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兵庫県神戸市大開遺跡で11C後奔金墨書土器(長さん)

今回は、遷都で知られる福原近く、兵庫県
神戸市の大開遺跡で平安時代成立の井戸跡
の中から、「奉金」と内面に書かれている
ように見える土器が、出土したとの旨の話
題である。結果として言えば、

貴金属が大陸から日本へ平安時代末、ある
程度流入していた

のであろう。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は以下の通りである。
11231_3_大開遺跡発掘調査報告書.pdf
 なお、pdfの順序が乱丁しており、
4→2→1→3と続く。第4pdfが本文
pdfであり、第3pdfは写真pdfの
末。第2pdfの途中から、科学分析が終
了して、写真図版pdfとなっている。
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
神戸市兵庫区大開遺跡発掘報告書、1993年、
神戸市教育委員会・(財)神戸市スポーツ教育公社。
 遺跡の位置は、発掘報告書第4pdf冒
頭の例言によると、兵庫県神戸市兵庫区
大開通4丁目1-39。遺物が出土したの
は、西暦1988年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は井戸跡第101号で以
下話題とする土器が出土したが、遺物の形
態から緯度自体が11世紀後半と見られて
いるとの旨が、発掘報告書第4本文pdf
の、第201ページ付近に記載されている。
 遺物の写真は、写真図版最終pdfであ
る、第3pdfの写真図版第75:”1.
井戸跡(SE)第101号出土土器”との
旨の、下の写真のコマの、上段左から2番
目に上から見下ろす写真として撮影されて
いる。遺物に番号は、特に付いていない。

大開遺跡奔金.gif

 上図の真ん中の遺物を見て判る通り、底
で写真では中央より下に、金とかなり濃く
書いて有るように見え、その上の文字は、
はっきりしないが奔ではなくて、奉のよう
である。なお上段の3枚が、ほぼ同じ形の
土器であり、左から順に、

奉万、奉金、奉万

と書いてあって、2番目であるように私見
する。
 院政期から平家政権の時代に、渡来人が、
朝廷ないし平家に大量に、貴金属を献上し
たのではないだろうか。福原遷都も、その
ような背景もあって、実現しかけたのでは
ないだろうかと、想像出来るような遺物だ
と私は思う。(2022/05/11)

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島根県大田市静間城跡で戦国期角行墨書土師皿(長さん)

今回は、出雲の尼子氏将棋盤を連想させる
島根県の戦国時代の城の倉庫跡とみられる
場所から、土師皿の破片とされるものに、
将棋駒名の角行のような模様の在る遺物が
存在するという旨の紹介である。

部品の使い方を指示する書き込みのような
もの

なのではないかと、疑われる。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
22471_1_静間城跡.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
静間城跡、2018年6月、国土交通省松江国道事務所・
島根県教育委員会。
 発掘報告書末尾の抄録によると、遺跡の
場所は島根県大田市静間町、遺物が出土し
たのは、西暦2016年前後の事のようで
ある。
 遺物の成立年代は、第3掘立柱住居跡で
遺物が出土したが、出土遺物群の内容から、
15世紀中~16世紀初で、16C頃戦火
に見舞われ、比較的16世紀に近い時期で
はないかと取れる旨が、発掘報告書の第
17ページないし、それより数ページのあ
たりから、読み取れると認識する。
 遺物の写真は、写真図版第21の上カラ
ム、”SB02・SB03・主郭1出土遺
物((スケッチ図)第14・16・29図”
の、第2段目左に在り、遺物番号スケッチ
図第16図の、第8番との旨ナンバリング
されている。「土師皿の破片」との事。

静間城跡角行.gif

 上図のように、縦に穴の断面のような
切れ込みが遺物に有り、その右の面に角行
と漢字で薄く書いてあるように見える。

皿に見えないので、一見意味不明である。

恐らくだが、臼で挽く際に使う、作業用の
器の破片なのではないかと私見する。同様
の用途の物品がこの発掘報告書に、もう一
つ載っているようである。漢字で角行と書
かれていたとしても、

