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熊本県熊本市熊本大学構内遺跡で8C後王将墨書土器(長さん)

熊本大学黒髪地区での西暦1994年前後の発掘
調査の際、墨書土器とみなされた遺物を初めとし
て、古代成立の土器が出土したが、その中に王将
と書いてあるのではないかと、本ブログの管理人
に疑われた遺物が有ったので、以下紹介する。

山王大将と書かれていて、将棋とは関係ない。

が、弥生後期、古墳期、古代の、山岳崇拝用の
祭祀用の遺物では無いかと疑われる。山王大将の
山としては、具体的には阿蘇山が考えられる。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
110691_1_熊本大学構内遺跡発掘調査報告1.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
熊本大学埋蔵文化財調査報告書第1集、
熊本大学構内遺跡発掘調査報告Ⅰ、西暦2003年、
熊本大学埋蔵文化財調査室。
 遺跡の場所は、発掘報告書冒頭第1ページの
「構内遺跡と調究の概要」によると熊本県熊本市
黒髪2丁目・3丁目。遺物が出土したのは、冒頭
を繰り返すと、同じく発掘報告書の第1ページ
付近の記載から、西暦1994年前後の事のよう
に読取れる。なお、大学構内複数の地点の発掘
経過が、この報告書には記載されている。
 遺物の成立年代は、発掘報告書の第20ページ
付近の記載によると、ここで話題にする遺物は、
黒髪地区の発掘調査の際、ピット第1号から出土
したが、遺物の形から8世紀半ばないし後半と見
られると、取れる記載が在ると認識する。
 遺物の写真は発掘報告書の写真図版第6:”
9407調査地点出土遺物1”の、上から第3段
目中央に在る、皿のような土器であり、遺物番号
で、通し番号の第19番との旨ナンバリングされ
ている。

熊本大学王将.gif

 上図のように、中央に帯状に漢字で文字が小さ
く書かれているように私には見え、

下の方に縦に、王将と書かれているように見える
が、王の右に大と小さく字が、ダブっている

ようである。たぶんだが、

王将ではなくて、大王と書こうとしている

と見られる。そして、更に王の上部に目をやると、
山と書いて在るように見え、「山王大将」と書か
れていて、

阿蘇山を大将の山と呼んで、崇拝しているよう

にも取れる。よって、この遺物は奈良時代末から
平安時代初のものとされるが、その頃、いわゆる
日本の将棋が成立していた事を、示していないと
疑われる。恐らくこの遺物も墨書土器で、山岳崇
拝用の祭祀用ではないだろうかと、私は疑う。
(2022/07/21)

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高見友幸氏が摩訶大将棋起源説反駁に対する返答(長さん)

ざっくり要約的に述べれば、「日本将棋の祖先は
水無瀬兼成将棋纂図部類抄の摩訶大大将棋である」と
マトメられるとみられる、摩訶大将棋起源説に対して、
大阪商業大学アミューズメント産業研究所紀要
第22号にて、奈良県立橿原考古学研究所/明治大学
の清水康二氏が批判を加えた論文を発表している。
すなわち、その表題は「摩訶大将棋起源説反駁」であ
る。それに対し、大阪電気通信大学の高見氏が再反論
したpdf文書が、現在web上に公開されている。
清水氏の文書は西暦2020年に公開されているので、
その後のweb上公開だと見られるが、web上に、
何時から在るのかは、私には正確には良くわからない。
文書自体の作成は、清水氏の文書が公開された、直ぐ
後が常識であろう。
すなわち清水氏のpdfが以下で、
Shimizu.22.pdf
高見氏のpdfが、次のとおりである。
Takami.23.pdf
高見氏のpdfは、このファイル名でgoogle
検索すれば、見つかるだろう。なお、windows
7と10とで、インターネット・ブラウザーのpdf
ファイルの取り扱いスタイルのせいかもしれないが、
ファイル名の表示が違い、7では、拡張子が.22pdfや、
.23pdfになる。
 web上の通説によれば、日本将棋は兵・象・馬・
車軍の4軍編成である、インドの古代チャトランガの
直系的な継承物であるため、日本将棋の先祖の支流が
摩訶大将棋/摩訶大大将棋という事になっている。
 摩訶大将棋/摩訶大大将棋が、高見氏の主張の根幹
とみられるように、日本将棋の先祖そのものであると
すれば、

