兵庫県神戸市白石遺跡で古墳平安奔馬墨書土器(長さん)
今回は、古墳時代と平安時代の遺構から1個
ずつ複数の奉馬墨書土器が出土している遺跡
の話題である。奔馬では無いようだ。常時馬
が飼われ、奈良時代になるとその2キロメー
トル程度南に、吉田南遺跡付近に朝廷帰属の
官衙が、存在したとみられる場所とのことで
あり、そこに馬を納めたのであろう。
遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベヘス、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は以下の通りである。
11046_3_白水遺跡第3・6・7次高津橋大塚遺跡第1・2次発掘調査報告書.pdf
発掘報告書名は以下の通りである。
白水遺跡第3・6・7次・高津橋大塚遺跡第1・2次
発掘調査報告書、西暦2000年、神戸市教育委員会。
紹介する遺物が出土したのは、白水遺跡第
3次発掘調査のときのようである。
発掘報告書の第4pdfが、最終写真図版
pdfとなっており、その末尾の抄録による
と遺跡の場所は、兵庫県神戸市西区伊川谷町
潤和、遺物が出土したのは第3次発掘のとき
であり、同じく抄録によると西暦1994年
前後の事のようである。
遺物の成立年代は、遺物が2個有り、遺物
番号228番の土器は、第3不明遺構から
出土したが、第13溝と成立年代が同じで、
5世紀後半の地震より後の古墳時代つまり、
古墳後期(6世紀)の遺物と取れる旨が、
発掘報告書第1本文pdf:
11046_1_白水遺跡第3・6・7次高津橋大塚遺跡第1・2次発掘調査報告書.pdf
の、第38ページ付近に記載されている。
また、もう一つの遺物番号第260番の土
器は、第02溝より出土し、平安時代成立で
あるとみられている旨が、発掘報告書の第1
pdfの第45~46ページ付近に記載され
ていると読み取れる。
遺物の写真は、6世紀成立の奉馬墨書土器
甕が、発掘報告書第3写真図版pdfの、
写真図版第25の左下に在り、第6トレンチ
の第3不明遺構の土器溜り部分から出土して
いるとの旨が付記され、遺物番号で第228
番とナンバリングされている。
中央左上に、左下に向かって斜めに、大型器
としては細かい字で、奉馬と、かなり濃く書
かれているように見える。
それに対して、平安時代の奉馬墨書盃状土
器は、写真図版第28の上から2段目右に有っ
て、遺物番号第260番との旨ナンバリング
されている。図版第28の下部に第3トレン
チの土溝(SD)02出土土器であると付記
されている。
上図のように、こちらは右下に向かって斜め
に、中央やや左上から、やはり器に比べて細
かい字でやや濃く、漢字で奉馬と書いたよう
に見える煤のような模様が有る。
両方とも奉馬のようであり、将棋駒の名称
では無いとみられる。神戸市西区に、古墳時
代・飛鳥時代・奈良時代・平安時代を通して、
献上馬が居たのであろう。
字の形が似ている事は、被献上者が同じで
ある事を、ひょっとしたら意味していて、朝
廷の勢力が、大阪や神戸付近でも、古墳時代
後期から強かった事を、示唆しているのでは
ないだろうか。(2022/05/09)
ずつ複数の奉馬墨書土器が出土している遺跡
の話題である。奔馬では無いようだ。常時馬
が飼われ、奈良時代になるとその2キロメー
トル程度南に、吉田南遺跡付近に朝廷帰属の
官衙が、存在したとみられる場所とのことで
あり、そこに馬を納めたのであろう。
遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベヘス、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は以下の通りである。
11046_3_白水遺跡第3・6・7次高津橋大塚遺跡第1・2次発掘調査報告書.pdf
発掘報告書名は以下の通りである。
白水遺跡第3・6・7次・高津橋大塚遺跡第1・2次
発掘調査報告書、西暦2000年、神戸市教育委員会。
紹介する遺物が出土したのは、白水遺跡第
3次発掘調査のときのようである。
発掘報告書の第4pdfが、最終写真図版
pdfとなっており、その末尾の抄録による
と遺跡の場所は、兵庫県神戸市西区伊川谷町
潤和、遺物が出土したのは第3次発掘のとき
であり、同じく抄録によると西暦1994年
前後の事のようである。
遺物の成立年代は、遺物が2個有り、遺物
番号228番の土器は、第3不明遺構から
出土したが、第13溝と成立年代が同じで、
5世紀後半の地震より後の古墳時代つまり、
古墳後期(6世紀)の遺物と取れる旨が、
発掘報告書第1本文pdf:
11046_1_白水遺跡第3・6・7次高津橋大塚遺跡第1・2次発掘調査報告書.pdf
の、第38ページ付近に記載されている。
また、もう一つの遺物番号第260番の土
器は、第02溝より出土し、平安時代成立で
あるとみられている旨が、発掘報告書の第1
pdfの第45~46ページ付近に記載され
ていると読み取れる。
遺物の写真は、6世紀成立の奉馬墨書土器
甕が、発掘報告書第3写真図版pdfの、
写真図版第25の左下に在り、第6トレンチ
の第3不明遺構の土器溜り部分から出土して
いるとの旨が付記され、遺物番号で第228
番とナンバリングされている。
中央左上に、左下に向かって斜めに、大型器
としては細かい字で、奉馬と、かなり濃く書
かれているように見える。
それに対して、平安時代の奉馬墨書盃状土
器は、写真図版第28の上から2段目右に有っ
て、遺物番号第260番との旨ナンバリング
されている。図版第28の下部に第3トレン
チの土溝(SD)02出土土器であると付記
されている。
上図のように、こちらは右下に向かって斜め
に、中央やや左上から、やはり器に比べて細
かい字でやや濃く、漢字で奉馬と書いたよう
に見える煤のような模様が有る。
両方とも奉馬のようであり、将棋駒の名称
では無いとみられる。神戸市西区に、古墳時
代・飛鳥時代・奈良時代・平安時代を通して、
献上馬が居たのであろう。
字の形が似ている事は、被献上者が同じで
ある事を、ひょっとしたら意味していて、朝
廷の勢力が、大阪や神戸付近でも、古墳時代
後期から強かった事を、示唆しているのでは
ないだろうか。(2022/05/09)