割れてから、書いたとしか考えられない。

ひょっとすると、この物体の

置く場所がカドである事を指している

のではないだろうか。隙間埋めに使用する
作業用の物品が、倉庫に保管されていたよ
うにも、私には思える。

日本将棋が成立しており、将棋の角行は
知られていたので、この文字が書かれた

のであろうが。四隅にガタツキを防ぐ為に
置く物体なのかもしれない。近世近くなる
と、隙間埋めの為の、将棋の駒の形に似た
「コマ」という単語と類似して、宗教用語・
道徳用語とは別に単純に、

横に置くから横行とか、四隅に置くから
角行とかいった、建築資材を表す単語・
業界語も、少しずつ現れる

ようになったという事なのであろう。
(2022/05/10)

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兵庫県神戸市白石遺跡で古墳平安奔馬墨書土器(長さん)

今回は、古墳時代と平安時代の遺構から1個
ずつ複数の奉馬墨書土器が出土している遺跡
の話題である。奔馬では無いようだ。常時馬
が飼われ、奈良時代になるとその2キロメー
トル程度南に、吉田南遺跡付近に朝廷帰属の
官衙が、存在したとみられる場所とのことで
あり、そこに馬を納めたのであろう。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベヘス、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
11046_3_白水遺跡第3・6・7次高津橋大塚遺跡第1・2次発掘調査報告書.pdf
 発掘報告書名は以下の通りである。
白水遺跡第3・6・7次・高津橋大塚遺跡第1・2次
発掘調査報告書、西暦2000年、神戸市教育委員会。
 紹介する遺物が出土したのは、白水遺跡第
3次発掘調査のときのようである。
 発掘報告書の第4pdfが、最終写真図版
pdfとなっており、その末尾の抄録による
と遺跡の場所は、兵庫県神戸市西区伊川谷町
潤和、遺物が出土したのは第3次発掘のとき
であり、同じく抄録によると西暦1994年
前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、遺物が2個有り、遺物
番号228番の土器は、第3不明遺構から
出土したが、第13溝と成立年代が同じで、
5世紀後半の地震より後の古墳時代つまり、
古墳後期(6世紀)の遺物と取れる旨が、
発掘報告書第1本文pdf:
11046_1_白水遺跡第3・6・7次高津橋大塚遺跡第1・2次発掘調査報告書.pdf
の、第38ページ付近に記載されている。
 また、もう一つの遺物番号第260番の土
器は、第02溝より出土し、平安時代成立で
あるとみられている旨が、発掘報告書の第1
pdfの第45~46ページ付近に記載され
ていると読み取れる。
 遺物の写真は、6世紀成立の奉馬墨書土器
甕が、発掘報告書第3写真図版pdfの、
写真図版第25の左下に在り、第6トレンチ
の第3不明遺構の土器溜り部分から出土して
いるとの旨が付記され、遺物番号で第228
番とナンバリングされている。

白水奔馬.gif

中央左上に、左下に向かって斜めに、大型器
としては細かい字で、奉馬と、かなり濃く書
かれているように見える。
 それに対して、平安時代の奉馬墨書盃状土
器は、写真図版第28の上から2段目右に有っ
て、遺物番号第260番との旨ナンバリング
されている。図版第28の下部に第3トレン
チの土溝(SD)02出土土器であると付記
されている。

白水奔馬2.gif

上図のように、こちらは右下に向かって斜め
に、中央やや左上から、やはり器に比べて細
かい字でやや濃く、漢字で奉馬と書いたよう
に見える煤のような模様が有る。
 両方とも奉馬のようであり、将棋駒の名称
では無いとみられる。神戸市西区に、古墳時
代・飛鳥時代・奈良時代・平安時代を通して、
献上馬が居たのであろう。
 字の形が似ている事は、被献上者が同じで
ある事を、ひょっとしたら意味していて、朝
廷の勢力が、大阪や神戸付近でも、古墳時代
後期から強かった事を、示唆しているのでは
ないだろうか。(2022/05/09)

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島根県江津市古八幡遺跡で弥生期泰山墨書土器(長さん)

