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福岡県上毛町桑野遺跡で弥生中期奔王墨書土器(長さん)

今回は、九州北部福岡県東部の、成立が際
立って早い奉王墨書遺物の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
57547_2_三ツ溝遺跡・長田遺跡・大池添遺跡・ウツケ畑遺跡・竹ノ下遺跡・.pdf
 発掘報告書の名称は以下のとおりである。
豊前バイパス関係埋蔵文化財調査報告第6集上巻
三ツ溝遺跡・長田遺跡・大池添遺跡・竹ノ下遺跡、
豊前バイパス関係埋蔵文化財調査報告第6集下巻
桑野遺跡・上の熊遺跡・小松原遺跡、
1997年、福岡県教育委員会。
 なお、pdf1が上巻、pdf2が下巻
である。
 遺跡は上記のように全部で7箇所あるが、
遺物はこのうち、桑野遺跡で出土したよう
である。
 遺跡の場所は、発掘報告書冒頭によると、
福岡県築上郡新吉富村と築上郡大平村
(当時)。上巻の遺跡群と下巻の遺跡群と
で南北に2つの村に跨っていたようであり、
桑野遺跡は南側の(旧)大平村に所在する
ようである。詳しい位置は第2下巻pdf
末尾の抄録によると上毛町(大平村)大字
下唐原1296-3。
 同じく巻末抄録によると、遺物が出土し
たのは、西暦1991年前後のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第2
pdfの第225ページ付近の記載による
と、遺跡自体が弥生時代中期と見られてい
るようである。遅くても中国王朝の前漢時
代の頃のようである。
 遺物の写真は、発掘報告書第2pdf、
桑野遺跡編の写真図版第34の最上段右上
に在り、遺物番号D211-61番との旨
ナンバリングされている。小型土器の台部
分の破片のように見える。

桑野図版34奔王.gif

 上図のように、中段中央から右に向かっ
て横に、漢字で第2字目の王の字が潰れて
いるものの、「奉王」と書かれているよう
にも見える、黒い煤模様が在る。
 大分県中津市に近い福岡県東部地点で、
弥生中期には有力者に貢物を奉じる識字層
が存在したという証拠のように見える。
九州北部では渡来人の到着が早く弥生時代
には漢字が存在しただろうというのが、本
ブログの従来よりの主張であるが、この例
も、九州北部の漢字の成立が相当に早く、
渡来人そのものが存在した事を示唆する遺
物と、解釈出来るように私見される。恐ら
くだが、日本には漢字が伝来したというよ
りは、漢字を日常使っている当時の文明人
的な人間集団自体が、漢王朝時代に、九州
北部に多数移住して来た事実があるとしか、
説明困難であるという事を、示しているの
であろう。(2022/06/20)

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岐阜県大垣市美濃国分寺遺跡で12C龍馬墨書陶器(長さん)

今回は、岐阜県・美濃国の国分寺跡付近から、
古代末期とみられる陶器に、龍馬と見られる
文字が、散漫に書かれているように見える出
土遺物の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は以下の通りである。
90223_1_国分寺遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
岐阜県文化財保護センター調査報告書第150集
国分寺遺跡、2021、岐阜県文化財保護センター。
 発掘報告書末尾の抄録によると、遺跡の
場所は、岐阜県大垣市青野町。遺物が出土し
たのは西暦2017~2018年およびその
前後のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書の第49ペー
ジによると、流路跡に落下していた灰釉陶器
であって、古代・国分寺に関連する物品で、
12世紀成立と見られているように、読み取
れる。
 遺物の写真は発掘報告書第14写真図版:
”出土遺物(4)”の第2段目左から2番目
に在って、遺物番号第48番とナンバリング
されている。

国分寺龍馬.gif

 上図のように、割れてからの書き込みと判
るような、底台を跨いで書かれた漢字の二文
字が存在し、龍馬か羆馬のどちらかのように
読取れる。字体はしっかりしているが、適当
に、そのへんの筆記具で書いたようである。

良馬が亡くなったので墓を建てて埋葬したが、
使っていた馬具に字を書いて添えた

ような物品のようにも見える。
 将棋と関係在るかどうかは何とも言えない
と見られる。書き方から見て、家族以外の他
人に見せるつもりの無いような文字列であり、
馬等が古代末にも識字層に愛玩用動物として、
飼われていた事を示唆する一例として、興味
深い物品であるように私見する。(2022/06/19)

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福岡県博多市博多遺跡で15C角行権衡(長さん)

今回は福岡県博多遺跡で15世紀成立と見られる
秤のバランス錘のような形の石塊に、漢字で角行
と書かれているようにも見える物品の紹介である。

第2字目が不明解であり、行とは考えられず、
衡等別の文字ではないか

と考えられる。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
91300_1_博多171.pdf
 発掘報告書名は、以下の通りである。
福岡市埋蔵文化財調査報告書第1414集
博多171(博多遺跡第216次調査報告)、
西暦2021年、福岡市教育委員会。
 発掘報告書末尾の抄録によると、遺跡の場所は、
福岡県福岡市博多区上川端町。遺物が出土したの
は同じく抄録によると、西暦2017年前後の事
のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書の第48ページ
の記載によると15世紀と考えられるように読み
取れる。金属器を生産している集落と考えられて
いるようである。
 遺物の写真は発掘報告書の写真図版第20図の
上段右に在り、遺物番号第41図の、通し番号
171番との旨の記載が在る。錘のような形の、
石製の秤の部品のように、私には見える。

博多角行.gif
 
上図のように中央に、名前を書くためのようにも
見える平坦部分があり、一けん角行と書いてある
ように見えるので驚かされる。平たいなら原始の
将棋駒に見えなくもないが。そこでよく見ると、
第2字目のツクリが消えていて、行の可能性は少
ない。はっきり判らないが、

第2字目は秤を意味する衡だとしても矛盾は無い。

発掘報告書には、ずばり秤の権(衡)と記載され、
秤の分銅のように私には見える。この遺物自体が、
文字通り分銅の銅ではなくて石製である理由は謎
であるものの、分銅そのものの生産集落なので、
このような物品が、元々有るのかもしれない。
 事実発掘報告書に、分銅としては軽い部類と私
には取れる旨の記載がある。角は角行の角ではな
くて、貨幣の形が長方形である事をもしかすると
指していて、

一分金・一分銀等の補助貨幣の量を、目方で図る
秤用だと明記する目的で、角衡と記載されている

と考えると、矛盾は少ないと見る。残念ながら、

15世紀なので中将棋が成立しているが、この、
福岡市博多区の遺物が、将棋と関連する可能性は
少ない

と今のところ、本ブログでは考える。
 博多は昔から商業都市であり、室町時代には既
に、貨幣経済が相当に進展していた様子が、伺わ
れる遺物であると私は見ている。(2021/06/18)

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長野県佐久市西八日町遺跡で6C奔王墨書土器(長さん)

以前、今回紹介する佐久市岩村田の西八日町
遺跡で仙人墨書遺物が発掘され、古墳時代
から、渡来系の文化人が山際に住んでいて、
有力者も居た開けた場所であろうとの旨紹介
した。今回は、それを支持する奉王墨書土器
が同遺跡で出土しているとの旨の紹介である。
なお、3㎞×3㎞程度の広さがあるため互い
に関連しているかどうかは謎だが、西八日町
遺跡は、岩村田遺跡群に含まれ、岩村田遺跡
群全体として、複数の将棋関連墨書遺物の出
土例を、本ブログでは過去に紹介している。
 さて遺物群の写真がweb上に公開されて
いて発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
115007_1_岩村田遺跡群西八日町遺跡Ⅰ.pdf
 発掘報告書の表題は以下の通りである。
佐久市埋蔵文化財調査報告書第287集
岩村田遺跡群:西八日町遺跡Ⅰ、2022年3月、
佐久市教育委員会。
 遺跡の場所は、今回についても長野県
佐久市岩村田字西八日町であるが字西八日町
は岩村田の2152-13付近との事である。
 発掘報告書末尾の抄録によると、遺物が出
土したのは、西暦1983年となっており、
報告自体が遅れた事を示しているようである。
 遺物の成立年代は、第1号と第3号竪穴
住居跡が6世紀前半との旨が、発掘報告書の
第7ページに、また発掘報告書の第52ペー
ジ付近の記載により、第54号竪穴住居跡は、
西暦700~725年の飛鳥時代末から、
奈良時代初にかけてとの旨記載がある。
 なお第53号竪穴住居跡は、西暦750~
775年程度の奈良時代後半であり、別の文
字史料、奉山が書かれている墨書土器の成立
年代である。
 遺物の写真は、第1号住居跡から出土した
奉王墨書土器が、発掘報告書の第302ペー
ジの、第1号竪穴住居跡出土遺物写真図版の、
下から2段目左に有り、遺物番号で第1竪穴
住居跡出土遺物の第5番との旨ナンバリング
されている。

西八日町奔王1.gif

中段左から画面の中央に向かって、横に左か
ら右に、漢字で奉王と書かれているように見
える煤模様が在る。
 第3号住居跡から出土した奉王墨書土器は、
発掘報告書の第303ページの、第3号竪穴
住居跡出土遺物写真図版の、最下段の左に有
り、遺物番号で第3竪穴住居跡出土遺物の第
7番との旨ナンバリングされている。

西八日町奔王2.gif

上段右に奉、その左下のほぼ中央やや下段に
王と、やや不鮮明ただが漢字のように見える
煤模様が在る。
 第54号住居跡から出土した奉王墨書土器
は、発掘報告書の第335ページの、第54
号竪穴住居跡出土遺物写真図版(2)の、
やはり最下段の左に有り、遺物番号で第54
竪穴住居跡出土遺物の第32番との旨ナンバ
リングされている。

西八日町奔王3.gif

右下に、煤に覆われているが漢字で奉である
と言われれば、そのようにも見える煤模様が
在り、今度は左上で、画面でも左上端に、
太いゴシック体で王と書いて在るようにも見
える。
 長野県佐久市岩村田付近に、古墳時代の6
世紀前半に有力者が居て、道教の仙人のする
ような祭祀をして暮らしている住人から、税
として何らかの貢物を取得していた事。古代
の律令国家が成立すると、住人は引き続き、
大和朝廷に対して納税していた事を示してい
るように解釈できるかもしれない。
 更に、第53号住居跡からは奉山墨書と
疑われる遺物が出土している。すなわち、
発掘報告書の第334ページの、第53号
竪穴住居跡出土遺物写真図版の、最下段の左
から2番目にそれは有り、遺物番号で第53
号竪穴住居跡出土遺物の第7番との旨ナンバ
リングされている。

西八日町遺跡泰山.gif

 写真の遺物の下の方の、中央やや左寄りに、
やや薄いが泰ではなくて奉と、漢字で書かれ
ているように見える煤模様が在り、縦にその
下の、遺物の底にかなり近い所に、比較的濃
く、山と読める模様が在り、縦に奉山と書か
れているように、上図から見える。
 奈良時代の後期であり、通常の山岳信仰の
祭祀をする、大型飾り土器かもしれない。以
前に紹介した、仙人墨書遺物と組み合わせて
考えてみると、

古墳時代の道教的泰山信仰は、奈良時代後期
には、いわゆる日本の神道の山岳修験者信仰
に時代と共に転換

したのであろう。山はいつも在るので、それ
に対する信仰そのものは、普遍だったという
事だろう。
 以上のように、長野県の山沿いの遺跡であ
るため、古墳時代には大陸から伝来した、
鉱山開発とも絡んだ、道教信仰が行われ、
有力者も存在した地であると見られ、古代に
入っても律令の村落が在り、現代でも理解可
能な山岳信仰が、普通に行われた地なのでは
ないかと、この西八日町遺跡については想像
する事が、一応可能であるように私には思え
る。(2022/06/17)

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島根県江津市森原下ノ原遺跡で泰山鬼等墨書土器(長さん)

今回は、島根県の森原下ノ原遺跡で4~5世紀
頃成立の泰山鬼墨書土器が出土し、中国道教・
墨子思想が古墳時代に伝来していた事を示して
いるのではないかという例を紹介する。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
115657_1_森原下ノ原遺跡1~3区.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
森原下ノ原遺跡1~3区、2022年、
島根県教育委員会。
 発掘報告書末尾の抄録によると遺跡の場所は、
島根県江津市松川町八神。遺物の出土は、以下
何れについても2019年~2020年、或い
はその前後で比較的新しい。
 遺物の成立年代は、発掘報告書の122ペー
ジ付近によると、道教関連文字土器が古墳時代
の4~6世紀の間と読取れ、別に奉馬墨書土器
を紹介するが、同じく132ページ付近の記載
から4~5世紀であるとの旨が読取れる。成立
年代は、それぞれの遺物の形状から判断したよ
うである。
 遺物の写真は道教関連文字土器は発掘報告書
の写真図版第40の最上段、左から2番目に在
り、遺物番号(スケッチ図)第115の9番と
の旨、ナンバリングされている。

