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岩手県奥州市中半入遺跡で9C後奔車と馬墨書(長さん)

今回は、奥州藤原氏の勢力下であった岩手県
の奥州市(旧:水沢市)中半入遺跡(なかはん
にゅう)遺跡で、西暦900年前後とされる、
杯型の出土土器に、「奉車と奉馬」と5文字
書かれているように見える、奇妙な模様の在る
遺物の紹介である。なおこの遺跡からは、
「百八人兵」と、普通唱導集大将棋の本ブログ
版を連想させる、奇妙な墨書遺物が出土したと
以前本ブログで紹介した場所である。紹介した
発掘報告書は、2004年発行であったが、
今回紹介する遺物の載った報告書は、その翌年
2005年に発行されたものであり、両者は余
り出土時期が、離れてはいないようである。
 さて遺物の写真はweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
12602_1_中半入遺跡第4次発掘調査報告書.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
岩手県文化振興事業団埋蔵文化財調査報告書第465集
中半入遺跡第4次発掘調査報告書、
岩手県水沢地方振興局農政部農村整備室・
財団法人岩手県文化振興事業団、2005年。
 なお、「百八人兵」墨書土器が出土した発掘
調査は、第2次調査の分となっている。
 遺跡の場所は、末尾の抄録によると、岩手県
奥州市(旧:水沢市)佐倉河字十日市63番。
同じく抄録によると、遺物が出土したのは、
西暦2003年前後の事のようである。なお、
半入と十日市が1km前後西東で離れており、
第2次調査地点と第4次調査地点とは、その分
距離があるようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書の341ペー
ジ付近によると、遺物は第04B竪穴住居跡で
出土したが、遺構の切り合いと、出土遺物から、
住居跡04B成立は9世紀の後半、西暦900
年ないし、それより少し前のようである。
 遺物の写真は、発掘報告書の第92写真図版:
”土師器・須恵器9(SI04B②)”の右下
に在り、遺物番号第89番とナンバリンされ、
写真が上下に、側面と裏面とみられる2コマで
載っている。模様が見えるのは、そのうち裏面
の方である。

中半入奔車と奔馬.gif 

上図のように、左上から下に向かって筋によう
な黒い模様に沿って、「奉奉車」と書いてある
ように見え、車の横に、ひらがなの「と」のよ
うな模様が見える。「と」模様は文字に見える
土器の煤模様としては、珍しいものである。
 そして、左上の反時計回りに回転した「奉」
の下、左の端に、よく見ると「馬」と読めるよ
うな、薄い模様が在り、結局右から、

「奉車と奉馬」と書いて在る

ように見えてくる。これが

香車と桂馬なら、はっきりと平安小将棋の西暦
900年以前の成立が疑われる

ところである。「奉車」が特に珍しくて、何を
指しているのか謎であり、そのため少なくとも、

将棋と関連する匂いが残る。

特に、この遺跡では少し離れてはいるが、兵隊
が108人ないし120人、蝦夷に襲われたと
きに、反撃に出たことを表す墨書土器が出土し
ているという点を、本ブログでは以前紹介して
いる。そのため、この遺物の成立年代が

本当に西暦900年程度で間違いないのか、も
しかして西暦1150年ころの、奥州藤原氏支
配の時代のものなのではないか

と、遺物の詳しい成立年代を問題にしてみる必
要性は、若干だが出てきたのではないか。以上
のように、私見されるようになって来たと、考
えているという訳である。(2022/06/10)

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茨城県つくば市上野陣場遺跡で4C山将墨書土器(長さん)