およそ軽んじ難い存在な為、将棋に興味を持つ者が、
学習を避けては通れなくなるとみられ、高見友幸氏
の論は、その点で重大であり、駒数多数将棋の普及を
夢見る人間にとっては、夢のような話

ではある。しかしながら、そうは問屋がおろさず、
摩訶大将棋起源説反駁では、

ベーシックな論点として、興福寺1058/1098
年型出土駒は、木村義徳氏の、朝倉小将棋から飛車・
角を除いたモデルで、100%合致

と反駁の第116ページ付近で明快に指摘されている。
 最古の将棋駒の出土がこの史料のキャッチフレーズ
であり、まとまった情報は、現時点でも興福寺出土駒
が確かに最古な為、高見氏のpdfは、

興福寺という検索キーワードを使って、pdfを
検索し、その前後を読めば、清水氏の批判が潰せて
いるかどうかが、ただちに判るほど

であると、本ブログの管理人は見ている。
 そこで実際にpdfをキーワード検索をしてみると、

摩訶大将棋は興福寺出土駒より成立が早いとの旨指摘
しているが、具体的に新たな史料を示していない

と判る。なお高見氏の前記pdfでは
1箇所しか、キーワード「興福寺」が出てこない。
 史料を示していないのだから、興福寺出土駒の
成立より、摩訶大大将棋/摩訶大将棋の成立の方が
早いという根拠情報を、実質的に高見氏が、再反論の
時点で持っていないと疑わざるを得ないと、本ブログ
の管理人は考える。
 なお、本ブログはこれまで2年位、他ならぬその
史料探しに力を入れてきた事を、当の本ブログで繰り
返し示してきたつもりでいる。
 角将という概念が、10世紀に成立している疑いが
在るので、摩訶大大/摩訶大将棋よりも、

天竺大将棋の方が、日本将棋の先祖として、
むしろ有望な位である

というのが、本ブログが流してきた情報であった。

 清水氏の言うとおりで、興福寺出土駒は、日本最古
の将棋史料と表現して現時点でも、充分通っている

という事に、西暦2020年も西暦2022年も、
余り差が無いように、少なくとも本ブログの管理人
は理解する。だから、

インドチャトランガが、今の日本将棋の直系先祖で
あり、日本の駒数多数将棋は、日本将棋の先祖、
平安小将棋の支流であるという、web上の情報に、
大きな不的確性は無い

ように私も思う。
 「成りと持ち駒が無く、トライが在るというゲーム
は、マイクロソフトの表計算ソフト:エクセルや、
中国キングソフトの表計算スプレッドシートを
使えば、セルのマウスのひっぱり上げ機能だけで
遊べるので、日本将棋とは別に、その将棋すなわち、
後鳥羽上皇時代の進化中間段階的大将棋も、かつては、
小将棋と並べて日本の2種の将棋と持ち上げられて、
実際には支流だが指されて来たとすれば、真剣に継承
すぺきではないか」という主張の方が、

一定の駒数多数将棋、具体的には「水無瀬兼成の
将棋纂図部類抄の摩訶大大将棋は、現行の日本将棋の
先祖なのだから、内容を放置して、ないがしろにする
のは、けしからん」

という類の主張よりは、普及の原動力として現実有望
なのではないかと、本ブログの管理人は、以上の認識
から今の所、高見友幸氏の”普及戦法”に関しかなり
の疑いを抱いている。
 蛇足だが。摩訶大将棋の電気通信大学ルールで、
桂馬が飛龍型なのは、横飛前の歩兵が離れ駒になる
ので、元の桂馬飛びに戻したほうが良いと、本ブログ
の管理人は考える。(2022/07/20)

