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きのあ将棋で標準型平安小将棋のPC対局(長さん)

本ブログでは、9升目型の平安小将棋の持駒有
のタイプは、鎌倉時代後期から室町時代中期
に掛けて指され、仮に日本将棋と同じ成りの
ルール(自由度大)だと、後手マネ将棋の仕掛
局面で局面が凍結する、本ブログの用語で言う、
”旦代の難点”(イコール『旦代問題』
木村義徳)が依然として有るという立場を取る。
 これに関連して最近コンピュータ将棋サイト
に、平安小将棋が練習・チェックできるページ
があるのを、本ブログの管理人が見つけた。

”きのあ”将棋という、かなり耳にする
コンピュータ将棋ソフトの広報ページ

のようである。サイトは以下の通り。
https://qinoa.jp/p/?k=q20200806-heiann

このページが出来たのは、2020年の8月
頭であると見られる。

このページの企画は、本ブログにとって歓迎だ。

 一番下の”後手で対局 vs
あひる があがあ じごく(中級者設定)”の
”人間先手”で、後手(PC)マネ将棋を誘導
すると、冒頭の行き詰まり問題の意味の理解が、
比較的簡単に出来ると私は認識する。
 新安沖沈没船出土駒の時代の小将棋を、事実
上再現してくれる、興味深いサイトが出現した
ものだというのが、前記対局ソフトをチェック
してみた私の感想である。(2020/12/13)

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北海道の勝山館から碁石と双六駒は出土か(長さん)

以前述べたように、表題の北海道上ノ国町
の勝山館から、かつて将棋駒が出土したと
いう情報を、今の所本ブログの管理人は
得ていない。また原因については、墨書きで
駒名を区別する将棋のような遊戯は、北海道
ではアイヌ民族が優勢で、日本語として識字
が困難なため、中世・戦国時代から安土桃山
時代には、流行らなかったのであろうとの旨
述べた。では、駒の形が単純な、碁や双六は
行われたのかについて、今回は、奈良文化財
研究所発掘報告書データベースの、
”全国遺跡報告総覧”の勝山館の発掘報告書
で当ってみた。結論から言うと、

囲碁の碁石、双六の駒に関し、出土したとの
記載は有る

ようである。では、説明を続ける。
碁石と双六駒はバラバラであり、次の報告書
にそれぞれ書いてあった。
碁石:史跡 上之国勝山館跡XI
平成十年度発掘調査環境整備事業概報
1990.3 上ノ町教育委員会
12ページの左下隅に記載されている。
成立は恐らく戦国時代~安土桃山時代であり、
共出土物から館の内部だろう。丸い形大きさ
色から碁石であろうと報告されたと見られる。
数は1個だけのようだ。図でスケッチのみ私
は確認した。
pdfファイルは以下の通り。
36919_1_史跡上之国勝山館跡ⅩⅠ.pdf

双六駒:史跡 上之国勝山館跡XX
平成十年度発掘調査環境整備事業概報
1999.3 上ノ町教育委員会
記載は23ページの左の欄の、真ん中へんで
ある。安土桃山時代の頃のものではないかと
思われる。詳しい場所は、私にはよく判らな
い。これも共出土物からみて、館の内部で発
見されたのであろう。スケッチしか私は見て
いない。
 4個有るようであるが、丸い物体で縁取り
があるらしいという以上の特徴は、特に無い。
pdfファイルは以下の通り。
63714_1_史跡上ノ国勝山館跡ⅩⅩ.pdf

 以上の結果から”墨書の有る駒が無い事は
確かだが、丸い物体がある。だから遊戯具は
出土している”と、100%は言えないかも
しれないと個人的には思う。
 なお、これで勝山館内で見つかった碁石と
双六駒の全てという保障は無い。本ブログの
管理人が、ざっと見て目に付いたものだけを、
今回は述べた。
 やはり戦国時代頃の当時の北海道が日本語
の字を盛んに書く環境から、遠かった事こと
によるのだろう。今の所、墨書遺物の発見数
が少ない事に伴い、将棋駒も見当たらないよ
うだとは、依然として一応言えるようである。
なお、”全国遺跡報告総覧”に、勝山館の発
掘報告書は20篇前後、pdfで読める形で、
全国遺跡報告総覧に登録されているようだ。
(2020/12/12)

