SSブログ

滋賀県守山市笠原南遺跡で鎌倉期林鬼墨書絵土器(長さん)

今回は、滋賀県守山市の遺跡で、林と墨書され
ているように見える土器であるが、林の字の下
に、鬼の絵が書いて在るという遺物が出土して
いるとの旨の紹介である。以前、林鬼墨書遺物
に関し平安時代成立の富山県の土器片について、
本ブログでは、その読みに関して否定的な見解
を表明した。が、鎌倉時代になると、「林鬼」
という概念が、発生し存在した疑いが有る。
 つまり平安時代には林鬼は無い疑いが在るが、

林鬼という概念が、鎌倉時代には成立していた

が、内容は良く判らないと結論される。
 遺物の写真が、web上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
2002_1_笠原南遺跡発掘調査報告書.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
笠原南遺跡発掘調査報告書、1987年、
滋賀県教育委員会・滋賀県文化財保護協会。
 遺跡の場所は、発掘調査報告書の冒頭、
遺跡の位置と環境によると、滋賀県守山市
笠原町・荒見町。遺物が出土したのは、同じく
発掘報告書の冒頭の例言によると、西暦
1985年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書の第126ペー
ジ付近の記載によると、第4番土坑で発掘され
たが、土師器型の土器で、成立年代はこの遺物
の形から、13世紀と考えられているように読
取れる。なおこの発掘報告書には、以下のやや
こしい問題が存在する。すなわち、発掘報告書
の同じく127ページ付近に、スケッチ図の、
第69:”第5トレンチ出土遺物実測図”が載っ
ていて、右側3段目に、本文で「林家」と、
富山県高岡市中保B遺跡の林家墨書土器と、同
じパターンの釈文の載っている土器が在る。が、
この8世紀成立とされる第500番の土器の、
裏面と本文からは読取れるスケッチ図69第3
段目右、第500番土器裏面スケッチ図の土器
の破片形が、写真図版の、ここで話題にする、
以下に記載する別の番号の遺物の破片と、破片
形が似ている点に、注意する必要がある。つま
りスケッチ図第69の第3段目右土器裏面図は、

第500番だか第497番だか、発掘報告書に、
縦ケガキ線が書いて無いので、上と繋がるのか、
下の遺物と繋がるのか、よく判らない

という事である。
 遺物の写真は、発掘報告書の図版第59の左
最下段に在って、遺物番号第497番との旨、
ナンバリングされている。小菓子入れの皿の、
裏側のように私には見える土器の破片のようで
ある。

笠原南林鬼の絵.gif

 上図のように、明らかに漢字で林と墨書され
ているように見える。発掘報告書の写真図版で、
墨書土器を集めた部分に写真が載っているが、
釈文を今のところ発見できていない。だが、そ
れ以上に驚ろかされたのは、林の字の下に、角
の2本生えた、人物の絵のようなものが有る事
である。これらを合わせると、縦に、

「林鬼」と表現しているようにも本ブログの管
理人には見える。

なお私見だが、本ブログで、鬼の絵だと見てい
る煤のような模様は、たとえば「家」という漢
字には、本ブログの管理人には見えない。

将棋駒を表現しようとしている墨書の書き手が、
将棋駒名の一部を、絵で置き換えるはずは無い

とすれば、大局将棋とは無関係だとみられる。
 だが、このケースは作免等では無くて林鬼の
ようであり、林で源平合戦の際に、栃木県の、
野木ノ宮の戦いのごとくに、ゲリラ戦で、林の
木を多数揺らして、鬼が居るかのように見せか
ける戦法が多発して、林鬼という用語が定着し
たのか。例えば一例を挙げれは今述べたように
なるのだが。具体的に、

林鬼とは鎌倉時代に、どういう意味だったのか

を別途、明らかにする必要が生じてきたように、
私には感じられる。(2022/07/01)

nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー