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青森県八戸市売場遺跡で平安期奔馬墨書土器(長さん)

今回は、縄文期の遺跡で歴史時代の遺物
も出土するとされる青森県の遺跡で、
漢字で奉馬と書かれているように見える
土器が、墨書遺物としては、唯一出土し
ているらしいとの旨の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
70036_2_売場遺跡発掘調査報告書第1次調査、第2次調査、
第3次調査、第.pdf
 発掘報告書の表題は、第2pdfの、
第3~第4次調査編の表題によれば以下の
通りである。
青森県埋蔵文化財調査報告書第93集
売場遺跡発掘調査報告書・大タルミ遺跡発掘調査報告書、
西暦1984年、青森県教育委員会。
 遺物はこのうち最初の、売場遺跡で出土
したようである。
 発掘報告書第1本文pdf冒頭の例言に
よると遺跡の場所は、青森県八戸市大字
河原木字見立山。遺物が出土したのは、
西暦1982年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、遺物は売場遺跡の
第325号住居址で出土したが、発掘
報告書第2第3~4次調査本文・写真図版
pdf前半の本文部の第204ページ付近
に、売場遺跡の、平安時代の住居址の一つ
として、第325号住居は紹介されており、
遺物も平安期のものと見られているように、
私には認識される。
 遺物の写真は発掘報告書第2第3~4
次調査の写真図版pdfの第487ページ
の下から2段目に、第325号住居址と付
記され、左端の甕型土器の破片の写真が、
紹介する遺物のものである。

売場奔馬.gif

 上図のように、写真の左下にヨゴレに囲
まれているものの、漢字の馬のように見え
る模様が在り、その右上の、ほぼ中央で、
少し口に近いところに、割れ目をはさんで
いて歪んでいるものの「奉」のように見え
る模様がある。

奉馬であり、朝廷に青森県八戸市から馬を
献上した

のではないかと、私的に疑う。なお、墨書
遺物である指摘が無いし、この回の発掘で、
この遺跡で墨書遺物と指摘されている物品
も、余り出土していないようである。主体
は縄文時代の遺跡の為、見落とし易いケー
スだと危惧する。(2023/01/21)

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北海道根室市温根沼遺跡で擦文文化期王奔石器(長さん)

今回は、北海道の遺跡で石器と見られる
ものに、明らかに漢字の「王」のような
模様があり、薄い部分まで入れると
「王奉」ではないかとみられる、擦文文化
期の出土遺物の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
70354_2_根室市温根沼2遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
北埋調報354根室市温根沼2遺跡、
西暦2018年、公益財団法人北海道埋蔵
文化財センター。
 発掘報告書第1本文pdfの末尾の抄録
によると遺跡の場所は、北海道根室市
温根沼271-2。遺物が出土したのは、
西暦2017年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書の第1本
文pdfの第272ページ付近の記載によ
ると、遺物は第3住居跡(H-3)で出土
したが、床面にあった炭化物の炭素14同
位体法による年代測定から、11世紀中~
12世紀中の平安時代末とみられているよ
うに読取れる。
 遺物の写真は、第2写真図版pdfの、
写真図版第75の最下段右側に在って、
第Ⅲ層遺構出土の石器(1)と付記され、
写真図版第75の遺物番号第14番との旨
ナンバリングされ、石器のようである。

温根沼王奔石器.gif

 上図のように、破片の中央上に漢字で、
「王」のように見える黒い模様が見え、
その下に薄いが「奉」のようにも見え、
地域の豪族を崇めているような印象を受け
る刻書ないし墨書きが疑われる。
 奔ではなく奉、奔王ではなくて王奉なの
で、将棋には関連し無いとみられるが。
本州以南での平安時代末、根室市の付近に、
少なくとも簡単な漢字なら、書ける住人が
居た疑いが在るのではないかと私見する。
全体としては北海道で、文字を使用する事
は、必要性が低いために少なかったという
事なのではないかと疑う。(2023/01/20)

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奈良県桜井市大福遺跡で2C泰山墨書土器(長さん)