森原下ノ原泰山鬼.gif

 上図のように、遺物の中央やや右に、縦に漢
字で「山鬼」と読めるような煤模様が有り、そ
の左の黒い塊は、奉のようでもあるが、崩れて
いてはっきりせず、更に左下に、少し濃い模様
で「泰」と書いて在るようにも見える。

「奉・泰山(の)鬼」のようにも見えるが、
やや曖昧

である。なお、泰の上に、すこし薄い模様が在
るが、左が切れている為か、残念ながらはっき
りしない。意図が上記の通りであるとすれば、

道教の墨子の「明鬼」等の思想が、5世紀前後
に島根県に伝来していた

と取れる。ただし、帰化人が存在すれば、書籍
を持参していただろうから、漢字で祭祀用土器
に、このようには書けたであろう。
 なお、遺跡で馬が飼われていたらしく、別途、
奉馬と読める墨書遺物が出土している。写真図
版の番号で、第68図の下のカラム”(2)
4層出土土師器”の右上であり、遺物番号で、
スケッチ図第125の第5番との旨ナンバリン
グされている、こちらは土師器の破片のとされ
るものである。

森原下ノ原奔馬.gif

 上図のように、右下隅に奉。その斜め左上に、
漢字で馬のようにも見える、黒い模様が在る。
 古墳時代には、道教に関して知識の在る恐ら
く渡来人により、道教に関連する祭祀が行われ
ていたが付近で馬も飼われていたとも取れる。
 島根県江津市付近にも、かなりの数の大陸系
の住人が、石見銀山から距離が在る程度は有る
ものの、付近に鉱脈が在るのか。古墳時代には
まとまって暮らしていたのかもしれないと、私
は疑う。道教の祭祀だとかなり明確に匂わせる
遺物の出土は、在るとすれば、文化伝来を解く
上で、かなり貴重な物品の可能性があるのでは
ないか私は思う。(2022/06/16)

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大江匡房は大宰府権帥で九州に下向経験が有る(長さん)

本ブログでは白河院政期に藤原摂関、藤原師通・
藤原忠実を抑える院政政治に加担した大江匡房
自身が、江戸時代に残る言い伝えの通り
9升目36枚制平安小将棋の確立者であろうと
見る。そして本ブログの主題である平安大将棋
の作成は、9升目制の旦代難点を突いた仕返し
と言うべきものであり、藤原忠実の依頼を受け、
「大江匡房将棋」の権威を落とすために陰陽寮
や若手藤原氏を束ねて、前者の長の安倍泰長が、
自ら立案責任者となって、2~30年程度の間
を置いて作り上げたものであるとする。
 大江匡房に囲碁の才が在る事は記録に残って
おり、碁会を主催している。が、将棋を指した
という記述は、江戸期の伝承以外には残ってい
ない。従って、淡くても良いから別に証拠を示
す必要は有るとみられる。
 他方本ブログでは、将棋が伝来したのは西暦
1014年に焼けた御所の飾り付け用、および、
後一条天皇の玩具として必要だったからであり、
隆盛し始めたのは(水無瀬兼成等、兼成は養子
だが元々の水無瀬家の先祖の)藤原隆家が、
大宰府権帥であった時代にほぼ同時になりその
ときに刀伊の入寇が有って撃退できたのだが、
「戦闘作戦を練る為の軍事教練として(自らが)
習熟していた、8升目32枚制原始平安小将棋
が撃退に役立った」と表敬訪問した後一条天皇
御前で、西暦1020年に藤原隆家自身がヨイ
ショして、将棋を持ち上げてくれたのが、発端
要因であると見る。なお藤原隆家は、この時点
で「内裏への出入り禁止身分」の可能性がある。
 以上の事から、大江匡房に将棋を指した証拠
は、直接的には無いのだが。将棋に縁があった
から、

大宰府権帥を経験し、それも晩年にもう一回
やっている

という点が、大江匡房にも在るとしたら好都合
である。本ブログの管理人は実はうっかりして
いたのだが。実際に大江匡房にはそのような
経歴が在る事は、webのサイトで容易に確認
出来る。以上の事に管理人自体、最近になって
ようやく気がついた。
 例えば、wikipediaの大江匡房の項
には、以下の内容が記載されている。
 「大江匡房は白河院制期に議政官の傍らで、
式部大輔・勘解由長官を兼務する権力者となっ
ていた。が、西暦1097年に57才前後で

大宰権帥となり、翌年に九州へ下向している。

更に、最晩年66才の西暦1106年に、
権中納言を辞してから

再度大宰権帥になった。

この際は病気で在京し続けた。そのため大宰府
の治安が乱れて問題になった」との旨の情報源
となっている。
 最初の赴任が藤原隆家に比べると遅いが、
その他の点では良く似ている。別途推挙される
理由は有るとしても、

将棋の成立に、藤原隆家と同じく、深く影響し
ているという事実が存在して、そうなったとし
ても特に不思議は無い事

だと、少なくとも疑う程度の事が可能な一致点
だと考える。なお麒麟抄の伝作者と偽称されて
いる事で名高い藤原行成は、藤原隆家の次代の
大宰権帥である。それに関連して隆家の後釜の
立場として行成は京都の世尊寺で、将棋作駒を
実際に指導していた疑いを、本ブログの管理人
は依然として個人的には持っている。藤原隆家
と藤原行成の行動に関するこれらの、記録に残
らない事実については例えば、晩年の

水無瀬兼成の、尋常でない生き様に、色濃く映
し出されて、実存在を暗示している

という事なのではないかと、個人的には疑う。
本ブログの現時点での立場は、以上のような
内容と、なっているのである。(2022/06/15)

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岩手県平泉町瀬原遺跡で近世奔王砥石(長さん)

今回は、岩手県西磐井郡平泉町の遺跡で、漢字で
奔王と書いたように見える砥石が発掘され、12
世紀の遺跡であると判明したが、出土場所の成立
が近世であり、漢数字で三十等と書いただけの
可能性の強い、出土遺物の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
12367_1_瀬原Ⅰ遺跡第5次・瀬原Ⅱ遺跡第9次発掘調査報告書.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
岩手県文化振興事業団埋蔵文化財調査報告書第507集
瀬原Ⅰ遺跡第5次・瀬原Ⅱ遺跡第9次発掘報告書、
2008年、国土交通省東北地方整備局岩手河川国道事務所・
(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター。
 遺物が発掘された場所は瀬原Ⅰ遺跡の方であり、
発掘報告書末尾の抄録によると、場所は岩手県
西磐井郡平泉町平泉字森下66-2。遺物が出土
したのは、西暦2006年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書の第33ページ
によるとB区の第16番土坑で出土したが、近世
のものと見られるとの事である。
 遺物の写真は発掘報告書の写真図版第51:”
出土遺物(4)”の下から2段目の右から2番目
にある丸い石の塊のように見える物品で、遺物番
号(石製品の)第8番との旨、ナンバリングされ
ている。

瀬原遺跡奔王.gif

 上図のように、左上に王か三か、漢字のように
も見える黒い模様が在り、その右側やや下に、奉
のようにも廿のようにも見える、やはり黒い模様
が在る。発掘報告書のスケッチ図にも、模様が一
部載っているが、報告書を見る限り、砥石表面の
汚れ模様のように見ているように読取れる。
 発掘で12世紀後半成立と見られる遺物も出土
しているので、兵奔王墨書との関連も疑われるが、
出土した深さから、近世に下るもので、発掘報告
書のニュアンス通り、砥石の汚れかもしれない。
残念である。
 中尊寺から北東に2km前後離れており、過去
将棋関連遺物が出土した地点と、隣接していると
いうわけでも無さそうだ。江戸時代に、平泉で、
中将棋等が指されていないという保障は無いもの
の、将棋と関連する可能性は、この遺物について
は少ないかもしれない。冒頭に述べたように、
将棋には関連性が薄く、墨書は砥石の数を書いた
「三十」等の文字である可能性が疑われる。
(2022/06/14)

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宮城県亘理町椿貝塚遺跡で縄文後期奔馬墨書土器(長さん)

今回は、宮城県の縄文後期遺跡から、無縄文
土器が出土し、漢字で奉馬と書いて在るよう
な煤模様が有り、草を入れていたのではない
かとされる、出土土器の紹介である。
 弥生時代に、有力者に馬を奉じる時に、飼
葉を入れていた器の疑いも有るように考える。

弥生土器がたまたま、混入している

のではないかという意味である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
10066_1_下草古城跡ほか.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
宮城県文化財調査報告書第146集
下草古城跡ほか、西暦1992年、
宮城県教育委員会。
 この発掘報告書には、8箇所の遺跡の
発掘報告結果が載っており、宮城県内で、
バラバラにいろいろな場所の発掘調査がこの
頃行われたことが判る。
 発掘報告書第3ページ表によると、今回話
題とする、遺物が出土した遺跡の場所は、
宮城県亘理郡亘理町逢隅上郡字椿。遺物が出
土したのは、発掘報告書の第129ページに
よると西暦1991年前後のように読取れる。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第148ペー
ジ(椿貝塚の)考察によると、縄文中期後半
から縄文時代後期であると読取れるが、発掘
報告書の第140ページによると、この土器
片等は無紋ないし縄文が消えている等であり、
縄文時代特有の文様が無い。
 遺物の写真は、発掘報告書の写真図版第5:
”下部貝層群出土遺物16~19層”の、
右下に在り、遺物番号(写真図版5の)19
番との旨、ナンバリングされている。深鉢土
器の下部と解釈されているようであるが、底
に鉢底穴が在るのかどうかは、報告書を読ん
でも良くわからない。

椿貝塚奔馬.gif

上記のように、左隅中央やや下に、漢字の奉、
右下に漢字の馬のような煤模様が在り、縄文
時代中期後半だとすると紀元前20世紀程度、
後期だとすると紀元前10世紀程度に、漢字
が伝来した事になってしまい、漢字成立前で
ある。以前に東北岩手県の、小出遺跡のとき
に論じたように東北では縄文時代が、西日本
の弥生時代の紀元前数世紀頃までは続いてい
たし、そもそも、この遺物に限っては、

縄文が検出できないので、縄文晩期やひょっ
とすると弥生時代のものである可能性も有る

と私見する。
 何れにしても、

奉の字の成立は、漢字の中でも飛びぬけて早
く、東北地方でも、紀元前後の頃には何者か
によって書かれ、

有力者に、飼い馬を献上する際等に、飼葉入
れに、奉馬と書いていた疑いが残るように、
私には疑われる。(2022/06/13)

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岩手県奥州市作屋敷遺跡で900年奔馬墨書土器(長さん)

今回は以前に「奉車と奉馬」5文字墨書遺物が
出土した、岩手県奥州市中半入遺跡の1km
圏内の遺跡で、成立時代は西暦900年前後と
見られる「奉馬」と書かれていると疑われる、
土器片出土の紹介である。奥州市の遺跡群の
付近に、対蝦夷戦争拠点となる城柵で、軍事用
に馬が飼われていた疑いが有りそうである。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
12772_1_尼坂遺跡・牡丹野遺跡・作屋敷遺跡発掘調査報告書.pdf
発掘報告書の表題は、以下の通りである。
岩手県文化振興事業団埋蔵文化財調査報告書第569集
尼坂遺跡・牡丹野遺跡・作屋敷遺跡発掘調査報告書。
西暦2010年、岩手県県南広域振興局農林部農村整備室・
(財)岩手県文化振興事業団。
 発掘報告書末尾の抄録によると遺跡の場所は、
岩手県奥州市胆沢区南都田字作屋敷487番地。
遺物が発掘されたのは、西暦2008年前後の
事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書の第70ペー
ジの記載によると、第5号土坑で話題にする土
器片は出土したが、9世紀後半~10世紀前半
に成立したと見られているようである。なお、
以前紹介した中半入遺跡の「奉車と奉馬」墨書
土器の成立年代は、9世紀後半との事であった
から、ほぼ同じ頃のものと考えて良いだろう。
 遺物の写真は発掘報告書の、作屋敷遺跡の
写真図版43:”古代の土器(5)”の上から
2段目左に在り、遺物番号67番とナンバリン
グされている、甕型土器の破片とされていると、
前記発掘報告書の記載から、読取れる出土遺物
である。