今回は、山岳信仰と有力者への貢物の献上が
結びついた奉山墨書遺物が、弥生期の島根県
西部江津市にも有るとの旨の紹介である。漢
字は、大局将棋の駒名の泰山ではなく、奉山
のようである。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
2242_6_神主城跡・室崎商店裏遺跡・古八幡付近遺跡・横路古墓.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
神主城跡・室崎商店裏遺跡・古八幡付近遺跡・
横路古墓、2000年3月、建設省
浜田工事事務所・島根県教育委員会。
 話題とする遺物は、発掘報告書に6箇所遺
跡が載っているのうちで、古八幡付近遺跡の
第6~7区で、出土したとの事である。
 発掘報告書第1pdf冒頭の例言によると、
遺跡の場所は古八幡付近遺跡の第6~7区が
島根県江津市敬川町373-1。遺物が出土
したのは、西暦1997年前後の事のようで
ある。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第1pdf
の第107ページ表で第6~7区の出土遺物
は弥生土器とされており、弥生時代のものと
考えられているようである。はっきり西暦年
代を示した部分は、見つからない。
 遺物の写真は前記の、発掘報告書第6写真
pdfの写真図版116の3段目右に在り、
遺物番号は、スケッチ図第58図の第24番
との旨、ナンバリングされている。土器の破
片のように見える。なお第58図は「古八幡
付近遺跡6・7区出土縄文土器・弥生土器実
測図」という名称であり、上段2個を除いて
弥生時代の土器のようである。

古八幡5824泰山.gif

 上図のように、中央で、やや半時計回りに
回転して傾いて、漢字で「奉(山の絵)山」
のように見える、黒い煤模様が有る。
 弥生時代後期の3世紀頃までには、島根県
西部で、地元の有力豪族は、神様の直径子孫
であってかつ、その山の神様を奉る神主を、
兼ねていたようなイメージがあり、住人が、
何かその土器に入れて、献上していたように
見える容器遺物である。
 以前何回か、奉山墨書土器を紹介している
が、弥生時代に成立した例が、広く日本の本
州・四国・九州に分布し、奉の漢字は弥生時
代後期の、漢字全体から見て早期に、大陸か
ら輸入されていた事を示す遺物の、これも一
つではないかと私は考える。(2022/05/08)

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茨城県つくばみらい市前田村遺跡で平安期泰山墨書土器(長さん)

今回は、茨城県の古代成立とみられる遺跡
遺物に、奉山王と漢字で書かれているように
見える例があり、古代の権力者は山に例えら
れていたらしいという史料の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
18909_3_前田村遺跡J・K区.pdf
 発掘報告書名は、以下の通りである。
茨城県教育財団文化財調査報告第147集
前田村遺跡J・K区、西暦1999年、茨城県・
財団法人茨城県教育財団。
 遺跡の場所は、発掘報告書の第1本文
pdf:
18909_1_前田村遺跡J・K区.pdf
冒頭の遺跡の概略表によると、
茨城県つくばみらい市(筑波郡和原村:当時)
大字田字鴻巣690番地。同じく遺跡の概略
によると、今回紹介する遺物が出土したのは、
西暦1995年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第1本文
pdfの第153ページ付近の記載によると、
遺物は第509号住居跡で出土したが、遺物
の形態から、この住居跡は9世紀後半の平安
時代に成立したと見られているようである。
 遺物の写真は発掘報告書第3写真pdfの
写真図版(PL)56:”J区第509号住
居跡・竃土層断面・遺物出土状況・出土遺物”
の最下段の左に有り、遺物番号で、第509
号住居跡(SI509)の第3番との旨、
ナンバリングされている、甕の上の方だけの
カケラのように見える土器片である。

前田村遺跡泰山.gif

 上図のように、残った3角形のカケラ部分
の左の方に縦に奉山、右隣に王と漢字のよう
な煤模様が有り、

山を讃えると共に、有力者に何か貢物をしつ
つ、山になぞらえている

ようにも見える。貢ぎ物を豪族に贈る際には、
古代、このように有力者を奉る習慣があり、
山岳信仰の一部も、そのような発想から発生
したのであろう。なお、つくばみらい市から
は、筑波山が遠くに見えるだけだとみられる。
 何れにしても有力者は、古代には神官を兼
ねているケースが我が国では多く、かつ神官
はよろず神々・先祖神に通じていると考えら
れたため、神々の住む山に関連付けられ、
このような祭祀土器の文字のような形として、
残っているのではないかと、今の所私は考え
ている。(2022/05/07)

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宮城県登米市唐木崎遺跡で縄文後期奔土墨書土器(長さん)

今回は、宮城県登米市迫町の唐木崎遺跡
で、前世紀に出土した縄文時代の土器片
とされる出土遺物に、漢字で「奉国土」
と書いてあるような遺物があるという、
紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
10071_1_寂光寺跡ほか.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
宮城県文化財調査報告書第135集
寂光寺跡ほか、1990年、
宮城県教育委員会。
 西暦1989年に、調査結果をまとめた
16の遺跡の発掘記録が、前記の報告書に
載っており、その中に、今回発掘された
遺物が出土した、唐木崎貝塚遺跡も載って
いる。岩手県に近く、かなり内陸である。
 遺跡の場所は発掘報告書の調査に至る
経過第3ページ付近の記載によると、
宮城県登米市(登米郡:当時)迫町新田字
彦道。遺物が出土したのは、同じく
発掘報告書の第5ページによると西暦
1988年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は発掘報告書の第235
ページによると、第2トレンチの第3層で
出土したが、この遺跡での土器遺物片は、
縄文時代中期から後期であると推定されて
いるようである。
 遺物の写真は、発掘報告書の写真図版:
唐木崎貝塚遺跡の第2トレンチの2段目右
から2番目に在り、遺物番号で唐木崎遺跡
スケッチ第6図の第9番とナンバリングさ
れている。土器の底の部分を、外側から見
たように私には見える物品の写真である。

唐木崎奔土.gif

上図のように、煤で円弧模様のようなもの
に乗って、右側にやや反時計回りに傾いて
「奉」、下に「ニ」か「土」のような模様
が在り、更に左側に、新字の「国」のよう
な模様も有る。クニ構えの中の

玉の点は、大きすぎるのでヨゴレか。

今のところ本ブログでは第3字目に見える、
二か土のような黒い模様も、単にヨゴレで
あると解釈し、”奉国”と書かれていると
解釈しておく。
 何れにしても第1字目に見える模様は、
奉のようであり、土も無しと考えるならば、
縄文時代に摩訶大大将棋/摩訶大将棋が
存在した事を、この遺物は示していないと
考える。が、それ以前に、

縄文時代中期等に文字が成立していたとし
たら驚き

だ。がもし中期や後期では無くて晩期の土
器であり、東北地方な為、貝塚に関係なく、
西日本では弥生時代の西暦1世紀頃に成立
したものたとすれば、実質弥生時代の成立
であり、

鉱脈を探す漢王朝人のもので、国は後漢の
事を指す

のかもしれない。金鉱が岩手県で見つかっ
たので貴金属類を、宮城県の北のこの遺跡
付近で、たまたまこの器に入れたのであろ
うか。なお、特に住居跡が発見されている
と、記載はされていないようである。何れ
にしても、

税を納める側の人間が、縄文土器を使って
いるのか、弥生土器を使っているのかに
関して、どこに居るのかは謎だが、とにか
く支配者階級層が、気を使っていないのは
明らか

だと、この遺物を見ても私は感じる。
(2022/05/06)

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高知県南国市土佐国衙跡遺跡で古代奔馬墨書土器(長さん)

今回は高知県南国市の土佐国衙跡付近で、兵舎
とみられる9世紀前半の建屋から、漢字で奉馬
と書かれていると疑われる、甕型土器が出土し
ている、可能性が有るとの旨の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
9663_1_土佐国衙跡発掘調査報告書第9集.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
高知県埋蔵文化財調査報告書第26集土佐国衙跡発掘調査報告書
第9集、西暦1989年、高知県教育委員会。
発掘報告書第5ページの調査の概要によると、
遺跡の場所は、高知県南国市比江字金屋502~
503番地。遺物が出土したのは第1ページ付
近の”調査に至る経過”によると西暦1988
年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第34ページ
付近によると、第3性格不明遺構で出土したが、
付近の住居の形態等から、9世紀前半の成立で
はないかとの事である。なお同じく発掘報告書、
第35ページによると、この性格不明遺構は、
兵舎ではないかとされ、馬は居たと自明に考え
られるのではないかと、本ブログ管理人は推理
している。
 遺物の写真は発掘報告書写真図版36に在り、
下のカラム”SX-3出土遺物”で、遺物番号
で、通し番号の第89番とナンバリングされて
いる。底の丸い甕の破片ではないかとされる出
土土器片である。

土佐国衙奔馬.gif

 上図のように、底の方に縦に漢字で、奉馬で
あると見れば、そのようにも見える、煮炊き煤
状の黒い模様がある。奔馬ではなく奉馬であり、
献上された馬が、兵舎で飼われていて、石積み
の上に甕が置かれていて、馬の水飲み具になっ
ているようなイメージが私には有る。大局将棋
には、よって無関係とみられる。
 平安時代前期だとみられるが、国衙の兵舎に
は献上された馬が飼われていた事を示しており、
馬は武具として大事にされていた事を、兵舎跡
からこの奉馬墨書土器が出土する事によって、
よく示されていると私見する。
 なお字が横ではなくて下なのは、甕を人間が
小脇に抱えて献上馬を曳いたときに、通行人に、
横から文字が見えるようにする為だと、私は解
釈する。献上馬自体に、当時は特権的性格が有っ
たのであろう。(2022/05/05)

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大阪府阪南市向出遺跡で13C奔馬墨書瓦器椀(長さん)

今回は大阪府では弥生時代後期ばかりではなく、
鎌倉時代成立の奉墨書土器も、出土するという
話題である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
報告書のpdfファイル名は以下の通りである。
4702_1_向出遺跡発掘調査報告書.pdf
 発掘報告書の表題は、以下の通りである。
阪南市埋蔵文化財報告43向出遺跡発掘調査報告書、
2009年、阪南市教育委員会。
 発掘報告書末尾の抄録によると、遺跡の位置
は、大阪府阪南市自然田、遺物が出土したのは、
西暦2000年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書の第7ページ
付近の記載によると遺物はA区で出土し、成立
年代の幅は広いが、問題の遺物個体の形から、
13世紀前半の瓦器椀であると、発掘報告書で
は判断されたように読み取れる。もともと縄文
土器も出土する遺跡らしい。
 遺物の写真は、発掘報告書の写真図版第9の、
右上に在り、A区第3層出土遺物の第5番との
旨、ナンバリングされている。小さめの食器ボー
ルのような形をしているように、私には認識さ
れる。

向出奔馬.gif

 上図のように、ぼんやりと、右上の口の部分
に奉、中央少し右寄りにに下の4点がはっきり
せず、弔のようにも見えなくもないが、馬であ
ると強く言われれば、そのようにも見える漢字
のような、大きい黒い模様が在る。馬がお椀を
使うというのは不自然だが、ともかく奉であっ
て奔では無いので、飼い馬に関連しそうでもあ
り、大局将棋とは関連無さそうである。よって
鎌倉時代に、大局将棋が有ったとの証拠には、
何れにしてもなら無さそうである。
 そこで、馬用にお椀が有るという点の謎につ
いて考えてみると、上図のように、

味噌汁を飲む椀にしては形が違う。むしろ子馬
の水飲み転用食器と見ても、大きい矛盾は無い

と気がつく。献上する為に飼われていたか、た
またま他界してしまって、神棚に器が置かれた
のか。鎌倉時代には大阪府阪南市でも、武家に
とって戦力となる飼い馬は、大事にされたとい
う事なのかもしれない。(2022/05/04)

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(コラム)将棋史関連記事連投二千日越え(長さん)

本ブログの将棋史関連記事の、日毎連続投稿
記録が、西暦2016年11月10日を基点
として2000日を越えたようである。読ん
で頂ける方が、皆無と本ブログ管理人に認識
されていたとしたら、この1/10前後で、
頓挫していただろう。読者の皆様の御かげで
ここまで来たと、深く感謝を冒頭でしておく。
 最近は奈良文化財研究所全国遺跡報告総覧
に全面的に頼る状態になってしまったが。
コロナが治まったら変えたいと希望はしてい
る。現実には鎌倉市の市立図書館の館内に一
度位は足を踏み入れたいし、福島県の白河館
(まほろん)は訪問したいものだ。本ブログ
では、イベント当時に取り上げなかったが、
コロナの蔓延のせいだと明らかに判る形で、
どうぶつしょうぎカフェいっぷくが、廃業し
てしまった。コロナが無ければ、何回か取り
上げていたはずの本ブログ関連の場所である。
 個人的には、ここ何ヶ月かは電車に乗った
記憶も無い。本ブログの記事構成に、新型コ
ロナウィルスの蔓延の影響は、実際には大き
く響いた。ブログ内容が、単調に推移してし
まった弊害は否定し得ない。
 この先は普通に活動が出来るのを祈りつつ、
ブログ自体がそもそもエンドにならないよう、
かんばるしかないと思う。そもそも明日西暦
2022年5月4日に、何がしかの記事が載
せられるかどうかも、これから数時間の勝負
というのが実態だ。(2022/05/03 その2)
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大阪府茨木市倍賀遺跡で弥生後期奔銀墨書土器(長さん)

今回は、大阪府で弥生時代の後期、1世紀~
3世紀に成立したと見られる、高杯型出土土器
片に、奉銀等、複数の漢字の文字のような模様
が有る事柄について紹介する。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
18926_1_平成27年度茨木市埋蔵文化財発掘調査概報8.pdf
 発掘報告書名は以下の通りである。
茨木市文化財資料集 第66集平成27年度
茨木市埋蔵文化財発掘調査概報8、西暦2016年3月、
茨木市教育委員会。
 発掘場所は4箇所であるが、遺物が出土した
のは倍賀遺跡(一部、郡・倍賀遺跡)との事で
ある。郡・倍賀遺跡は倍賀遺跡の南20~数十
メートルの場所に在るらしい。
 遺跡の場所は、発掘末尾の抄録によると、
大阪府茨木市畑田町。遺物が出土したのは西暦
2015年前後のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書の第12ペー
ジ付近に、問題の遺物土器が庄内期(1世紀~
3世紀)の土師器であろうとの旨の記載が在る。
全体としては、古墳時代の土器片の出土も多い
ようではある。
 遺物の写真は発掘報告書の写真図版4:”
倍賀遺跡 郡・倍賀遺跡”の下カラム、”2.
HKA15-1、HKA15-2、HKA15-
8包含層出土遺物”の最下段左から2番目に在
り、遺物番号で、包含層出土遺物の第8番との
旨、ナンバリングされている。杯の持ち手の部
分の破片のように見える。

倍賀遺跡奔銀.gif

上図のように、土器の写真で中央下部に、漢字
で縦に奉銀と書かれていると言われれば、その
ようにも見える模様が有る。この場合問題なの
は、更にその前の行として、

開山等と書かれているように見える模様が有る

点である。銀山が近くで発見され、銀が出たよ
うであるが、漢字でその事が”開山奉銀”等と
表現されているという事になる。しかしながら、
そのような表現が、漢字4文字で出来るのは、
弥生時代後期だと、

大阪府では、渡来人以外に私には考えられない。

 古墳時代の遺物に混じった出土のように、
発掘報告書からは読み取れるので、執筆が日本
人で無いとは限らないのではないかと私見はす
るのだが。大阪府の難波京付近に、1世紀とそ
の少し後に、渡来人が大挙して押し寄せたのは、
そもそも、日本の

鉱山採掘が目的だったのではないかと示唆して
いるように見える、重大な遺物

の可能性も完全には否定できないように、私は
この土器を見て思う。

日本は元々、鉱山採掘場の島だったのではなか
ろうか。

つまりゴールドラッシュの島の、一癖の有る人
間の吹き溜まりの疑いが有るという意味である。
 そのようなバタ臭い場所が、魏志倭人伝にて
写実的に正しく記録されているとは、少なくと
も私には、とても考えられない。(2022/05/03)

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