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長野県佐久市上の城遺跡で9世紀後奔水墨書土器(長さん)

今回は、奉水と水を奉納するとの旨が、甕
の破片のような出土土器に書かれていると
いう趣旨の遺物出土の話題である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は以下の通りである。
19392_1_上の城遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
佐久市埋蔵文化財調査報告書第238集
岩村田遺跡群上の城遺跡Ⅱ、2016.3、
長野県佐久市教育委員会。
 発掘報告書末尾の抄録によると、遺跡の
場所は長野県佐久市岩村田字上の城。遺物
が出土したのは西暦1973年と、相当に
以前である。
 遺物の成立年代は、第34号住居跡ない
し、第36号住居跡の敷地内で出土したが、
第34号住居跡が9世紀後半成立との旨が、
発掘報告書の第50ページ付近に記載され
ている。今回は遺物の成立年代として、
9世紀後半と仮にしておく。第36号住居
跡は、それより少し遅れて10世紀ではな
いかという事である。
 遺物の写真が発掘報告書の、写真図版第
21:”グリット出土遺物(2)”の、
上から3段目の左から2番目に在って、
遺物番号として、グリット出土遺物の59
番との旨、ナンバリングされている。本文
中では、墨書土器であり水と書いてあると
見ていると取れる、墨書土器地点分布図が、
発掘報告書の第106ページ付近にある。

上の城奔水.gif

 上図のように、左の方に水と書いてある
ように見えるが、その右隣に大きさは、そ
れより少し縦に詰まった字で、奉と書いて
あるようにも見える。なお下部に、発掘担
当者によるとみられる、遺跡の名称の書き
込みが有る。冒頭で述べたように、発掘報
告書にもあるように墨書土器に違いなく、
「奉水」とかいてあるのであろう。恐らく、

官衙に湧き水を献上した

のではないだろうか。山から流れ出る水の
旨い場所として、古代から遺跡のあたりは
知られていたのであろう。なお、大局将棋
の水将は、奔水ではなくて副将に成るので、
将棋駒名に奔水という駒は、有りそうだが
元々無い。(2022/05/21)

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静岡県浜松市角江遺跡で弥生後期馬奔山墨書土器(長さん)

今回は、古墳時代に近くなると、静岡県
浜松市付近でも、山岳信仰が発生し有力者
への馬の献上が行われたのではないかと疑
われる、「馬奉山」と読める瓶型出土土器
の紹介である。
 遺物の写真がweb上で公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
1133_1_角江遺跡Ⅱ遺物編1土器・土製品.pdf
発掘報告書名は、以下の通りである。
静岡県埋蔵文化財調査研究所調査報告第69集
角江遺跡Ⅱ遺物編1(土器・土製品)、1996、
財団法人静岡県埋蔵文化財調査研究所。
 発掘報告書末尾の抄録によると遺跡の場
所は、静岡県浜松市入野町15174。
遺物が出土したのは、西暦1991年~
1994年の間のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書に個別の
遺物の成立年代が推定されているが、たま
たま、今回紹介する遺物については言及が
無く、発掘報告書の第60ページの図を見
る限り、弥生時代後期と見られているよう
に、私には受け取れる。
 遺物の写真は発掘報告書写真図版第37
の2段目左に在り、遺物番号第41-6番
とのナンバリングがある。丸い瓶のような
形の土器のように見える。

角江遺跡馬奔.gif

 上図のようにいっけんして、土器の写真
の中央に、漢字の奉のように見える煤模様
が有り、それに右側にくっついて、山とい
う漢字が書かれているようにも見える。そ
して更に、左すこし上に、反時計回りに回
転して、互いにばらばらのように見えるが、
馬とも書いてあり、

馬を山の神に奉じる

との意味で「馬奉山」と書いてあるように
も見える。金鉱を探して大陸からやってき
た渡来人を先祖とする、静岡県浜松市の弥
生時代末の有力者に、牧場の馬の飼い主が
馬を献上するときに付ける、馬の水飲み瓶
という意味のようにも見える。
 以前に九州では、弥生時代のもっと早く
に、このパターンの墨書土器に見える遺物
が存在する事を、本ブログで紹介した覚え
がある。静岡県浜松市付近でも、九州中部
には少し遅れるが、同様な事が起こってい
たように解釈できる遺物という事になるの
だろう。(2022/05/20)

