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高知県南国市小籠遺跡で明治期竜馬文字入瀬戸物(長さん)

今回は、将棋が成立した明治期の遺物である
が、出土した場所から、将棋の竜馬・龍馬では
なく、坂本竜馬にちなんだ文字の書き込みと
解釈される出土遺物の話題である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
10454_1_小籠遺跡3.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
財団法人高知県文化財団埋蔵文化財センター調査
報告書第29集、小籠遺跡Ⅲ、1997.9、
財団法人高知県文化財団埋蔵文化財センター。
 発掘報告書末尾の抄録によると遺跡の場所は、
高知県南国市岡豊町小籠。遺物が出土したのは、
西暦1994年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第119ペー
ジ付近の記載によると、話題とする遺物は、
調査Ⅱ区出土遺物(廃棄土坑及び包含層)で、
出土したが、近世~近代初の成立と見られて
いるように読取れる。
 遺物の写真は、発掘報告書の写真図版
(PL.)第49の最下段右から2番目に在り、
薄い小豆色の近代でも使われる瀬戸物のカケラ
のように見える物品の、内側面の撮影物である。

小籠竜馬.gif

 上図のように、文字を記入した際にじんで出
来たようにも見える、丸いヨゴレ模様の中に、
竜馬(ただし、馬は左馬)と書いてあるように
見える。日本将棋は近世には成立しているが、

高知県出土であるから「大いに意気盛んで、舞
い上がる坂本竜馬」の意図

であろうとみられる。前に、高知県四万十市で、
坂本竜馬とは繋がらない龍馬墨書遺物が出土し
た事を本ブログで紹介した。今度の遺物は将棋
とは繋がらないだけでなく本当に、坂本竜馬を
意図しているようである。近代初期に成立した
書き込みであろう。(2022/09/10)

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秋田県秋田市後城遺跡で戦国期王将糸巻き(長さん)

今回は、秋田の戦国時代の城跡のごみ捨て溝
から、漢字で王将と書かれた、糸巻き用の木片
のような遺物が出土しているとの旨の紹介で
ある。城で廃物化後、典型例として「蘇民将来」
と書いて有る、角柱状のマジナイ札として、
再利用したのかもしれない。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
14578_2_後城遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
後城遺跡発掘調査報告書、西暦1983年、
秋田地所有限会社・秋田市教育委員会。
 第1本文pdf:
14578_1_後城遺跡.pdf
の発掘報告書第1ページの遺跡の概要によると、
遺跡の場所は秋田県秋田市寺内字後城。同じく
第1本文pdfの冒頭例言によると遺物が出土
したのは、西暦1983年前後のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書の第157
ページ付近のまとめによると、B地区で出土し
たが、共出土した瀬戸物の内容から、15世紀~
16世紀末の室町時代から、安土桃山時代まで
と見られているように読取れる。十三湊の安東
氏系が居していた城かもしれないとの事である。
以前本ブログでは、青森県の十三湊は、遺物の
うち木製品の歩留まりが悪いので、将棋遺物が
出土し無いのではないかと論じた。
 遺物の写真は、発掘報告書の第2写真pdf
の、写真図版第66:”B地区SX043出土
遺物”の下から2段目右端に在り、遺物番号第
285番との旨、ナンバリングされている。
直方体の木片で、中央にホゾを両側にくりぬい
たような形のように、私には認識され、発掘報
告書の説明の通り、糸巻きに見える。漢字の模
様が見えるのは、右側の写真の面である。

後城王将.gif

 上図のように、凹み部を利用して王、その下
の面に将(の旧字)が、薄く見えるように思う。
 糸巻きに墨書するのは、糸を巻いた状態の通
常の使用中の状態からすると不自然である。だ
から使用後に、マジナイのモニュメントに、糸
等は巻かずに使用したと、考えざるを得ない。

