SSブログ

千葉県八千代市浅間内遺跡で古代子奔王墨書土器(長さん)

今回は、千葉県八千代市の遺跡で奉王の頭に
「子」の付いた子奉王と読める墨跡の有る、
古代成立の椀の形の墨書土器の話題である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
71884_1_千葉県八千代市浅間内遺跡・白筋遺跡・沖塚遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
千葉県八千代市浅間内遺跡・白筋遺跡・沖塚遺跡、
2007年、八千代市辺田前土地区画整理組合・
八千代市遺跡調査会。
 遺物はこのうち、浅間内遺跡で出土したよ
うである。
 発掘報告書本文末尾と写真図版の間の抄録
によると、遺跡の場所は、千葉県八千代市
村上字浅間内2818-1。遺物が出土した
のは、西暦1994年~2004年の間の
ようで、たぶん第7次浅間内遺跡発掘時の、
2002年前後である。
 遺物の成立年代は写真図版に奈良・平安期
の記載が在り、本文第199ページでも、
古代の土器片に分類されている。
 遺物の写真は、発掘報告書の写真図版第
23:”浅間内遺跡出土遺物(14)”の
右下隅に在り、”第7次遺構外”との旨の、
コメントが付けられている。スケッチ図第
160の第2番遺物に対応するようであり、
「子券」かもしれないとの旨、墨書の釈文が
発掘報告書で示されているようである。

浅間内遺跡子奔王.gif

 上図のように、第2文字に右上点が有る
のが謎だが、「子夫王」で、夫が発掘報告書
の指摘どおり「券」の横3本線になっていて、

「奉」の東北北海道型の異字体

になっているように、私には見える。

「子奉王」のようでもある

という事である。
 法事か祭祀用の土器で、別に溝116から
「母天星主」のようにも読める墨書(釈文は
堤生)があり、母子の同時葬儀か、古代の星
の信仰のようなものを私には連想させる。
 「子」が余計なので、将棋とは無関係と見
られるが、比較的内容が一定の古墳時代まで
とは異なり、古代になると多様な墨書土器が、
出現する事を物語っているように感じられる。
(2022/09/20)

nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

富山県小杉町黒河中老田遺跡で奈良期奔王墨書須恵器(長さん)

今回は、表題遺跡で祭祀用の高級器とみら
れる奈良期成立の、須恵器土器に奉王等と、
墨書されている例の紹介である。
土器の生産地であるため、古代の祭祀用の
比較的高級な須恵器土器も、出土する場所
であるという事のようである。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
14193_6_富山県射水郡小杉町黒河尺目遺跡・
黒河中老田遺跡発掘調査報告.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
富山県文化振興財団埋蔵文化財発掘調査報告第25集
黒河尺目遺跡・黒河中老田遺跡発掘調査報告、
西暦2004年、財団法人富山県文化振興財団
埋蔵文化財調査事務所。
 発掘報告書冒頭の例言によると遺跡の場
所は、富山県射水郡小杉町黒河。遺物が出
土したのは西暦2000年前後の事のよう
である。なお黒河尺目遺跡は中老田遺跡の
南に近接し、相互の距離は100~200
m程度で至近のようである。
 遺物の成立年代は、話題とする遺物は、
発掘報告書第2本文pdfの第210ペー
ジ付近の記載によれば第180番土坑より
出土し、8世紀第2四半期の奈良時代と、
みられているように読取れる。遺跡はこの
頃、土器製作集団の粘土採集場に使用され
ていたと、推定されているようである。
 遺物の写真は、前記第6黒河中老田遺跡
の写真図版pdfの写真図版第93の最上
段に在り、遺物番号第176番とナンバリ
ングされている、残念ながら粉々だったよ
うであるが、復元すると椀の形の、形の整っ
た須恵器のようである。

黒河中老田奔王.gif

 上図のように、写真の土器の左上に漢字
で「奉」のように見える煤模様が在り、そ
のやや斜め左下に、王が4つ有って、本ブ
ログの解釈では、

「奉王王(改行)口王王」

と書かれているように、黒い模様が見える。
 祭祀用の、かなり形の整った土器で、現
地は当時、高級土器の生産地だったのでは
ないかと個人的に疑っている。(2022/09/19)

nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

長野県木島平村根塚遺跡で古墳期奔王墨書土器(長さん)

今回は、古墳時代等2世紀~6世紀成立とみら
れた、「大」刻書遺物が話題になった表題遺跡
の共出土土器に、漢字で「奉王」に見える、煤
模様が有るとの旨の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
8351_1_根塚遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
根塚遺跡、西暦2002年3月、木島平村教育委員会。
 発掘報告書末尾の抄録によると遺跡の場所は、
長野県下高井郡木島平村大字往郷字根塚。
遺物が出土したのは西暦1996年~2000
年の間のようである。
 遺物の成立年代はB区で出土し、発掘報告書
第47ページ付近の記載によると、弥生後期の
2世紀頃と発掘担当は推定したが、明快な刻書
遺物が共出土して話題となり古墳時代(4世紀~
6世紀)と再考されたようである。ここでは、
古墳期成立と仮定し、以下に議論する。遺跡は、
その結果墳墓丘と考えられるようになったと取
れる記載も、発掘報告書に有る。
 遺物の写真は、発掘報告書の写真図版第11
の中段カラム、B区出土土器の下段左から2番
目に在る。ナンバリングは無い。広口の小型の
甕のように、私には見える。

根塚遺跡奔王.gif

 上図のように、土器の上段中央に左から右へ、
漢字で「奉王」と読めるような煤模様が在る。
 現地に古墳時代に鉄精製等、鉱山資源開発に
より巨万の富を得た有力者がおり、「大」等と
評され、王として没後に、4世紀ごろに祀られ
たのが遺物の成立理由と考えても、極端な不自
然性は無いと、今の所私は考える。(2022/09/18)

nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

岩手県盛岡市飯岡才川遺跡で9C奔土刻書土器(長さん)

今回は、古代の岩手県の律令村で奉土と刻られ、
漢字で王に見える模様も有り、朝廷奉納用品の
容器ではないかと疑われる遺物の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は以下の通りである。
29320_1_飯岡才川遺跡第3次発掘調査報告書.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
岩手県文化振興事業団埋蔵文化財調査報告書第393集
飯岡才川遺跡第3次発掘調査報告書、西暦2002年、
盛岡市・財団法人岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター。
 発掘報告書末尾の抄録によると遺跡の場所は、
盛岡市飯岡新田2地割110-1。遺物が出土
したのは西暦2001年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第33ページ
付近によると、遺物は第7号住居跡で出土した
が、9世紀前半の、平安時代初のものであると
見られているように、読取れる。
 遺物の写真は、発掘報告書の写真図版第42:
”出土遺物(17)”の右上に在り、遺物番号
第189番との旨、ナンバリングされていて、
甕の下部の破片で、底に刻書が在るように写真
からは認識される。

飯岡才川189奔土.gif

 上図のように、見栄えはしないが、写真の左
下に漢字で奉と彫ったように見え、その右上に、
土か士か王に見える、傷模様が在る。甕に入れ
た土を奉じるというのは不思議だが、更に土の
字の左上に、小さくかつ薄く、王の字のように
見える煤模様が在る。
 よって朝廷に納める収穫物を入れる甕の破片
のように見える。発掘現場は、盛岡市の古代の
集落跡と見られているようであり、律令集落で、
収穫物を入れる容器として、出土遺物は使用さ
れた疑いがあるように、私は考える。なお、こ
の遺跡のその折の発掘で、「夲」と、かなり濃
く書かれた墨書土器が共出土しており、奉納の
意味ではないかと疑われているようである。今
回紹介した、線刻の指摘が無い遺物と、用途は
同類であろう。(2022/09/17)

nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

島根県雲南市槙ヶ垰遺跡で中世泰山墨書土器(長さん)

今回は、島根県の10世紀以降の製鉄遺跡
で、奉山墨書の土師器ないし陶器が出土した
との旨の紹介である。太古より中世まで、
島根県で、鉄の精製が続いていた事を示して
いる例であると見られる。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に、登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
14143_3_槙ヶ垰遺跡.pdf
第1pdfから第2pdfの途中までが本文
pdfであり、第2pdfの後半は遺構写真
図版pdf。第3pdfが途中まで遺物写真
pdfで後半が化学分析pdf。第4pdf
は残りの科学分析のpdfのようである。
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
槙ヶ峠遺跡、西暦2004年3月、
国土交通省中国地方整備局・島根県教育委員会。
 発掘報告書冒頭の例言によると遺跡の場所
は、島根県雲南市(当時:大原郡木次町)
大字北原1159。遺物が出土したのは、西暦
2001年前後のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書の第20ペー
ジによると、Ⅱ区で出土したが、共出土した、
形態が似ているが、備前系陶器ではなくて、底
に縁盛り上げのある土師器が、製鉄遺物と同じ
頃の成立とみられて10世紀成立とされている。
製鉄遺物に対し、年代測定も行われ、その頃の
成立とみられているようである。共出土した
土師器が備前系陶器の誤認も考えられ、製鉄遺
物にも成立年代に幅が有るとの本ブログの管理
人の個人的懸念から、ここでは以下、問題の遺
物の成立年代を、平安後期から中世成立とし議
論する。
 遺物の写真は、発掘報告書の写真図版第29
の上カラムの”Ⅱ区出土遺物”の最下段左に在
り、スケッチ図第35の遺物番号第24番との
旨、ナンバリングがある。土器や陶器の類の、
底の部分の破片であり、写真は底を撮影したも
ののように、読取れる。

槙ケ峠35_24泰山.gif

 上図のように、ごく微かだが、漢字で奉山と
書かれているような模様が見え、製鉄遺跡であ
る事から、鉄鋼石の算出する山を、中世山伏等
が、崇拝しているようにイメージされる。
 島根県では、弥生時代後期から渡来人により、
鉄の精製が行われているという見方を、鳥取県
鳥取市の遺跡の遺物から、地理的に類似の方法
で斐伊川等を遡って、外国から到達可能と見る
ので本ブログでは、以降取る事にする。が中世
の鉱脈探査についても、単にそれが連続的に引
き継がれたという性質ものなのではないかとい
う事を、この遺跡の、奉山土器・陶器は示唆し
ているように、私は考えている。(2022/09/16)

nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

新潟県糸魚川市小出越遺跡で平安初山奔王墨書土器(長さん)

今回は、新潟県糸魚川市の土器生産工房跡と
みられている、小出越遺跡で平安初に成立し
たと記録の山奉王墨書土師器の紹介である。
 土師器土器の生産現場に祭祀場が在り、

生産した土器に、山の王を祭ったという意味

の墨書きをしたものと推定される。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
23239_1_小出越遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
新潟県埋蔵文化財調査報告書第51集
糸魚川地区発掘調査報告書Ⅴ小出越遺跡、
1988年、新潟県教育委員会。
 発掘報告書冒頭の例言によると遺跡の場所
は、新潟県糸魚川市大字大和川字小出越。
遺物が出土したのは、西暦1985年前後の
事のようである。
 遺物の成立年代は、68ページ付近に、
第6号土坑はC群土坑の系統で、平安期のも
のとの旨、記載がある。また発掘報告書の
まとめの第108ページに、平安時代初の
8世紀末から9世紀末にかけて成立した
土師器の一つで、遺跡自体が土器の生産者
集団の住居跡ではないかととれる旨の記載が
在る。なお6号土坑は、出土遺物全体の形態
から、祭祀跡ではないかとみられるとの事で
ある。
 遺物の写真は、発掘報告書写真図版第31
の上カラム、”6号土坑”の第2段目左に在
り、遺物番号353番との旨、ナンバリング
されている。土師器であるとの説明が在り、
皿かカワラケ型の形の土器の裏側に、いっけ
んは煤が付いているように見える写真という
感じに私には見える。

小出越山泰王.gif

 上図のように、裏面に固まって黒い煤模様
があり、右に縦に2文字”山奉”、その左に、
”E”のような”王”のような模様が在る事
が判る。奉か泰か奔の字の下が無いのと、王
の左側が欠けているのは、側面部の墨が、何
らかの原因で全部脱落したとすれば、一応の
説明が付くように思う。何れにしても。
 山奔王という将棋駒名も無いから、平安初
にいわゆる、日本の将棋類が有った事を示し
て、い無いであろう。生産した土師器に字を
書き、山の王、山の神を祭る祭祀を自分たち
も出来るように、墨書きをしたのではないか
と私は推定する。(2022/09/15)

nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

鳥取県鳥取市秋里遺跡で弥生期泰山墨書土器(長さん)

今回は、中国地方の鳥取県鳥取市で、弥生時代
成立とみられる壷型の土器に奉山と書かれている
ように見える土器の紹介である。中国漢王朝時代
の帰化人が裏日本側にも到来しており、鉱物資源
の探索を近畿地方や九州を拠点にするだけでなく、
本州以南の日本の各地で行っていたと解釈できる、
以下遺物の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
70262_1_秋里遺跡松下地区.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
鳥取県埋蔵文化財センター調査報告書65
秋里遺跡(松下地区)、2018年、鳥取県病院局・
鳥取県埋蔵文化財センター。
 発掘報告書末尾の抄録によると遺跡の場所は、
鳥取県鳥取市江津730。遺物が出土したのは、
西暦2016年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書の第200ペー
ジに弥生時代のものであろうとの旨の示唆が
あり、C14年代測定法から、紀元1世紀程度
と見られているように読取れる。
 遺物の写真は発掘報告書の写真図版(PL.)
第73番の、最上段左に在り、遺物番号第
715番との旨ナンバリングされていて、壷の
ように私には見える。

秋里遺跡泰山.gif

 上図のように、写真の右端に漢字で「奉」の
ように見える黒い煤模様が在り、その左側に、
山のように見える模様が在る。
 後漢王朝時代の中国人が、鳥取県鳥取市にやっ
てきて、鉄鋼石を採掘して鉄器を生産しており、
鉄鋼石の採取できる山を、奉じていたのではな
いかと私は疑う。お清め用の水汲み壷だったの
かもしれない。なお、発掘報告書の抄録による
と、鉄器と、方格規矩鏡(後漢鏡)の破鏡が、
この遺跡で同時期、出土しているとの事らしい。
(2022/09/14)

nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

富山県舟橋村仏生寺遺跡で中世奔金墨書土器(長さん)

今回は、王子信仰と関連して室町時代後期から、
戦国時代にかけての15世紀から16世紀成立
と見られる「王子」墨書土器が出土したとの旨を
以前に紹介したことのある表題遺跡で、お布施入
れとみられる、「奉金」と内面に書いたような
土器が共出土しているとの旨の話題である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 以前に紹介したとおり、pdfファイル名と、
発掘報告書の名称は以下の通りである。
6061_1_富山県舟橋村仏生寺城跡発掘調査報告.pdf
名称は以下。
富山県舟橋村仏生寺城跡発掘調査報告、西暦2001年、
舟橋村教育委員会。
 遺跡の場所は、発掘報告書末尾の抄録によると、
以下の通りである。
富山県中新川郡舟橋村仏生寺。
 遺物が出土したのは、西暦2000年前後であ
り、以前紹介した「王子」墨書土器と同じとみら
れる。
 遺物の成立年代は、冒頭に記した通り、
15世紀~16世紀の中世後期のようであり、図
版に中世遺物との旨が書かれているので、以下、
王子遺物と奉金遺物は、同じ頃のものとみなして
議論する事にする。
 遺物の写真は、発掘報告書の写真図版第18、
出土遺物(6)中世3の左下に在り、遺物番号第
235番(タイプB8)との旨ナンバリングされ
ている。カワラケか皿型の土師器のように、私に
は見える。

仏生寺城跡奔金.gif

 上図のように、写真で文字が反時計回りに45°
位回転しているが、左上に縦に、第2字目が左に
少しズレて、かつ下部が擦れてしまっているが
「奉金」と内面に書かれているようにも見える。
第2字目は下横線が消えてしまい、「今」になっ
てしまってはいる。寺へのお布施入れの土器にも、
少なくとも使用したように、私は見る。
 神仏習合の王子信仰の寺への、お布施入れであっ
て「お布施のお金」の意味であろうと私見する。
本ブログで紹介した、この発掘報告書の遺物は、
概ね全部、仏事に関連したものなのであろう。
(2022/09/13)


nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

島根県出雲市鹿蔵山遺跡で平安初奔王神墨書土器(長さん)

今回は、ワイングラス型(高杯)土器の首部分
に漢字で奉王神と書かれているように見える
遺物土器が、島根県の出雲大社の付近の識字層
が在住する跡と疑われる遺跡から、出土したと
の旨の紹介である。