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茨城県筑西市野殿深作東遺跡で4C奔王墨書土器(長さん)

今回は、いっけん古墳時代成立の奉王墨書土器
に見えるが、よく見ると奉ではなく摩。第2字
目も玉の意味であり、古墳時代にマガダマを取
り扱う者の中に、普通に漢字を使う、恐らくは
渡来人が、茨城県の比較的内陸部に居た事を示
唆するのではないかと疑える、出土遺物の紹介
である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
11161_1_野殿深作東遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
野殿深作遺跡、西暦1996年3月、
茨城県下館市(当時。現筑西市)教育委員会。
 発掘報告書冒頭の例言から、遺跡の場所は、
茨城県筑西市(当時:下館市)野殿字深作
1318番地。遺物が出土したのは、同じく
例言から西暦1994年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、出土遺物全体の傾向から、
古墳時代前期、4世紀の一時期に存在した遺跡
と解釈されているように、発掘報告書の第69
ページ付近の記載から読み取れる。
 遺物の写真は発掘報告書の写真図版第18:
”第5号住居跡出土遣物”の上から第4段目左
に在り、遺物番号は特に付いていないようであ
る。食器の小型ボール状の入れ物のように、私
には見える土器である。

野殿深作東奔王玉.gif

 上図のように、左下に漢字で王と読めるよう
に見える、かなりはっきりとした、黒い煤模様
が在り、その上の黒い部分を奉と無理に読みた
くなるが、このケースは奉では無いようである。
 よく見ると、

摩のように見えるし、第2字目は王だが、その
右側に、玉と書いてあって、研磨した玉やマガ
ダマを入れた容器

のように私には解釈される。古墳時代の前期に
茨城県の下館の地域に、恐らくだが帰化人が居
てマガダマを取り扱っていて、漢字で保管容器
にその旨書いたように見える。以上のような、
貴重な墨書遺物の疑いが、全く無いとは言い切
れないのではないかと、この土器に関して本ブ
ログの管理人は疑っている。(2022/07/19)

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岩手県北上市大橋遺跡で縄文晩期山奔墨書土器(長さん)

今回は、縄文土器に奉墨書のある例のうち、
字が比較的、明快に見えると本ブログの管理
人が認識する物品の一例である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
13075_1_大橋遺跡発掘調査報告書.pdf
 発掘報告書の本文ファイルは、データベー
ス上で、離れた場所に保管されている。頭の
番号を含めてpdfファイル名は以下の通り。
12703_1_大橋遺跡発掘調査報告書.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
岩手県文化振興事業団埋蔵文化財調査報告書第481集
大橋遺跡発掘調査報告書、2006、
岩手県北上地方振興局農林部農村整備室・
(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター。
 発掘報告書冒頭の例言によると遺跡の場所
は岩手県北上市和賀町横川目6地割40番地。
遺物が出土したのは、西暦2002年前後の
事のようである。
 発掘報告書の第124ページ付近の記載か
ら、遺物の成立年代は、遺物自体の形態から、
岩手県の縄文時代晩期とみられていると、
読取れる。西暦紀元前後のものなのであろう。
 遺物の写真は、冒頭pdfのうち上の方の、
写真図版発掘報告書の写真図版第94:
”台付鉢(5)772~780”の、上から
2段目右に有って遺物番号第776番との旨、
ナンバリングされている。鉢形の縄文土器の
ように、私には見える。

大橋遺跡山泰.gif

 上図のように写真で左下に縦に濃く”山奉”
とも読めるような、煤のような模様があり、
細かい縄文の上に、墨が乗るので、構わず書
いたように、私には見える。紀元前後に識字
層が山を奉じたと受け取れ、山を神格化した
有力者に、貢物をするときに、紀元前後に、
縄文土器を使用している地帯では、その器を
使用して良かった事を示しているように、思
われる。

有力者が帰化人であると仮にすれば、貢物を
よこすのが、弥生人でも縄文人でもどちらで
も良いと思うだろうから、当然このような、
墨書遺物が生じたと疑われる。

以上以前述べたように、本ブログの管理人は、
こうした遺物の存在から、今述べた帰化人の
早期、東北地方来日の事実の存在を、以前か
ら疑っているのである。(2022/07/18)

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長野県南箕輪村久保上ノ平遺跡で弥生後期泰山奔馬墨書(長さん)

今回は長野県上伊那郡の遺跡で、奉山と奉馬
が両方書いてあるように見える弥生時代後期
成立の土器遺物の話題である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
8423_1_久保上ノ平遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
久保上ノ平遺跡、1997、
長野県上伊那郡南箕輪村教育委員会。
 発掘報告書冒頭の例言によると遺跡の場所
は、長野県上伊那郡南箕輪村1164-1。
遺物が出土したのは、西暦1995年前後の
事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書の第111
ページ付近の記載によると、ここで話題とす
る遺物は、第4号住居址で出土したが、共出
土した遺物の形により、弥生時代後期成立と
考えられていると、記載されているように認
識する。西暦紀元頃ないし2世紀頃であり、
中国後漢王朝期ないし、その後の三国鼎立期
と取れる。なお遺跡自体は、縄文時代に栄え
たらしい。
 遺物の写真は、発掘報告書の図版第31の
最上段中央に有り、その写真図版の第2番と
の旨、ナンバリングされ、下部に第4号住居
址で出土と付記されている、私には甕のよう
な形に見える、土器である。

久保上ノ平奔馬.gif

 上図のように、左上に字にしては潰れてい
るが、漢字で馬と書かれているように見える
煤模様があり、目を移すと、右上に、上部が
大になり、下がキでは無くて、手になってし
まっているが、奉と言われれば、そのように
見える模様が在る。後者を第1字目と見れば、
右から左に奉馬と読める。なおwebに公開
された写真はかなり暗くなっており、上図は、
強い画像処理を掛けている。その結果、今述
べた奉の字の左に、少しそれより小さな、

別の奉の字が在り、その下に”山”という字
が浮かんで”奉山奉馬”と4文字墨書となる。

なお、発掘報告書に墨書の指摘は無い。
 伊那地方に、鉱山資源を捜索しに来た漢王
朝の中国人を祖先とする神主兼有力者が居て、
土地の人間が、神主の指示で中国人祖先の化
身である、伊那の山を奉じつつ、牧場が同地
に弥生時代後期に広がっていて、牧場主が馬
をその時期に、その神主兼実力者へ献上して
いる姿が、私には思い浮かぶ。
 これまで、奉山と奉馬墨書遺物は、どちら
も何回も、本ブログでは紹介してきたが。特
定の遺物に両方書いてあるので、原始的・道
教的山岳信仰と、民族間紛争に起因する兵器
馬の飼育が結びついた経済活動が、弥生末に、
本州以南の日本に存在することを、淡く匂わ
せる史料が現れているのではないかと、私に
疑わせるような発掘物が、確かに実存在する
ようだと思考する。(2022/07/17)

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佐賀県中原町原古賀遺跡で古代川龍墨書土器(長さん)

今回は、川蛇を意図しているとみられる、
墨書土器とされる佐賀県出土の奈良~平安
初期の出土遺物の紹介である。

いっけん将棋駒名のようだが、大局将棋には
地龍、水龍は有っても山龍、川龍は無いから、
将棋とは関連無いと思いきや、”川痺它”と
書かれている為、将棋駒として、通用しそう
な単語

である点が興味深い。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
18556_1_佐賀県農業基盤整備事業に係る文化財調査報告書.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
佐賀県文化財調査報告書第101集佐賀県農業基盤整備事業
に係る文化財調査報告書9、1991年3月、
佐賀県教育委員会。
 発掘調査された遺跡が全部で39箇所紹介
されていて、そのうち第5番目に、ここで
紹介する製鉄関連有力者住居跡遺跡である、
原古賀遺跡群(原古賀一本谷Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ遺跡}
が載っている。遺跡の場所と出土時期は、
発掘報告書の第96ページ付近の記載による
と、佐賀県三養基郡中原町大字原古賀字一本
谷で、西暦1989年前後に出土したという。
 遺物の成立年代は、同一ページの説明によ
ると、前記の通り、8世紀~9世紀に成立し
た、製鉄関連の有力者住居跡での、複数の、
墨書土器の一つと読取れる。
 遺物の写真は、次の97ページの下の方に、
2段で写真が在るうちの、下段中央の土器の
底の写真と見られるもので、遺物番号第8番
との旨、ナンバリングされている。

5原古賀遺跡川龍.gif

 上図のように、第1字目の川が目立ち、
底の中央に、判読が難解な第2字と、さらに、
その下やや右に、竜とも他の文字とも、これ
もかなり、判読が難しい文字が在る。
 第2字目を絵だと見て抜かして「川竜」と
読めば、大局将棋の川将を連想するが、将棋
駒名に川竜、川龍等は、余り知られていない。
 そこで大局将棋等には関連が薄そうである
が、更に字をよく見ると、

第2字目は”痺”(しびれる・ヒ)に、やや
近いような模様であり、第3字目は蛇の虫へ
んを省略した”它”(へび・ダ)が近い

ように見える。全体で川痺它は、ヤマカガシ
が、川を泳いでいるような、意味にとれると
私見する。
 意味が「川毒蛇」に近いので、コワモテし、

3文字将棋駒名として、川痺它や川痺蛇は、
成立

しそうである。神道系の蛇信仰に関連した、
古代の祭祀用の土器かもしれないと、結論さ
れるが、蛇の魔力を強調したような、面白い
内容の墨書のように思う。(2022/07/16)

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熊本県大津町ワクド石遺跡で縄文晩期桂馬墨書土器(長さん)

今回は、阿蘇山付近の熊本県の遺跡で、
縄文後~晩期の土器の破片とみられる土器
の破片に、漢字で「預馬(あずかりうま)」
と書かれている疑いのある出土遺物例の紹介
である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
15867_1_ワクド石遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
熊本県文化財調査報告第144集
ワクド石遺跡、1994、熊本県教育委員会。
 発掘報告書冒頭の例言によると遺跡の
場所は、熊本県菊池郡大津町杉水字小林
小名東原。遺物が出土したのは、西暦
1992年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、写真図版の該当場所
に、縄文時代後期~晩期の土器で、太郎迫
式・八万田式との説明がある。熊本県での
出土であるから、西暦前10世紀ないし、
それ以前と、みなせる事になる。
 遺物の写真は、繰り返すと、写真図版第
49の下の方のカラム:”E調査区縄文
時代後期~晩期の土器(反転復原分)”の
”太郎迫式・三万田式”の、左上に在る。
遺物番号は、特に付与されてい無い。

ワクド石桂馬.gif
 
 上図のように、写真の遺物の左側に縦に、
漢字で、ぱっと見に桂馬と読んでしまいそ
うだが、よく見ると”頂馬”か、または

「預馬」と書かれているようにも見える、

黒い煤模様が在る。縄文時代の後~晩期に、
日本で漢字が、成立していたとすれば驚き
である。
 阿蘇山の台地であるから、鉱物資源は
この頃有ったはずで、仮に漢字自体の成立
が、弥生時代に鉱物資源を捜索する為に
渡来した、大陸からの帰化人によるもので
あるとすれば、土器の成立と時間差を作る
事によって、墨書の有る縄文時代の土器の
存在に関し、何とか説明は出来るのかもし
れない。すなわち大陸から、戦闘等に使用
する種馬を預かって、さらにそれを繁殖さ
せる為に連れて来たので、水桶に「預馬」
と書く事位はしたであろう。何れにしても、
九州では、漢字文化を持っている渡来人の
来訪が、相当に早かった事を示している、
遺物の一例である疑いが、この土器破片に
は有るのではないかと私見する。(2022/07/15)

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栃木県宇都宮市聖山公園遺跡で古墳期奔人墨書土器(長さん)

以前、奈良時代成立の、調理器具ではないかと
みられる、”転(轉)子”と本ブログが読んだ、
棺桶型の甕に分類された墨書土器が出土した、
栃木県宇都宮市の聖山公園遺跡で今度は時代が
違い古墳時代の、”奉”墨書文字土器も出土し
ていたことが判ったので以下に紹介する。
 遺物の写真がweb上に公開されており、
発掘報告書に記載されている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以前述べたように以下の
通りである。
71427_2_聖山公園遺跡・根古谷台遺跡.pdf
発掘報告書の表題も同じく以下の通りである。
聖山公園遺跡・根古谷台遺跡(古代・中近世編)、
西暦1993年、宇都宮市教育委員会。
 発掘報告書冒頭の例言によると遺跡の場所は、
栃木県宇都宮市上欠町。遺物が発掘されたのは
西暦1985年前後のようである。なお、この
遺跡は、この時点で聖山公園遺跡と呼ばれてい
たが、この後直ぐにその一部で、より古い遺跡
の重なりが発見され、そちらに根古谷台遺跡と
の名称が、付与された。今回紹介する遺物が出
土したのは、聖山公園側とみられる。
 今回紹介する遺物の成立時期は、発掘報告書
第1pdfの第11ページ以下によると、遺物
が出土した第10号住居跡は、古墳時代成立と
して分類説明されており、出土した土器もその
頃の物とされたように読み取れる。
 遺物の写真は、第2写真図版pdfの、写真
図版(PL)第29:”①10号住居跡出土遺
物”の第2段目右に在り、そのページの第6番
とナンバリングされているようである。

聖山公園奔人.gif

 上図のように、中央やや左上に寄って、縦に
奉人ないし、奉火と書かれているようにも見え
る。奔人なら摩訶大大/摩訶大将棋、奔火なら、
大局将棋の火鬼の成り駒名である。
 第2字目は火で、左の点が無いように見える。
更に、薄い所まで入れると、第2字目は”从(
従う)”のようでもある。奉り&従うのか?
 一方第1字には、下部に卉が有るようであり、
その点では奔のように見える。が、第1字目の
上部は、大では無くて、夫+横棒一本のような
ので、ひとまず奉と読んでおく。奉王と奔王と
の、関連性を示唆する遺物である。
 その他奉の右横に、ひらがなの”や”にも見
える、煤模様が有る。古墳時代に、ひらがなが
有ったという説は、あまり私は聞かないが。
 古墳時代の栃木県宇都宮市の有力者、一例、
ト鯨氏に、何か貢物を差し出すための、入れ物
の甕なのかもしれない。

この例は曖昧で釈文は、私には正確に示せない。

 《奉》墨書土器の一例とだけは解釈できるよ
うに、私は認識する。(2022/07/14)

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静岡県静岡市瀬名遺跡で第二次大戦少佐木札(長さん)

今回は、軍人将棋の駒を連想させる少佐と
書かれた近代成立の、静岡市から出土した、
木製品(木札)遺物の紹介である。

 廃棄手榴弾が共出土しており、軍人の、
少佐用の持ち物に名前を表記する為の名札

を作成したという事情等と見られる。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
13084_1_瀬名遺跡Ⅴ遺物編Ⅱ図版編.pdf
 発掘報告書の本文ファイル名は、番号が
全然別であり、かなり以前のもので、以下
の別pdfファイルである。
1221_1_瀬名遺跡Ⅴ遺物編Ⅱ本文編.pdf
下の本文pdfファイルによると、発掘
報告書の名称は、以下の通りである。
静岡県埋蔵文化財調査研究所調査報告第79集
瀬名遺跡Ⅴ、1996年、財団法人
静岡県埋蔵文化財調査研究所。
 本文ファイル冒頭の例言によると遺跡の
場所は、静岡県静岡市瀬名。話題とする遺
物が出土したのは、西暦1989年前後の
ことのようである。
 遺物の成立年代は、本文pdfの、第
60ページ付近によると、練習用の手榴弾
が共出土している事から、第二次世界大戦
時の静岡市内駐屯第34連隊、第230連
隊、第140師団、第410師団の何れか
のものであるとの旨、記載されているよう
に読取れる。
 遺物の写真は、写真図版pdfの方の、
写真図版第96の右端第2段目に在り、
文字資料の第4番との旨、ナンバリングさ
れている、木製品(木札)である。

瀬名遺跡少佐.gif

 上図のように、長方形であり、長さ4~
5センチ、幅1~1.5センチ程度の名札
で、糸通しや掛け穴等は無い。

少佐の上着を預かった人間が、他人と間違
えないように、目印に上着の上に置いた
木片のよう

であり、手書きで適当に書いた、余り上手
では無い字である。穴が開いてないので、
一時的に置くだけのもので、部屋の名札等
よりも更に、簡便な印象を私は受ける。
 細長すぎるし、敵味方で色分けが無いし、
手榴弾が共出土しているので、遊び道具と
は考えにくいから、軍人将棋の駒では無い
のであろう。なお、数点出土した文字資料
の中に、近代のものは他は無く、古い木製
品も、消失せずに残るような条件の良い場
所のようである。つまり遺跡として、元々
興味深く古代等、より古い時代の物品が、
出土する遺跡のようである。(2022/07/13)

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長野県佐久市下原遺跡で弥生後期奔王子墨書土器(長さん)

今回は、弥生時代の奉王墨書の一種であるが3
文字であり、漢字で奉王子と書いて在るように
見える、長野県佐久市の遺跡の遺物の話題であ
る。以前、佐久市岩村田西一本柳遺跡で象太子
に見える甕型の土器について、酔象の成立年代
と関連して話題にした事が有ったが、

”子”に見える煤模様が有るという点で共通で
ある事に、注意すべき

とみられる。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
328_1_白山遺跡群下原遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
佐久市埋蔵文化財調査報告書第186集
白山遺跡群下原遺跡、2011.3、佐久市・
佐久市教育委員会。
 発掘報告書冒頭の例言によると、遺跡の場所
は、長野県佐久市三河田字下原・横和字下原。
遺物が出土したのは、西暦2009年前後のよ
うである。
 遺物の成立年代は、問題の遺物が竪穴住居跡
第9号より出土したが、この住居跡は西暦
2009年の調査で、弥生時代中・後期の住居
跡として、発掘されたとの旨の記載が、発掘
報告書の23ページおよび、それ以降に在る。
 遺物の写真は、発掘報告書の写真図版第27
の中段左の”H9号住居の遺物”の左端に在り、
竪穴住居跡第9号の第1番遺物との旨、ナンバ
リングされている。甕のような形の土器の割れ
欠けのように見える。

下原遺跡奔王子.gif

 上図のように、右上の大きな漢字で”王”の
ように見える文字と、その左の、部分的にしか
残っていないが、”奉”であると言われれば、
そのようにも見える煤模様が目立つ。これだと、
過去何回も紹介した、漢王朝の皇帝へ、鉄鋼石
を貢ぐ為の入れ物の類のようであるが、よく見
ると、土器の下部に

漢字で”子”のように見える模様が、もう一文
字あり、奉王子になる。

以前本ブログで、同じ佐久市岩村田の、
西一本柳遺跡の、太子甕型弥生墨書土器を紹介
した事が有る。が、それに類似の物品のように
も見える。
 何らかの理由で、佐久市付近の漢王朝期の、
中国帰化人は、鉄鋼石の貢相手が皇帝では無く、
皇帝の息子である事情が、存在するのかもしれ
ない。西一本柳遺跡の煤模様は、紹介した際に
偶然模様と見なしたが、象以外は本物の墨書の
疑いが、出てきたようである。(2022/07/12)

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