SSブログ

西暦1987年頃発掘清洲城下町飛車駒は卒塔婆(長さん)

天童の将棋駒と全国遺跡出土駒カタログに、
不明駒(”飛”か?)と載っている、愛知
県の清洲城下町遺跡出土遺物について、以下
に議論する。前記成書の戦国時代成立と表記
された、70ページ右上の出土物品のスケッ
チに関してである。実は発掘報告書がweb
上に有り、写真を見ると、

底面に切り跡のササクレがある。
梵字等が書かれた卒塔婆の頭の部分

を折り取ったもののようだ。
 では、説明を開始する。清洲城下町からは、
成り一文字今金歩兵駒も出土している。以下
のpdfファイルは、当時の発掘報告書で、
飛車駒かとされるものと並んで、本物とみら
れる、典型的な戦国時代から安土桃山時代に
かけての歩兵駒の出土も紹介されている。
1924_1_清洲城下町遺跡2.pdf
 前記の報告書に於いて、将棋駒では無いと
本ブログでは見る”飛”と読まれた遺物の、

写真の方が写った発掘報告書は別

で、以下のpdfファイルである。
1924_3_清洲城下町遺跡2.pdf
何れも元々は同じ報告書が、pdfファイル
の製作時に分割され別々になっただけであり、
元もとの発掘報告書の名称は、以下の通りで
ある。

愛知県埋蔵文化財センター調査報告書 第27集
清洲城下町遺跡(Ⅱ)、1992年
(財)愛知県埋蔵文化財センター
問題の遺物の写真の下部を示す。

清洲城下町飛.gif

上記は、発掘報告書の後ろの方、図版45、
出土遺物 木製品(2)として載っている。
 上記図のように、遺物の下部には切り跡が
有る。元々の物品は、もっと長い木製品の板
であり、それを切って、短い五角形にしたと
みられる事は明らかだ。なおこれを、例えば
卒塔婆の切れ端とみれば、文字は”飛”では
なくて、ある種の梵字のようである。またこ
れだけから見れば、飛と言う字と言うよりは
武士の花押の一種のようにも、私には見える。
 ちなみに、たまたまだと見られるが、天童
の将棋駒と全国遺跡出土駒には、スケッチし
か載っておらず、今述べた点が明確には判ら
ない。
 そもそも遺物は、将棋の駒としてしまうと、
平泉の中尊寺境内遺跡出土駒に近く、

形からは平安時代末期になってしまう。

実際には、城下町の歴史からみて、戦国時代
から安土桃山時代に掛けてが明らかだし、他
の将棋駒である歩兵駒を見ても、室町時代~
戦国時代のものであると明らかに判り、整合
していない。
 だからこの遺物は、恐らく将棋駒ではなく
て、やはりたとえば、何らかの理由で頭の部
分だけ切り取られた、卒塔婆の破片の類なの
ではないかと私は疑う。(2020/12/21)

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

(コラム)記事数1500件を越えて(長さん)

本ブログの将棋に関する記事が、ssブログに
関しては、日毎で途切れる事が一度も無く、
どうやら1500件を越えたようだ。なお、
現在バックアップ書庫にしているlivedoor
の同名ブログ(公開せず)方で、半年間で2日
分、書き込みをうっかり忘れてしまって後日に
加えた。歳は取りたくないものだが最近健忘症
が、ひどくなってきたようだ。
 公開の有無で、記事を書き込むのを忘れるか
どうかが違う。つまりこの事からも明らかだが、
読んでくださる方が、おいでになるからこそ、
日毎連続記事投稿は可能となった事柄である。
だから、購読者の皆様には、繰り返しになるが、
ひたすら感謝の気持ちでいっぱいだ。
 特に2020年の4月からは、新型コロナウィ
ルスの感染が日本でもひどくなり、本来私の好
きな、取材して記事にする事を、ほとんどしな
くなってしまった。
 ただしその結果、アクセスランキングは上がっ
たと見ている。記事数を稼ぐのに、取材してか
らでは、所要時間の面で、実は効率が余り良く
ない。成果が上がったと、自己満足感がより、
味わえるとみられるのだが。成果が上がったと
思えるのは管理人の主観であり、読者の評価は
別だろう。
 だいたい取材して成果が上がったと思って書
いた記事は、自慢話になる傾向が強く、読者の
心象はそれでは上がり難いのではないだろうか。
以上のように最近特に疑う。そのためコロナの
問題が無かったら、このブログのケースは、

管理人自身は、実際の展開よりも良い気持ちで
記事を書いたのかもしれないが。アクセス数の
ランキング自体はむしろ、今より下がったので
はないか

と私は疑って見ている。
 取材困難ないし不可能の状況だと、情報に
行き当たったときに、提供者に感謝する礼句を
述べる傾向が強まる。のでブログの文章自体が、
伝染病の蔓延の世相とは異なって、むしろその
方が明るい感じになり易い。その事を、世相が
現時点では期待しているとみられる結果、筋細
内容の本ブログのアクセスランキングが、意外
にも最近少し、上がった可能性が高いと私なり
に分析している。
 この後このブログがどうなるかは、ネタ自体
が現時点で、ほぼ完全に枯渇状況な為、全く判
らないが。今述べた事は教訓として肝に念じな
がら、出来ればこの先も、なんとか刹那刹那で、
進めて行きたいと考えている。
 読者の皆さん、どうもありがとう。
(2020/12/20の2)

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

将棋カードゲーム『ごいた』歩札は”し”なのか(長さん)

石川県鳳珠郡能登町で遊ばれている、将棋型
のカードを使用するゲームに”ごいた”があ
る。以下の著書によると、歩兵に当る”歩”
は、通常の漢字の歩で記載されず、”し”と
ひらがなで表記され、32枚のカードのうち
の10枚を占めているとの事である。
伝統ゲーム大事典、高橋浩徳、朝倉書店、
2020年(126ページ)。
今回は、

”し”と書かれている理由を論題

とする。回答から書く。

”し”では無くて、”歩”の俗字から、
右打点を省略したもの

とみられる。
 では説明を開始する。元々の出典は不明で
あるが、恐らく俗字で”ト”に見える歩の漢
字が存在するとの旨が、以下の成書に記載さ
れている。
漢字くずし方辞典 新装版、編者:児玉幸多、
東京堂出版、西暦1982年。
 この本の194ページに、”歩”の俗字の、
”山+少”の字で歩になる漢字の歩の下に、
”ト。”と見える略字のような書体が、書か
れている。なお、余分な”。”は、本の編集
時の、タイプミスの疑いを私は持つ。
 またこのページの左上段隅に、平仮名の
”し”に、右点を打った、”ト”に見える、
さきほど俗字かと述べた漢字の、対応草書と
みられる書体が記載されている。
 証明は出来ないが、この

”し+ゝ”から”ゝ”を除くと、”ごいた”
の字の、”歩”の”し”になる事だけは確か

だと私は認識する。
 たぶんだが、歩兵カードは弱いし、数が多
いので。ごいたでは、僧侶の略文字を連想さ
せる簡易書体の草書の””し+ゝ”にした結
果、そのうち誤伝して”ゝ”が抜け、”し”
になったのであろう。
 なお、俗字の”ト”に見える歩が原因で、
それを知っている人間が、歩兵の成りの今金
書体の呼び名を”と金”にした結果、ここか
ら来るのだと勘違いして、と金書体が更に普
及した可能性も、全くは排除出来ないのかも
しれないと思う。
 幾つかの理由が、重なって”歩兵の成り”
が”と”と表記されるようになったという方
が、証明は困難だが、尤もらしいようには、
私には思える。(2020/12/20)

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

なぜ神鳥谷曲輪遺跡木製品に底板又は曲物が多い(長さん)

以前発掘報告書の読み込みを本ブログの管理人
が余りしていない時代、栃木県小山市神鳥谷
(北端)曲輪遺跡の成り一文字金角行駒につい
ては、その成立年代に関し、小山市作成の報告
書は信用できないとの旨を結論した。すなわち

遺物は近世の物

であり、南北朝時代の記憶を忠実に写した、
近世の寺の寺宝だとの旨を主張した。根拠は、
寺宝の廃棄場所とみられる、8号井戸を中心と
した、半径数メートルに、いわゆる生活用具が
異常集中しているという不自然さが、ここの遺
跡の遺物にあるからであった。その他の数十メー
トル領域には、大量のカワラケを中心とした、
南北朝時代の小山氏部族の遺跡には、他所にも
見かけられる物品が、大量出土していると、本
ブログでは認識している。
 本ブログの解釈では、広い範囲のカワラケ等、
形が似た物が大量に出土すると言う性質のマス
プロ遺物は南北朝時代のもので、8号井戸の一
角の、