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茨城県土浦市常名台遺跡で4C泰山墨書土器(長さん)

今回は、茨城県土浦市の遺跡で、古墳時代
前期に成立とみられる遺跡から、漢字で
泰山と書いてあるように見える丸い金魚鉢
型の出土土器の話題である。一字目がはっ
きりしないが、奉山では無くて

本当に泰山のように見える。

遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は以下の通りである。
茨城県土浦市常名台遺跡群確認調査神明遺跡(第3次調査)、
2002年、土浦市・常名台遺跡調査会・土浦市教育委員会。
なお、遺物は常名台遺跡群神明遺跡で出土
しているようである。
 発掘報告書冒頭の例言によると、遺跡の
場所は、茨城県土浦市常名字神明2760
番地。遺物が出土したのは西暦2001年
前後の事のようである。町の北西側らしい。
 遺物の成立年代は、発掘報告書の第74
ページ付近によると、第1号竪穴住居跡で
出土したが、この竪穴住居跡自体が4世紀
とみられる、古墳時代前期成立と考えられ
ているように読み取れる。なお、付近の
竪穴住居跡に古墳時代前期成立のものが、
多いようである。
 遺物の写真は、発掘報告書の写真図版(
PL)第25の第3段目中央に在って、遺
物番号、第1住居跡の第6番との旨、ナン
バリングされている、丸い形の土器である。

常名台泰山.gif

 上図のように、下の方に縦に2列で、そ
れぞれ泰山(改行)泰山と書いてあると言
われれば、そのようにも読める、漢字の
ような煤模様が在る。第1字目が泰だか奉
だか、はっきりせず、

泰山である可能性は否定できない。

これだけの事実から、将棋と無関係である
と、完全否定するのも困難と見られる。が、
土浦市からは筑波山が見えるという事実が
有り、金鉱が無くても純粋に山を拝むと
いう事が、古墳時代の前期に成立したとい
う事を、単に表しているという仮説も、こ
のケースには完全否定は出来ないであろう。
特に筑波山は土浦市よりは学園都市付近の
方が見易いが、見る方向で2峰見えるので、
墨跡の表現は、この山を表現した疑いが、
一応持てるであろう。(2022/05/19)

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島根県吉賀町前立山遺跡で4C奔亜墨書土器(長さん)

今回は島根県吉賀町前立山遺跡で、古墳期早期
の杯状の出土土器に、漢字で奉亜と書いてある
ように、かなりはっきり見える、遺物が在ると
の紹介である。

奉の字にも右に、もう一本縦線があり奔のよう
だが頭の三本線は無い。

余分な線はヨゴレであり、奉王と解釈して良い
かと見られる。
 遺物の写真がweb上で公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
14283_3_中国縦貫自動車道建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書.pdf
 発掘報告書名は、以下の通りである。
中国縦貫自動車道建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書、
1980年3月、島根県教育委員会。
 遺跡が複数記載されているが、主体は、今回
紹介する、鹿足郡吉賀町(六日市町:当時)の
前立山遺跡になっている。
 遺跡の場所は前立山遺跡の概要が記載された、
本文第1pdfの、第5ページによると、島根
県鹿足郡吉賀町注連川字前立山。遺物が出土し
たのは、第2ページの調査経過によると、西暦
1978年から79年の間のようである。
 遺物の成立年代は、前立山遺跡の北側の竪穴
住居地帯で問題の遺物が出土したが、竪穴住居
地帯が弥生時代末ないし古墳時代初にかけて成
立とみられるとの旨が、第1本文pdfの第5
ページ付近に記載され、竪穴住居跡第13号で
発掘されたが、挿入図によると、竪穴住居跡第
13号は、遺構の切りあいから最新のようであ
り、古墳時代初の4世紀であろうとして、以下
紹介する。いわゆる邪馬台国の、卑弥呼の時代
であろう。
 遺物の写真は写真図版pdfである、冒頭紹
介した第3pdfの、(写真)図版第48の
左下に在り、遺物番号は特に付いていない。杯
のような形の土器に、私には見える。