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なぜ北海道の勝山館から将棋駒は出ない(長さん)

北海道の戦国時代から安土桃山時代に
かけての城址で、蠣崎氏の本拠だったと
聞く表題の城の発掘調査が前世紀
1970年代から行われていて、碁石は
出土しているが、少なくとも前世紀の
発掘時点では、将棋駒出土の記録は無い
ようである。今回は、理由を論題にする。
回答から書く。北海道では

文字の普及度が全体として安土桃山時代
までは本州より低く、将棋のルールの伝
達が軟弱で、将棋棋士の人口が少ない為

とみられる。説明を加える。
成書「よみがえる中世4、北の中世津軽・
北海道」の第4章、”道南の和人の館”、
執筆者が松崎水穂の106ページから
124ページに、勝山館跡の発掘調査の
記載がある。
 私が今の所確認している、前世紀の
勝山館の発掘調査情報はこれだけである。
1970年代後期の発掘が主体であった
ように書いてある。
 侍館と本体の館に木製遺物が残ってい
たようである。

侍館からは、食事に使用する箸と漆器、
生活用品の下駄しか出ていない。

説明によると文字文化の無いアイヌ民族
が、16世紀の戦国時代~安土桃山時代
には、館の警護をしていたように読める。
 次に、城跡からも生活用品と食器以外
に木製品の出土は無いようである。特に、

城の中にも文字史料が、無地の木簡1枚
しか出ていない。

ただし硯は有ったようである。恐らく
勝山館の館内にも、筆不精しか、当時は
居無かったのであろう。
 木製品自体はそれなりに出ているし、
碁石も出土しているので、ボードゲーム
の類は行われたとみられる。しかし、
駒に駒名の字が書いてある将棋ゲームは、

文字を使用する頻度が蠣崎氏の間では
戦国時代には少なく、そのために勝山館
では、その普段の習慣の影響から将棋は、
大いに盛んという所までは行かなかった

のではないかとの印象である。
 松前城下が発展する江戸時代には、道
南で将棋は指されたに違いなかろうが。
安土桃山時代までの、北海道の将棋遺物
を探すのは、全体として多分少なすぎて、
かなり難しそうだとの印象を受ける内容
に、前記成書は読み取れた。(2020/12/11)

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奈良文化財研究所データベースの十三湊遺跡(長さん)

以前、新人物往来社の中世十三港に記載の

昔の遺跡発掘報告書に木製品出土の記録が
無い

旨を述べた。そこで、南北朝時代から現代
までの間に十三湊遺跡では、埋蔵された
将棋駒は腐ってしまい、出土しないからだ
ろうと思考した。しかるにweb上にも、
十三湊の比較的新しい時代の発掘報告書が
あり、そちらの方にも木製品が無いのかど
うかについて、今回はチェックしてみた。
結果、

十三湊については第77次発掘の近世の
皿1枚と御椀3個、近傍の市浦村第1~2
次発掘で、杓子と2本程度の箸が出ただけ

との結果になった。もうすこし、詳しく
紹介する。
 青森県(現)五所川原市の十三湊遺跡に
ついて、奈良文化財研究所発掘報告書デー
タベースの”全国遺跡報告総覧”のpdf
は、だいたい10回分が報告されている。
ちなみに、発掘自体は少なくとも百数十回
以上は、行われているようである。
 10回分の発掘で、木製品が出たとされ
ているのは、77次、90次、120次の

僅かに3回だけ

である。そのうち90次と120次の木製
品遺物については、スケッチおよび写真が
確認できない。
 十三湊遺跡では、遺物自体が膨大な量出
土しており、報告書をチェックするのが、
かなり煩雑なため、90次と120次は

