熊本県熊本市熊本大学構内遺跡で8C後王将墨書土器(長さん)
熊本大学黒髪地区での西暦1994年前後の発掘
調査の際、墨書土器とみなされた遺物を初めとし
て、古代成立の土器が出土したが、その中に王将
と書いてあるのではないかと、本ブログの管理人
に疑われた遺物が有ったので、以下紹介する。
山王大将と書かれていて、将棋とは関係ない。
が、弥生後期、古墳期、古代の、山岳崇拝用の
祭祀用の遺物では無いかと疑われる。山王大将の
山としては、具体的には阿蘇山が考えられる。
遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
110691_1_熊本大学構内遺跡発掘調査報告1.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
熊本大学埋蔵文化財調査報告書第1集、
熊本大学構内遺跡発掘調査報告Ⅰ、西暦2003年、
熊本大学埋蔵文化財調査室。
遺跡の場所は、発掘報告書冒頭第1ページの
「構内遺跡と調究の概要」によると熊本県熊本市
黒髪2丁目・3丁目。遺物が出土したのは、冒頭
を繰り返すと、同じく発掘報告書の第1ページ
付近の記載から、西暦1994年前後の事のよう
に読取れる。なお、大学構内複数の地点の発掘
経過が、この報告書には記載されている。
遺物の成立年代は、発掘報告書の第20ページ
付近の記載によると、ここで話題にする遺物は、
黒髪地区の発掘調査の際、ピット第1号から出土
したが、遺物の形から8世紀半ばないし後半と見
られると、取れる記載が在ると認識する。
遺物の写真は発掘報告書の写真図版第6:”
9407調査地点出土遺物1”の、上から第3段
目中央に在る、皿のような土器であり、遺物番号
で、通し番号の第19番との旨ナンバリングされ
ている。
上図のように、中央に帯状に漢字で文字が小さ
く書かれているように私には見え、
下の方に縦に、王将と書かれているように見える
が、王の右に大と小さく字が、ダブっている
ようである。たぶんだが、
王将ではなくて、大王と書こうとしている
と見られる。そして、更に王の上部に目をやると、
山と書いて在るように見え、「山王大将」と書か
れていて、
阿蘇山を大将の山と呼んで、崇拝しているよう
にも取れる。よって、この遺物は奈良時代末から
平安時代初のものとされるが、その頃、いわゆる
日本の将棋が成立していた事を、示していないと
疑われる。恐らくこの遺物も墨書土器で、山岳崇
拝用の祭祀用ではないだろうかと、私は疑う。
(2022/07/21)
調査の際、墨書土器とみなされた遺物を初めとし
て、古代成立の土器が出土したが、その中に王将
と書いてあるのではないかと、本ブログの管理人
に疑われた遺物が有ったので、以下紹介する。
山王大将と書かれていて、将棋とは関係ない。
が、弥生後期、古墳期、古代の、山岳崇拝用の
祭祀用の遺物では無いかと疑われる。山王大将の
山としては、具体的には阿蘇山が考えられる。
遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
110691_1_熊本大学構内遺跡発掘調査報告1.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
熊本大学埋蔵文化財調査報告書第1集、
熊本大学構内遺跡発掘調査報告Ⅰ、西暦2003年、
熊本大学埋蔵文化財調査室。
遺跡の場所は、発掘報告書冒頭第1ページの
「構内遺跡と調究の概要」によると熊本県熊本市
黒髪2丁目・3丁目。遺物が出土したのは、冒頭
を繰り返すと、同じく発掘報告書の第1ページ
付近の記載から、西暦1994年前後の事のよう
に読取れる。なお、大学構内複数の地点の発掘
経過が、この報告書には記載されている。
遺物の成立年代は、発掘報告書の第20ページ
付近の記載によると、ここで話題にする遺物は、
黒髪地区の発掘調査の際、ピット第1号から出土
したが、遺物の形から8世紀半ばないし後半と見
られると、取れる記載が在ると認識する。
遺物の写真は発掘報告書の写真図版第6:”
9407調査地点出土遺物1”の、上から第3段
目中央に在る、皿のような土器であり、遺物番号
で、通し番号の第19番との旨ナンバリングされ
ている。
上図のように、中央に帯状に漢字で文字が小さ
く書かれているように私には見え、
下の方に縦に、王将と書かれているように見える
が、王の右に大と小さく字が、ダブっている
ようである。たぶんだが、
王将ではなくて、大王と書こうとしている
と見られる。そして、更に王の上部に目をやると、
山と書いて在るように見え、「山王大将」と書か
れていて、
阿蘇山を大将の山と呼んで、崇拝しているよう
にも取れる。よって、この遺物は奈良時代末から
平安時代初のものとされるが、その頃、いわゆる
日本の将棋が成立していた事を、示していないと
疑われる。恐らくこの遺物も墨書土器で、山岳崇
拝用の祭祀用ではないだろうかと、私は疑う。
(2022/07/21)