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福岡県筑紫野市仮塚南遺跡で6C将河墨書土器(長さん)

今回は筑紫野市の郊外で、古くから交通の要衝
とされた地域の表題の仮塚南遺跡で、宝満川を
連想させる、「将河」つまり第一級の川との意
味の単語が漢字で書かれた、古墳時代から古代
にかけてとみられる、遺物土器物品出土の紹介
である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
72594_1_仮塚南遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
仮塚南遺跡、西暦1995年、福岡県教育委員会。
 発掘報告書末尾抄録によると遺跡の場所は、
福岡県筑紫野市大字諸田所字仮塚317~
319、375~376、397~399。
遺物が出土したのは、西暦1991年前後の事
のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第85ページ
付近によると、遺物は第14号住居跡で出土し
たが、住居跡全般が6世紀後半の古墳時代後期
成立と見られているように読取れる。
 遺物の写真は、発掘報告書写真図版第106
の下から2段目右に在り、第14号住居跡の、
第8番との旨、ナンバリングされている、杯状
の土器の側面とみられる部分である。

仮塚南将河.gif

 上図のように、中央に縦に第2字目が漢字の
”河”のように見え、第1字目は爿か、少し右
にズレているとみれば、寸部分が良くわからな
いが、旧字の将のようでもある黒い模様が有る
ように見える。
 大局将棋の川将を連想させるが、字が違うし、
ひっくり返しであるから、第1級河川宝満川の
意図ではないかと、個人的に解釈される。河川
崇拝が、古墳時代の後期、九州の北部に存在し
た事を、示しているのかもしれないと疑われる。
(2023/01/11)

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「将棋の来た道」ウルムチ博物館西洋象棋盤説明画像(長さん)

本記事は書籍の写真で、中国ウルムチ博物館
の展示品と、その表題カードを撮影した例に
関して、写真の像が不鮮明な為、表題カード
の字を、画像処理して読もうとしたという
趣旨の内容である。
 書籍の表題は大内延介著「将棋の来た道」、
メコン社、西暦1986年であり、目視で
問題の題字を読んだという紹介を、3年近く
前にしている。掲載されたページは、第85
ページの上段である。
 「吐魯番」でトルファンという地名である
としたが、画像を処理してみると、第1字目
だけ正解で、

特に第3字目を読むのは困難

なようである。
 ここでトルファンでは、アスターナ
(阿斯塔那)古墳で、囲碁の美人画が発見さ
れているというイワクがあり、ウイグル族は
イスラムシャトランジを、ゲームの出来に
関して目が肥えてい無かったのでプレーした
が、少し後に支配者となった、中国人は、目
が肥えていて囲碁だけをしたので、時代のズ
レで、共出土し得ないはずの、囲碁と、
イスラムシャトランジの遺物・記録が、同じ
町に出土しているという議論を、そのときに
はしたのであった。
 しかしながら、そもそもウルムチ博物館に
展示されている、シャトランジ盤とみられ、
大内延介の「将棋の来た道」に載っている
展示物が、漢字表現で”吐魯番”で出土して
いなければ、議論の根底が崩れる。
 そこで、以前は書籍を凝視して、展示カー
ドの写真を、私は読もうとしたのであるが、
今回は、

スキャナーで書籍の像を読み込んで、PCの
画像処理ソフトで、展示カードの部分の字を
読めるようにしようとしてみた

という経緯である。
 結果は、以下の図のような像が得られた。

将棋の来た道.gif

第1字目と、第2字目は、それぞれ「吐」、
下の日が多少怪しいが「魯」として完全否定
するのは困難なように私には見える。しかし
ながら、

第3字目が「番」であると証明するのは、少
なくとも私には、かなり困難

なようだ。「羌」という字のようにも見える。

目視で読んだときには、第1字目と第2字目
で「吐魯」と何とか読めたので、第3字目は
力尽きて「番」で妥協してしまった

と見られても仕方無さそうだ。前回の議論の
前提条件は、正しいかもしれないが「多分」
を一言余計につけた方が、良さそうである。
(2022/01/10)

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栃木県宇都宮市薬師寺南遺跡で古代山霊墨書土器(長さん)

今回は、大局将棋の山将や霊亀を連想させる、
漢字で山霊と書かれている上に、底面に猫の
絵等が、描かれているように見える、栃木県
宇都宮市郊外薬師寺南遺跡で出土した古代成
立の土器破片の紹介である。猫といっしょに

月面探査器のような絵が付記されている。

 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
90289_1_薬師寺南遺跡図版編.pdf
 なお、本文pdfは、全国遺跡報告総覧で、
別ページのファイルになっている。
90288_1_薬師寺南遺跡本文編.pdf
 2番目の本文pdfによると、発掘報告書
の表題は、次の通りである。
栃木県埋蔵文化財調査報告書第23集
薬師寺南遺跡、西暦1979年3月、
栃木県教育委員会。
 現時点で確認していないが、その他に、
スケッチ図pdfも有るかもしれない。
 発掘報告書90288番本文pdfの、
冒頭第12ページ「薬師寺南遺跡の環境」に
よると、遺跡の場所は栃木県宇都宮市(河内
郡河内町:当時)薬師寺。ここで話題にする
遺物が出土したのは、第5ページ付近の
「発掘調査日誌抄」から、西暦1975年前
後の事のようだと読取れる。
 遺物の成立年代は、発掘報告書本文pdf
の、第167ページ付近の「問題点の整理と
考察」より、遺物は竪穴住居跡第47号から
出土したが、住居跡全般が奈良時代~平安時
代にかけてのものと、考えられているように
読取れる。なお、この遺物よりも字が明確な
墨書土器が複数、この回の発掘で共出土して
いるようである。
 遺物の写真は発掘報告書写真図版pdfの、
写真図版第127の、最上段左にあり住居跡
第47号の第2番との旨ナンバリングされ、
側面写真と、裏側とみられる、底部の写真が
上下に並んで在る。

薬師寺南山霊.gif

 上図のように、側面の写真のオレンジの、
ひし形マークを私が付けた部分のひし形の頂
部に漢字で「山」、底部であり、山の斜め左
下にあたる部分に「霊」のようにも見える、
はっきりしない模様がある。多少将棋駒名に
関連するのかとも考え、霊の部分を画像処理
して拡大すると、霊では無くて「空」である
とみられ、

「山(改行)山空」

と、合計3文字とも読めるようである。より、

将棋に無関係な内容

であると判る。山の上空で何か見えて驚いた
という意味か。そこで上図の底部を見ると、

上下に並び猫の絵と、月面探査機(着陸船)

を連想させる絵が有る。通信用のアンテナと、
3本脚が目立つようだ。
 猫は山の神を表していると仮にして、日本
の古代に、アポロ探査機は存在しない。現地
から見て西の、栃木県日光市方面の山の方に、
何かが古代に着陸したのだろうか。
 不思議な模様である。(2022/01/09)

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愛媛県愛南町平城貝塚で縄文期金奔等墨書石器(長さん)

今回は、愛媛県の縄文時代の貝塚とされる
遺跡から、それぞれ漢字で出金奉、金奉と
書かれているように見える、石器とみられ
ている物品2個出土の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化材研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファィル名は、以下の通りである。
90383_1_愛南町内遺跡2.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
愛南町文化財調査報告書第2輯;平城貝塚総括報告書1、
西暦2021年3月、愛媛県南宇和郡愛南町教育委員会。
なお、集は元pdfでも輯になっている。
 発掘報告書末尾の抄録によると遺跡の場
所は、愛媛県南宇和郡愛南町御荘平城
2069番地1。発掘報告書冒頭の目次に
よると、ここで話題にする遺物が出土した
のは、以下遺物番号第750番と表現する
遺物が西暦1981年。遺物番号1600
番と表現する遺物が、西暦1995年であ
ると解釈出来るようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第108
ページによると、遺物番号第750番と、
以下に紹介する物品は頁岩の石材で、縄文
時代の石器。それに対して発掘報告書第
222ページによると遺物番号第1600
番と紹介する遺物は砂岩の石材で、同じく
縄文時代の石器と考えられているように、
発掘報告書から読取れる。
 遺物の写真は、発掘報告書の写真図版第
42(PL.42)の第2段目右に遺物番
号第750番の石器が、写真図版第82
(PL.82)の最上段左から2番目に、
遺物番号第1600番の石器が在る。

平城貝塚出金奔.gif

 上図は遺物番号第750番石器で、調理
用等の削器として使用されたものではない
かと報告者見られているように、第108
ページに記載されている物品である。図の
ように、左の面に漢字が複数書かれている
ように見え、上の方の少し大きめの3行の
模様のうち、右から第1字目が「出」、真
ん中の第1字目が「金」、左の第3字目が
「奉」のようにも見える。3行目は「・・
国前奉」のようでもある。

平城貝塚金奔.gif

 それに対して上図は遺物番号第1600
番の石器で、今度は右側の面に中央に薄く
縦に「金奉」と書かれているように見える。
左側に、ひょっとすると「山王奉」と書い
てあるかもしれない。
 発掘報告書を読むと、発掘が行われた当
時は、遺物に整理番号を複数のマーカーで
書いていたケースのようなので、今のとこ
ろ、そのヨゴレの類ではないかと、本ブロ
グではみる。
 近代の荘和鉱山は別として、弥生時代頃
までに金を掘っていたり、僧都川等で砂金
を取っていたとしたら驚きだが。この場所
の鉱物資源が古くから知られていたとすれ
ば、別の解釈が必要だろうと私は考える。
(2023/01/08)

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高知県田村西見当遺跡で弥生前期泰山墨書土器(長さん)

今回は、墨書土器であるとすれば、初出では
ないかと疑われる、高知県の弥生時代前期の
奉山という文字のように見える、

煤の付いた土器出土

の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
90918_1_高知県田村西見当遺跡BC区の発掘.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
高知県田村西見当遺跡(B・C区)の発掘、
西暦1976年、南国市教育委員会。
 発掘報告書第1ページ「遺跡の調査」冒頭
によると、遺跡の場所は高知県南国市西見当
乙598番~600番。遺物が出土したのは、
西暦1976年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第13ペー
ジによると、遺物は第8号貯蔵穴から出土
したが、その形態から弥生期前期の甕型土器
とみられている旨が、記載されていると私は
認識する。墨書土器であるとすれば、最初期
としか考えられないであろう。
 遺物の写真は、発掘報告書の第13ページ
の上段左に第26図として掲載され、入田B
式類似土器との説明がある。

田村西見当泰山.gif

 上図のように、右側に縦に大きく漢字で、
奉山とも読めるような、黒い模様が在る。
発掘報告書の説明通り、高知県南国市の弥生
前期初の成立とすれば、伝来していたとは考
えにいが、漢字であれば、とにかく初出であ
ろう。
 そこで模様を良く見ると、山の字に周辺に
行けば有るはずの、写真の像の歪みが無いし、
奉の字とみた模様の第4画目と第5画目で作
る「人」字型は、左側の煤の連続模様と見ら
れる。
 よって、このケースは残念ながら墨書遺物
では無く、模様は使用中に付着した、本物の
煤であろうと私は考える。(2022/01/07)

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埼玉県日高市王神遺跡で古代奉川朱書土器(長さん)

今回は、埼玉県日高市の王神遺跡で、奉川と
酸化鉄クリーム色素で彩色されたように見え
る、古代成立の土器が出土しているとの旨の
紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
91780_1_王神.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
日高市埋蔵文化財調査報告書第40集
王神(遺跡)、2019年、
埼玉県日高市教育委員会。
 発掘報告書末尾の抄録によると遺跡の場所
は、埼玉県日高市大字高萩字中王神。遺物が
出土したのは、西暦2000年前後の事のよ
うである。
 遺物の成立年代は、ここで話題とする遺物
は、発掘報告書第5ページ付近の記載によれ
ば、第9号住居址で出土したが、住居址自体
が8世紀半ばから9世紀前半の奈良時代から
平安時代にかけての古代に成立したものであ
ると見られているように、読み取れる。
 遺物の写真は、写真図版第16の最上段左
にあり、第9号住居址の遺物第1番との旨、
ナンバリングされていて、私には杯の側面の
写真のように見える。

王神奉川.gif

 上記のように、黄色い酸化鉄色素のような
クリーム色で、奉川と書かれているように見
える。奔川だとしても、将棋名としては存在
しそうだが、存在しない。このケースは、第
2字目が「本当は山で、下線が消えた」とい
うわけでも無さそうであり、珍しいと私は感
じた。なお画像処理をしたところ、割れ目の
色がおかしくなり、右の方の山の字のような
割れ目が、墨書のように、見えるようになっ
てしまった。奉川の字についても、黄色から
文字通りベンガラ色に画像処理で、変色して
しまっている。元々の発掘報告書でも、でき
れば確認お願いしたい。
 朝鮮半島から古代に帰化人が来訪し、付近
の高麗川を故郷の川に見立てて、祭祀を行っ
た跡であり、色材に関する知識も豊富だった
ので、古代の日本人の墨書土器ではなくて、
黄色の酸化鉄等で、字を書いたのかもしれな
いと私は考える。(2022/01/06)

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徳島県徳島市高畑遺跡で平安期奔蛇墨書土器(長さん)

今回は、古代の遺物であるが蛇信仰の存在
が疑われる出土遺物例の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
99647_1_徳島県立国府養護学校プール建設工事に伴う
高畑遺跡発掘調査概要.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
徳島県立国府養護学校プール建設工事に伴う
高畑遺跡発掘調査概要報告書、1990年、
徳島県教育委員会。
 発掘報告書冒頭の遺跡の位置と環境:第
4ページ付近の記載によると、遺跡の場所
は徳島県徳島市国府町中字高畑。遺物が出
土したのは、西暦1988年前後の事のよ
うである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第11ペー
ジの記載によると、ここで話題にする遺物
は、第2調査区の溝Eで出土したが、平安
期の物品と見られているように読取れる。
 遺物の写真は、発掘報告書写真図版第
43の最下段の右に在り、遺物番号第
366番との旨、ナンバリングされている。
土器のカケラのようである。

国府養護学校奔蛇.gif

 上図のように、写真で左端に縦に、漢字
で奉它と読めるような、暗い模様が在り、
蛇信仰の祭祀用のように、私には推定され
る。なお、やや中央やや右よりの下部にも、
暗い別の模様が在り、私見では奉納した人
物名が仔細私には読めないが、書いて在る
のかもしれないと考える。
 平安期の蛇信仰が、龍神信仰と関連して、
我が国に継続して存在した事を示唆してい
るのかもしれないと思う。第1字目は、はっ
きりしないが、奔や本の可能性は少なく、
また第2字目に虫へんが見当たらないので、
近世に成立した大局将棋の奔蛇とは、恐ら
くだが、無関係だろう。(2023/01/05)

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福島県南相馬市仲沖遺跡で縄文期奔鬼墨書土器(長さん)

今回は、福島県南相馬市仲沖遺跡で、縄文
土器に奉鬼と書かれているように見える、
墨書土器出土の話題である。

漢王朝時代の渡来人による道教の鬼信仰が
現地で行われたことを示している

と見られる。
 遺物の写真がweb上に公開され、発掘
報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
99940_1_中島舘跡・仲沖遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
南相馬市埋蔵文化財調査報告書第27集
中島舘跡・仲沖遺跡、西暦2018年3月、
南相馬市教育委員会。
 発掘報告書末尾の抄録によると遺跡の場
所は、福島県南相馬市小高区飯崎字仲沖。
遺物が出土したのは西暦2014年前後、
4~5年の間のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書末尾の
まとめ第80ページによると縄文土器土器
であるとされるが、正確な年代は、
記載されてい無い。以下、福島県の縄文晩
期、西洋紀元前後と仮定し、論を進める。
 遺物の写真は、発掘報告書写真図版第
78:”遺構外出土遺物(8)”の左上に
あり、第56スケッチ図:”遺構外出土
遺物(7)”の第2番とナンバリングされ
た遺物と同一であるとみられる。写真図版
とスケッチ図の表題枝番が8と7とで、1
つズレているように、私には認識される。

仲沖遺跡奔鬼.gif

 上図のように、右上に奉、左下に鬼とあ
り、奉鬼で、道教の鬼信仰が行われている
ように見える。漢王朝時代に中国人が福島
県相馬市の現地遺跡に、船で太平洋岸から
小高川を少し遡って渡来し、道教を信仰し
ながら鉱山探索を行っていたのではないか
と個人的に疑う。
 その証拠に、発掘報告書の別の場所、写
真図版第70:”4号土坑(遺跡地図メッ
シュ15のT地点)出土遺物(18)”の、
第3段目左に、以下のように、8番とナン
バリングされ、漢字で奉山と読めるような、
模様のついた別の、土器出土遺物が発掘さ
れている。なお、この図版に対応したスケッ
チ図を、目下私は発見しておらず、第2番
目の遺物の成立年代は、第1番目と同じか
どうかは、私には厳密には判かってい無い。

仲沖遺跡泰山.gif

 上図のように、遺物写真のほぼ中央に、
漢字で奉と読めるような煤模様が在り、
その右下に、山に見える黒い模様が在る。
 上記2つの遺物同士で、西洋紀元前後で
同じ成立時代のものだと、仮に仮定すれば、
渡来人が鉱山探索等で、日本に渡来したと、
推定する事も可能なのではないかと、私見
しているというわけである。(2023/01/04)

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神奈川県鎌倉市若宮大路周辺遺跡で鎌倉期奔王墨書土器(長さん)

今回は、鎌倉市の鎌倉時代の中心通り、
若宮大路の周辺遺跡で奉王と書かれたよう
に見える、カワラケ状の出土土器の紹介
である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
106164_1_鎌倉市埋蔵文化財緊急調査報告書.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
鎌倉市埋蔵文化財緊急調査報告書36西暦2019
年度発掘調査報告(第1分冊)若宮大路周辺遺跡群・
若宮大路周辺遺跡群、西暦2020年3月、
鎌倉市教育委員会。
 発掘報告書末尾の抄録によると、遺跡の
場所は、神奈川県鎌倉市小町一丁目333-2、
小町二丁目281-2。遺物は後者で出土
したようであり、遺物が出土したのは、
西暦2012年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、層序第2面で話題と
する遺物は出土したが、層全体が西暦
1225年から1375年までの鎌倉時代
後期から南北朝時代に成立と、発掘報告書
に見られているように、そのまとめ、第
260ページ付近で読取れる。
 遺物の写真は、発掘報告書の写真図版第
27の第2段目中央に在り、スケッチ図第
42の遺物番号第8番との旨ナンバリング
されている。繰り返すとカワラケのように、
私には見える。

若宮大路奔王2.gif

 上図のように、白抜けで、漢字で奉王の
ような模様が、縦に2文字で在るようにも
見える。が第1字目がはっきりしない。
奔王のようでもある。
 駒数多数将棋の奔王駒との関係が疑われ、
少なくとも本ブログでは奔王は、平安末に
後鳥羽上皇期の大将棋で成立していると見
ていたので、問題が無いとは言える。
 祭祀用だろうとは思われるが、廃棄する
器物を供えるのも、不自然といえば不自然
であり、将棋に関連し無いとは明確には、
断定しにくい例であろう。(2023/01/03)

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千葉県袖ヶ浦市八重門田遺跡で古墳期山鬼墨書土器(長さん)

今回は千葉県袖ヶ浦市八重門田遺跡で古墳時代
の遺物土器に山鬼と書かれているように見える
物品があるとの旨の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書デーベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
106163_1_袖ケ浦市定使山遺跡・八重門田遺跡・清水川台遺跡2.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
袖ケ浦市定使山遺跡・八重門田遺跡・
清水川台遺跡(2)、西暦2018年、
千葉県教育委員会。
 以下に話題にする遺物は、真ん中の、
八重門田遺跡で出土したようである。
 発掘報告書末尾の抄録によると遺跡の場所は、
千葉県袖ケ浦市久保田代宿入会地字木ノ根坂代
11-1-5。遺物が出土したのは西暦
2013年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、遺物は八重門田遺跡の、
第2竪穴住居跡で出土したが、発掘報告書第
41ページ付近の遺構表によると、住居跡自体
が、古墳時代中期の5世紀前後と推定されてい
るように読取れる。
 遺物の写真は、発掘報告書写真図版第47の
2段目右端に在って、第2号竪穴住居遺物番号
第8番との旨、ナンバリングされ、甕のようで
ある。2つに分断され、胴体の8-2とナンバ
リングされた部分に模様が在る。

八重門田山鬼.gif

上図のように、写真のほぼ中央の3つの破片を
繋ぐと、漢字で山鬼または出鬼と読めるような、
暗い煤模様が出てくる。将棋の駒の名称には無
いが、奔鬼や山鷲等と類似で、大大将棋や、
大局将棋を少し連想させる。
 しかしながら、清澄山・鋸山等、千葉県の山
からは、少し距離が離れすぎているようであり、
不思議である。
 そこで字のように見える模様を良く見ると、

第1字目は不明確

である。

租税に関連して「免」等と、一文字書いてある

可能性が在るのではないか。
 千葉県では、識字層が有力者と税等物品をや
り取りするとき、奉だけでなく「免」等の必要
な漢字を使うという習慣が、たまたま5世紀ま
でには成立していたのかもしれないと疑われる。
以下個人的見解だが。日本の古墳時代は、古代
よりも更に、日本というより中国に居るような
世界だったように私はイメージする。(2023/01/02)

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