安東氏流の殿様が、戦国時代末に天下取りを夢
見て、糸巻きに将棋の王将と書き後城に飾った

と解釈しても、完全否定はできないだろう。こ
の「王将」は、将棋から来るように私は思う。
青森の十三湊で将棋駒遺物が出土しないのは、
木が腐ってしまうからだけだという仮説を、一
応支持する史料だと私は考える。(2022/09/09)

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茨城県筑西市塔ノ内南遺跡で古墳期風馬墨書土器(長さん)

今回は、茨城県筑西市の遺跡から、古墳時代
末成立とみられる土器に、漢字で風馬と書か
れているように見える、模様が有るとの旨の
紹介である。
 遺物の写真がwebに公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
122994_2_塔ノ内南遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
茨城県教育財団文化財調査報告第462集
塔ノ内南遺跡、西暦2022年3月、
公益財団法人茨城県開発公社・
公益財団法人茨城県教育財団。
 発掘報告書第2pdf末尾の抄録によると
遺跡の場所は、茨城県筑西市猫島字溜井西原
613番1。遺物が出土したのは、西暦
2019年前後の事のようである。
 遺物の成立年代はここで話題とする遺物は、
第6号竪穴建物跡から出土したが、発掘報告
書第1本文pdfの第37ページ付近の記載
によると、第6竪穴建物跡の成立年代は、6
世紀第4四半期の、古墳時代後期と見られて
いるように読取れる。
 遺物の写真は第2写真図版pdfの写真図
版第59:”第4~6号竪穴建物跡出土土器”
の、第4段目左にあり、遺物番号で、第6号
竪穴建物跡の第8番との旨、ナンバリングが
ある。割れた土器の底の部分のように、私に
は見える。

塔ノ内南風馬.gif

上図のように、写真の中央に漢字で馬に見え
る、やや擦れた模様が在りその右に、はっき
りしないが、風とも読めるような模様が在っ
て、あわせて横に、左から右に風馬のように
も見える。和将棋が江戸時代成立とみられて
いるため、当然不思議である。
 そこで、上図の字のうち第1字目の風に見
える部分を良く見ると、

風に間違いないとまでは言えず、例えば一例
として「用」であってもおかしくない。

 よって、この皿状の器には、実質馬としか
書いておらず、左の方に隠れて、もしかする
と馬の用途が書いてある、古墳時代末の墨書
土器かもしれないと、私は疑う。(2022/09/08)

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高知県高知市帯屋町遺跡で18C初姿王的瀬戸物(長さん)

今回は、発掘報告書で寿(壽)と釈文している
江戸期徳川吉宗時代の瀬戸物のカケラであるが、
異字体で書かれていてはっきりしない例である。
将棋の王将と下部が少し似ている。
 遺物の写真がweb上で公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は以下の通りである。
21192_1_帯屋町遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
高知市文化財調査報告書第41集帯屋町遺跡、
2017年3月、高知市教育委員会。
 発掘報告書末尾の抄録によると遺跡の場所は、
高知県高知市本町4丁目1-35。遺物が出土
したのは西暦2014年~15年のようである。
高知市の繁華街で、今でも帯屋町という名称は、
残っているとの事である。
 遺物の成立年代は、発掘報告書の第37ペー
ジによると、遺物は第4号土坑で出土したが、
共出土した遺物の形から、17世紀後半~18
世紀前半成立と見られているようである。江戸
期、享保の改革の頃の物品である。
 遺物の写真は発掘報告書の、写真図版(PL.)
第16の第3段目右に在り、遺物番号第143
番との旨、ナンバリングされている。瀬戸物の
カケラのように私には見える。

帯屋町主王将.gif

 上図のように、外側にぐるりとであろうが、
姿(卅を90°回転した字)王的と分解すれば、
3文字になる染付け模様が、少なくとも12文
字以上、並んだ柄であると解釈できる。発掘
報告書に解釈として”壽”等と釈文されている。
発掘報告書の回答で穏当だろうが、縦線が連続
しているので異字体と解釈せざるを得ないと見
られる。察するに新婦の親族が、新郎側親族へ
婚礼で出す引き出物の湯のみであって、