以前つくば学園都市から少し東に外れた、
つくば市上野陣場遺跡で、10世紀成立の
王将墨書土器を紹介した事が在った。同じ
遺跡で、成立年代が6世紀早いが、筑波山
を奉じたとみられる、古墳時代初期4世紀
成立の山将墨書土器が、前と同じ発掘報告
書に出ているのを見つけたので、今回は、
そちらの方を追加で紹介する。
繰り返すと、pdfファイルは以下の通り。
18943_4_上野陣場遺跡.pdf
 古墳時代の遺物は、発掘報告書第1本文
pdfの前の方に説明が有って、第4写真
図版pdfに、こちらは前と同じく遺物の
写真が在る。発掘報告書の名称は、繰り返
すと以下の通りである。
茨城県教育財団文化財調査報告第182集
上野陣場遺跡、2002年、
都市基盤整備公団茨城地域支社・
財団法人茨城県教育財団。
 遺跡の場所と、出土した年代は王将疑墨
書遺物と同じであり、例言や冒頭の方に在
る抄録に載っている。
 場所は、茨城県つくば市大字上野字陣場
851番地。出土したのは、西暦2000
年前後。
 今度の遺物の成立年代は、第152号
竪穴住居跡で出土したが、発掘報告書第1
本文pdfの、第235ページ付近に
よると、遺物の形状から4世紀中頃の、
古墳時代初期と見られるとの事である。
 遺物の写真は、前期の第4写真pdfの
写真図版第100の上から3段目の右端に
在り、遺物番号竪穴住居跡(Si)152
号の通し番号:第1228番との旨、
ナンバリングされている。小型茶碗のよう
な形の土器に、私には見える。

上野陣場山将.gif

 上図のように、山の横棒が薄くてはっき
りしないが、山将と書いて在ると言われれ
ば、そのようにも見える、煤のような模様
が在ると私見する。筑波山が目の前である
から、山を奉じていると見ても、大きな矛
盾は無いかもしれない。将の字を古墳時代
初期に知っていたと考えないと矛盾するか
ら、その時点でもある程度の数居る住人が
日本人だと見ると、学園都市付近の日本人
にはその時代普通に漢字が書けたのかもし
れない。しかし日本人の書だとすれば、成
立が相当に早くなるのも、確かかもしれな
いと私は思うので。ひょっとすると、鉱脈
を求めてやってきた渡来人の食事用の、食
器だった可能性も否定できないのかもしれ
ない。以上外国人用/日本人用の確率半々
だと私は疑う。(2022/06/09)

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秋田県湯沢市館堀城遺跡で14世紀泰山墨書金属蓋(長さん)

今回は経文を入れる経筒の蓋の内面に、「
奉山」等の煤のような模様が在る、鎌倉後期~
南北朝時代の、土器では無くて、金属遺物の
比較的珍しい例の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
11452_1_館堀城跡.pdf
 発掘報告書の表題は、以下の通りである。
秋田県文化財調査報告書第3320集
館堀城跡、2001年3月、秋田県教育委員会。
 発掘報告書末尾の抄録によると遺跡の場所
は、秋田県湯沢市(雄勝郡雄勝町:当時)
寺沢字館堀10番地。
 遺物が出土したのは、西暦1999年前後
の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書の第123
ページ付近によると、12世紀末~15世紀
代の鎌倉時代から室町時代であると読み取れ、
末尾の抄録によると、13世紀~14世紀、
鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての平城
跡からの出土遺物のようである。
 遺物の写真は発掘報告書の第24(写真)
図版の最上段に在り、右側の経筒の蓋の内側
とみられる面に、黒い煤のような漢字模様が
見えると、本ブログでは見る。

館堀城泰山.gif

 上図のように、第1字目が時計回りに回転
しているし、第2字目の下端がはっきりしな
いが、奉山とも読めるような、黒い模様が有
る。神仏習合時代であったため、

山を奉じる巻物入れに、たまたま仏教関係の
経文を入れた

ようにも私見する。或いは中国渡来文書を、
領主の小野寺氏等は所持していて、奉山では
なくて、中国文書ないし、山を描いた室町時
代の掛け軸入れであって、泰山と書いてある
のかも知れない。
 巻物入れの蓋の底であるし、泰山は中国の
道教の聖地を示す固有名詞であるから、江戸
時代の大局将棋の、山将の成りの泰山から来
ている可能性は、恐らく少ないであろう。
(2022/06/08)

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島根県松江市出雲国府跡から古代泰山墨書土器(長さん)

今回は、出雲国国府跡から、国府時代とみられる
山奉と奉山の墨書土器・墨書瓦が出土しており、
国府で、山を奉じる祭祀も行われたとみられると
の旨の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
2801_4_史跡出雲国府跡5.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
風土記の丘地内遺跡発掘調査報告書18
史跡勢婁口府跡、2008年3月、島根県教育委員会。
 発掘報告書第1本文pdfの冒頭例言によると、
遺跡の場所は、島根県松江市大章町512-1番地。
遺物が出土したのは何れも、1968年~
1970年前後の、かなり以前の事のようである。
なお、この発掘報告書は以前に、女性の顔飾り置
き土器ではないかとみられる出土遺物を記録した
文献として本ブログで紹介している。出雲国府で
は、その他多数の墨書遺物が出土し2点程度、別
途本ブログで紹介したことがある。さてそれでは
だが遺物の成立年代は、発掘報告書作成の段階で、
未整理だが何れも、国府の時代である、古代に成
立した物品とみられているようである。
 遺物の写真は2品在り、山奉と書かれていると
本ブログの管理人に疑われている、お盆のような
形の土器は、写真図版第4pdfの第88(写真)
図版:”宮の後地区出土遠物”の、上段の遺物集
合写真の右下に在り、遺物番号第143-21番
との旨ナンバリングされている。広い皿か盆のよ
うな形の土師器とされる土器の、内側に煤模様が
あり、縦に大きく山奉と書いてあるようにも読み
取れる。

出雲国府山泰.gif

 次に”奉山”と書かれているのではないかと本
ブログ管理人が疑う軒瓦とされるものは、同じく
発掘報告書第4写真図版pdfの、第101(写
真)図版:”宮の後地区出土遺物”の下段カラム
の右上に在り、遺物番号第156-2番との旨、
ナンバリングされていて、発掘報告書第1本文
pdfの遺物観察表によると、国府建物用の物と
推定されているように読み取れる。

出雲国府泰山.gif

 上図のように、複数の漢字が書いて在るような、
黒い模様が見え、左端中央段に泰、中央やや左に
寄って最下段に、山と書いてあって、無理に続け
ると泰山にも読めるように私見される。
 国府で、いわゆる山を奉じる儀式等が、古代に
行われていた事を反映している墨書遺物なのでは
ないかと、私は疑っている。ここでは、いろいろ
な種類の、文字史料が出土するようだ。(2022/06/07)

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茨城県阿見町西郷遺跡で中世也駒墨書土器(長さん)

今回は、将棋駒名ではないが将棋ルールの
成駒の意味とも取れる、漢字で「也駒」と
書いてあるようにも見える、墨書土器の紹
介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は以下の通りである。
18452_1_西郷遺跡・南丘遺跡・長峰遺跡・数光遺跡・宮塚遺跡・右籾館跡・.pdf
遺物が出土したのは、このうち西郷遺跡で
ある。
 遺跡の場所は冒頭例言によると、
茨城県稲敷郡阿見町阿見字香取前2929
番地。遺物が出土したのは、西暦1989
年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、遺構外で出土したが、
発掘報告書の第142ページ付近によると、
中世であると、漠然と推定しているように
読み取れる。
 遺物の写真は、発掘報告書の第24番写
真図版の最下段右下隅に在り、遺物番号第
380番とナンバリングされている。土器
の底を撮影したように見える写真が載って
いる。

西郷遺跡也駒.gif

上図のように中央やや上に、明らかに墨書
が在り、発掘報告書には寿の旧字体の「壽」
であるとの旨の釈文が載っている。
 しかしながら、漢字はかなり崩して書か
れている字のようであり、

也句や、也駒とも読めなくも無い

と私見する。出世という意味でのお祝い事
に使われる器だったのではないかとみられ、

寿と書かれているのか也駒なのかは、これ
だけではカテゴリーが類似で、判定困難

なのではないかと私は個人的に疑っている。
なお興福寺西暦1058年物将棋駒も成る。
この遺物の字が将棋から来ていても、問題
は無いと認識する。(2002/06/06)

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宮崎県都城市山城遺跡で古墳期奔人墨書土器(長さん)

今回は九州宮崎県の山城遺跡から、奉人と書か
れた墨書遺物が出土したが、龍とも書かれてい
て、祭祀用のようだが、かなり怖い生贄のイメー
ジのある、どんぶり鉢型の器の出土土器の紹介
である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は以下の通りである。
3360_4_細井地区遺跡群.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
高城町文化財調査報告書第14集
細井地区遺跡群、2004年、高城町教育委員会。
 データベースに登録されたpdfファイルが
乱丁していて、第5→第6→第7→第1(ここ
より図版)→第2→第3→第4の順番が正しい
ようである。
 遺跡の場所は、最終pdfの第4写真図版
pdfの末尾に在る「抄録」によると、宮崎県
都城市高城町(当時:北諸県郡高城町)有水字
山城。遺物は第2次発掘調査の際に出土したよ
うであり、西暦2000年頃に発見されたよう
に、抄録から読み取れる。
 遺物の成立年代は、本文の2番目の第6本文
(2)pdfの第168ページ付近の記載によ
ると、第6号土坑で出土したが、古墳時代成立
の遺構と見られているようである。
 遺物の写真は、第4最終写真図版pdfの、
第65写真図版:”山城第1遺跡第2次調査
出土遺物1”の下から2段目の、右から2番目
に在り、遺物番号第26番と、ナンバリングさ
れ、先に述べた第6pdf168ページの記載
によると、土師器に分類される。丼ぶり鉢のよ
うに、私には見える土器のようである。

山城遺跡奔人.gif

 上図のように中央に縦に漢字で、奉人と書い
てあるが、奉の字が反時計回りに、少し曲がっ
ているようにも見える。奉のようであり、奔人
では無いから、摩訶大大将棋/摩訶大将棋とは
無関係であろう。
 生贄を捧げるようなイメージの文字であるが、
更には、その右横に龍とも読めるような煤模様
も在る。龍は実在し無いが、暴れているのを鎮
めるために、人柱でも立てる事になったのだろ
うか。とすれば、かなり穏やかならざる墨書だ。
熊本県の阿蘇氏の家伝の553年頃の阿蘇山の
噴火とされるものと、ひょっとしたら関連する
のかとも疑う。
 詳細不明だが。古墳時代に使われた祭祀用の
跡が近くに在ることを多分だが、示しているの
であろう。(2022/06/05)

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三重県亀山市大鼻遺跡で南北朝期奔金墨書土器(長さん)

今回は、三重県亀山市の遺跡で鎌倉時代末から
南北朝期にかけての、カワラケ型の土器に漢字
で「奉金」と書かれているように見える遺物が、
出土したと旨の紹介である。

奉金であり、奔金では無いので、摩訶大大将棋/
摩訶大将棋の、13世紀後半以前の成立の証拠
となる遺物では無さそう

である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
20491_2_大鼻遺跡.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
三重県埋蔵文化財調在報告100-5
大鼻遺跡、1994年3月、三重県埋蔵文化財センター。
 発掘報告書冒頭の例言によると、遺跡の場所
は、三重県亀山市太岡寺町字大鼻等。遺物が出
土したのは、西暦1985年~1990年の間
のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書の第158ペー
ジによると、第45号溝より出土したが、宋銭
が出土しておりそのタイプから、13世紀後半
以降と考えられているようである。ここでは、
13世紀後半の可能性が有るとしておく。
 遺物の写真は、発掘報告書第171番写真図
版(PL)の右上最上段に在り、遺物番号第
1678番とナンバリングされていて、杯状の
土器、あるいはカワラケのように私には見える。

大鼻遺跡奔金.gif

 上図のように中央左に、やや薄く漢字で奉と
書いてあるようにも見え、その更に左に金と書
いてあって、「奉金」と読めるようにも見える。
冒頭にも書いたが、

第1字目は奉であって奔では無さそうなので、
摩訶大大将棋/摩訶大将棋の13世紀半ばの成
立を証明する史料にはならな無い

ように、私には見える。
 近傍の河川で砂金がかつて、取れたのではな
いだろうか。
 荘園領主の金蔵が、近傍に存在したのかもし
れないと私は疑う。(2022/06/04)

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埼玉県熊谷市前中西遺跡で弥生期中期末龍馬墨書土器(長さん)

今回は、関東の埼玉県熊谷市で弥生期中期末
(紀元前後)の、龍馬墨書遺物の紹介である。
遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
1659_1_前中西遺跡Ⅶ.pdf
 発掘報告書の表題は以下の通りである。
埼玉県熊谷市埋蔵文化財調査報告書第12集
前中西遺跡Ⅶ、2012、埼玉県熊谷市教育委員会。
遺跡の場所は発掘報告書末尾の抄録によると、
熊谷市上之2573番地1。遺物が出土した
のは、西暦2008年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第83ペー
ジ付近の記載によると、第2次調査の第12
号住居跡で出土した、弥生時代の甕型土器の
破片とされ、弥生期中期後半成立と見られて
いるように、発掘報告書からは読み取れる。
 遺物の写真は発掘報告書の写真図版第23
の8つのカラムのうちの最下段左下の、”
第12号住居跡 第45・46スケッチ図、
No.103~117番遺物”の、最下段の
左から2番目にある。図46スケッチ図によ
ると、遺物の番号は、第113番とナンバリ
ングされているようである。土器のカケラの
ようである。

前中西遺跡龍馬.gif

 上図のように、かなり小さい破片であるが、
中央、やや左に寄って漢字の龍のような煤模
様が在り、その左下に同じく漢字で馬のよう
に見える模様が有る。

俊馬用の甕の破片なのかもしれないが、関東
としては、偶然模様で無いとしたら、かなり
早い成立時期の文字

であろう。
 埼玉県熊谷市付近にも、渡来人が鉱脈等を
探して、移り住んでいた事を示唆しているの
かもしれない。(2022/06/03)

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盤上石数争いゲームの王朝囲碁と位置天文の天体視位置測定は整合(長さん)

本ブログでは、中国で発生したいわゆる囲碁は、
前漢王朝期以降に成立し、位置天文学で行う、天球
図の作成作業を、囲碁ゲーム中に行っているかのよ
うな格好のゲームへ、石取り石数争いゲームであっ
た原始囲碁を整備したものであるとしている。根拠
は、①盤路数の17路から19路への転換が、
こぐま座アルファー星が、赤緯の85.0度を越え
る時代とぴたりと一致する事。②日本での囲碁の、
初隆盛記録が、概ね地球・月・太陽の3体問題に起
因して不規則に変動する、朔瞬間時刻を測定するた
めの月の視位置測定としての位置天文測定が、唐王
朝が暦を平朔から定朔へ変更し、かつ白村江の戦の
際の日唐対立で、暦そのものの手法の輸入供給に、
リスクが生じ始めたために、日本において、自まい
で必要になるとみられる時点に、ぴたり一致する点
による。その他、③吉備真備が俗に、囲碁伝来者
とされている事と、測影鉄尺・歳差加味の暦法の伝
来者であるという、後者は確かな事実を組み合わせ
たときに、囲碁路の17路/19路変換の情報伝達
者と特定/推定すると、話のツジツマがぴたりと合
う事なども、本ブログでは位置天文と、中国タイプ
現状囲碁の本質とのつながり示唆の傍証としている。
 しかしながら、視天文学の測定では、対象の位置
精度の桁を上げる事が問題になるのに対して、もと
もとの囲碁は、王銘腕(漢字は正確には肉月では無
くて、王へん)の「世界の将棋ルール(日本棋院)」
によると、盤に石をより多く乗せるように指せた者
が勝ちになるという性格のものであったという事で、
少なくとも表面上、

直接的なカテゴリーレベルの一致が無い。

 そこで、以下に、なぜ盤に多く碁石を乗せた方を、
より優位といるゲームが、天体の位置測定の精度を
問題とする視位置天体観測の、優位者/有能な天文
博士と同一視できるとみなせるのかを問題とする。

位置天文学で、天球儀に対応するメルカトル図法の
座標図式で、平面的に半球天球図を作成したときに、
視力の良い者の方が、恒星がより多く見えるために
極限等級が高くなり、それにより基準恒星の数が多
くなって、その次の作業プロセスでする、目的とす
る天体の位置精度が上がると考えた