今回は、寺跡とみられる奈良県の遺跡で、
道教起源の山岳信仰より来るとみられる、
がっちりした大型の奉山墨書土器が出土
しているとの旨の紹介である。
遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
70371_1_桜井市平成26年度国庫補助による発掘調査報告書.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
桜井市埋蔵文化財発掘調査報告書第45集
大福遺跡第32次調査・安倍寺跡第22次調査、
西暦2016年3月31日、(奈良県)桜井市
教育委員会。
 今回紹介する遺物は2つの遺跡のうち、
最初の方の大福遺跡で、出土したとの事で
ある。
 発掘報告書末尾の抄録によると遺跡の
場所は、奈良県桜井市大字大福910-1。
遺物が出土したのは西暦2014年前後
で、発掘報告書のpdfファイル名は、
そこから来ているようである。
 遺物の成立年代は、遺物は第6トレンチ
で出土し、発掘報告書の第11ページ付近
の記載によると、この遺物の形から、弥生
時代後期後半、2世紀前後のものと見られ
ているように読取れる。
 遺物の写真は発掘報告書写真図版第15
:”出土遺物3”の右下にあり、通し番号
第40番との旨、ナンバリングされていて、
大型の甕型の土器のように私には見える。

大福泰山.gif

 上図のように、第2字目が右端の縁付近
にかかってしまい見にくいが、縦に「奉山」
と書かれているように見える、漢字のよう
な黒い模様がある。
 中国の後漢王朝から三国鼎立時代にかけ
て、奈良県にも鉱物資源の捜索等で、大陸
から多数の中国人が渡来しており、親・祖
父を道教信者の立場で、山に宿るものとし
て崇め、山岳信仰を行う過程で、棺用の甕
等に、墨書きをする機会が、あるいは存在
したのではないかと私見する。(2023/01/19)

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栃木県宇都宮市二軒屋遺跡で5C盲虎墨書土器(長さん)

今回は栃木県宇都宮市の古墳近くの遺跡で、
盲虎と刻書されたように見える、古墳時代
のものとされる土器の破片が出土している
との紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
71264_1_二軒屋遺跡・芋内遺跡.pdf
発掘報告書の名称は以下の通りである。
 二軒屋遺跡・芋内遺跡、西暦2016年、
宇都宮市教育委員会。
 遺物はこのうち最初の方の二軒屋遺跡で
出土したとの事である。両者は宇都宮線の
雀宮駅近くではあるものの、線路の西側に
ある二軒屋遺跡と、駅の東2キロ程度のと
ころにある、中島町の芋内遺跡という関係
であり、互いに関連性は薄いとみられる。
なお、二軒屋遺跡は、宇都宮市の塚山古墳
と関連するとの事である。
 発掘報告書の末尾抄録によると遺跡の
場所は、栃木県宇都宮市若松原3丁目。
遺物が出土したのは西暦2012年前後の
事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書の第25
ページ二軒屋遺跡編の「おわりに」付近の
記載によると、第3号土溝で出土したが、
遺跡自体が5世紀前半から中頃の古墳時代
中期と考えられているように読取れる。
 遺物の写真は発掘報告書写真図版(PL)
第22:”二軒屋遺跡B地点”の最下段左
に在り、土溝(SD)-03出土遺物の第
7番との旨ナンバリングされていて、土器
の破片のようにも確かに見える。

二軒屋盲虎.gif

 上図のように、内外面どちらなのか私に
は良くわからないが左側の写真のほぼ中央
に、私には縦に漢字で「盲虎(虎は旧字/
異字かもしれない)」に見える、黒い模様
がある。

右側の面には私にはよく読めないが、複数
の漢字を含んで縦書きで3行ある

ようにも見える。
 私見だが、古墳時代に比べてかなり後の
時代に一度拾われ、メモとして用いられた
ようにも見える。
 問題は左の文字が中将棋等の盲虎を意識
しているかどうかであろうが。

否であり、3行で書かれた文字列のカテゴ
リー名を表現したものである可能性が濃い

と私見する。一例では近世に、神事等を付
近で挙行する地域で、寄付を収集する等の
行為があり、寄付者・関係者の詳細等を、
当時地上に露出していた物品に、適宜メモッ
たという経緯のものかもしれない。右側の
文字列の全体の雰囲気から、良く読めない
ものの私的にそう推察する。つまり私には

正しく釈文できないが。左には「盲虎」で
はなくて、2文字の関連熟語が書いて有る

のではなかろうか。(2023/01/18)

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栃木県宇都宮市西下谷田遺跡で奈良期奔王墨書土器(長さん)

今回は、ぱっと見に奉王と右から左へ横書き
されているが、よく見ると間に漢字で「都」
と挟まって3字のように見える栃木県宇都宮
市出土の、奈良時代初成立の墨書土器の紹介
である。
 場所が初期官衙とみられている遺跡であり、
奉都王と読める事から、宇都宮という地名が
奈良期に成立していた事を示しているように
も見える。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
71373_1_西下谷田遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
宇都宮市埋蔵文化財調査報告書第57集
西下谷田遺跡-古代編Ⅰ-、
西暦2007年、宇都宮市教育委員会。
 発掘報告書末尾の抄録によると遺跡の場所
は、栃木県宇都宮市茂原町。遺物が出土した
のは西暦1997年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第95ペー
ジ付近の「おわりに」によると、竪穴住居第
46号より話題とする遺物が出土したが、
竪穴住跡群自体が、7世紀末から8世紀前半
の飛鳥時代から奈良時代初とみられているよ
うに読取れる。
 遺物の写真は発掘報告書写真図版(PL)
第18の下から第2段目の左端に在り、遺物
番号第46竪穴住居跡の第1番との旨、ナン
バリングされている。杯型の土器のように、
私には見える。

西下谷田奔王.gif

 上図のように、中段右と左に右から「奉王」
とよも読めるような漢字の模様が、上部が全
体にカスレ特に奉の夫部分が薄いものの有り、
普通の祭祀用「奉」墨書土器のように見える。
 ところが更によく見ると、

字の間に切れ切れだが、都という字が、割れ
目の右側だが、挟まっている

のに気がつく。官衙の初期の遺跡と考えられ
ており、後には武家の宇都宮氏もしばしば駐
屯して、宇都宮の語源となる、「都」の字が
記載されている地名関連の遺物の疑いも、或
いは有るかもしれないと私見する。(2023/01/17)

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栃木県宇都宮市上野遺跡で古代奔土墨書土器(長さん)

今回は、発掘で漢字で「泉」と墨書されて
いるとみられた土器だが、上部の白が確認
できず、しかも下部に、漢字で「土」と見
える模様もあり、「水土」か「奉土」の墨
書きが疑われる、古代成立とみられる遺物
の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
71403_1_上野遺跡-推定東山道関連遺跡-.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
上野遺跡-推定東山道関連遺跡-、
1998年3月、(栃木県)宇都宮市教育
委員会。
 発掘報告書末尾の抄録によると遺跡の場
所は、栃木県宇都宮市上野町4144-1。
遺物が出土したのは、西暦1993年前後
の事のようである。
 遺物の成立年代は、遺物は第Ⅱ調査区の
第2溝(SD02)の第1層から出土した
が、発掘報告書の第24ページ付近の表か
ら、遺物の出土層は各溝第1層だけに限ら
れ、9世紀の平安時代前半成立と考えられ
るように読取れる。なお溝が当時の道路で
あるかもしれないと疑われており、遺物は
道路端に堆積したものであると、解釈され
ているようである。
 遺物の写真は、発掘報告書の写真図版第
6の右下に在り、「泉」墨書土器と付記さ
れているが、そこにナンバリングは無い。
発掘報告書のスケッチ図第14の第9番の、
杯型の須恵器であるとされている物品と、
恐らく同一とみられる。

上野奔土.gif

 上図のように、底の刷毛目が被って緯度
線が入ったような形の、切れ切れ楕円模様
が上部のやや左に在るが、それ以外漢字で

泉の上の部分の「白」にあたる模様が、私
には発見でき無い。

 その薄い楕円に接して、漢字で「水」の
ように見える模様が在り、

「泉」ではなくて「水」ではないかと疑う。

 更に、発掘報告書に指摘が無いのだが、
写真のほぼ中央の下部に漢字で「土」ない
し「士」に見える模様が在る。

祭祀用で、五行の水土と書いた疑いが最も
濃いと私見

する。なお「水土」ではなく「奉土」であ
り、奉は奔と似ているので、摩訶大大/
摩訶大将棋の将棋駒の奔土にも、少し似て
いる。ただし、奔の廿部分が書いてある
可能性は、上図を見る限りは薄く、将棋関
連の可能性は少なそうである。泉から地名
や、使用者名が連想され、そうだとすれば、
比較的レアーで貴重だが。奉物を入れる器
であるとすれば、極端に珍しい物品とまで
はいか無いかもしれないと、このケースに
関しては私は疑う。(2023/01/16)

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栃木県宇都宮市西原古墳で古墳後期奔馬墨書土器(長さん)

今回は、古墳に納められた古墳時代の土器
の中に奉馬と書かれているとみられる土器
があるとの旨の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
71428_1_下桑島西原古墳群.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
宇都宮市埋蔵文化財調査報告第30集
下桑島西原古墳群、西暦1992年3月、
宇都宮市教育委員会。
 発掘報告書冒頭の例言によると遺跡の場
所は、栃木県宇都宮市下桑島字西原
1200-3。遺物が出土したのは西暦
1989年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、遺物は古墳の第1号
墳で出土し、1号古墳自体が埴輪の形等か
ら、6世紀末から7世紀前半頃のものと考
えられている旨が、発掘報告書第54ペー
ジ付近の「小結」に書かれていると認識さ
れる。
 遺物の写真は、発掘報告書の写真図版
(PL)第19の左側の第2段目に在り、
写真図版第19の第3番との旨ナンバリン
グされている。埴輪棺の中に置かれていた
ようである。

西原古墳群奔馬.gif

 上図のように、上部が写真への光の当り
が少ないためか、黒くなっていると見られ
るが、写真のほぼ中央の上部、口の下に
漢字で「奉」、その左下に左にズレて「馬」
と読めるような、模様が在る。
 古墳の主は馬を飼っている牧場の主も兼
ねていて、馬を献上する際に用いる物品も、
遺品として埋葬したのかもしれない。飛鳥
時代にかなり近い古墳時代後期の遺品なの
で、漢字で字が書かれている物品が出土し
たとしても、極端に不思議な話ではないの
ではと私見する。(2023/01/15)

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千葉県八千代市殿内遺跡で奈良期奔王墨書土器(長さん)

今回は、かなり大きい入れ物なのではないか
と見られるが、甕型土器の側面に大きく、
漢字で奉王と墨書されているのではないかと
疑われる遺物の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は以下の通りである。
71891_1_千葉県八千代市公共事業関連遺跡発掘調査報告書Ⅳ.pdf
 発掘報告書の表題は、以下の通りである。
千葉県八千代市殿内遺跡b地点、2009年、
八千代市教育委員会。
 発掘報告書本文末尾と写真図版の間の抄録
によると遺跡の場所は、千葉県八千代市村上
1170-2。遺物が出土したのは西暦
1991年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第104ペー
ジの記載から、住居跡自体の成立が8世紀の
奈良時代頃と読取れる。遺物も、この時代の
ものと見られているように当方は認識する。
 遺物の写真は、写真図版第11の最下段の
右端にあって、住居跡第04号の第32番と
の旨、ナンバリングされている。冒頭で述べ
たように、大型の甕型の土器のように見える。

殿内奔王.gif

 上図のように、右側上段に漢字で「奉」、
左の方にズレて、中央やや右の下の方に漢字
で「王」と読めるような、大きな薄黒模様が
在る。「奉」は下部が曖昧で「泰」かもしれ
ない。中央に有る、やや右肩下がりの「一」
に見える黒い、偶然模様とみられる汚れに、
惑わされない事が、字を認識する、コツとの
意味である。
 甕がかなり大きいとみられる為、元々は、
字が相当に目立ったはずである。湿地帯だっ
たとみられる現地の奈良時代に、大型の魚の
タイを入れて、官衙へ献上するための容器か
もしれないと、充て推量だが私は想像する。
(2023/01/14)

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福岡県広川町山の前古墳で6C泰山墨書提瓶(長さん)

今回は、福岡県広川町の古墳跡で古墳期の
土器に奉山と書かれている疑いのある遺物
が、出土しているとの旨の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
72502_1_九州縦貫自動車道関係埋蔵文化財調査報告3.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
九州縦貫自動車道関係埋蔵文化財報告Ⅲ
福岡県八女郡広川町所在遺跡群の調査、
1972年、福岡県教育委員会。
 報告されている遺跡は、鈴ケ山古墳・
鈴ケ山遺跡・山の前古墳・平原古墳・
平原遺跡の5箇所で、自動車道に沿い、
離れていて、鈴ケ山、山の前、平原のそれ
ぞれの間で関連し無いとみられる。遺物は
このうち、山の前古墳の第3号墳(墳墓1・
2との場所は、それぞれほぼ接近)で出土
したとの事である。
 遺跡の場所は、発掘報告書第1ページの
「はしがき」によると、福岡県八女郡
広川町大字広川498-1、490-2。
遺物が出土したのは、発掘報告書第75
ページ、山の前古墳編冒頭の、調査の経過
によると西暦1970年前後の事のようで
ある。なお、この文書を作成している時点
(2023年1月)福岡県八女郡広川町は、
当時のままである。
 遺物の成立年代は発掘報告書の第161
ページ付近の小結によると、遺跡全体が、
6世紀後半から7世紀初の、古墳時代後期
に成立したとみられているように読取れる。
 遺物の写真は発掘報告書の末尾写真図版
部の写真図版(PL.)第48の最下段左
に在って、遺物番号はついていないが、
全体に須恵器との付記がある。形から発掘
報告書で提瓶と説明されている物品のひと
つとみられる。

山ノ前古墳泰山.gif

 上図のように、写真の中央に上から下へ
縦に2文字で、奉山と書かれているように
見え、古墳期後期の山岳信仰であろうと見
られる。墨書遺物が余り出土していると発
掘報告書で確認されていない遺跡ではある
が、飛鳥時代に近い為、識字層によって祭
祀を兼ねて、古墳に納める遺物に字が書か
れたとしても、極端に奇妙というほどでは、
無いのではないかと私見している。(2023/01/13)

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石川県小松市戸津六字ケ丘古墳跡で福竜墨書土器(長さん)

今回は、将棋の副将と龍王を足したような、
漢字で福竜と書かれているように見える、
10世紀前半成立とされる石川県の古窯跡
から出土した遺物の紹介である。

キリスト教の伝来を示唆する「福音」では
ないかと疑われる。

遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は以下の通りである。
72567_1_戸津六字ヶ丘古窯跡発掘調査概要報告書.pdf
 発掘報告書名は以下の通りである。
戸津六字ヶ丘古窯跡発掘調査概要報告書、
1987年3月、(石川県)小松市教育委員会。
 発掘報告書冒頭の「遺跡の位置と周辺の
遺跡」によると、遺跡の場所は石川県小松
市戸津町・同林町。遺物が出土したのは、
発掘報告書第3ページ付近の「調査の経緯
と経過」によると西暦1985年前後の事
と読取れるようである。
 遺物の成立年代は、遺物はA地区の灰原
で出土したが、発掘報告書第37ページ付
近の記載によると、付近の窯が10世紀前
半の平安中期とみられており、遺物も、
その頃の生産物ないし、廃棄物であると
解釈されているように読取れる。
 遺物の写真は、発掘報告書第Ⅲの下段に
あり、遺物番号土器の第7番と取れる旨、
ナンバリングされていて杯の底面のオモテ
とウラに模様が在るようである。

戸津六字ケ丘福竜.gif

 発掘報告書により、オモテ・ウラともに、
福吉と釈文されているが、両方第2字目が
破損している。ぱっと目には「竜」に見え、

福竜となり、天竺大将棋の副将や日本将棋
の竜王を、多少連想させる。

 そこで、裏表共に像をよく見ると、第2
字目の発掘報告書によれば土のはずの部分
は、確定的とは言えないが、

立の疑いがある

と私見する。また、左側の写真の上から覗
いた杯の底とみられる面の第2字目の発掘
報告書によれば、「口」でなければならな
い部分は、「日」であるように見え、「田」
や竜の下部である可能性は、中央まで見え
ているので少ないようにも見える。よって、
将棋とは、関係が薄いのであろう。
発掘報告書の記載通り吉祥語であろう。
 しかしながら吉祥語として「福吉」は熟
語として、さほど多くは見かけないが「良
い知らせ」という意味での、キリスト教の
用語の、中国語訳と当方は認識する「福音」
は、平安時代の10世紀前半に中国の五代
期には「大秦景教流行中国碑」の存在から
見て、多分だが有ったであろうと疑える。
 よって、

普通に「福音」と両面に書いて吉祥を表し
た疑いが、このケースには有る

ように私見している。日本へのキリスト教
伝来に関する、かなり重要な史料の出土だっ
た可能性もこのケースには、完全には否定
出来無いのではないかと私は疑う。(2023/01/12)

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