新郎の姿が凛々しいのを、「姿王的」と読める
異字体で書いて、「寿」と引っ掛けている

のであろうと疑える。王王将とか主王将と、
一瞬読んでしまいそうであるが、元々それに類
似の内容が、含有されている柄のようである。

披露宴を盛り上げる為のアイテム

だろうか。恐らく、特注でわざわざ作らせたの
であろう。
 つまりは高知市のこの付近の住人が、特注で、
湯のみが作れる程度に、徳川吉宗の時代の頃に
裕福であった事を、示している疑いが有るので
あろう。(2022/09/07)

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岐阜県可児郡御嵩町顔戸南遺跡で6C初山泰墨書土器(長さん)

今回は、顔戸山ノ神遺跡の北西の顔戸南遺跡
で、古墳期5世紀後半から6世紀前半成立と
みられる、山奉と書かれた土器の紹介である。

山ノ神という地名の成立が、格段に古い事を
示している

とみられる。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
1847_2_顔戸南遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
岐阜県文化財保護センター調査報告書第58集
顔戸南遺跡、2000、
財団法人岐阜県文化財保護センター。
 なお第1pdfは本文pdfである。その
本文pdf発掘報告書冒頭の例言によると、
遺跡の場所は、岐阜県可児郡御嵩町顔戸。
遺物が出土したのは、西暦1997年前後の
事のようである。
 遺物の成立年代は、土溝第14号で出土し
たが、第1本文pdfの第346ページ付近
の「まとめ」の小結によると、5世紀後半~
6世紀前半の、古墳時代後半の成立と見られ
ているようである。
 遺物の写真は、発掘報告書第2写真図版
pdfの、写真図版第93の上から4段目左
に在り、遺物番号第519番とナンバリング
されている、広口の金魚鉢型の土器片である。

顔戸519山泰.gif

 上図のように、中央下やや右に、小さく縦
に漢字で山奉と書いてあるように見え、右の
下にも、やや、それより大きく奉と書いてあ
るように見える。古墳時代に山岳信仰が存在
したと見られる。
 発掘報告書第1pdfの第8ページ付近の
遺跡分布図によると、名鉄広見線をはさんで、
顔戸南遺跡の南東100メートル前後の所に、
山ノ神という小字名にちなんで、田畑の中に、
顔戸山ノ神遺跡が存在するとあり、この小字
名の山ノ神が、古墳時代後期成立である事を、
匂わせていると私見する。(2022/09/06)

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愛媛県松山市石井東小学校遺跡で弥生末崟王墨書包丁(長さん)

今回は弥生式土器であるが、包丁型をした比較
的レアーな形に見える土器遺物に、「鉱脈含有
の険しい山の頂の王」の意が含まれるとみられ
る、「崟王」と書かれた、四国愛媛県松山市産
の、出土遺物の紹介である。愛媛県にも、
漢王朝の時代から帰化人が居して、鉱物探索等
を、していたのではないかと疑われる。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は以下の通りである。
12059_2_石井・浮穴の遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
松山市文化財調査報告書65石井・浮穴の遺跡、
1998、松山市教育委員会・
財団法人松山市生涯学習振興財団埋蔵文化財センター。
この発掘報告書には何か所かの遺跡の発掘報告
結果が載っている。が、話題とする遺物はその
うち、石井東小学校構内の調査時出土したとの
事である。
 発掘報告書第2写真図版pdf末尾の抄録に
よると、遺跡の場所は愛媛県松山市越智町27
-1の石井東小学校構内。遺物が出土したのは、
西暦1978年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第1本文
pdfの第46ページ付近の記載によると、
弥生時代終末期の3世紀頃とみられているよう
に読取れる。
 遺物の写真は、発掘報告書第2写真図版
pdfの写真図版第23:”SB6出土遺物
(110、122~125、133)”の、
第2段目右に在り、遺物番号第133番との旨、
ナンバリングされている。土器であるが、用途
は包丁と考えられているようである。

石井東小学校崟王.gif

 上図のように、右上に小さく漢字で「王」と
書かれているように見える模様が目立ち、
よく見ると、その左上に崟(ごん)と書かれて
いて、険しい金山の王のような意味ではないか
と、本ブログの管理人は疑っている。なお刃先
にあたる、図で下部中央に、はっきりしないが、
「山」と一文字、孤立して書かれている疑いが
ある。「崟王」であって、多分だが奔王ではな
いので、将棋に関連しないであろう。
 使用する人間が、3世紀末頃に鉱脈探査を
しており、当用漢字に無い崟の字まで書けるの
で、後漢王朝期ないし三国鼎立時代の中国人等
ではないかと疑われる。
 瀬戸内海から川を少し上って到達可能だった
箇所には四国松山でも、弥生後期に大陸人が渡
来して、鉱脈探索をしていた可能性があるとい
う事が、疑われるのではないかと私は考える。
(2022/09/05)

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千葉県横芝光町中島遺跡で平安期泰山墨書土器(長さん)

今回は千葉県横芝光町の芝崎遺跡群の中の遺跡
の一つである、中島遺跡でも、以前紹介した
芝崎遺跡同様、奉山墨書土器が、2枚程度出土
しているとの旨の紹介である。
 紹介する遺物は前と同じく奈良文化財研究所
の発掘報告書データベース、全国遺跡報告総覧
に登録された同じ発掘報告書に載っている。
pdfファイル名は以下の通り。
22324_5_芝崎遺跡群.pdf
発掘報告書名は、繰り返すと以下の通り。
千葉県(当時)匝瑳郡光町(現山武郡横芝光町)
芝崎遺跡群、西暦2006年、千葉県道路公社・
財団法人東総文化財センター。
 なお芝崎遺跡群の中に、芝崎遺跡・中島遺跡
等の遺跡が在る。東西1km、南北500メー
トル前後の田畑地域に、点々と4箇所程度の遺
跡が在るとの事である。芝崎遺跡の東側、数百
メートル程度に中島遺跡があり、例えば有力者
の館が在るとすれば、同一敷地内とみられる。
 発掘報告書、第1本文pdfの冒頭例言によ
ると、遺跡の場所は千葉県山武郡横芝光町芝崎
(当時:匝瑳郡光町芝崎)1661番地。話題
とする遺物が出土したのは、調査の概要の本文
第2ページ付近の記載から、西暦2000年~
2001年前後との事であるとみられる。 
 ここで話題とする杯墨書土器の成立年代は、
第1本文pdfの第57ページ付近の記載から、
芝崎遺跡とは異なり、漠然と奈良・平安期とい
う以上は、はっきりしないように読める。
 遺物の写真は、中島遺跡の古代の遺物写真図
版の載った、前記第5pdfの、写真図版
第100:”奈良・平安時代畑跡、その他出土
遺物5(土師器杯)”の第1段目左に在り、
遺物番号第34;土師器杯が、1枚目である。

中島遺跡泰山1.gif

 次に、同じく第5中島遺跡奈良・平安時代
遺物写真図版の写真図版第106:”奈良・
平安時代畑跡、その他出土遺物11(土師器杯)”
の最下段右に2枚目が在り、遺物番号第110
番との旨、土師器杯にナンバリングされている。

中島遺跡泰山2.gif

 両方とも、山の位置が、底の縁に掛かってい
るのがやや不自然だが、共に「奉山」とも読め
るような、煤模様が有る。
 成立時代がはっきりしないが。平将門の乱の
頃に識字層が付近に住んでいて、武器となるよ
うな、鉱物資源の捜索を行っていたとしても、
不思議では無いような墨書であるように私には
見える。平安時代の豪族は、自分で鉾や矢先の
材料となる、鉄材から掘り出す作業をするよう
な性格の集団であったのではないかと私は疑う。
(2022/09/04)

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千葉県横芝光町芝崎遺跡で11C前鬼軍墨書土器(長さん)