将棋駒、下駄(女物)、櫛、三つ巴スタンプ火
鉢、組み立てられた曲物板、瓶は、江戸時代の
神鳥谷青蓮寺の寺宝とされたものや、生活用品
の一部である疑いが有る

という事だった。
 しかしながら栃木県小山市の神鳥谷曲輪遺跡
の、マスプロ型のバックグラウンド遺物の中に
も木製品があってそのうちの多数が、井戸に見
出され、その意味の把握が、私には個人的に出
来ていなかった。全国の遺跡の木製遺物を、当
時は調べ慣れていなかったからである。
 今回は、中世遺跡一般の中で、上記で述べた
カワラケと対をなしているような、数の多い遺
物の特徴を、再考してみる事にする。
結論から書く。

曲げ物の原材料かまたは、底板とされている木
切れが、木製品のうちのかなりの部分を占めて
いる遺跡は全国的には比較的稀。

以上のように、神鳥谷曲輪の井戸跡からは食に
関連した木製品ばかりが出てきている事から、

むしろ神鳥谷での”普通”が、日本全国レベル
で見ると異形。

そして、この遺跡の場所が何で有るかに関して
素直に見れば

”多人数用の食堂の場所”

と見るべきである。つまり結婚式の披露宴や、
葬式の宴会場、大勢の下級武士の食事所、
旅館の大宴会場。以上のような場所がイメージ
される。
 では論を続ける。
 以上で述べた情報は、小山市教育委員会が
西暦2010年に発表した(西暦2007年の)
神鳥谷曲輪跡の調査Ⅰに示されている。
web上でも、奈良奈良文化財研究所の
発掘報告書のデータベースの
”全国遺跡報告総覧”の中に収録されていて、
pdfファイル名で
23209_1_神鳥谷遺跡Ⅰ第1分冊.pdf
23209_2_神鳥谷遺跡Ⅰ第2分冊.pdf
で、見る事が出来る。
 カワラケが大量に出ているが、たくさん出る
遺跡は、全国的には別の遺跡にもあると見られ
る。箸も神鳥谷曲輪では数が多いが、全国の他
の遺跡にも箸に関しては、かなりの数、出土す
るケースがある。問題は木が腐らないので出土
するという原理で、木製遺物は井戸跡からしか
出土していないのだが、

井戸にもカワラケは落ちていて、そこには、
曲物ないし底板と、発掘報告書には表現された、
定型の木片が、多数出土して来ている

という点にある。カワラケは食器だから、
報告書に有るように、この木片を箸とカワラケ
の数に対応させて作成した、”曲物”用木板原
材料と見るのは、発掘報告書の通り、自然だと
私も思う。つまりこの遺跡の特徴は、

リビング用品でも建築資材でもなく、食器だけ
が大量に、しかも同じ形大きさのものばかり出
てくる

という点に、

他の全国遺跡には、余り見当たらない特徴が
ある。

明らかに、大きな会社の社員食堂の、大量の同
じ形の食器を、井戸に捨てたようなイメージで
ある。
 そもそも、具体的に井戸から出る木片は、
巾が数センチ・オーダーなのは、蒸し物の道具
として普通だとしても、