から。以上が答えである。さてそれでは、以下に
補足する。
 恒星は、半天で6.0等級までで約3000個だ
が、6.5等級なら4300個位になる。目的の天
体の位置を、恒星から相対的に割り出そうとしたと
きに、限界等級が上がると隙間に更に暗い恒星が入
る。ので視位置座標を測定しようとしている目的と
する天体の座標を測定しようとしたときに、

基準点の数を増やす事が出来るので、中国漢王朝の、
王立天文台の天文博士は、視力が高いほど、当然有
能とされた

であろう。位置測定方法は比較的単調なので、天文
博士の力量は、視力が高くて、準備作業であるメル
カトル図法、半天恒星天球プロット図;すなわち囲
碁の盤に、基準恒星をより多く書き込む;更にすな
わち盤に、より多くの石を乗せる事の出来た方が、
より有能のごとしとみなされたという意味である。
 視力が高いのと、四方囲まれると相手に石を取ら
れる等のルールである為とは、盤上の石/天球図上
の星の数がそれぞれ、より多くなるメカニズム自体
は合致していないのであるが。
 結果として、基準恒星に準えられる碁石の、終局
時の数で、囲碁では勝敗が決まったので。囲碁棋士
の強さは天文博士の有能度と合致していると見なさ
れた。その結果中国古代囲碁は、盤の路数当時17
路が、実際のメルカトル天球図の10°毎の+80°
から-80°縦線型(当時は±90°線削除)。横
は角度型(19世紀の流星記録観測用星図型)の、
時角の時間40分刻みの+6時から-6時と合わせ
(当時は±6時00分の「地平線線」を削除)た
横線型。

以上17×17路型で整備し、いわゆる中国文化圏
で指される碁の基本形として、紀元より少しだけ前
に成立した。

以上であろうと私は考えるのである。(2022/06/02)

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岐阜県揖斐川町戸入村平遺跡で縄文期奔水彩色石皿(長さん)

今回は、縄文時代の遺跡から、縄文時代の
石皿と見られるが、近代の局面印刷技術に
よる絵柄と、水という文字が書いてあるよ
うに見える、石材出土の話題である。近代、

遺物が化粧庭石等に転用された疑いが有る

のではないかと私見される。
 遺物の写真がweb上で公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
1370_1_戸入村平遺跡Ⅱ小谷戸遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
岐阜県文化財保護センター調査報告書第64集
戸入村平遺跡Ⅱ・小谷戸遺跡、西暦2000年、
財団法人岐阜県文化財保護センター。
遺物は、このうち戸入村平遺跡で出土した
ようである。
 発掘報告書末尾の抄録によると遺跡の場
所は、岐阜県揖斐川町(揖斐郡藤橋村:当
時)戸入村ノ内2。
遺物が出土したのは、西暦1998年前後
の事のようである。
 遺物の成立年代は、遺構以外のところで
出土したが、発掘報告書では縄文時代の
石皿であると考えられているように取れる
旨が、報告書の第165ページ付近に在る。
 遺物の写真は発掘報告書の写真図版の第
63の左側に在る、2つの石皿とされる石
材である。遺物番号としてそれそれ上から、
第344番・第346番とナンバリングさ
れている。

戸入村平奔水.gif

両方共に、下部にかなり大きく、細い線で
漢字で水という字のに見える模様が目立ち、
その上に両方共に煤けているが「奉」と書
いてあると言われればそのようにも見える
模様が有る。岐阜県の縄文時代では、晩期
だとしても、水という漢字等の成立が、通
説に比べて飛び抜けて早い。
 それ以前に、遺物番号344番の右の、
同じ何等か特定の色の色材で描いたように
私には見える、モノクロ写真の水辺の草の
ような模様が、

シルクスクリーンで、グレーではなく何ら
かの有彩色の色素が入った塗料を、印刷し
たような、近代の局面印刷技術品

のように見える点が、幾らか不可解である。
 よって今のところ本ブログでは、この文
字の成立は縄文時代ではなくて近代であり、
縄文時代の石皿を、間違って化粧庭石とし
て使用してしまい、水場に飾りとして、し
ばらく近代置かれたものではないかと、私
的に疑っている。(2022/06/01)

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