今回は、以前「金将」墨書土器が有ると紹介し
た、表題の千葉県の遺跡で、「鬼軍」と書かれ
た杯の形の土器等も、共出土しているとの旨の
紹介である。平安末に現地に武装勢力が居して
いたのではないかと結論する。なお、この遺跡
では碁石とみられる遺物も、出土している。
 紹介する遺物は、その際に紹介した奈良文化
財研究所の発掘報告書データベース、全国遺跡
報告総覧に登録された同じ発掘報告書に載って
いる。pdfファイル名は以下の通りであった。
22324_4_芝崎遺跡群.pdf
発掘報告書名は、繰り返すと以下の通りである。
千葉県(当時)匝瑳郡光町(現山武郡横芝光町)
芝崎遺跡群、西暦2006年、千葉県道路公社・
財団法人東総文化財センター。
 なお芝崎遺跡群の中に、芝崎遺跡・中島遺跡
等の遺跡が在る。東西1km、南北500メー
トル前後の田畑地域に、点々と4箇所程度の遺
跡が在るとの事である。問題とする「鬼軍」杯
土器は、第4写真図版pdfで紹介されており、
西側の芝崎遺跡で出土したようである。
 発掘報告書、第1本文pdfの冒頭例言によ
ると、遺跡の場所は千葉県山武郡横芝光町芝崎
(当時:匝瑳郡光町芝崎)字沖ノ内。話題とす
る遺物が出土したのは、調査の概要の本文第2
ページ付近の記載から、西暦2000年~
2001年前後との事であった。 
 遺物の成立年代は、ここで話題とする遺物が、
第2号土坑で出土したが、発掘報告書第2遺構
説明図pdf、第182ページに、土坑2は、
奈良平安時代成立で、第8期であとの旨の記載
がある。第1本文pdfの第49ページによる
と「第8期」とは、10世紀後半から11世紀
前半となる。以前に紹介した「金将」墨書土器
と、ほぼ同じ成立とみられるように、読取れる。
今回も同じく、問題の遺物は11世紀前半成立
だと仮定し、以下議論する。
 遺物の写真は発掘報告書、芝崎遺跡の全遺物
を紹介しているとみられる第4pdfスケッチ
図・写真図版合体図第245:”土坑出土の
遺物”の上カラム”2号土坑”の、第1段右に
在り、第2番:”土師器杯”との旨のナンバリ
ングが付与されている。

芝崎遺跡鬼軍.gif

 上図のように、側面に画面のやや右の下に、
漢字で、「軍」のように見える、ややはっきり
した煤模様が在り、その上の字が、擦れてはっ
きりしないが、「鬼」や「免」や「奉」のよう
に見え「鬼軍」とか「免軍」等のように、読め
るように思う。
 意味ははっきりしないが。以前紹介したよう
に、囲碁・将棋(?)をする住民の、身分・正
体と関連するようであり、なんらかの武装集団
の平安期、平将門ないし、その時代より少し後
の、関東・千葉県現地駐屯の事実を、示唆して
いるようでもある。免とは、律令からはずれた、
荘園警護との意味であろうか。今のところ、本
ブログでは、漠然と以上のように結論する。
 なお、発掘報告書第4pdfの第241図、
第25号掘立柱建物跡から、以下のような、
奉宝とか、奉金と読めるような、甕の底部分の
土器片遺物も出土している。

芝崎遺跡金奔.gif

第2遺構pdfの第146ページによると、
第25号掘立柱建物は奈良平安期の第5期の
成立で、前と同様第1本文pdfの第49ペー
ジの記載から、9世紀前半頃成立との事である。
川で砂金が取れるので古墳期以降、人が住んで
いたが、後に平安武士も移り住んだという経緯
の場所なのかもしれない。なお、今回した遺物
と同じ11世紀頃成立とみられる、第13号
土坑から、奉山ではないかとみられる甕底土器
も出土している。

芝崎遺跡泰山.gif

ただし付近には、小さな山が在るだけである。
 武装勢力は鉱脈探索をも、平安時代の後の頃、
付近にて行っていたのかもしれない。(2022/09/03)