長さが十センチ強しかないのは特異

である。
つまり、蒸し物料理を作る曲輪だとしたら、
8号井戸の1個だけ出土している、完成品を見
ても判るように、

小籠包を1個ずつ蒸せるだけのような大きさ

である。日本の会席料理を金持ちのツアー客に、
地方の旅館が料理を入れて、出しているような
イメージが、私には思い浮かぶ。
 カワラケは、普通は酒を注ぐと聞いているが。
 このケースには特製小籠包を、一人一人の
下級武士に、殿様の奥方・女中が、カワラケに
乗せて1つずつ配る姿が連想される。つまり
その際に財力を見せるため、蒸し器の曲輪に乗
せているようなイメージだ。つまり殿様が何か、
お祝いで、家来を皆集めて料理を振舞うときに
出す道具が、大量に出土しているのかもしれな
いと、私は半ば空想して考えているという事で
ある。
 なお大量なカワラケが出る、小山氏一族の城
として、下野長沼氏の城が有ると聞いている。
木製遺物が腐らなかったとすれば、そこでも
小山氏本家の神鳥谷曲輪跡と、似たような曲輪
木片が大量出土したのかもしれないと私は思う。
 小山氏は他の武家と異なり、食事は全員が
集まってするような、共同生活を営む性質があっ
たのか。何れにしても、南北朝時代の遺物につ
いては、ここには他に余り見られない木製遺物
の特徴である。そのため、

むしろ8号井戸付近に局在化した、リビングや
玄関先の生活用品がイメージされる、将棋駒を
含む他の遺跡で、良く見かける出土遺物のパ
ターンが、かなり浮き出て見えている。

その証拠に、将棋駒以外には遊戯具があるとい
う気配が、この遺跡には”普通パターン”の領
域が余りにも小さすぎてほとんど感じられない。
 以上のような、木製遺物の出土パターンになっ
ていると、最近、他の遺跡の発掘報告書を、少
しずつ読むようになってから、私はこの遺跡を
見直して見て、特に感じるようになって来た。
(2020/12/19)

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

何故成りに”将”の崩字の付いた出土駒が無い(長さん)

くずし字事典で適当な物を見ると、”将”
の草書体が書いてある。ところが、出土駒
の中で、一文字省略が、定着したと思えな
い昔から、銀将、桂馬、香車、歩兵の成り
駒名として、崩した将の字で2文字化した
金将の字が、今の所余り出土していない。
大方”将”の部分は、点や”し”で略した
ように見えるものばかりである。なお将の
草書は古代より有ったとみられ、墨書土器
の1文字に、”ね”の右側が”る”に変形
した、将の草書とみられるものが確か、特
定の古代遺跡から、複数出土していたはず
である。残念ながら私には、どこでそれを
見たのかが思い出せないのだが。
 そこで今回は、銀将~歩兵の成りが金将
だとすれば、草書で書いた二文字草書金将
が少しは出土してもよさそうなのに、実際
にはそうした遺物が、ほぼ見つからない理
由を論題とする。回答から書く。

将の相方の”金”の崩し字が、古代~中世
には、将棋駒として格好が良くないと考え
られた。その為、二文字金将という草書を
書かなかった為

である。では、論を続ける。
 本ブログでは、歩兵の成り金が、今金な
のは、金の草書字が、少なくとも中世まで
は、中央縦線付近の線が、ごちゃごちゃし
た形のものになってしまうとみなされ、

パッとしないものに見えたから

だという解釈を基本的にしている。そうす
ると、”今”で代用したとして、将を付け
ると意味不明になる事になる。今がコンだ
から金だけなら代用になるのだが。”将”
を付けると、

表音から表意に変化するので、都合が悪い

という意味である。だから、銀将~歩兵の
成りが、金一文字で金と略称して良いとい
う考えが成立すると、”今”で”金”は代
用できるという観念が強固になり、ルール
上、これらの駒の成りが、金将というのが
正式であっても、金も将も草書で、

金将とはめったに書かなくなった

のではあるまいかと私には思える。そして
金も将も草書にしようとすると、金の草書
が冴えないのが、依然としてひっかかりと
なり、”今”の草書では、意味がおかしく
なるためそうする訳にも行かず、その結果、
草書で金将と書く事は稀に有っても、全く
定着しなかったのではあるまいか。
 つまり

将の草書は、将棋駒の字として使ったとし
ても、本来は全く問題は無かった。

しかし、金の草書に、カッコの良い意匠の
ものが、日本ではまだ、発明されていなかっ
たとみられる日本の中世には、全く人気が
無かった。その為、金将をオール草書で書
いた駒は、

ほとんど発生しなかった。

以上の事情なのではないか。以上のように

”ね”に似た将の草書体は、本来は無実

の論を、今の所本ブログでは提唱すべきと
考えている。平仮名の”ひ”として使われ
ている飛車の飛の崩した字が、平仮名とま
ぎらわしいので将棋専用に、特別に選択さ
れたものが使われたと疑われるパターンと
は、又別の事情なのではないかと言う事で
ある。(2020/12/18)

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

岩手県盛岡市向中野館より金将木札(長さん)

以下、今まで多数紹介した、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧からの情報である。
 東北の戦国時代の将棋遺物が疑われ、

時代が戦国時代なのが珍しい。

出土地点は東北地方の戦国時代の武家の一
族と聞く飯岡氏の館が点在する地域らしい。
発掘報告書のpdfファイル名は、以下の
通り。
12956_1_向中野館遺跡第5・6次発掘調査報告書
表題は、
岩手県文化振興事業団埋蔵文化財調査報告書
第503集
向中野館遺跡第5・6次発掘調査報告書
2007年、岩手県文化振興事業団埋蔵
文化財センター(等)である。
 そこの10ページ付近に、”歴史的環境”
が記載されている。
 発掘調査は、岩手県で2004年前後に行
われたようであり、正確な場所は、
岩手県盛岡市飯岡新田2地割171-3他と
ある。
以下のような、木簡を切ったような木製品に、
金将(?)のようにも読める字が書いてある。
前記発掘報告書の279ページに出ている。

岩手県向中野金将.gif

ただし、発掘報告書に将棋駒出土との説明は
無い。本ブログの管理人が、図版を見ていて
たまたま見つけたものである。しかも、

明らかに2文字目が”将”かどうか、かなり
曖昧な金将にすぎない。

 ただし、ここからは他に”玉”と墨書され
ている土器が見つかっており、遺跡自体に

書いてある文字が、将棋駒に有る文字が複数
出土する、要注意地点

と考える。
 なお、館名から見て、以前紹介した向中野
の台太郎遺跡は、ここから余り離れていない
と見られる。そちらの遺物は、書かれた駒名
が”別富塚”と読め、将棋遺物ではたぶん無
いと、本ブログではした。そのリベンジのよ
うな出土になったとも取れる。ただしこちら
は、別富塚駒の出た遺跡とは、全く時代が
違い、むしろ戦国時代であるから、別富塚の
平安時代よりは、ずっと新しい。また、遺物
の姿から、別富塚のように近代成立品ではな
くて、こちらは中世のように、遺物からも、
発掘報告書の巻末奥付からも読み取れる。
なぜならこの遺跡は、戦国時代の16世紀の
館周辺のようであり、陸奥での戦乱の舞台だっ
たように、発掘報告書の”歴史的環境”にも、
説明されているからである。
 字が曖昧なため、はっきり、将棋具関連と
は断定できないが。もし将棋の史料であると
するならば、どちらかと言えば東北地方は、
より古い時代の出土駒が多いというイメージ
があるため、比較的珍しい成立年代の遺物が
出土したとの感じが、私にはする。
(2020/12/17)

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

北海道でも明治初年には将棋は存在している(長さん)

以前述べたように、北海道の松前町で恐らく
だが江戸時代に、将棋は指されていただろう
と推定される。しかし、確実な証拠となると、
探すのが難しい。
 ただしその後、五稜郭に立て篭もった旧
幕府軍の中に、日本将棋を指せるとみられる
人間が居る事が、山本亨助氏の将棋文化史の
記載から確認された。
 将棋駒師の二代目金龍こと甲賀五郎座衛門
氏治の弟の甲賀源吾が、旧幕府軍として、
明治元年(1968年)の11月(グレゴリ
オ暦)前後に、函館の五稜郭に向かって、北
海道へ上陸しているとの事である。甲賀源吾
は、榎本武揚について函館旧幕府軍に加わり、
上陸翌年に、宮古湾での海戦で戦死したとの
旨が、前記”将棋文化史”の208ページ前
後に記載されている。高名な

駒師の弟であるから、将棋を知らないとした
ら、かなり不自然

であろう。よって、北海道でも明治の最初期
からは将棋が有ったという事は、ほぼ確実な
のではないかとみられる。
 ただし、それ以前になるとやはり、簡単に
は、『確たる証拠』が見つからないようだ。
 この件に関して、一例を挙げると。山梨県
韮崎市で幕末に、商家で将棋大会が催された
との旨記載された、入場券のようなものが、
残っているそうだ。北海道の函館市にも似た
ようなものが見つかれば、江戸時代の北海道
での日本将棋の存在は、より確実になるはず
だと考える。(2020/12/16)

