群馬県長野原町石川原遺跡で10C前石奔墨書土器(長さん)
今回は、現在群馬県の八ツ場ダムの場所となっ
ている石川原遺跡で摩訶大将棋/摩訶大大将棋
の石将の成り駒である、奔石を連想させる、
石奉の意図と本ブログの管理人の見る石本墨書
遺物が出土していたとの旨の話題である。
10世紀前後に、物部氏の一族であるという
石上氏の荘園地帯であったらしく「石上様へ奉
ぐ」を意図する「石本」の墨書遺物ではないか
と推定される。なお、石上氏等との関連につい
ては、発掘報告書に言及が在る。
遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
122372_4_石川原遺跡2.pdf
発掘報告書の名称は以下の通りである。
公益財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団調査報告書第671集
石川原遺跡(2)、2020年、国土交通省・
公益財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団。
発掘報告書は、第1pdfと第2pdfが、
本文pdfであり、第3pdfが遺構の写真。
第4pdfが、遺物の写真pdfとなっている。
遺跡の場所は、第1本文pdfの冒頭例言に
よると、群馬県吾妻郡長野原町大字川原湯
乙37番地。遺物が出土したのは西暦2008
年前後の事のように読み取れる。
遺物の成立年代は、遺物の形から同一墨書一
群の土器に関して全部同じであり10世紀前半
の成立とみられるとの旨が、発掘報告書の第2
本文pdfの第526ページの、左下付近に記
載されているように読取れる。また墨書内容同
一と発掘報告書で指摘されている物品が、複数
出土している。
遺物の写真は、写真図版から読取れる例に関
して、例えば以下の、写真図版第424の下カ
ラム:”2)第30号竪穴建物出土遺物1”の、
右下で第5番とナンバリングされた、土器破片
写真図版第423:”1)第27号竪穴建物
出土遺物1”の上から2段目左の杯の形の遺物
で、第2番とナンバリングされた土器、
写真図版第425:”1)第30号竪穴建物
出土遺物2”の、左列中段で、遺物番号第7番
とナンバリングされている、杯のように私には
見える土器、
等、それらしいものが、発掘報告書に3つ見出
される。なお総数は、より多いらしい。
何れも、発掘報告書で石本と読まれ、本ブロ
グの管理人にも、そう読め、
恐らく豪族である石(なにがし)氏へ物品を奉
るの意図ではないか
と私見される。奉であり、奔の意図は無いよう
であるから、10世紀に、いわゆる日本の将棋
の類が、存在したという証拠としては、弱いも
のであろう。
発掘報告書に記載されている通り、物部氏の
系統である、上野の国の石上氏へ、荘園等で収
穫した物品等を納めるのに使用する、器物の存
在を示すものである疑いが、濃いように私見す
る。物部氏や石上氏の首領は、10世紀前半当
時の遺跡周辺の下々の間では、雲の上の存在で、
神にかなり近かったと、見られたのであろう。
(2022/07/02)
ている石川原遺跡で摩訶大将棋/摩訶大大将棋
の石将の成り駒である、奔石を連想させる、
石奉の意図と本ブログの管理人の見る石本墨書
遺物が出土していたとの旨の話題である。
10世紀前後に、物部氏の一族であるという
石上氏の荘園地帯であったらしく「石上様へ奉
ぐ」を意図する「石本」の墨書遺物ではないか
と推定される。なお、石上氏等との関連につい
ては、発掘報告書に言及が在る。
遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
122372_4_石川原遺跡2.pdf
発掘報告書の名称は以下の通りである。
公益財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団調査報告書第671集
石川原遺跡(2)、2020年、国土交通省・
公益財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団。
発掘報告書は、第1pdfと第2pdfが、
本文pdfであり、第3pdfが遺構の写真。
第4pdfが、遺物の写真pdfとなっている。
遺跡の場所は、第1本文pdfの冒頭例言に
よると、群馬県吾妻郡長野原町大字川原湯
乙37番地。遺物が出土したのは西暦2008
年前後の事のように読み取れる。
遺物の成立年代は、遺物の形から同一墨書一
群の土器に関して全部同じであり10世紀前半
の成立とみられるとの旨が、発掘報告書の第2
本文pdfの第526ページの、左下付近に記
載されているように読取れる。また墨書内容同
一と発掘報告書で指摘されている物品が、複数
出土している。
遺物の写真は、写真図版から読取れる例に関
して、例えば以下の、写真図版第424の下カ
ラム:”2)第30号竪穴建物出土遺物1”の、
右下で第5番とナンバリングされた、土器破片
写真図版第423:”1)第27号竪穴建物
出土遺物1”の上から2段目左の杯の形の遺物
で、第2番とナンバリングされた土器、
写真図版第425:”1)第30号竪穴建物
出土遺物2”の、左列中段で、遺物番号第7番
とナンバリングされている、杯のように私には
見える土器、
等、それらしいものが、発掘報告書に3つ見出
される。なお総数は、より多いらしい。
何れも、発掘報告書で石本と読まれ、本ブロ
グの管理人にも、そう読め、
恐らく豪族である石(なにがし)氏へ物品を奉
るの意図ではないか
と私見される。奉であり、奔の意図は無いよう
であるから、10世紀に、いわゆる日本の将棋
の類が、存在したという証拠としては、弱いも
のであろう。
発掘報告書に記載されている通り、物部氏の
系統である、上野の国の石上氏へ、荘園等で収
穫した物品等を納めるのに使用する、器物の存
在を示すものである疑いが、濃いように私見す
る。物部氏や石上氏の首領は、10世紀前半当
時の遺跡周辺の下々の間では、雲の上の存在で、
神にかなり近かったと、見られたのであろう。
(2022/07/02)