本ブロクの管理人が見落としている

可能性が高い。
 かろうじて、第77次の木製品の写真を
発見したが、近世から近代にかけての漆器
皿が一枚と御椀が3個が、報告された木器
の全てのようだった。
 このweb上のpdfファイルの名称は、
32760_2_十三湊遺跡.pdfで、後ろの方の、
図版59に載っている。
 また、市浦村遺跡という場所は、十三湊
からみて南に少し離れた所にあるようだ。
この遺跡は十三湊の典型的地区では無いが、
中世には湊とほぼ繋がっていたように、私
には見える。さほど離れてないからだ。
 その市浦村遺跡の方の井戸跡の一つから、
こちらは南北朝時代のもののようだが、
箸が2本と、杓子が1本出土している。
web上のpdfファイルの名称は、
32759_2_十三湊遺跡.pdfで、図版の14と
15に杓子と箸が、少し離れて載っている。

通常将棋駒が発見される遺跡は、木製品の
全体量が、これとは桁違いに多い場合

が通常である。
 従って十三湊遺跡では、木製品が全く出
ない訳ではないが、

極めて少ない方の部類の遺跡

である事は、web上の遺跡発掘報告書を
足してみても、ほぼ間違いないように、私
には思えるようになって来た。(2020/12/10)

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なぜ和将棋の飛鷹成りの勁鷹の勁は鶏辺(長さん)

今回は和将棋の駒名の古文書字について、

たぶん誤字

だが正確には判らないという話題を述べる。
具体的駒名は、表題の例についてである。
 すなわち繰り返すと結論としては恐らく、

和将棋の勁鷹の鶏辺の勁(けい)は、一例
として井原西鶴流の新字を連想させるが、
今の所辞書に無い誤字扱いとみるべき漢字

であるとの結論となる。
 では以下に説明する。我々はこの漢字を、
例えば梅林勲・岡野伸著の”世界の将棋”
で活字で見る事が出来る。和将棋の普通の
将棋で言う角行にあたる位置に、飛鷹駒が
あり、その成りが勁鷹で、今しがた示した、
この漢字を書けば、

諸橋徹次の大漢和辞典の勁の熟語になる。

大漢和辞典によれば、後漢書の馬融伝に、
勁鷹不(レ)立(二)垂枝(一)という諺
があるという事である。孔子が奔車に乗ら
ないのと、いっしょという意味であろうか。
 和将棋のこの駒名は、馬融伝の諺等で、
「勁鷹」の熟語を知っているゲームデザイ
ナーの命名であると、見るのが妥当だろう。
それは、元禄時代の頃だったと見られる。
将棋図式(松浦大六氏所蔵)に、和将棋が
載っているからである。
 実は、徳川家治時代主成立と、ここでは
見る、大橋家の文書の”大局将棋駒”には、
それまでの日本の将棋が取り入れられてお
り、和将棋の駒も多い。が勁鷹は無く、
代わりに雲鷲の成りが勁鷲になっている。
字は、今度は正しい字である。ちなみに字
が置き換わっている事に関しては、web
上の辞書、wikipediaの大局将棋
の説明でも触れられている。同じく、
wikipediaの和将棋の説明では、
勁鷹の勁の漢字が、鶏辺になっている字が
漢字コードに無い為に、画像で埋め込まれ
ている。恐らく

大橋家等の大局将棋のゲームデザイナーは、
和将棋の勁鷹の鶏辺ケイは誤字で有る事を
知っていて直したが、たまたま勁鷹という
熟語の存在を知らなかった

のであろう。鷲より小型の鷹の、その強い
ものではおかしいと感じて、鷲の強いもの
に替えてしまったようだ。ただし、漢字は
正しく知っているので、和将棋と大局将棋
のデザイナーの知的レベルは同等と、一応
見る事が出来よう。
 以上のように大漢和辞典をチェックした
所では、結論できそうである。なお難字・
異字の辞典類にも鶏辺勁は、今の所私には
見つからない無い。井原西鶴の字かどうか
は確認できないが、和将棋の作者の正体の
ヒントにこの字もなる、可能性は有るとみ
られる。(2020/12/09)

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尾道遺跡の将棋駒出土条件草戸千軒遺跡と同じ(長さん)

以前、よみがえる中世シリーズの8番目、
”広島県福山市の草戸千軒遺跡・鞆の浦・
尾道”内容を紹介した。そこでは、
草戸千軒遺跡の遺物の成立年代は、

室町時代

となっていた。ただし上の成書には、前世
紀の遺跡発掘記録が書かれていて、鞆の浦
と尾道遺跡についても記載されている。
 今回は、尾道遺跡の当時の発掘で、
室町時代の木製品は腐らずに残って出土す
るものの、草戸千軒遺跡と同様、将棋駒は
発見されていないとの旨についての、転送
に近い紹介を以下本ブログでもする。なお
前記成書では、鞆の浦の発掘でも、将棋駒
が出土したとは書いていない。
 話を戻すと尾道の発掘例については前記、
よみがえる中世・・・尾道では、203~
204ページ付近に、広島県埋蔵文化財調
査センターの、篠原芳秀氏の筆で、
西暦1975年の発掘の様子が記載されて
いる。広島総合銀行尾道支店の立替による
発掘調査をしたとの事である。遺物の分析
の結果、海岸を干拓して陸地化した地点で
あり、埋め立ては14世紀、

従って、遺物はその少し後の室町時代の
ものが、たまたま多い

との事のようであった。井戸跡があり、
木製品が出土する条件が揃っていたが、そ
れらについては、新しい物が少なく、たま
たま、陸地化した時代に近い室町時代成立
を主体としたものであったように、年代が
書いてある。つまり、尾道の1975年発
掘遺跡についても草戸千軒遺跡同様、

木製品の成立の中心が室町時代であって、
戦国時代以降の遺物が少ないと、将棋駒の
出土確率は減る

と考えると一致する結果のようであった。
なお、出土した木製品として、箸、杓子、
折敷、円形板、下駄、鉤の柄が、この広島
総合銀行尾道支店の地点に関して前記成書
では紹介されている。
 以上の結果から、室町時代に関しては、
全体としての木製品の出土割合に比べて、
将棋駒の出土例が、少ないようだという遺
跡の例として草戸千軒遺跡の他、尾道遺跡
の例などが、指摘できそうである。
 ちなみに鞆の浦の発掘調査報告もこの成
書に載っており、この遺跡では縄文時代か
ら近代までの広い時代にわたって遺物が出
土しているとの旨紹介されている。ただし
鞆の浦のケースは、今度は

木製品が腐ってしまっていて、保存状態が
良くない条件だった

との事である。
 以上の事から同じ広島県内でも、木製品
遺物の残りやすさは、当然バラバラなので、
場所により、将棋駒が出土したり、大きな
遺跡でも出土しなかったりという事が起こっ
ている事も判るようだ。
 更に成書からは次の事も判る。すなわち
昔の発掘報告書は、web上に載っていな
い場合が多くかつ、

重要度の高い場所から、調査するのが普通

なので。発掘技術は時代と共に進んでも、
めぼしいものはpdf化されていない昔に
発掘されており、報告書がweb上で簡単
に見れない事が、気づかず痛手になってい
るケースが相当有るようだ。(2020/12/08)

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何故青森県旧市浦村十三湊遺跡に出土将棋駒が無い(長さん)

今回は、南北朝時代を中心とした青森県の
遺跡として著名な、十三湊遺跡から将棋駒が
出土したという情報を、本ブログの管理人が
持っていない理由について考察する。
 結論から述べる。

井戸跡遺跡の木製品の腐りが激しく、
南北朝時代前後の遺物が、残っていないため

と考える。つまり十三湊に於いて、

日本の南北朝時代頃に、将棋が行われなかっ
たとは考えにくい

と解釈するという事である。
 では説明を開始する。
 以下の成書に、概ね西暦2002年前後よ
り以前の、青森県の十三湊遺跡の発掘情報が
ある。
中世十三港の世界、
編集:青森県(北津軽郡)市浦村(当時。現
五所川原市)、新人物往来社、西暦2004。

 それによると十三湊の遺跡の遺物の中に、
室町時代前期の15世紀初の遺物は、大量に
含まれるが、

隆盛時代の中心点は、南北朝時代であり、

その前後の鎌倉時代後期と室町時代前期にも、
成立した遺物が、それには劣るが比較的多く
含まれる状況との旨の情報が、前記成書の、
以下の章に有る。つまり、この成書は、
発掘調査報告書の集成のような形態の書物で
ある。

109ページ以降の十三湊の都市構造と変遷,
発掘調査10年の成果から、榊原滋高
五 十三湊の発展、六 十三湊の最盛期

239ページ以降の十三湊遺跡 湾口部・
町屋地区・壇林寺の調査、鈴木和子
二 町屋地区の調査、三 壇林寺跡の調査

271ページ以降の推定家臣団屋敷地区の様
相、工藤忍(全編)

295ページ以降の唐用城跡の発掘調査、
前川要(全編)

室町時代前期が遺物の成立時期なのであれば、
小将棋+中将棋のプレーヤー人口は、南北朝
期の小将棋が比較的堅調な時代のプレーヤー
人口や、戦国時代の日本将棋勃興期のプレー
ヤーの人口よりも、少し少ないという事にな
る。だが実際には、

十三湊の遺物の成立期は南北朝時代が中心点

とされる。なので室町時代中期が中心点であ
るために将棋駒が出ないという広島県福山市
の草戸千軒遺跡のような理屈は成り立たない。
 だから、この遺跡では将棋駒だけでなく、
他の木製品も、少なくとも新人物往来社の成
書”中世十三港の世界”の、前記の記載の、
実質発掘報告を読む限りは、主要な出土物で
無いとみられる。その事から、

地下水が悪くて、廃棄された将棋駒が残らな
かった

と説明するしか無い。ようするに、小将棋を

安藤氏関連の武者は指したが皆腐って消えた

と、取るしか無いと言う意味である。
 なお、前記成書に石製品の記載も余り無く、
碁石の記載も無い。しかし、web上の、
奈良文化財研究所発掘報告書データベースの
”全国遺跡報告総覧”の中に、十三湊遺跡の
発掘報告書で、web上で読めるものが有り、
それによると、僅かな数かつ、はっきりそう
だと言えないようだが、

十三湊遺跡で碁石らしきものは出土している

らしい。成書ではなくて、web上のその発
掘報告書に関しては、碁石の写真とスケッチ
が、両方私には、たまたま未確認である。
 碁石で間違いなければ富山県の石名田木舟
遺跡出土の黒碁石と同じく、国府跡以外の地
方出土碁石としては鎌倉時代後期~室町時代
中期以前成立の、賑わっているとは言え、
国家の中枢が在住しているとまでは言えない
港町とみられるため珍しいものだろう。
 以上のように残念ながら、北海道に、
平安小将棋が進出していたという手ががりは、
青森県の十三湊遺跡の発掘結果からは得られ
なかった。が単に遺物の持ちがここでたまた
ま悪かっただけで青森県だけでなく、北海道
にもひょっとして、平安小将棋が上陸してい
た疑いは充分有るのではないかとの心象を、
私は前記の書籍をチェックした結果、以上の
思考から、今回持つようになった。(2020/12/07)

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草戸千軒町遺跡囲碁と将棋で駒不出土理由は別(長さん)

以前、広島県福山市の草戸千軒町遺跡で、
将棋駒が出土しない理由として、応仁の乱
以前の室町時代、ゲームの出来が完全では
なかった為、全体の将棋人口が減ったと、
本ブログでは述べた。ところでこの
室町時代の遺跡からは、碁石も、今の所見
つかっていない疑いがある。では囲碁も、
室町時代に衰退した為なのか、という点を、
今回は問題にする。結論から書く。

応仁の乱以前の室町時代までは、囲碁は、
都や鄙に集中していたとみられるため

であり、

室町時代に囲碁人口の減少は無い

と考える。では説明を加える。
 日本では、囲碁は藤原京の時代以降は
総じて盛んであり、衰退の記録は院政期に
しか示唆が無いと、本ブログの管理人は、
今の所認識している。また、暦学との関連
が高く、

戦国時代以前は暦の作成元のある帝都部に、
囲碁の棋士は集って競い合っていた状況

であったとも、個人的には遊戯史の教科書
的認識をしている。
 ただし、奈良時代から平安時代中期まで
は平安時代後期以降よりも、全国レベルで
囲碁は、少し盛んだったようで、地方の
国府跡レベルでも、碁石らしい遺物が少し
出土しているようである。また福岡県周辺
では、中世まで、中国人が居住していた地
域で碁石が出土している。ちなみに碁石の
方が将棋駒よりは腐りにくい材質の為、
出土確率が高く検出感度自体はずっと良い。
また大まかに言うと囲碁の、プレーヤーの
分布傾向は、中国の歴代王朝と日本に関し
て、14世紀まではほぼ一緒と見る。
 日本の戦国時代に囲碁については、この
関係が日本で崩れて全国に広がった。それ
は中国の領土内で、明王朝期とその少し前
に編纂された囲碁の成書が、交易によって
日本にもたらされ、日本の囲碁棋士のレベ
ルが上がると同時に全国普及したため、
囲碁関連の遺物の分布は、それ以降に、線
から面への変化の状態で広まったととも、
本ブログの管理人は認識している。
 以上の認識が正しいとすると、草戸千軒
町遺跡で、碁石の出土等が無いのは、応仁
の乱以前の室町時代に於いては、中国人が
居るといった理由が無ければ、

奈良京都とその近郊の近畿、鎌倉、茨城県
の古河、平泉、沖縄に暦配布の責任者であ
る為政者の所在が限られるため、その他の
地域に碁の棋士がやや少ない為、囲碁関連
の遺物の出土も、やや少ない傾向が有る為

なのではないかと、結論出来ると見る。
 なお、偶然か否かはっきりしないが、面
白いことに、富山県の石名田木舟遺跡では
室町時代に他では余り出土しない将棋駒と、
黒碁石1個が出土して反例を形成している。
 何れにしてもつまり鎌倉時代から南北朝
時代にかけてにも、金沢郊外の堅田B遺跡
や、栃木県の小山市神鳥谷曲輪遺跡、
徳島市郊外の川西遺跡その他、地方でも多
くの駒が出土していて、分布が広がってい
ると推定できる将棋とは異なり、

奈良や京都や鎌倉に、棋士が集中していた
囲碁では、広島県福山市の草戸千軒町まで
は、普及が及ばなかった為に碁石は出無い

という事情なのではないかという事になる。
 なお、将棋の分布が平安時代末から、
鎌倉時代、南北朝時代、室町時代応仁の乱
まで広いのは、地方に武家が駐屯していて
武術関連とみられて将棋が指される世論が
存在した事。鎌倉時代にたまたまモンゴル
帝国の侵攻があり、地方にも将棋を指すと
いう意識が、その為たまたま高まったとい
う理由があるのだろうと、ここでは見る。
 以上のように今の所、草戸千軒遺跡の
碁石と将棋駒の不出土は、理由が違うだろ
うと認識するというのが、本ブログの見方
という事である。(2020/12/06)

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富山県弓庄城跡銀将裏の一文字金は”圭金”(長さん)

さいきん表題の富山県上市町弓庄城跡で西暦
1983年頃発掘された裏がたぶん、一文字
金銀将駒の、発掘当時の報告書を、
奈良文化財研究所発掘報告書データベースの
”全国遺跡報告総覧”の中に発見した。そこ
で念のため、問題の遺物の写真をチェックし
たところ、

裏面の写真が天童の将棋駒と全国遺跡出土駒
の写真と少し、墨跡模様が違う

のに気がついた。以上の報告を今回はする。
 ここで話題にする新たに私が見かけた
発掘報告書は、web上、今述べたデータベー
スサイトに公開されており、ファイル名は以
下の通りである。

13689_2_富山県上市町弓庄城跡第4次緊急発掘調査概要

なお13689シリーズの_1には、銀将駒
のスケッチもあり、こっちの方は、
天童の将棋駒と全国遺跡出土駒と同じである。
 写真は以下の通りであり、右側の裏面が問
題である。

1984報告書弓庄銀将.gif

なお、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の写真
も以下に紹介する。

天童の将棋駒弓庄銀将.gif

 裏面を比べてみると判ると思うが、
天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の方は、
北+_なのに対し、1984発掘報告書の方
は、化+_のように私には見える。最後のア
ンダーバーは、金の一番最後の画だと推定さ
れる。
 原因は、

裏面が湾曲していて撮影方向が僅かに違うと、
淡い墨跡のコントラストが、たぶん部分的に
写らなくなる為

であろうと、私は推定する。従って、
天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の写真は、
1984年の前記発掘報告書の写真ではなく
て、1994年のまとめ版調査報告書の為に、
取り直したというような経緯の、別の写真な
のであろう。
 では実態はと言うと、

墨は広がっていて、2枚を足し合わせた像が
正しい

のではないかと推定している。つまり”北”
の偏の左下端と、”化”のツクリの右下端は、
実は繋がっていて、

巾の広い比較的大きな字で、圭型の入った、
いわゆる銀将のくずし金の字が、裏面に書い
てある

疑いが、濃いのではないかという事である。
以上の点は、駒の動かし方のルール点が、
ほぼ残っているのに、それぞれの写真で、
別々に部分的に撮影されたり、されなかった
りしているという点から判る。
 本ブログでは過去かなりの数の出土将棋駒
の墨書模様を写真を見ただけて議論してきた。
しかし何回かトラブルがあったり、コメント
した事も有ったが、実物を直接目視するので
はなくて、写真から推定するやり方には、実
物に生に接していないという点で、やはり、
リスクは残っているようだ。
 なおこの遺物は、室町晩期のものなので、
石名田木舟遺跡の銀将に、比較的外見が似て
いる。
 ただし裏金の崩し書体が、たまたまであろ
うが、少し違うのではないかと、以上の結果
から疑われるという点に、注視すべきだろう。
以上のように、私は考えるようになって来た。
(2020/12/05)

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和将棋の玉駒”靏玉”の鶴異字体”靏”は西鶴文字(長さん)

以下、井原西鶴が”新可笑記”の中で、”大大将棋
というゲームの盤駒を自作して、小さいお堂のよう
な場所で熱心に遊んでいた”との旨記載した、

”大坂の京絹の商人の息子”が和将棋の作者と関連

する疑いがある事について述べる。
 表題にも書いた、和将棋の玉駒である靏玉の靏だ
が、この鶴の異字体は、井原西鶴が、自分の名前の
表現に好んで用いたものらしい。以下の成書の最初
の話題、1.[鶴]の最初の方、16ページ中段付近
に、その旨が記載されている。
漢字百珍、杉本つとむ著、八坂書房、2001年

 そもそもローカルなお堂で、たまたま遊んでいる
若者について西鶴が書くところを見ると、西鶴と若
者との間には人間的に、繋がりがあるのではないか
と疑われても、しかたがないのではないか。何故な
ら、たとえばその若者か大坂の京絹の商人が、西鶴
にとっては自分を尊敬している人物だし、それを西鶴
が知っていたとしたらどうか。その状況で、
大大将棋等の啓蒙の話を、中将棋を指す西鶴がもし
聞いたとするのならば、第三者には、取り立てて関
連性も無い個人的な趣味についても、公表して持ち
上げるという事なのでは、ないのだろうか。井原の
遺稿は、以上の経緯によって、”大坂の京絹の商人
の息子”の趣味”大大将棋”等が、記録として残さ
れたという性質の噂話なのではなかろうか。
 つまり、玉駒の鶴玉の鶴を、西鶴が彼を示す表現
としてよく使う、”靏”の字を敢えて当てていると
いう事は、少なくとも

和将棋の作者が、”大坂の京絹の商人の息子”と、
文学の世界、駒数多数将棋の両方に於いて、趣味が
相当に近い人物同士である

疑いがある事を、意味していると私は思う。つまり、
井原西鶴を尊敬しているという点で共通の、
駒数多数将棋愛好家同士なのではあるまいか。
 従来和将棋の作者については、事実上全くの謎だっ
たと私は認識している。だから、この杉本氏からの
情報は、その正体を割り出す事が可能になるという
点で、

一筋の光を射し込ませたもの

のように、私には感じられる。
 なお本ブログではこの”大坂の京絹の商人の息子”
は、大阪の将棋家の田中賢一氏が所持して居られる、
寛文12年(西暦1672年)成立の、
『摩訶大将棊の図』の作者と疑われる、亮隆基と表
現されている人物とも、少なくとも知人同士か、そ
れより近い関係があると見ている。
 何れにしても以上のことから、同人の動向に仮に
前記”大坂の京絹の商人の息子”が詳しいとしたら、
彼には”和将棋の作者の正体”が判っていた疑いは、
かなり高いように、私には疑われる。(2020/12/04)

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