作屋敷遺跡奔馬.gif

 上図のように、右上隅に、漢字の馬であると
言われれば、そのようにも見える黒い煤模様が
在り、その左に漢字の奉のようにも見える模様
がある。なお、左上に2つ黒い煤模様の塊があ
り、その右側はやや薄いが、それも奉のように
も見える。左端の煤の黒い塊状模様は、判然と
しないように思う。
 中半入遺跡の南西1km以内の地点での出土
の為、牧場地帯であって、柵で軍用にする馬が、
西暦900頃飼われていたと考えると、ツジツ
マが良く合うように私見する。そうすると、
以前中半入遺跡で出土したと紹介した杯型の出
土土器に書いてあった「奉車」は、お偉方用の
牛車の事なのであろうか。或いは悪路が多い為、
日本ではあまり普及し無かったと見られる、「
戦車」が、珍しくここには実際に有ったのか。
 何れにしても平安時代中期には柵に関連した
施設が有り、12世紀半ば頃には、奥州藤原氏
の居所でもあった、大和朝廷が軍事的に拠点と
して押さえていた一帯なのであろう。(2022/06/12)

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岩手県大船渡市小出遺跡で縄文期奔王墨書土器(長さん)

今回は、岩手県大船渡市小出遺跡から、岩手県
の縄文中期末~後期とされる縄文土器とみられ
る出土遺物に、漢字の奉王のような煤模様が
あるとの旨の紹介である。西日本の弥生時代に
有力者に対して、縄文土器に貢物を入れて差し
出したのであろうとの、本ブログの解釈を示す。
 遺物の写真が、web上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
22959_1_岩手県内遺跡発掘調査報告書.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
岩手県文化財調査報告書第103集
岩手県内遺跡発掘調査報告書(1997年/年度)。
1998年3月、岩手県教育委員会。
 なお、この発掘報告書には”柳の御所遺跡”
を追加して加え、合計50箇所の遺跡の
調査結果が、概略だけだが記載されている。
 遺跡の場所は、発掘報告書第77ページの、
48:越喜来地区宅地造成事業/小出Ⅰ遺跡
によれば。岩手県大船渡市(気仙郡三陸町:当
時)越喜来字小出。遺物が出土したのは、
同じく発掘報告書第77ページによれば、
西暦1997年前後の事のようである。
 遺物の成立年代も、第77ページにあり、
岩手県における縄文中期末~縄文後期と、遺跡
自体が考えられているようである。
 遺物の写真は発掘報告書の、岩手県内遺跡
出土遣物の第4写真図版の、下から2段目の段
のカラムの24:小出Ⅰ遺跡の、左側端に在る。
比較的大きな、縄文土器の破片のように見える
遺物である。

小出Ⅰ遺跡奔王.gif

 上図のように、下段中央に、ダビデの星か、
または漢字の奉にも見える、黒い煤シミのよう
な模様が在り、その左側に”王”か”玉”のよ
うにも見える、奉よりも、幾分薄い模様が在る。
 続けると奉王であり、有力者にその時代に、
縄文土器に貴重品を納めて、貢いだように連想
される。奉が奔である可能性は薄く、将棋とは
関連しないようだ。しかし縄文時代中期末は西
暦前約20世紀。後期は前10世紀程度である
から、将棋の成立の問題以前に、漢字が成立し
ていない。が東北地方であるから、晩期使用の
土器が混入し、西暦前数世紀に、土器自体は成
立したのであろう。それでも漢字で、有力者に
差し出す貢物の器に印をつけるには、日本では
まだ早い。

紀元前後頃に、たまたま取得していた縄文土器
に、識字の在る人間が「奉王」の字等を入れて
物品を入れて納税したが、弥生時代の大船渡市
の有力者は気にせずに、容器ごと物品を受け取
るのが通例であった

という事なのではないか。晩期縄文人が、弥生
時代の有力者に、弥生人に混じって貢物を出す
事が在るという、確かな証拠となる大事な遺物
のひとつのように、私には思える。(2022/06/11)

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