出雲大社に祭られた神々を、平安時代初に拝ん
だ跡だとみられる。

 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
2279_2_鹿蔵山遺跡.pdf
 データベース登録時に乱丁し、第3pdfが、
本文の前半のpdf。第2pdfの途中までが、
本文後半。第2pdfの後半から、写真図版
pdf。第1pdfが、後半の写真図版pdf
となっているようである。
 第3本文pdfの扉によると、発掘報告書の
名称は、以下の通りである。
大社町立大社小学校改築事業に伴う発掘調査報告書
鹿蔵山遺跡、2005年1月、島根県大社町教育委員会。
 発掘報告書第3本文pdfの地理・地質的環
境によると遺跡の場所は島根県出雲市(当時:
簸川郡大社町)大字杵築南。発掘報告書冒頭の
例言によると遺物が出土したのは西暦2003
年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は発掘報告書第3本文pdf
の第45ページ付近のまとめによると、8世紀
後半から9世紀、平安時代初期の遺跡とみられ、
その時代の遺物のようである。また発掘報告書
第53ページの遺跡の性格によると、出雲大社
と関連のある宮人の滞在施設、維持管理施設の
ように見えるとの事である。
 遺物の写真は発掘報告書第2前半写真図版
pdfの写真図版第30の左上に在り、遺物
番号第41-10との旨、ナンバリングがあり、
高杯に分類されているようである。ワイン
グラス型の土器の、足部分のカケラのように、
私には見える。

鹿蔵山4110奔王神.gif

 上図のように、右下に奉、その上に漢字で
王か三に見える、どちらも極薄い模様が見え、
王か三の下にも、何か暗い模様が在る。画像
処理すると、神と読めるようにも見え、奉王神
と書かれている事になって、大国主命を祀って
いるようにも思える。
 なお発掘報告書では、この遺物に墨書の指摘
は無い。が、他に多数の墨書土器類が共出土し
ている。

発掘報告書の末尾に書かれた推定が、正しく、

 出雲大社が平安時代初には、今と大差なく
機能していた事を示していると私見する。
(202/09/12)

nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

岡山県岡山市足守川加茂B遺跡で弥生後期奔王墨書土器(長さん)

今回は瀬戸内海から足守川等を遡って到達
可能な遺跡で、弥生期後期成立の土器遺物
に漢字で、奉王と書かれたように見える煤
模様のある出土物の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
13054_1_足守川加茂A遺跡足守川加茂B遺跡足守川矢部南向遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
岡山県埋蔵文化財発掘調査報告94
足守川加茂A遺跡・足守川加茂B遺跡・足守川矢部南向遺跡
西暦1995年3月、岡山県教育委員会。
 岡山市の足守川の付近に3つの遺跡が固
まって存在し、そのうち以下に話題にする
遺物は、真ん中の足守川加茂B遺跡で発掘
されたようである。
 発掘報告書末尾の抄録によると、足守川
加茂B遺跡の場所は、岡山県岡山市加茂。
遺物が出土したのは、西暦1982年~
西暦1985年の間のようである。
 遺物の成立年代は、以下2個の土器を
紹介するが、第37号竪穴住居で発掘され
た、ワイングラス型の土器、土器棺第2で
出土した、棺桶の一方とみられる土器共に、
弥生時代後期後半とみられるとの旨が、
発掘報告書の第380ページ、第396
ページ付近に、それぞれ記載されている。
 遺物の写真は、1つ目のワイングラス型
が、発掘報告書の写真図版第154:
”土壙727出土遺物”の第3段目右に在
り、遺物番号第990番との旨、ナンバリ
ングされている。

足守川加茂B奔王1.gif

 2つ目は写真図版第156:土壙729
出土遺物”の下から2段目右に在って、遺
物番号第1066番との旨、ナンバリング
されている。棺桶の蓋と見られているよう
である。

足守川加茂B奔王2.gif

 これらのケースは両方ともにいっしょで、
左から右へかなり大きく、漢字で奉王と書
かれているように見える、煤模様が付いて
いる。
 後者は棺桶であるから、その王自体が
埋葬されていたとみられ、中国漢王朝から
弥生時代に、鉱産資源の採掘等のために、
日本に来訪した帰化人ないしその子・孫が、
文明人としての能力から当然かもしれない
が、現地で王とあがめられ、本人か子・孫
が、弥生時代の終わり頃に、岡山市加茂の
遺跡に埋葬されたという仮説を、完全には
否定できないと私見する。
 当時は、瀬戸内海まで航行し、足守川等
を上って遺跡の場所へ到達する事が、後漢
王朝時代の中国人等にとって、不可能では
無かったことを示しているのではないかと、
私は疑っている。(2022/09/11)

nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー