暦1014年2月の
内裏の金銀の火災焼失による補填と、後一条
天皇(当時皇太子)による、大鏡記載の
オモチャ要求が、動機だとしている。従って、
火災のときに、金銀が焼失した事実と、その
補填と、孫へのオモチャの用意の必要から、
一例北宋商人周文裔へ、”黄金宝玉、玉将、
金将、銀将付き立体駒将棋具”の手配要求が、

藤原道長に動機づけとして存在しないと、
都合が悪い。

他方御堂関白記は、残念ながら西暦1014
年分を欠いている。藤原道長が火災の翌日に、
”焼失した内裏の金銀を、回収させた”と指
摘する記事はweb上に私も発見していたが、

前に見つけたときには出典を、チェックしな
かった

そこで今回、出典のチェックを行ったところ、
冒頭のurlの広島大学で、小右記を講義で
使用している関係とみられる下向井龍彦氏に
よる、藤原実資の、西暦1014年分を含む
日記”小右記”に、その旨を記載した下りが
有るとの旨の紹介記事を発見した。よって私
は原典未確認だが、今紹介した記事によると、

『小右記の西暦1014年2月9日前後に、
”左大臣道長は焼け跡から金銀を回収させた”

と書いてある』との旨の事である。
以上、出典史料が完全にわかって、私もほっ
と一息だ。
 下向井龍彦氏によると、西暦1015年の
9月頃、三条天皇の元への唐物の到着が別途
あり、藤原道長の御堂関白記には無いが、

唐物を、博多から藤原隆家が搬送してきた事
についての記事が西暦1015年9月24日
の小右記のところに、はっきり書いてある

との事である。
 1015年9月の件の内容は、皮籠8つに、
香を収めて、藤原隆家が搬送してきたという
もので、香の中身は、「種々香、丁子百余両、
麝香十へそ、甘松、衣香、甲香、沈香。ウコ
ン、薫陸が収められていた」と書かれている
との事である。9月のときに、黄金将棋具が
献上されたとの記載は無いようだ。なお、同
webページには、ずっと後だが周文裔が、
1015年9月パターンの唐物を持って来た
ような、別の例が有り、麝香の数の数え方が
”へそ”で同じだとも書かれている。

以上の事から、周文裔等の渡来させた唐物を、
太宰府権帥または太宰権帥時代の藤原隆家自
身が、搬送してきた事が有るという事実例が
存在した可能性は、かなり高そう

だ。三条天皇が西暦1015年1月前後の、
何者かの来日のときの唐物で、藤原蔵規経由
の物品・動物うち、孔雀を藤原道長に与えた
のは既知だ。が、余り公家の日記等に残され
て居ない、同時期の

後一条天皇への分配物が大鏡記載の藤原行成
のコマのプレゼントと関連して、この付近の
頃全く無かったとすれば、相当に不自然な話

のはずであると私は考える。(2020/03/10)

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平安大将棋。溝口和彦飛龍位置3筋説正解の可能性(長さん)

故溝口和彦氏の13×13升目68枚制の
平安大将棋初期配列図には、自陣4段だとい
う以外に、飛龍第3筋という特色がある。
5段目:口口口口口口口口口口口口注人口口口口口口口口口口口口
4段目:歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
3段目:口口口口飛龍口口口口口口横行口口口口口口飛龍口口口口
2段目:奔車口口口口口口猛虎口口口口口口猛虎口口口口口口奔車
1段目:香車桂馬鉄将銅将銀将金将玉将金将銀将銅将鉄将桂馬香車
 残念ながら今となっては、桂馬の進み先を
飛龍にしたという理由付けしか明らかでない。
 ただしさいきんは本ブログも、西暦
1110年頃の平安大将棋の成立時、ゲーム
の出来の良いものを作る力が、一時的に減退
したと考えている。なぜなら陰陽寮師の世襲
化の為に、当のゲームの出来の良し悪しの力
をつける原動力となる、囲碁の流行を推進す
る、天体の中国星座内での観測情報が、一時
隠匿されて世間に広がらなくなった結果、
囲碁が低迷したからである。何れにしても
その結果、ゲームの出来の良いものを作る力
が、一時的に減退したと考えているので、

ゲームの出来が良いかどうか、以外の理由で、
平安大将棋の、最初のルールが決まる可能性
がある

と考えるようになってきた。よってそもそも
溝口氏の言うように、4段目自陣配列では、
発生当初は無かったのかもしれないと、益々
思うようになった。つまり以下のような原案
が、例えば藤原忠実に対して、陰陽寮の作成
担当の安倍泰長等から、西暦1110年頃に
示されたのかもしれないという事である。
原案1
4段目:口口口口口口口口口口口口注人口口口口口口口口口口口口
3段目:歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
2段目:奔車口口飛龍口口猛虎口口横行口口猛虎口口飛龍口口奔車
1段目:香車桂馬鉄将銅将銀将金将玉将金将銀将銅将鉄将桂馬香車
つまり、”標準的な”平安大将棋とは、飛龍
の位置だけが、1升目中央に寄っている形で
ある。
 では、この自陣3段目配列は、有り得るの
かどうかを、今回は論題にする。回答を書く。
有り得る。
陰陽寮等から藤原摂関に示された原案は、よ
り厳密には、ひょっとすると次のような初期
配列の大将棋だったのかもしれないとも考え
られる。
原案1´
4段目:口口口口口口口口口口口口注人口口口口口口口口口口口口
3段目:歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
2段目:奔車口口青龍口口白虎口口横行口口白虎口口青龍口口奔車
1段目:香車桂馬鉄将銅将銀将金将玉将金将銀将銅将鉄将桂馬香車
では、論を開始する。
 このように、陰陽寮で特に自陣2段目に加
える、新しい駒種が設定されたのは、以前に
述べた通り、

直接的には三角縁神獣鏡の獣種がモデルだっ
たと疑われるが十二神将と四神が考慮された

ものとも考えられる。つまり、それぞれ別に、
次のような原案2、原案3も有ったと疑われ
ると言う事である。
原案2
4段目:口口口口口口口口口口口口注人口口口口口口口口口口口口
3段目:歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
2段目:奔車蟠蛇飛龍走兎猛虎猛牛横行猛牛猛虎走兎飛龍蟠蛇奔車
1段目:香車桂馬鉄将銅将銀将金将玉将金将銀将銅将鉄将桂馬香車
原案3
4段目:口口口口口口口口口口口口注人口口口口口口口口口口口口
3段目:歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
2段目:奔車玄武青龍朱雀白虎口口横行口口白虎朱雀青龍玄武奔車
1段目:香車桂馬鉄将銅将銀将金将玉将金将銀将銅将鉄将桂馬香車
つまり、
十二支配列にしようと思えば、虎は3番目で

龍は5番目だから、鉄将の上に龍をおく必要
がある。

また四神配列にしようと思えば、白虎は秋で
青龍は春だから、

虎と龍の間の隙間は1升でなければならない
から龍はやはり鉄将の上でなければならない

という事である。
 だから原案2と3に加えて、三角縁神獣鏡
の2獣をもってきた、最初の自陣3段配列の
原案1系でも、

ゲームとしての出来の良し悪しを度外視して、
陰陽道等との関係を重視すれば、飛龍等は、
2筋目ではなくて3筋目にしたと考えた方が
自然

だ。ちなみに十二支のパターン原案2では、
端列を除外して7番目として馬を、下段に落
として、逆向きに中央に戻すように数えると、
桂馬が元々ちょうど良い位置に来る。
 従って、4段目化したときにも、溝口モデ
ルは考慮に入れられたのかも知れない。また、
2筋目に飛龍が移動するモデルが、結果的に
は正しいにしても、そのように確定したのは、
飛龍が角行動きで確定した時点であり、西暦
1110年よりは、少し後だったのかもしれ
ないと、私は最近は疑うようになってきたの
である。(2020/03/09)

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大将棋作成の陰陽寮。三角縁神獣鏡とも関連(長さん)

本ブログに於いては、平安大将棋の中段に、四神
または十二支のうちの、虎と龍だけ置いた理由に
関して、それぞれについて、イメージとして強い
ものを、陰陽寮にて2つ選択したとの見解を取っ
てきた。しかし、平安大将棋に亀と鳥が居ない
理由や、龍と虎の他に、最初から牛と猪を入れな
かった理由は、本当の所は謎であった。
 本ブログはゲーム史のブログであるため、六博
との関連で、従来より古鏡の方格規矩四神鏡には
注目してきた。しかし考古学会では三角縁神獣鏡
の方が、卑弥呼と関連して著名である。私がうっ
かりしていたのだが三角縁神獣鏡の2神は西王母、
東王父であり、

獣はまさに、虎と龍であって、平安大将棋の選択
と、どんぴしゃ

だ。だから、陰陽寮といわゆる青銅鏡や和製青銅
鏡に関連が深く、祭祀の道具として、陰陽寮にこ
れらが常備されている状況だったという事になれ
ば、龍・虎以外が排除される理由としては、より
尤もらしいと考えられる。そこで、今回は以上の
ような関連性が、実際に有るのかどうかを問題と
する。回答を書く。
有る。
以下のような研究例が、あるようである。
国学院大学の岡田荘司論文、”陰陽道祭祀の成立
と展開”、国学院大学日本文化研究所紀要、
第54集、1985年。
論文は、以下の千葉県の、中世墳墓発掘調査報告
での考察で、引用されている。
”有吉北貝塚における中世土壙墓とその出土遺物”
笹生衛(第2班 千葉東南部事務所)、
(年代出典等不明)
web上の掲載サイトは以下の通り。
エイチティティピー:
//www.echiba.org/pdf/kenrenshi/kenrenshi_015_16_3.pdf
”岡田荘司論文には、次のように書いてある”と、
今述べた跡発掘報告書の20ページ、通算258
ページ右下で、笹生衛氏は述べている。
”陰陽道で鏡を使用する祭祀には属星祭、蛍惑星祭
を初めとする星辰の祭祀が多いとされるが、その他
高山祭、天地災変祭、赤痢病祭等の災害や穢れに対
処する祭祀、または天曹地府祭、泰山府君祭のよう
な冥府関連の祭祀においても、鏡は祭具として多用
されている。”との旨、陰陽道祭祀の成立と展開に
は書かれているという。
 つまり、

鏡は大内裏の陰陽寮に、常備されていて、龍と虎の
書かれている三角縁神獣鏡ないし、それとモチーフ
が同じ和鏡の類を、陰陽寮の陰陽師は普段目にして
いた可能性が高い

と言うことに、なるのではないかと思う。つまり、
十二支の入った鏡や四神の入った鏡も、むろん有っ
たのかもしれないが。

龍と虎の2獣の、三角縁神獣鏡も有ったので、龍と
虎の2種類の動物だけを、平安大将棋の駒として選
択する事は、陰陽寮の関係者には直ぐに思いつけた。

以上のように、考えられるという事になるのである。
(2020/03/08)

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日本将棋が13世紀末無かったと確定できるか(長さん)

以前述べたように、滋賀県文化財保護協会
の三宅弘氏の、将棋史研究ノート9によると、
飛車・角行が成立したのは、13世紀中ごろで
ある。本ブログも大将棋で、これが導入された
としているので、賛成である。では、飛車・角
行が出土しているのに、小将棋の現代版

日本将棋がなぜ無いと言い切れるのか

を今回は論題とする。回答から書く。

裏が龍王、龍馬の飛車・角行が、鎌倉期に出土
しないうちはそう言えるだけである。

では、論を開始する。
 日本将棋の早期成立論として以下の例が有る。
 先行研究で著名なのは、明治時代の幸田露伴
の将棋雑考であり、二中歴で書き忘れただけだ
と指摘している。
 次に早い成立説は、木村義徳氏で、将棋纂図
部類抄を根拠に、曼殊院将棋図の成立時に、
日本将棋は有ると見ているというものである。
 また最近では、色葉字類抄二巻物、尊敬閣文
庫蔵本の、第1分冊/4冊末尾の一覧表、
”小将碁馬名”の成立年を、平安時代末と見て、
”日本将棋の成立が早いのではないか”と疑う
見解が、大阪電気通信大学の高見友幸氏から出
ている。
 本ブログでは、今の所、これらの見解を取ら
ず、戦国時代初期、西暦1500年前後が、
日本将棋の成立期と見ている。
 本ブログでこれらを否定できるとみる見解は、
幾つかの傍証であり、そのうち最有力なのは、

鎌倉時代末の状況を反映している麒麟抄

だろうと見ているのである。崩して書く成りに
関して、”金”のケースしか、指摘して居ない
からである。なお”麒麟抄に龍王、龍馬成りが
無い旨の示唆が有る”と、最初に指摘したのは、
増川宏一氏と認識する。増川氏の指摘当時は、
麒麟抄の成立が、平安時代の藤原摂関全盛期頃
と考えられていて、たとえば室町時代の小将棋
の実体は今より、更に曖昧だった。
 しかしながら、まえから判っていた事だが、

麒麟抄の記載は、鎌倉鶴岡八幡宮の成奔王の存
在事実を無視している

という点は、明らかである。つまり成りが金以
外のケースでも、”たまに”である程度なら、
それで良いと、麒麟抄は見ているのである。
 だから、

たまに、龍王や龍馬に成る、飛車や角行が、
鎌倉時代後期に有ったとしても、麒麟抄には、
成立年代をごまかすために書かない恐れもある

と言うことであろう。
 実は、新安沖沈没船出土駒と、石名田木舟駒
という、南北朝時代と室町時代前期に、まとまっ
て駒が出土したケースのみを集めても、将棋駒
の数は20枚前後にしかならない。この条件で、
角行と飛車が、1枚も出ない確率は13%はあ
る。つまり、飛車・角行が無いとは、出土駒の
統計では、今の所完全には確定しない。
 他には、普通唱導集の小将棋に飛車や角行の
記載が無い事、

栃木県小山市神鳥谷曲輪の角行駒の裏が、龍馬
と読める形跡が、ほぼ無い

事があるだけである。なお、木簡研究の32号
(2010)にも、小山市神鳥谷曲輪駒の記事
があるらしく、そこでは角行の成りは不明になっ
ているらしい。
 ほぼ1文字であり、馬の可能性は無く、金か、
二文字であるとすれば、”金(小さく)也”か
のどちらかだろうというのが、私の現物目視と、
赤外線写真の対応状況から受けた印象である。
ただし、

堅田B駒の裏が角行だと仮にしたら、大きく状
態は変わる

だろうとは思う。なお、戦国時代の静岡県焼津
市の小川城の出土駒が、私が知る限り、初出の

成り2文字目馬角行駒で、馬はeの字を、ひっ
くり返したように、崩したパターン

になっていたと認識する。
 堅田Bでは龍の形をとどめようとして、崩し
て書かないようにしているという点で、焼津駒
とは感じが違うが、仮にこれが焼津角行駒と、
そっくりだったとしたら、13世紀半ばに
日本将棋は無かったとは、言い切れなかったに
違いない事は確かである。
 よって冒頭のように、

龍馬に成る角行が、出土していないとされるう
ちは、日本将棋は鎌倉時代ではなく、戦国時代
初期の成立でも矛盾は無いと、今の所は言い逃
れ出来る状態

なだけのではないか。以上のように私は疑うの
である。(2020/03/07)

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石川県金沢市郊外堅田B裏不明龍馬駒木簡研究(長さん)

前に述べたが、本ブログでこの駒が龍馬と読める
事を指摘したのは、西暦2018年8月である。
他方、最近web上に見つかった、滋賀県文化財
保護協会の紀要31の三宅弘氏の西暦2018年
3月の文献”将棋史研究ノート(9)”には、本
ブログの発見より前に、この駒が龍馬と読まれて
いた事が記載されている。今回は、誰が読み取っ
たのかをチェックした結果を示す。
回答から書くと、

西暦2005年の木簡研究27号で”他の1面は
不明であるが、墨跡のある面は龍馬”と読まれて
いた

ようである。以下に補足する。
 この駒は、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒に記
載がある。発掘した当時と、天童の将棋資料館が
リストを作った当時は”□馬”としか読めて居な
い。発掘されたのは前にも書いたが、2002年
前後であるとみられる。3年後の2005年に、
木簡研究27号で紹介され、そこで”龍馬”と、
読まれていたらしい。13世紀中~後期と年代が
確定したのは、石川県が指定文化財にした頃の、
少し前であり、わりと最近の事と認識している。
 なお、三宅氏の将棋史研究ノート(9)にも、
天童の将棋駒と全国遺跡出土駒と同じスケッチは
あるが、駒の写真は残念ながらない。彼が、裏面
の墨跡の存在の有無を確認しているかどうかも、
実は、将棋史研究ノート(9)からだけでは、余
り良くわからない。三宅氏自身は反対面には墨跡
が、元々無いという可能性について文面から察し、

余り考えた事が無い

ように読み取れる。
 私の方は、妙な模様状の書き込みがあれば、ス
ケッチするはずなのに、それは無いなら、

少なくとも何かが濃くは、書いては無いのだろう

と、特にここ1年位は、決め付けていた事も確か
である。言われて見れば、どちらが正しいのか、

情報自体が、余り見当たらない

ので依然不明と見るのが公平だと、三宅氏の
”将棋史研究ノート(9)”を読んで、私も気が
ついた。(2020/03/06)

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1995年前後に京都八条跡で鎌倉後期の中兵出土(長さん)

かなり前なのに、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒
に未掲載の、大将棋系の駒として、表題の”中兵”
が、京都市市内にて出土しているようだ。下記の
web文献に記載がある。
”将棋史研究ノート9-飛車と角行の登場-”、
三宅弘、西暦2018年・紀要(滋賀県文化財
保護協会)、38ページ~
三宅氏により、”角行も飛車も、13世紀に成立”
との旨の紹介の後で、中将棋・大将棋系の駒とし
て、13世紀末(鎌倉後期)に成立の遺物として、
京都市左京区八条三坊十四区(八条院跡)遺跡
出土の駒の表題

裏不明”中兵”駒が、文面だけで紹介

されている。これ以外としては、木簡研究17号
(1995)に記載されている程度しか判らない。
何れにしても、駒師は

ほぼ仲人と作り間違えたと見て、良いのであろう。

中兵が仲人の間違いだと仮にすれば、仲人は
普通唱導集に出てくるのだからその時代の大将棋
の駒のようである。なお、普通唱導集作者の良季
は、私の記憶違いがなければ、八条院末裔の子息
か女官かどうかは良く判らないが、上流階級の女
性や子供の教育担当の仕事等を、兼務していたと
の情報が、何かに書いてあったように思う。良季
が、池の坊不断光院の僧もしていたという事から、
何か分厚い成書を辿ったと記憶するが、余り定か
ではない。
 よってこの中兵は、もしかするとドンピシャ、

普通唱導集の唄の”仲人”の可能性も、確率0で
は無さそうだ。

 京都市等により余り大きく広報されず、25年
の長きにわたってひっそりと、情報が隠れている
ようなのが、誠に残念である。(2020/03/05)

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なぜ江戸天文方から遠い島根県石見銀山で囲碁盛ん(長さん)

本ブログによれば、天文道や暦道からの働き掛け
により、その時代の囲碁が隆盛するかどうかが決
まるとの論を取る。その際、江戸時代なら天文方
に近い、江戸では効果が大きく、地方では緩やか
なはずである。所が、貞享改暦の頃より少し後に、
東京都や京都府からはかなり離れた、島根県の、
石見銀山付近で、囲碁が隆盛していたという話が
有る。今回は、この事実が、本ブログの論と矛盾
していないのかどうかを、論題とする。

説明可能である。鉱脈を発見する山岳修験者は
宿曜道師に近く、そうした者が集まる銀山の伝統
が、天文道や暦道による、囲碁の隆盛を引き起こ
していると考えられる。

では、論を開始する。
石見銀山で、囲碁が盛んであったと指摘するのは、
以下の成書である。
”囲碁史探偵が行く”、福井正明(囲碁九段)
西暦2008年、日本棋院。
 この成書の第33話、166ページから169
ページ付近に、記載がある。
それによると、西暦1703年頃から少し後の当
時の、島根県石見銀山付近の強豪囲碁棋士として、

吉田嘉右衛門、
出雲の強豪棋士として僧侶の劫雲坊(23歳)
古田徳右衛門、
古田甚右衛門、

以上の4名が居て、”今の県大会優勝者クラスよ
りも、恐らく上である”と書かれている。西暦
1780年代過ぎに成立した、島根県石見銀山付
近に在住の、恒松和惣太の棋譜録で、それが判る
という事である。同成書で”銀山が江戸直轄なた
め、江戸からの往来が当時あった。それにより新
定跡が早く入手できたのであろう”との旨が、
記載されている。以下私見だが。

そもそも囲碁自体が流行らなければ、定跡を知る
者が、仮に江戸から石見に来ても、鉱山関係の仕
事をしただけで、戻ってしまう

と私は疑う。

石見で、天文道や暦道に詳しく、渋川春海の遠隔
操作ロボットのごとくに、現地で囲碁を流行らす
仕掛人が、囲碁が流行っている事自体を説明する
には絶対に必要

だと、私は考える。が、恐らく、

天文道家的な人物が元禄時代ないしその少し後に、
島根県石見銀山には居た

のではないか。鉱脈が先細ってきた頃だと、上記
成書に書いてある。だから鉱脈探しを、幕府が指
示していた時期だとみるのが自然だ。所で鉱脈探
しは、修験者がしばしばするものだとの旨が、以
下の、別の成書に指摘されているように思う。
”金属伝説で日本を読む”、井上孝夫著、東信堂
西暦2018。
 上記成書の、14~16ページに、修験者が、
しばしば鉱山の、鉱脈の探索に関わっている事実
がある事が記載されているように、私には見える。
所で当時は神仏混合だし、修験者は仏教の修行を
する行者であるし、在来仏教の僧は概ね、仏典と
同様なレベルで宿曜道に明るいから、

鉱山の鉱脈探索の現場に、宿曜道、天文道や暦道
に心得を持つ修験者が、江戸~石見銀山を往来し
なから元禄時代頃に、現地で鉱脈捜索活動に携わっ
ていたと考えるのが自然

だと私は思う。占行為で鉱脈が見つかるわけでも
無かったろうが。もともと理科が得意であろうか
ら、天文道や暦道や、化学に関連した鉱脈探査が、
修験者の一部には出来るのだろう。だから彼には、
占星術のための天体の位置把握に関連した、囲碁
の普及力も備わっていると見るのが、自然なよう
に、私には思える。
 よって以上の事から。新鉱脈を発見する必要の
ある時代の、幕府直営で、江戸とのつながりの深
い主力鉱山では、陰陽道・暦道からの働きかけに
よって、囲碁打ちを付近の住民へ、推進するよう
な要因が生じやすいとは、言えるのでないか。
 つまり冒頭に述べたように、石見銀山で囲碁が
江戸時代の元禄期より少し後に流行っていたとい
う事実は、天文道や暦道と囲碁とに繋がりがある
という説に、完全に反するという要因にはならな
い事だけは確かだろうと、少なくとも私には思わ
れるのである。(2020/03/04)

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アルマゲストの月運動論は改良不能だったのか(長さん)

以前述べたが、古代インド人は”思想嫌い”であり、
事実と合わない概念は排除する性格を持っていると
した。馬が桂馬が元々との、本ブログの将棋の論と
関連して述べたのである。アルマゲストが18世紀
まで、インドの言語にアラビア語から、翻訳されな
かったのは、インド人が暦法との関連で、
アルマゲストの月運動論を見て、出差を説明するた
めの、月軌道の導円の、中心の地球に対する、
朔望月周期の時計回り回転(運動方向と逆)が、
奇怪に思えたためと考えられた。今回は概略的に実
際に、角度の偏差計算をして、図でその奇怪性を証
明してみる。答えから示すと、以下の図の青線のよ
うに、黄経偏差曲線が定性的に計算できる。

アルマゲスト.gif

 一目だが、山がイビツであり、頂上が平らになっ
たときを、月軌道の長軸が、地球軌道と平行になっ
たときと、仕方なくしたようだとは判る。

それにしても唸ったサインカーブからは、ほど遠い。

2つ極値が出るのは、重ね合わせが近点月の1/2
よりも少し大きい周期で、導円中心と月を回帰させ
ているのだから当然と言える。これでは、

もっときれいなカーブが実際だと、判っていたとみ
られる古代インドの暦担当者が、納得しなのは当然

だと私は思う。
 実は、どうやってもこうなるのではなく、実際に
チェックしてみれば判るが、この場合は単に、
導円中心の周回の方向を、反時計回りにして、
かつ、近点月の1/6程度の周回角速度に直し、
出差項が、2×朔望月-近点月の周期の、フーリエ
成分だという事を反映させさえすれば、以下のよう
にわりと簡単に、直せるものである。

改善アルマゲスト.gif

なお、上の計算は、昔のbasicを引っ張り出し
てきてやってみた。プログラムは下記の通り。
1000 cls
1010 HEN=3.14159265/180
1015 for kodo=0 to 3600
1017 rado=HEN*kodo
1020 X=100*cos(rado)-10-2*cos(0.17*rado)
1040 Y=100*sin(rado)-2*sin(0.17*rado)
1050 gaX=X+320
1055 gaY=200-Y
1060 pset(gaX,gaY)
1070 gosa=atn(Y/X)-rado
1072 if gosa<-3.14159265+1 then gosa=gosa+3.14159265:goto 1072
1075 'print gosa
1080 gaX=0.2*kodo+10
1090 gaY=350-200*gosa
1100 pset(gaX,gaY),5
2000 next kodo
 ちなみに、擬似的に面積速度一定になるように、
本当はエカントの周りで、月を等角運動させないと
いけない。が傾向は変わらないので、今回は略した。
略しても傾向が変わらないことは正弦定理と、ラジ
アン単位で角度θを表したときに、θが小さい範囲
で、θ≒sin(θ)である事から導ける。つまり、
計算途中の軌道の変化は、本当は、2倍程度大きく
なるはずである。また上記例では、周天円を使わず、
等価なので離心円で計算している。
以上は、ともかくとして。
 上のケースも、月までの距離が、実際より結構大
きくフレる事には変わりないので、現在のレベルで
は納得出来ない事は確かである。しかし上記のパラ
メータ調整の結果から明らかなように、青で示した

黄経偏差曲線はきれいに唸ったサインカーブである。

 恐らくだが、プトレマイオスが、もし上記のよう
な月運動理論を立てていたとしたら、数学や天文学
書のインドでの翻訳は、もっと身を入れて行われた
のではないかと、よって私は疑うのである。
(2020/03/03)

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なぜ日本風土記日本将棋は双王又は双玉でない(長さん)

最近気が付いたのだが、観音寺城下町出土駒
の時代の成立と見られる、明王朝期の中国の
書”日本風土記”に、日本将棋の玉駒が玉/
王一一であると書いてある。その時代滋賀県
では、双王を示唆する出土史料が、前記遺跡
より発掘されている。そこでなぜ日本風土記
の記載が、双王や双玉でなくて、日本の戦国
時代に、玉/王一一なのかを、今回は論題と
する。
 回答から書く。

九州博多付近の状況を、中国の中世文書は
反映するからだとみられる。

では、論を開始する。戦国時代に、地方た
とえば、福井県の一乗谷朝倉氏遺跡では、

日本将棋は成立し、かつ玉駒は玉/王一枚づ
つだった

とみられる。しかしながら、京都近郊では、
日本将棋は双王、中将棋以上が双玉だったろ
うというのが、本ブログの予想だ。朝廷で、
一例後奈良天皇の頃に、そのような状況だっ
たのだろう。中国王朝で、それが摘めない理
由だが、ずばり

中国人は博多に多かったから

であろう。戦国時代なので、博多から京都
への旅行も、外国人には億劫だったとみられ
る。
 だから、日本では地方で、日本将棋の玉駒
が、玉/王一一だったとしたら、地方の一で
ある、中国人が滞在している博多も、そうで
あったであろうと考えるのが自然である。だ
から日本風土記に、日本将棋の博多ローカル
ルールが記載されていたとしても、余り不思
議は無い感じが、少なくとも私にはする。
 なお博多または福岡では、中世成立の玉将
駒が既に発掘されている。であるから京都の
日本将棋と、日本風土記の日本将棋がズレて
いても、少なくとも史料として矛盾は無い。
 ひょっとしたら、以前に述べた、相互入玉
による引き分けルールも、九宮ルールが有っ
て、シャンチーでは玉駒が余り移動できない
との指摘を、中国人棋士から日本の将棋棋士
が博多で指摘されて知って、触発されて出来
た、戦国時代には、まだ博多付近のローカル
ルールだったのかもしれない。
 話を戻すが本ブログでは、鎌倉時代中期に、
西暦1260年型大将棋で、玉/王一一ルー
ルは成立していたと見ている。奔王駒の存在
を説明しやすいからである。しかしその後、
普通唱導集大将棋が滅びた後は、中将棋時代
には、双玉が主流だったとも考える。
 であるから、博多の玉/王一一は、日本各
地に、その習慣が有る事は、戦国時代の棋士
には明らかだったにしても、京都ローカル
宮中ルールを選択しないのには、それなりの
考えがあったのかもしれないとも思う。
その理由の一例としては、博多にはチャンギ
もシャンチーも、日本の戦国時代には知られ
ていたと、考える事である。シャンチーは、
玉駒を帥/将一一にするし、チャンギは、
漢/楚一一が、出始めていた頃であろう。
だから、日本の将棋も真似て、玉駒を別々に
したとしても、戦国時代の国際都市博多が舞
台なら、余りおかしくないのかも知れない。
 日本風土記の中国人著作者にとっては、
玉駒が別々なのは、当たり前に見えただろう
から、日本人が真似た結果だけ、風土記に、
さらりと書いた、だけなのかもしれない。
京都ルールについては、たまたまその時代、
治安が悪くて、たどり着けなかったので、
日本では小将棋はどこでも”日本将棋”の事
である事を確認するに、留めたのだろう。
 以上の事から、日本風土記の戦国時代の
日本将棋は、厳密には京都の日本将棋ではな
くて、博多の日本将棋と考えると、シャンチー
等の玉駒との比較から見て、状況を旨く説明
できるように、私には思えるという事になる。
(2020/03/02)

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