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香川県高松市木太中村遺跡で13C前奔王墨書椀(長さん)

今回は、香川県高松市市街地の遺跡から、
鎌倉時代の奉王墨書土器椀が出土し、中世
の荘園集落で朝廷支配力が西日本では強かっ
た事を示唆していると見られる遺物の紹介
である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
10710_2_木太中村遺跡.pdf
 発掘報告書名は以下の通りである。
高松市埋蔵文化財調査報告書第53集
木太中村遺跡、2001年3月、
高松市教育委員会。
 発掘報告書第2写真図版pdf末尾の
抄録によると、遺跡の場所は香川県高松市
木太町。遺物が出土したのは西暦1998
年前後の事のようである。なお、場所は、
高松市市街地ほぼ中央だということである。
 遺物の成立年代は、問題の遺物は土壙
SDの第5009番から出土したが、遺物
自体の形から13世紀の前半成立とみられ
るとの旨が、発掘報告書第1本文pdfの
第138ページ付近に記載されている。
 遺物の写真は、発掘報告書第2写真図版
pdfの、写真図版第36の上から3段目
右に在って、スケッチ図第233の遺物番
号第3番との旨、ナンバリングされていて、
椀のような形の土器に見える。

木太中村奔王.gif

 上図のように漢字で中央少し右の上に奉、
その左下に王と読めるような、模様がある。

古代に多い墨書の単語だが、鎌倉時代の
13世紀前半で、その時代にも、皇族崇拝
を示す遺物が有る

事を、はっきりと示した例と見られる。関
東では武家政権が強かったが、四国高松で
は、源平の合戦の影響は有ったのだろうが、
その後は平安末と、支配層に大きな差が、
無いケースも有ったようである。将棋の奔
王駒が成立していた時代と見られるが、墨
書だとして、第1字目は明らかに奉なので、
将棋とは関連しない疑いが濃いだろう。
(2022/09/02)

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三重県四日市市居林遺跡で4C奔馬墨書土器(長さん)

今回は、古墳時代前期、4世紀の頃の遺跡発掘
地点から、奉馬墨書土器が出土したが、鉄製品
と、共出土であったとの旨の情報の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
129201_2_居林遺跡・北山城跡第2~4次発掘調査報告.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
三重県埋蔵文化財調査報告323-8
居林遺跡・北山城跡(第2~4次)発掘調査報告、
2022年2月、三重県埋蔵文化財センター。
 発掘報告書第1本文pdf:
129201_1_居林遺跡・北山城跡第2~4次発掘調査報告.pdf
の末尾抄録によると、遺跡の場所は何れも、
三重県四日市市北山町。遺物が出土したのは、
西暦2012年前後の事のようである。遺物は、
居林遺跡で出土したようである。
 遺物の成立年代は、話題とする遺物は、遺溝
第280号で出土したが、発掘報告書第1本文
pdfの第197ページ右側カラム付近による
と、弥生時代後期から古墳時代前期の4世紀迄
と、見られているように読取れる。
 遺物の写真は、発掘報告書第2写真図版
pdfによると、写真図版150の最上段右に
在り、遺物番号第2223番との旨、ナンバリ
ングされている。土器の割れカケラであり、瓶
の底の部分のようにも見える。

居林北山奔馬.gif

 上図のように、左下に擦れているが濃く「奉」
と言われれば、漢字でその字のようにも見える
煤模様が有り、右中央に漢字の馬の字の上部の
ようにも見える、黒い模様が在る。

なお、遺溝第280からは鉄製品で、武器の
「シ」が出土している

との事である。鉄器の製造と馬の飼育とが、
弥生時代末から古墳時代初の4世紀頃、三重県
四日市付近で、関連して行われていた事を伺わ
せているのであろう。神戸港等からは、すこし
遠いが。その時点の日本の弥生人が、識字出来
なかったと仮定すれば、武器と馬は中国三国志
や五胡十六国時代の、他国の戦乱アイテムだっ
たという事に、ほぼなろう。(2022/09/01)

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