前立山奔亜.gif

 写真の中央に縦に、

かなりはっきりと、漢字で奉亜と書いてある

ように見える。奉の字にもキ部分が右に縦線が
短く付いて井のようにも見える。亜の左縦棒は、
中央ラインから左に外れていて、

キの右の短い縦棒と、亜の左縦棒は、ヨゴレ

と見た方が良さそうだ。それにしても探せば、

「奉王」と、はっきり読める土器が有るもの

である。六日市町には古墳も在るとの事なので、
貢物を入れて王に差し出す器に、定型的に見え
るような遺物である。が土器に墨書が在るとい
う事から平安時代成立と、発掘報告書では解釈
していたと読み取れる箇所が在り、漢字である
はずがないとして、この遺物が出土した頃には
模様が、余り着目され無かったようである。

奉の字の成立は、日本の中国地方では弥生時代

である事を示す、証拠の一つと、ひょっとした
ら言えるのではないかと疑われる。(2022/05/18)

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兵庫県加美町長見寺廃寺址で白龍墨書瓦(長さん)

今回は、飛鳥期から奈良時代にかけての
兵庫県の遺跡の掘立て柱住居跡屋根瓦と見
られるものに、漢字で白龍と書いて有るよ
うな模様の有る、遺物の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
48406_1_長見寺廃寺址.pdf
 発掘報告書名は、以下の通りである。
兵庫県文化財調査報告第315冊香味町
長見寺廃寺跡址、2007年3月、
兵庫県教育委員会。
 なお、現在現地に長見寺という寺は存在
しない。実質遺跡は長見寺跡である。
発掘報告書冒頭の例言によると遺跡の場所
は、美方郡香美町香住区香住字長見寺
(旧香住町香住)。遺物が出土したのは、
西暦2002年前後のようである。
 遺物の成立年代は発掘報告書の88ペー
ジ付近に、古墳時代後期・飛鳥時代・奈良
時代成立の瓦の一種の鴟尾であるとの旨の
紹介がある。
 遺物の写真は、発掘報告書写真図版の、
第37:”遺物”の最上段に在り、遺物
通し番号で、第176番との旨、ナンバリ
ングされている。

長見寺廃寺白龍.gif

 上図のように、遺物の写真の中央やや左
側に、時計回りに傾いて、山の記号のよう
なものの下に、漢字で白龍と書いてあるよ
うに見える、暗い模様が有る。
 青龍では無いため、四神とも言えず、
大大将棋等の将棋駒名であるとは考えられ
ない。
 山の端にある寺跡であり、飛鳥時代前後
である事から、神道は在っても仏教は伝来
初期であり、神道の山岳信仰に絡んだ祈祷
等の祭祀が寺のような施設で行われ、その
ときに寺の所有のはずの瓦に、写真のよう
な、何らかの祈祷祭祀のための書き込みが
行われたのかもしれない。白蛇が御神体と
いう神社は、今でも多いはずだ。よって仏
教伝来初期の時代の、宗教的祭祀の跡なの
であろう。(2022/05/17)

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徳島県三好市相知遺跡で平安期王奔墨書土器(長さん)

今回は、官衙関連建物とされる平安期の遺跡
から、「王奉勅筆立」等と書かれた墨書が出
土しているとの旨の紹介である。
 遺物の写真がweb上で公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は以下の通りである。
13449_3_四国縦貫自動車道建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告.pdf
発掘報告書名は以下の通りである。
徳島県埋蔵文化財センター調査報告書第59集相知遺跡、
2005、徳島県教育委員会・
財団法人徳島県埋蔵文化財センター・日本道路公団。
 発掘報告書第1本文pdfの冒頭例言によ
ると遺跡の場所は徳島県三好市(三好郡井川
町:当時)西井川。
 遺物が出土したのは、西暦1996年前後
の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第2本文
pdfの第161ページによると、遺跡全体
が石製巡方の出土により、9~10世紀の、
平安時代中期と考えられていると取れる旨、
記載されているようである。
 遺物の写真は前記第3写真図版pdfの、
(写真)図版第33:”(第6区)包含層
出土遺物(2)”の右下に在り、遺物番号第
307番との旨、ナンバリングされている。
須恵器の甕の破片との事である。

相知遺跡王奔.gif

 上図のように写真の中央に、縦に王奉と、
かなり濃く漢字で書かれているような煤模様
が見え更に、割れていて見難いが、その下に、

丸に囲まれて、”勅筆立”と書いてあるよう

にも見える。王奉であり、奔王ではないので、
将棋駒を表現したものではなくて、官衙で、
事務官が、中央から命令された文書を書き写
す、筆記具を立てるのに使用している容器
であるようにも見える。この遺跡では少し離
れた所の3区で介クラスの人物が使用したと
推定されているように発掘報告書から読み取
れる、石製巡方(ベルト止めのように私には
見える)が共出土していると報告され、それ
を根拠にして、建物については官衙関連であ
ろうと推定されているようである。官衙関連
であろうと推定することに関して、

事務用品が出土しているので益々確からしい

という事に、或いはなるのではないかと私見
する。(2022/05/16)

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島根県松江市池ノ奥2号墳で古墳末山奔墨書土器(長さん)

今回は、古墳期末から飛鳥時代にかけて
の山奉墨書土器の話題であるが、遺物に
釉薬跡があり、その2文字が四角で囲まれ
ているので、古墳期早期の貢物とは内容
が変化している事を示す遺物の紹介である。
豪族に納める貴重品を入れるのではなくて、

現在と同じで、容器自体も陶器風で渋い
外見となり、神社等に周囲の雰囲気とマッ
チした形でカッコ付けでおく、湧き水入れ
容器用等に、用途が変わった

のであろう。狛犬等の像の横に置いたのか
もしれない。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
2299_6_鈩田遺跡・朝酌荒神谷遺跡・イガラビ遺跡・
イガラビ古墳群・池ノ.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
島根県松江市松江東工業団地内発掘調査報告書
鈩田遺跡・朝酌荒神谷遺跡・イガラビ遺跡・
イガラビ古墳群・池ノ奥古墳群・池ノ奥C・同
D遺跡、1990年3月、松江市・松江市教育委員会。
 遺物は、このうち池ノ奥古墳群、第2号
墳で出土したとの事である。
 発掘報告書第1本文pdfの冒頭第2ペー
ジの例言内の表によると、遺跡の場所は、
島根県松江市大井町1286。遺物が出土
したのは、西暦1987年前後の事のよう
である。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第5本文
(末部)pdfの第381ページ付近の表
によると、第2号墳自体が、遺物の形態か
ら、7世紀初頭成立とみられているようで
ある。
 遺物の写真はさいしょの方で示した、
第6写真図版pdfの第411ページの写
真:”池ノ奥2号墳出土遺物”の右上上段
に有り遺物番号J-43番とナンバリング
されている。土器甕の破片とされているも
のである。

池ノ奥山奔.gif

 上図のように、写真の中央、土器の首の
凹みの部分に、縦長の長方形に囲まれて、
山奉と、漢字で書いてあるような煤模様が
ある。泰山ではなくて山奉であろう。
 神社の看板に見えるため、私見だが、
飛鳥時代早期の神社の社に、御清め用の水
甕が置いてあって、その横に狛犬等が置か
れている姿が想像さる。この容器自体が、
地方の有力者に貢物をするための容器とは、
限らないように見える。
 実際に使用されたころには釉薬を塗り、
渋い陶器の雰囲気を出したような大型容器
のだったようであり、今の神社にかなり近
い風情が、周りにあったのではないかと、
私には想像される。
 「奉」が納税ではなくて、神社用品とし
てもイメージされ出したのは、古墳時代末
から飛鳥時代にかけての頃からだった事を、
ひょっとすると、この遺品は示しているの
かもしれない。(2022/05/15)

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2022年6月11日土小山市遺跡速報展で報告会(長さん)

以下は、次のweb上の新聞発表の紹介である。
東京新聞web2022年5月7日07時35分。
”地元の遺物にわくわく:小山市立博物館で
「小山の遺跡速報展」市内10カ所で出土『げた』
など80点”。
 場所は宇都宮線で東京側からJR小山駅の一つ
手前の、JR間々田駅の小山市乙女の市立博物館。
趣旨は、西暦2007年頃以降の市内10遺跡の
発掘調査の成果を、約80点の遺物などで紹介と
の事である。記事の報告者は小川直人氏。苗字か
ら察するに、栃木県小山市の職員の方であろうか。
期間は現在開催中で、西暦2022年6月26日
までとの事である。
 冒頭の新聞見出しの下駄は、神鳥谷曲輪跡遺跡、
2007年発掘の下駄の事であり、本ブログでは、
サイズが23センチ前後のため、成人女性用では
ないか等と紹介した物品である。木製品が出土す
る遺跡での下駄の出土例は膨大であるが、

新聞記事からは不明だが、何かその後に判った事
が、あるいは有る

のかもしれない。ちなみに出土遺跡は、かつて、
かなり標高が低かった場所である。
 この新聞記事では「神鳥谷(曲輪跡)遺跡」、
「間々田八幡前遺跡」、「市遺跡分布図・地名表
414箇所」が紹介され、

2022年6月11日土曜日に”記念講演会
「遺跡報告会」が予定される”

とある。新聞記事では、神鳥谷曲輪跡遺跡に関し
て、大型掘っ立て柱建物跡、井戸跡が有り「武士
使用の」将棋の駒、下駄が出土したとの旨を紹介。
「間々田八幡前遺跡」は古墳期~平安期遺跡で、
竪穴住居跡・土坑・溝が検出されるパターンであ
り、体ベルト飾りの巡方、瓦製品が出土している
と新聞記事からは読み取れるようである。
 前者の将棋駒の棋士についてだが。僧侶が本来
武士で、敗戦したので僧侶にさせられたようなケー
スが存在する場合に、「将棋を指す武士の類」に
入ってしまっても、致し方ないのであろう。
 成り金一文字角行駒が、栃木県小山市の市立
博物館で、その後は保管されているという点に関
して、現物で確かめたい方には、絶好のイベント
が開催中だと認識される。(2022/05/14)

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宮崎県都城市大岩田上村遺跡で縄文晩奔馬墨書土器(長さん)

今回は、九州宮崎県都城市で縄文時代晩期成立
とされる土器に、漢字で奉馬と書かれたように
見える墨書遺物があるとの旨の紹介である。

弥生時代の成立だろうが、都城市で漢字の奉が、
相当早く成立していた事を示している

とみられる。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
3336_1_大岩田上村遺跡.pdf
 発掘報告書の表題は以下の通りである。
宮崎県埋蔵文化財センター発掘調査報告書第77集
大岩田上村遺跡、2003年、
宮崎県埋蔵文化財センター。
 遺跡の場所は発掘報告書末尾の抄録によると、
宮崎県都城市大岩田町6809番地。ここで話
題にする遺物が発掘されたのは、同じく抄録に
よると、西暦2000年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は発掘報告書の第56ページ
付近の記載によると、この土器自体が、中岳Ⅱ
土器群に属するとみられ、縄文時代後期後半か
ら、晩期前半ではないかとの旨が、記載されて
いるように読み取れる。なお、遺物番号の35
番との記載は36番の誤りであると仮定すると、
そのように解釈できる。
 遺物の写真は発掘報告書の、写真図版8の、
下から2段目右にあり、”C区出土土器”と
付記され、遺物番号第36番との旨、ナンバリ
ングされている。私には棺おけの半分のように
見える。

大岩田上村奔馬.gif

 上図のように、写真の左下の方に、漢字で馬
に見える、かなり黒い模様が有り、その上に、
擦れているが、馬よりかなり大きく、奉と書か
れていると言われれば、そのようにも見える、
薄い煤のような模様が有る。奔である可能性は
少ないと見られる。
 宮崎県の縄文時代後期後半に成立していると
すれば、漢字の伝来が定説より極端に早くなる
が、土器が特殊で都城市の南東でしか出土しな
いとの事のようで、成立年代の根拠があいまい
である。

弥生時代の初めの成立であり、渡来人が飼い馬
が他界したので、何かを添えて埋葬した馬用の、
何らかの物品入れの類

ようにも見える。以前本ブログで宮崎県都城市
で、古墳時代成立とみられている「奉山龍馬」
墨書土器を紹介しているが。町場により近いが、
大岩田上村遺跡は、「奉山龍馬」墨書土器の
都城市豊満上村遺跡と、極端に離れてはいない、
同じ鰐塚山系の方角の遺跡という事である。従っ
て都城市の盆地地帯で漢王朝からの渡来人が、
古くから馬を飼っていて、鉱山開発もしていた
が、愛馬がたまたま死んでしまったので、その
ときに弔ったというストーリーを立てても、極
端な無理は無いのではないかと、私は疑う。
(2022/05/13)

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宮崎県都城市豊満大谷遺跡で古墳期龍馬墨書土器(長さん)

今回は、九州宮崎県で古墳時代成立とみられる
龍馬と書かれた墨書土器に山奉とも書いてあり、
山奉龍馬とも読めるような、土器瓶破片の出土
の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
3869_1_豊満大谷遺跡野添遺跡.pdf
なお、写真図版pdfは、第2pdfまで
続いている。
 発掘報告書の表題は以下の通りである。
宮崎県埋蔵文化財センター発掘調査報告書第83集
豊満大谷遺跡・野添遺跡、2004年、
宮崎県埋蔵文化財センター。
 今回紹介する遺物は、このうち豊満大谷遺跡
で出土したようである。
 遺跡の場所は”第Ⅱ章 豊満大谷・野添遺跡
の立地と環境”によると、宮崎県都城市豊満町
字大谷。ここで話題にする遺物が発掘されたの
は例言によると、西暦2001年前後の事のよ
うである。
 遺物の成立年代は発掘報告書の第67ページ
付近の記載によると、他十数点と共に出土した
今回ここで紹介する土器片は、詳しい記載は無
いが、古墳時代のどこかで成立と考えられてい
るようである。
 遺物の写真は発掘報告書の、豊満大谷遺跡の
写真図版6の中の中段付近のカラム:
”出土土器(弥生~古墳時代)5”の、左下に
在り、豊満大谷遺跡編通し番号第189番との
旨、ナンバリングされている。瓶のような形の
土器の、破片と見られているようである。

豊満大谷龍馬.gif

 上図のように、左下の破片に龍馬または、
馬龍馬と書いてあるようであるがその右に、や
や擦れて山の字が有るようである。更に字が潰
れてはっきりしないが、山の下に有る模様は、
奉のようでもある。そこで右から縦に読むと、
山奉龍馬かまたは、山奉馬龍馬になるようにも
見える。
 本ブログの管理人の見解によれば山は、古墳
時代のその地の有力者の祖先霊という意味だと
考えられている。実質的には神主を兼ねる都城
市付近を当時勢力範囲とした有力者の長に、馬
を献上するという意味だとみられ、古墳時代の
豪族の長は、山を奉じる神主姿であっただろう
と推定できる、根拠になる遺物の一つだと私見
する。
 遺跡は都城市の南東の山の端に有るようなの
で。恐らくは古墳時代には、鰐塚山系には鉱脈
が有り、その鉱山資源を捜索する渡来漢王朝人
が、馬を奉じられる有力者の長の、先祖神の正
体といった事なのではないかと疑う。
 全く時代が違う近世の話であるが。都城市の
中国人町跡から、シャンチー駒が出土している
のも象徴的だ。(2022/05/12)

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