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

世界の将棋の国際三人将棋の持将棋規定の謎(長さん)

以下、梅林勲氏による、日本の近代将棋、
国際三人将棋の引分け規定に関する、
谷ケ先治助解説書の解釈は、谷ケ先氏の
収集情報に不備があるために、間違いが
あったのではないかという議論をする。
 なお”梅林氏の解釈”と以下述べる事
柄は、梅林勲・岡野伸著『世界の将棋』、
(改訂版)将棋天国社、西暦2000年
による。
 また谷ケ先治助氏による国際三人将棋
の解説書は、世界の将棋によると、西暦
1931年に発表されたとされる。
 梅林氏の解釈によれば、下記の図の、
”盤面全体数”を各所持駒(将棋盤内の
自駒と、持ち駒を全て含む)、概ね10
枚から30枚程度について、それぞれ
把握した上で、足し算をその数-1回
繰り返し合計数を各プレーヤーに対して
出し、他のプレーヤーの総数値の2/3
以下になったならば、その者の勝ちとの
旨が、記載されている。(p259)

国際三人将棋引分け.gif

しかしながら、

この計算は、電卓が有ったとしても、
入力するだけでもたいへんで、こんな
ルールであったはずもない内容

である。
 以上事から、

谷ケ先治助解説書の内容はおかしかった

と推定される。
 では本当はどうしたかが、今回の論題
内容である。回答を書く。
 前記表の

盤面全体数で600を引いて、50で
割って、四捨五入した表が別に有った

とみられる。その別の表の数を使って、

10~30回レベルの足し算をし、数値
が他のプレーヤーの1.5倍以上になっ
た者の勝ちとした

とみられる。では、以下に説明を加える。
 前記の表で、盤面全体数で600を引
いて、50で割って、四捨五入すると、
各駒の駒の価値は、以下のようになる。
旭光:8、龍化:8、軍教:7、魔叉:7、
外交:5.5、宝:4、税関:2、殖貿:1、
輿論:1、化:1、金権:1、弗:1、
宣電:0、尖占:0。(単位は恐らく”点”)
ただし、外交は魔叉と宝の平均と記載さ
れているので、例外的に0.5を付けた
と解釈した。
 どうしてこれで良いのかと言えば、
表で、盤面全体数とは左右数の2倍、
下・斜(下)数の2倍、上・斜(上)数
の2倍を足したものである。が、左右数、
下・斜(下)数、上・斜(上)数とは、

それぞれその延長線の、到達不能領域%
を示していると考えると、上の数はよく
判るから

である。ただしその計算は、梅林氏の解
釈のように、

不明瞭であり、実際には感覚で出した

と私も見る。そもそも方位角の±60°
と±120°の升目は、1/2づつ分配
して配分するような、過剰に複雑な”謎
の計量システム”だからだ。何れにして
も、各駒の力に相当する、到達可能領域
パーセントは、100(%)からこの数
を引いた数のはずである。だからそれを
全部足した”盤面全体数”は、移動不能
駒なら600になるはずだから、600
から引けば良いと見られるのである。
 また、数字の具体的値から、盤面全体
数の1/50の粗い単位(”点”が有力)
で各駒の力数が、国際3人将棋の作者に
は、恐らくイメージされていただろうと
考えて、良いような数字の大きさである。
 だから、各駒種ごとの駒価値が、
0点から8点になるような、別の表が、
恐らくあったのではないか。でないと、
持将棋の判定の為の計算が、

全くもって煩雑

であり、本当にこんなルールにしたとし
たら、極めて不自然であると私は思う。
駒の点数を出すための計算過程を書いて、
説得力を持たせるための、上記の図は機
能を持つ物だったのが、本来だったので
はないのだろうか。
 以上が、本ブログの管理人による、
国際三人将棋、引分け規定に関する、
谷ケ先治助解説書の解析結果である。
 私の解釈でも、この大駒の有り対無し
で、無しの負けにする、第一次判定で勝
敗が決まらないときの、第二次判定にあ
たる、この3人将棋の持将棋判定計算は、
依然かなり煩雑だが。
 この程度なら、なんとか実用の範囲内
ではあったのだろう。(2020/12/15)

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

(コラム)天文ガイド2021年1月流星予想に理論的ミス(長)

以下、御確認の上御注意ください。
流星の極めて熱心な観測者で知られ、アマチュア天体観測
低迷な現状で頑張る誠文堂新光社の月刊誌、『天文ガイド』
の長期執筆で知られる、

長田和弘氏の2021年四分儀予想記事に、ミスがある

ので御注意されたい。彼の言うように、

日本で今後、西暦を4で割り1余りの年に、極大ピークが
回ってくる事は、将来そう簡単にはない。

木星の摂動で、順行軌道のしぶんぎ座流星群のケース
は一般に、全部の流星物質の降交点黄経が後退する為、

恒星年の対1/4日に対する残渣、時間の約9分10秒が
それに吸収されて、暦4年周期で残るはずの、極大時刻の
前進が起こらないため

だ。西暦を4で割り2余りの年の主極大のパターンは、
よって、通常の単純な予想よりも、

異常に長い期間続くはず

である。以上の点、しぶんぎ座流星群の観測の際、
これ以降経年にわたって、充分御注意いただきたい。
(ふたご座アルファー流星群見ごろの頃;2020/12/14の2)

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

江戸時代の松前城下町で将棋は指されたのか(長さん)

以前、北海道で安土桃山時代までは、日本
の将棋が指された痕跡が見当たらない。だ
が、北海道南端の松前藩、松前城下町の館
付近で、江戸時代には将棋が指されただろ
うとの旨を、本ブログでは述べた。
 今回は史料として探した上で、その是非
について論じる。回答から書く。

史料は簡単には見つからない

ようである。ただし、

江戸時代に北海道の松前城下町で、将棋は
恐らく指されたと推定できる根拠は有る。

では論を開始する。
 明治維新に略奪でも行われたのかどうか
私には判らないが。松前町の福山城跡等は、
発掘調査しても、大量には遺物が出ないよ
うである。将棋駒が出土したとの記録も無
いように認識している。
 しかし、少なくとも東京ないし大阪の、
将棋プロの団体が指導するようになった時
代以降に、松前町で将棋が始まったとは
考えにくい。
 根拠は、以下の書に

十勝では将棋プロが誕生した1935年
より前の明治時代中期に、将棋所の店舗が
帯広川の露天街一角に発生した

との旨書かれているからである。
『十勝大百科事典』北海道新聞社1993
その中の、”世相風俗”>”おとなの遊び”>
”将棋”。
 なお以下の書に”北海道全体で最初の、
プロ将棋棋士は花田長太郎九段で昭和初期
の西暦1935年頃に、活躍開始”とある。
『日本将棋集成』窪寺紘一、新人物往来社、
資料編Ⅲ 古今棋士人国話 北海道・東北、
347ページ。(1995)
 十勝での将棋の発生が、江戸時代ではな
く明治半ばなのは、

十勝の開拓が、江戸時代ではなくて明治時
代であるというだけ

なのではないかと、私は疑っている。江戸
時代から以降北海道では、日本語の類であ
る函館方言を話す日本人が、有る程度居る
街が出現すると、日本将棋が自然に発生す
る条件が北海道でも揃ったと見て良い、一
つの証拠なのではないのだろうか。
 なお、テーマパークのような江戸期の模
型の町が、現代では松前町に出来ているら
しい。その一角に理髪店の模型が有って、
将棋道具が展示されていると、取れるよう
な内容がweb上、松前町の観光担当のペー
ジ等に載っているようだ。恐らく私が最初
に見た情報は、松前町字西館68にある、
”松前藩屋敷”の事ではないかとみられる。
 ここで江戸時代に、松前城下町に理髪店
等があったというのは本当らしく、以下に、
記載された古文書文献の、具体的な紹介が
あるようである。
日本地名大事典 北海道、角川書店の、
松前城下町の記載中、町の暮らしに関する
記載箇所(1987)。

 よって理髪店の将棋道具の存在には、
厳密には証拠となる、史料がある訳では無
いと疑われるが。有り得る話ではあると、
一応は取れるように私には思えた。
 以上の事から冒頭に述べたように、江戸
時代になると、松前城下町で、恐らくだが
日本将棋は指されていたのであろうと、私
は推定している。(2020/12/14)

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー