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1142年9月の藤原頼長と源師仲の大将棋は4段(長さん)

以前、西暦1142年(宣明暦)9月12日の
藤原頼長の日記、”台記”にある大将棋の内容
について議論した。その際は自陣3段目型を前
提にしたように記憶する。今回は、

藤原頼長が①第2標準将棋ではなくて大将棋と
言っている事、自陣三段目型だと、②角行類似
ルールの飛龍が、初期配列で直射する不自然さ
がある事の、以上2点から、

問題の日記は、自陣四段型の平安大将棋ではな
いかという点について、以下論じる。
 さいしょに先行研究である、(故)溝口和彦
氏の四段配列二中暦平安大将棋について、振り
返る。
 歩兵が、四段配列であるという点は同じだが、
(1)横行が3段目、(2)飛龍が鉄将の2升
目前、(3)飛龍が、跳び越えシャンチー象で
ある。
 本ブログでは、(1)’”方”は強意であり
横行は2段目、(2)’飛龍は桂馬の2升目前、
(3)’飛龍は、塞象眼有り、隣接升目不止ま
りの角行の動き(斜めに近くでなく遠くへ行く。)
としてきた。
 (3)と解釈したので、溝口説では飛龍は、
銅将の前の歩兵を1歩前進させても合い当たり
しないが、

本ブログの論では、飛龍のゲーム初っ端の、
激しい消耗が、起こってしまう。

本ブログで、溝口説のように鉄将の前に飛龍を
移動させずに、単純に桂馬の前に移した為に、

本ブログでは、今まで余り強調はしなかったが、
飛龍を温存する効果が有った

ようだ。
 これまで本ブログでは、

飛龍は序盤に消耗するとして、
藤原頼長と源師仲の西暦1142年の大将棋を
推定してきた。

溝口説にしても本ブログの説にしても、飛龍は
筋違いでは無いので、(3)’の駒の動かし方
ルールについて、角行類似説を取る本ブログの
方が正しいと仮にすると、

不成りの飛龍は、どのみち消耗はしやすい

とは言える。
 ただし、さいきん気がついたが、(2)’の
ように、本ブログでは桂馬の2升目前に、飛龍
を移動させたので、先後手共に、猛虎をどちら
か斜め前に1歩づつ、4枚共に移動させると、
初期配列のままからの飛龍の攻撃を、初期配列
で銀将の前の歩兵地点で受ける事が、出来てい
るようである。

自陣四段化の本当の狙いは、上の点に有った
可能性がある

ように見える。そこで以前結論付けた、
藤原頼長が端攻め戦法、源師仲が中央突破型で
指して、速度で前者が負けたという解釈で、本
当に合っているのかどうか、

今後もう少し詳しく調べてみる必要は有りそう

だ。
 さて何れにしても、以上の準備をしてから、

藤原頼長と源師仲の西暦1142年の大将棋が
自陣3段でなくて、4段と見られる理由

を考える。
 答えを先に書くと、”大将棋を指した”と
書いてあって、”(新作の)標準将棋を指した”
と書いていないのが、ヒントのように、私には
思える。

自陣三段型が、陰陽寮作と本ブログが疑う標準
平安小将棋を意識した、第2標準将棋オリジナ
ルであり、それが大将棋と改称されたときに、
小将棋に、敢えて合わせず、自陣4段化したと
私には思える

からである。”大将棋と指した”と書く所を見
ると、藤原頼長の時代にはその30年程度前と
違って、標準平安将棋を小将棋、旦代の難点を
勿怪の幸いとして、主導権を摂関派が、握り直
そうとして作った、平安大将棋(自陣3段目型)
を、真標準将棋と呼ぶ感覚が、”30年程度の
時代の流れで薄れて来ていた”という事では、
ないのだろうか。
 概ね30年の間に、ゲーム性能の改善の方が、
標準だと言い張る”ツッパリ”より、大切になっ
たのであろう。
 そのため、実際にはその30年間で、

平安大将棋は自陣3段配列から、自陣4段配列
に変化していた

のかもしれない。
 しかし、陰陽寮作成の自陣3段配列の平安大
将棋は、西暦1200年頃まで、記録には残さ
れていたのだろう。
 無視する訳にも行かず、

二中歴の大将棋の記載は、”玉虫色”になった

と考えられは、し無いか。
 以上の事から、個別に平安大将棋を流行らせ
ればそれで良いと考えた、藤原頼長は、

ゲーム性能を少し優先させて、西暦1142年
には、恐らく自陣4段配列の、平安大将棋を、
源師仲と指した。

 以上のように考えられるのではないかと、最
近私には、思えるようになって来たのである。
(2019/10/11)

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一乗谷朝倉氏遺跡の朝倉小将棋のルール内容(長さん)

以前室町時代の謡曲、文禄本幸若(舞)信太の、
小将棋で、取捨てだろうと見られる将棋が、
朝倉小将棋であろうと、本ブログでは述べた。
しかしそのときには、一乗谷朝倉氏遺跡で出土
した、太子成り酔象で指された将棋が、上記と
同じ物かどうかのはっきりとした、指摘はしな
かった。
 今回ははっきりと、この両者の関係について、
論題にする。
 結論から述べる。

違うものである。

一乗谷朝倉氏遺跡の太子成り酔象は、飛車、角
行が、複数出土している事から、日本将棋と同
じ、持駒タイプの将棋だと考えられる。
 では、以下に論を続ける。
 本ブログでは謡曲、文禄本幸若(舞)信太の
記載は、寺院等で行う、宗教儀式の将棋を唄っ
ただけのものだと考える。根拠は、

インドのニ人制古チャトランガ(後期、西暦
1000頃)と、本質的にレベルがいっしょな
ため、前に述べた本ブログの見解だと、日本人
は、西暦700年レベルでも、ゲームに難を感
じて指さないはず

だからである。
 従って、一乗谷朝倉氏遺跡で出土した、太子
成り酔象で指された将棋は、

日本将棋に近いルールで、単に酔象を入れただ
けだ

と考える。
 厳密な証明になって居無いが今回は、以前に
述べた、定跡が無く、旦代難点型に駒を組んで、
日本将棋の角替わり型で、酔象だけ入った将棋
の、普通の持駒将棋をして、同一系統の考えで、
発生可能かどうかだけを、チェックいてみた。
ただし、
①飛車、角行は竜王、竜馬に成れないかもしれ
ないと考えながら、注意深く、ルール差の影響
を見る。ここでは試しに、不成にしてみる。
②酔象は打てるかもしれないし、打て無いかも
しれないと考えながら、注意深く、ルール差の
影響を見る
とした。
 まず、仕掛局面は、以下のようになる。

朝倉小将棋旦代仕掛.gif

 ここから、前と同じように、先手から見て右
桂馬交換の形で、先手が仕掛た場合を想定する
と、交換して持駒になった桂馬を、互いに打っ
て再度中央で取り合うと、以下のように、対称
性が乱れてくる。

朝倉小将棋旦代途中.gif

 この後数手進むと、互いに大量に持駒が有る
ので、いっきに終盤になって、先手玉が詰まれ
て、一例では以下のように終わる。

朝倉小将棋旦代指終.gif

以上の将棋で、
①飛車、角行は不成で進行させたが、単に手数
が掛かっただけで、竜王、竜馬に成れても、特
に問題はなさそうである。
②相手から取得した酔象を、今回は打てないと
してみたが、たまたま今回が最後の方で、打酔
象を打歩兵に、変えれば同じなだけだったので、
どちらでも良さそうであった。

 酔象の成りの太子が玉駒であるという、特殊
な事情が無ければ、”それが面倒なので、日本
将棋に一本化した”との旨の通説の言うように、
このゲームも生き残れたはずだった

のではないか。
③成りの条件則は、現行にしたが、相手陣聖目
越え一発成りだと、寄せが難しくなり、逆転が
有るかもしれない。が、判りにくさに乗じて、
インチキをする、悪いゲーマーの出現が懸念さ
れるという点を除いて、ゲームに問題が生じる
訳でも、特に無さそうである。
以上のようになった。
 実際には更に、バリバリに玉を囲って、ディ
フェンスが強すぎて、引き分けが多くならない
かどうか、確かめる必要はあろう。
よって、

現在、福井県朝倉市で、イベント等で指されて
いる”酔象が持駒に出来ない日本将棋”が指さ
れたと見ても、だいたい数十年続いたゲームと
見れば、特に問題は無い

ように、私には思えた。
 詳しいルールは、出土駒からだけでは、完全
に割り出せないだろうが。謡曲文禄本幸若(舞)
信太の将棋が室町時代に日本で、好きで将棋を
指している棋士達の間で、真面目に指されたと
は、ちょっと考えにくいというのが、依然とし
て、本ブログの見解である。(2019/10/10)

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なぜ日本将棋は敵陣移動毎成、飛車角龍駒成で安定(長さん)

これまで述べたように、本ブログでは、旦代難点
が発生するような、後手マネ9升目小将棋は、

室町時代、ありきたりに指されたのであり、飛車・
角行が導入されて、36枚制から40枚制になっ
てから、よりモダンな戦法に取って代わられた

と主張している。今回は、その観点から、

普通の日本将棋を、旦代難点型陣形から指して、
変遷の一例を辿ってみる

事にする。特に、
①相手陣内、動かす毎自由成りに変化した経緯。
②飛車と角行が、竜王成り、竜馬成りに確定した
経緯。
の2点に、注意を払ってみた。
 結論から先に述べる。
①は捉えやすく、紛れにくいので、自然にそうなっ
た。
①も②も共に、勝負が早く着く方向に変化した。
②に関しては、”竜に守られた国のゲームであっ
て縁起がよい”という賛成意見が、恐らく
後奈良天皇時代に皇室から有り、特に”詔”にそ
の”心”が実際に有ったとすれば渡りに船だった。
 では、論を続ける。
以下に、仕掛け時点で、(無理に)旦代型から出
発する将棋を2局示す。最初の例は、

角替わりが無い局。

 2番目の例は、
角替わりが有り、王手飛車を受けず、打ち駒角で
陣が簡単に、荒らされないように、多少配列を工夫
した、

初期に角替わりをした将棋

である。
 まず、相掛かりではないが、角替わりの無い局は
旦代の難点配列は、以下のようになろう。

日本将棋旦代仕掛.gif

上の局面から進むと、お互いの左辺に攻撃が集中し
て左から崩れ、マネし続けるように注意すると、
玉が弧立した状態で、対称的に以下のようになる。
 
日本将棋旦代対称.gif

結局、2筋の2段目に飛車が有るため、自由成りで
も垂らしの歩兵は、簡単には打てない。
 しかし、互いに崩し合いになるため、①に関する
成りは自由成りでも相手陣聖目突入の一発成りでも、

どうでも良い

ようである。むろん相手陣移動毎成りの方が、

紛れが少なく、進行は速い。

よって、どちらにも難が無く、

賭博等に利用する際、勝負が、なるべく早く着き、
また紛れて争いの火種が、無い方が良いので、
相手陣移動毎、自由成りになったと考えられる。
 この後持駒が互いに大量にあるため、以下のよ
うに、先手後手の対称性は崩れ、勝負はいっきに
着いた。

日本将棋旦代指終.gif

図の指終りのように、こんかいは、飛車・角行を、
不成りで指している。もし、普通に竜王、竜馬に
成れたら、更に手数が少なくなったと見られる。
 よって②についても、将棋の走り駒の成りは、

竜神によって、日本が守られているという信仰上、
竜王、竜馬が良いと、たとえば皇室の後奈良天皇
が発言したとしたら、勝負が速く着くので、渡り
に船で、棋士の皆が従った

と見てよさそうだ。つまり逆に言うと、不成りで
もゲームとしては問題が無く、長くかかるだけだ
ったとみられると、言う事である。
 次に、序盤に角替わりをした局について示す。
以下は、角替わりで、持駒台に角が一枚づつ有る、
旦代難点模様の、駒組の例である。

日本将棋旦代角替仕掛.gif

上の図で、王手飛車を喰わないように、玉を4筋
に移動させている。また、袖の桂馬と香車に、銀
で繋ぎが着くような、配列にしている。
 この陣形から出発して指すと、このケースは、
陣の対称性が悪いため、早期に不規則な形へ変化
する。

日本将棋旦代角替途中.gif

 そして、この場合も、下の指終わり図のように、
ゲーム性能が、成り条件則には、余りシビヤに依
存せず、そこそこ勝負が短い方が、喜ばれたとい
う基準で、成り条件則、飛車、角行の成りが決まっ
たとの印象を受ける結果となった。

日本将棋旦代角替投了.gif

 以上の事から、冒頭に述べたように、
(1)紛れない(2)早い。(3)簡単すぎない。
という条件で、戦国貴族の、持駒ルール飛車加え
平安小将棋等から日本将棋へは、比較的スムーズ
に移行したのではないかとの印象を受けた。加え
る駒が、飛車1枚づつ)角行1枚づつに決まって
からは、混乱する要因は、少なかったように、感
じられるという事である。
 ルールも、判りやすい方向への変化が続いたの
で、事実上の一本化も、16世紀の、遅くても半
ばまでには終わっただろう。

ルールが先にかなり安定して、日本将棋自体が
成立し、その後で、今見られる戦法や囲いの種類
が、次々に出現してきた

のであろう。
 その結果、守りは堅くなり、どちらかと言えば、
幾分長手数掛かる将棋へと、江戸時代に近くなる
頃には、変化していったのだろう。結局こうして、
いよいよ日本将棋の時代が、訪れたと見られる。
 こんかいのチェックから、以上のような心象を、
私には少しづつ、持てるようになってきた。
(2019/10/09)

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三条西実隆と中納言が、7/9に6局指した将棋種(長さん)

以前に述べたように、三条西実隆は西暦15
06年7月9日の日記、実隆公記に、
”『中納言』と将棋を6番指したが、相手が
弱かったので、飛車でハンデを付けるべき
ではないかと考えた”との旨書いている。
 常識的に考えると、その日に指した6局は、
平手のようにも読めるが、

それが既に、ハンデ戦だったとしたら、飛車
では無くて、何の駒を使用してつけた、ハン
デだったと考えられるのか

を、今回の論題としようと思う。答えを最初
に書く。

特別に不成にした横行を、”中納言”との9×
9升目36枚制平安小将棋の、先手相手、
5八の位置に置いた37枚制で6番、持駒ルー
ル、成り条件則聖目越え一発ルールで指した

とみられる。
 では、以下に説明を続ける。
 以下は、前と同じく、後手の三条西実隆が
マネ将棋で指し、旦代の行き詰まり模様の
局面に達したものである。

平安旦代実隆六局仕掛.gif

ここから、これも前と同様、相手先手の右翼
で歩・桂交換をして、相手が金を寄らせると、
後手の三条西も左金を袖に寄せ、空いた位置
に桂馬を打って、三条西の桂馬に先手の相手
が銀を充てるという、同じような将棋が、展
開されるものとする。
 前には、飛車が寄せに加わったわけである
が、昇りが1歩づつである点を除けば、これ
を横行に変えても、先手相手のやる事はいっ
しょである。ハンデを貰っている分、この場
合も、飛車に比べれば、ハンデの大きさが小
さいが先手が有利となり、棋力が小さい差な
ら、以下のように、先手が後手玉を、辛くも
寄せ切るだろう。

平安旦代実隆六局指終.gif

 以上の事から、6番指した将棋にもハンデ
駒が有り、中将棋を両者が指せれば、

飛車の替わりに、横行であっても良かった

事が判る。
 前に述べたが、室町時代の謡曲である
文禄本幸若(舞)信太に、小将棋で、取捨て
だろうと見られるが、”玉行”または”王行”
という駒名が、現われていた。その紹介の際
には、単に飛車と間違えているだけであると
の旨を述べた。
 しかし、15世紀の終わりに飛車と角行を
小将棋に導入する際、実際には横行を入れて
試行した事も、当然有っただろうと見られる。
なぜなら、42枚制にする別の機会で導入し
た経験の有る、酔象との絡みがあるからであ
る。ようするに、

横行と酔象とは、関係が深い

からである。謡曲の表現は、間違いではなく
て、小将棋に横行を入れる試行が、存在した
事を示唆していたのかもしれない。
 だから、三条西実隆と”中納言”の将棋に、
それを入れてみた例が、全く無いとは断言で
きないように、私には思えて来たのである。
(2019/10/08)

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三条西実隆が山科言国に飛車を持たせた将棋種の謎(長さん)

 戦国時代の公家で将棋棋士の三条西実隆が、
彼の日記実隆公記に西暦1506年7月9日
に書いた、山科言国(?)と6番指した将棋は、
日本将棋に近いものであると見るのが、定説
である。が本ブログでは、平安小将棋の持駒
タイプで”次の回にそうすべきか”結んだ
予定の将棋が、言国側に不成りの飛車を加え
た、37枚制の持駒使用の小将棋(聖目越え
1発成り)と見る。
 なお覚勝院了淳に収めた三条西実隆の作駒、
”飛車、角行裏の成り名のミス”から察して、
三条西実隆が、仲間内ではだいぶん後代まで、
不成り飛車を使用していたのは、確かなので
はないかと私は疑う。
 一応当否はさておいて、本ブログの論での、
37枚制の持駒使用の小将棋(聖目越え1発
成り)の、言わば”三条西実隆小将棋”の特
徴を、先ずはチェックしてみたので、以下に
示す。結果を書く。

飛車に攻撃の多彩性は無く、詰みの手数を
短縮して、その分相手に有利なように、ハン
デをこちら持ちにした、古風な小将棋になる。

では、以下に説明を行う。
 以下に、先手番山科言国(?)対、後手番
三条西実隆で、三条西実隆が後手マネ将棋を
指して、旦代難点型の仕掛け直前局面に達し
た例を示す。

標準平安旦代実隆仕掛.gif

 言うまでも無く、平手では、この将棋は
駒組が、相手の出方次第で後手が有利なので、
上手側が後手番、下手側が先手番を持ち、
上手が駒を落すのではなくて、

下手である普通とは逆の先手が、不成り飛車
を持つ

のであろう。位置は現在と同じく、2八の位
置に飛車を置くのが、このケースは合理的だ。
 ここから、以前示した、”相手陣聖目一発
成り”のプロト中将棋成り条件則型で指すと、
以下のように、数手先で先手の後手左桂馬取
りに対し、尻歩で合わせた後に、歩兵-桂馬
交換をした局面に達する。

標準平安旦代実隆変化.gif

ここから、これも以前に述べたが、先手番
山科言国(?)が、▲G7金将寄り、後手番三条西
実隆が△G3金将寄り、以下▲F7桂馬(打
ち)、△F3桂馬(打ち)、▲G5歩兵と
進むと、

旦代の難点は解消され、

山科言国(?)の持つ飛車の、三条西陣内での移動
が早いため、三条西の玉が棋力にさほど差が
無ければ先に捕まって、以下のように詰むと
みられる。

標準平安旦代実隆指終.gif

これは、

日本将棋の類としては、すこぶる原始的

だ。
 だが、あくまで私見だが、西暦1450年
代の生まれである、この二人の対局者が、
西暦1500年より少し後の関西の棋士、
初代大橋宗桂のように、

飛車と角行の洗練された40枚制日本将棋を
指していたようには、とても思えない。

 飛車の威力に相応しい将棋ではなくて、
平安小将棋の、寄せスピード(”光”速か、
低速か)に関する棋力差を補うための、縦横
走り駒として、飛車を

ハンデの調整用に使った程度の、古風な小将棋
を指していた疑いが実際には、かなり有るの
ではないか。

 特に、中将棋が主流だった16世紀の貴族の
間では、小将棋には低級視するという意味で
の差別感が、かなり残っていた。ので、新作ゲー
ムである、今の日本将棋に直ぐに移行もしな
かったのであろう。
 西暦1520年代になって、日本将棋が、
実質的に完全に確立された頃になっても、晩年
の三条西実隆は、山科言国の孫の山科言継を
真似て、

山科言国(?)や貴族の子供とは、今述べた、37枚
制の、相手側に飛車一枚しかない、
”プロト日本将棋”を、相手の飛車を取らない
ように緩めて、手加減しながら指していた疑い
がある。

以上のように、私には依然疑われるのである。
(2019/10/07)

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平安小将棋旦代難点。日本将棋連盟成条件で非克服(長さん)

今回は、日本将棋連盟を含む現代の日本将棋
の駒の成りに関するルールが、普遍的な物と
勘違いしてしまった、”持駒使用の謎”の
木村義徳氏が、惑わされて持駒ルールのみで
は、旦代難点が克服できないという、

間違った結論を導き出した

と思われる点について論じる。
昔の成り条件則を、現代の敵陣移動毎成り型
に変えなかった事が、塞翁が馬のように作用
して、

持駒ルールの導入だけで、9×9升目36枚
制の標準型平安小将棋が、不完全ながら、
かなり改善された

という意味である。
 さて本ブログでも、今述べた点について、

間違った見解を示してきた

と考えられる。今後、今までの考えは撤回し
て、以下のように、改める必要があると見ら
れるという事である。まず初めに、
以前に、本ブログで示した見解は、次の通り。
9×9升目36枚制の標準型の平安小将棋は、
①取捨てルールでは、旦代晃一氏の指摘した、
後手マネ将棋による、仕掛け直前局面の硬直
化という、”旦代の難点”が発生する。
②持駒ルールで、二中歴時代の、敵陣聖目越
え一発成りルールが有り、その際成らないと、
相手陣奥で行き止まりという成り条件則では、
①より少しの改善に留まる。
③持駒ルールで、日本将棋連盟や現代の将棋
家が行っている、成り条件則である、敵陣移
動毎成りでは、②よりも更に改善され、完全
解決では無いものの、南北朝時代の標準型平
安小将棋が流行る理由になった。
④戦国時代に、飛車と角行が導入されて、
旦代難点は、小将棋からは完全に消えた。
 このうち、間違いが発見されたのは、
②と③である。次の表現の方が、正しいよう
だ。
②’持駒ルールで、二中歴時代の、敵陣聖目
越え一発成りで、成らないと相手陣奥で行き
止まりという成り条件則下で、既に完全解決
とまでは行かないものの、南北朝時代に9升
標準型平安小将棋が、流行る理由になる程度
の、改良効果が実際には有った。
③’③持駒ルールで、日本将棋連盟や現代の
将棋家が行っている、成り条件則、敵陣移動
毎成りでは、①より少しの改善に留まる。も
し、この変更を先にやってしまうと、

9升目の将棋は、廃れていたかもしれない。

現行の成り条件則、敵陣移動毎成りは、従っ
て、飛車、角行が導入された後の、戦国時代
から安土桃山時代にかけて、持駒の歩兵が、
ダブつかないように、再調整されたルールだ
ろうとみられる。
 では、どうして②と③が逆なのかを、以下
に説明する。
 以下の図は、旦代の難点の局面の、一番
簡単とみられる例である。

標準平安旦代持駒台.gif

上の局面から、図のエクセルの記号の方が、
間違えにくいので、そちらを使うと、以下
の手順で、先手が先攻めした下の局面図に
達する。すなわち、▲H5歩兵、△同歩兵、
▲同桂馬、△同桂馬、▲H6歩兵。

標準平安旦代変化.gif

言うまでも無いが、▲H6歩兵は、取った
ばかりの、持駒の歩兵を先手が打ったので
ある。以前のこのブログでは、

この歩兵打ちを、私は見逃していたようだ。

②と③についての、本ブログの見解の間違
いは、この歩兵打ちの手を、うっかりして
いた事から、発生しているのである。
 しかし問題は、

木村義徳氏が何故、持駒使用の謎で、この
手が成立しないと考えたと、みられるか

だ。実は、将棋を指す方なら、持駒台の
後手の持駒を見て、直ぐに気がつくだろう
が、当然、次の一手は、図の記号で△H8
歩兵(打ち)と、歩を垂らす手だろう。
実は、今の日本将棋では、この歩はH9の
位置で”と金”に成れる。が、二中歴の
小将棋のルールでは、行き止まりのまま、

成れないとみられる

のである。つまり、昔は”原始的中将棋成
り条件則”だったと言う意味だ。そこで、

日本将棋を指す方にとって、当たり前の
手が、有効で無い

とみられるという事になる。その為に、
後手はしかたなく、このケースには、
△H4歩兵等と押して来ると考えられる。
 それでも、その後は▲H5歩兵、△同
歩兵等と進み、後手が幾分かは、優勢だ。
先手はその後、▲G7金将寄り等と、挽回
を狙った手を指してくると見られる。
~▲F7桂馬(再度打ち)を狙っているので
ある。
 しかし、H9で”と金”が出来る場合は、

それだけで本来なら先手は、シビれてしまっ
たはずなのである。

 上の閊えた銀将は、と金の下からの攻撃に、
弱いためだ。そこで▲G8銀将と、と金を取るぞ
をかけると、△I5歩兵▲同歩兵△I7桂馬打ち
▲同香車△同桂馬不成の手も有る。
 繰り返すが、戻って△H8歩兵(打ち)と、
歩を垂らす手が出来ない場合は、単に後手が
”かなり優勢な状態”に、留まる程度である。
 だから、

木村義徳氏が考えているよりも、旦代氏の
難点は、持駒ルールを導入しただけで、
成り条件則を”相手陣、聖目越え一発成り”
の平安時代のままにすれば、かなり改善して
しまう

という事になるようだ。
 なお、このような考察が、現代の棋力
の著しく高い、PCソフトを必要としてい
るかどうかについて、私はそのような道具
は、不要な疑いがかなり有ると考えている。
将棋の入門書流で言う、

”駒の上図な使い方”という、初心者マニュ
アルのカテゴリーの、範囲内での話なのでは
ないか

と思えるからだ。
つまり、ルールが変わると、初心者マニュア
ルに有った、駒の使い方のうちの一部が、

有効になったり、無効になったりする

と言う事なのであろう。
 以上の結果をまとめると、今後は、
南北朝時代に例えば新安沖沈没船出土駒
で指された将棋は、持駒ルールで、成りが、
敵陣移動毎成り(現代のルール)とは

考えにくく、

持駒ルールで二中歴時代の、相手陣聖目越
一発成りの将棋が、しばらく指され続けた
と、推定されると言う風になる。よって

本ブログの以前の論は間違い

であろう。つまり成りの条件則は、前の
鎌倉時代のままで、南北朝時代の小将棋
でも指されたと

言い直す必要が有る

という事になろう。そして今まで言われた、
9升目型の平安小将棋では、持駒ルール
に変えても、旦代の難点が存在し続ける
可能性があるという、持駒使用の謎の、

木村義徳氏の説も、不完全であった。

 実際には完璧に無くなる訳ではないが、
成りが、敵陣聖目越え一発成りのままだっ
たので、”塞翁が馬”のパターンで、

幸運にもかなり、改善された。

そのため南北朝時代には、9升目平安小将棋
(持ち駒有りで、成り聖目越え一発型)の
時代が、どうやら到来したらしいと、言い直
す必要が、有りそうである。(2019/10/06)

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雲南でテンが打っても南詔が碁を打たないのは何故(長さん)

以前に述べたが、ゲームの出来の良し悪しの感覚
を持つには、碁の強い棋士が多い社会が適し、
碁は天の周極星が、中国漢代成立の紫微垣を被覆
しているのが、条件との事であった。雲南省では
緯度が低いため、漢王朝期に確立された、中国
古来の星座観が南詔時代に疑問視され、星の配列
を碁の石の配列に見立てて、その状況をすばやく
把握する技量と考えられた囲碁は、雲南では衰退
した。その結果、ゲームの出来の良し悪しの感覚
を、南詔国の貴族が持て無くなって、実際には出
来の悪い、インド2人制古チャトランガ系が許容
され、黎明期の原始平安小将棋が、発生したとい
う理屈であった。
 では、既説のように、雲南を囲碁文化が、漢代
頃には何故通過できたのか。ブロッキングされて、

インド・チベットから、漢王朝期の中国に、テン
国等を通っては入り込め無いと言う事は無かった

のかどうかを、今回は論題にする。

入り込めた。

テン国は、歳差の関係で、西暦-100年頃には、
北斗七星が周極星だったので、前漢の文化を

唐王朝の主張を、南詔国が、拒否したようには
拒まなかった疑いがある。

では、以下に説明を続ける。
 以前に、中国の古代星座は、漢代成立という
のが、定説だと述べた。記録では紀元前数世紀
に原型が有るともされるが、石申星表が完成し
たのが、歳差を使って、冬至点から成立年代を
割り出したとされる、漢代なのである。その他、
ハレー彗星の記録が連続するのも、西暦-100
年頃からの漢代だという話が、長谷川一郎氏の
ハレー彗星物語(西暦1984年、恒星社)に
ある。
 また歳差が存在するために、周極星が替わり、
特に宗教的にも大切な、

北斗七星の赤緯が、西暦-100年頃は20°
近く高く、ベネトナシュでも70°に近かった

事が判っている。そもそも、漢代からの中国星図
では、

皇帝の星は、ポラリスではなくて、こぐま座の
ベータ星のコカブ、太子がこぐま座ガンマ星

になっている。こぐま座アルファ星である現行の
北極星よりも、こぐま座ベータ星の方が、約20
00年前には、天の北極に近かったからである。
 同様に、北斗七星が、今より天の北極の近くに
あり、カシオペヤ座が遠かった。
 紫微垣の中心は、こぐま座ベータとガンマと
北斗七星であり、現行の北極星ポラリスは、勾陳
と呼ばれて、後に日本の安倍晴明によって、
十二神将の一人になる、金色の蛇の宮廷の守り神
に、過ぎなかったという事である。
 確かに雲南は北緯25°付近と、緯度が長安よ
り南だったが、漢代には歳差の関係で、北に寄っ
ていた、北斗七星まで周極星になった。恐らく、
その時代は、今と違ってカシオペヤ座と北斗七星
の重要度には差があり、宮廷の庭先道路(?)を
デルタ・エプシロン星と見ていたらしい、前者と
違って、後者の方が、天帝の乗用車(?)と見ら
れて重視されたのだろう。だから漢代の地方国家

雲南省のテン国は、漢王朝の星座観、古代中国の
恒星天文学観を、唐代の南詔国と違い、受け入れ
ていた可能性がある

ようである。だから、テン国でも漢代恒星天文学
が受け入れられなかったので、囲碁に興味がもた
れなかったと、

決め付ける事は、少なくとも出来ない

のかもしれない。つまり、その後西暦700~
800年頃になると、天の北極が歳差で動いて、

紫微垣の構成メンバーとして特に重要な北斗七星
が、雲南では、北の空に秋頃沈むようになって
しまった。

そのためその頃成立した南詔国では、漢代の星座
観を更に推し進めた、唐代の中国星座観、
中国古代の恒星天文学は”それまでに無く”拒絶
されて、囲碁文化の低迷を新たに招いたと考えて、
一応の理屈は通るようである。
 以上の事から、歳差という現象の存在を加味す
ると、雲南の囲碁文化の挙動が説明でき、かつ、

漢代以前なら雲南で、囲碁の伝来の壁は、一応
出来ない

と、考える事が出来るようになったと、私には思
われた。(2019/10/05)

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雲南省博物館に牛と金の将の他、兵と金の将も有る(長さん)

webにも乗っているし、成書にも散見される
が容器の上部に、牛に囲まれた、金貼りの金将
の像の青銅造形物が雲南博物館に展示されてい
ることが、よく知られている。本ブログで、
猛牛、猛虎、金将の立体駒の像のモデルと見て
いる、昆明市郊外の、テンの時代と言われる、
出土品である。なお虎は、定番の構図で、容器
の取っ手を形成しており、頂上の牛の群を狙っ
て抜き足で容器をよじ登っている姿が、造形品
では表現されている。ちなみに猛や孟は、雲南
の、昔の豪族の苗字の一字と聞いている。
 更に最近だがweb上で、中国のツアー会社
が運営している、旅行者の投稿サイトだと思わ
れるが、”m.weibo.cn”という
url.サイトに、雲南博物館の多数の展示品
の紹介があるのに気がついた。今回話題にする
展示品は、時代がテンかどうかは、私には良く
判らないが、牛の群の代わりに、

棒を持って戦っているように見える、群集に
囲まれて、金の将軍像と見られる者が、表現

されている、たぶん同じような所の、出土品で
ある。

こちらの方が、日本の将棋に存在する金将を
含んで、将棋盤上の戦いを、立体駒化したよう
に見える

ようだ。以下は、武器の部分を拡大したもので
ある。

戦っている金将.gif

 上で左上と右下に居る”兵”に見える人物の、
少なくとも右下の方は、棒状の武器を持って
いて、左上の人物と争っているように、私には
見える。左側の馬に乗った半分だけ見える人物
は、元々は金色のようであり、金箔等で、被覆
されているように、同じく私には見える。群集
と牛を交換すると、より写真をよく見かける、
”牛に囲まれた金の将の像のついた容器”に、
なるように思う。
 そして、今問題にしているこの造形物は、

ほとんど日本の将棋の表現そのもの、

なのではないのだろうかと、私は疑う。
 なお、このほかこの、旅行者投稿サイトとみ
られる、雲南博物館の記念写真の中には、
”金カ”のついた黄金のベルト、銀製の上半身
飾り(女性用とされている)、明の時代のもの
とされる、宝玉を散りばめた王冠といった、
王侯貴族の物とイメージされる、

まさに”黄金の国”の展示品の写真

が載っている。
 少なくとも、今回問題にした出土品の姿から、
金将という駒が含まれる、”インド発第1波と、
タイ発第2波の到来によって発生”した、
2人制チャトランガゲームの類に、思考上で到
達する事は、

出来て当たり前

のように私には思えるのだが、どうであろうか。
(2019/10/04)

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銀桂だけ持駒使用した、平安小将棋は存在したか(長さん)

以下、本ブログの系統から外れるが、持駒ルール
の歴史解明に関する話題である。先行文献”持駒
使用の謎”等、先行研究では①誕生事由と②時期
が主に議論されてきた。
今挙げた文献は、日本将棋連盟が西暦2001年
に出版した、将棋棋士で、元の将棋博物館館長、
木村義徳氏の成書で、言うまでも無く代表的な先
行文献として挙げる事ができる。
 上記成書には、①は将棋駒の形態に起因し、
②は西暦1058年以前と書かれている。
日本将棋の起源について使用したページ数が多く、
持駒使用関連のコンテンツは相対的に少ない。
 ここでは、第三の論題として”発生原因”、

③なにが、それまで不便だと思われた

のかを論じる。取捨ての平安小将棋は終盤に、

玉動きと金動きの2種類駒の組合せで詰み将棋を
する結果になるが、それが単純で面白くなかった

のであろう、というのが結論である。
 では、以下議論を続ける。
 西暦1300年成立の普通唱導集の小将棋の唱
導唄に於いて、第1節(成り金が出来る事のうれ
しさ)と、第2節(銀と桂馬を交換して、前者の
方が価値が高いので、桂馬を持たされた側が、がっ
かりした顔をして、愉快だった。)とは、別ゲー
ムであると、本ブログでは考えている。前者第1
節は、取捨ての平安小将棋であり、後者第2節は、
持駒ルールの平安小将棋を唱導しているに違いな
い、というのが本ブログの見方である。
 理由は全体として、相手陣への歩兵打ち(歩の
有る勝ち将棋)が、強調されない奇妙さであるが、
原因は、

複数タイプの小将棋が、西暦1300年時点で、
西暦1200年の二中歴の状態に”習って(?)”
存在したため

というのが、ここでの考えであった。
 また従来は、”持駒ルール”を現行の日本将棋
の、それのルールのイメージでのみ見てきたが、

本ブログでは、それも間違いであろう

と見てきた。1手を入れると成れる位置に、持ち
駒は打てず、更には、現行の中将棋の成り条件則
だという仮説もその一つだった。
 何れにしても、現行の日本将棋の持ち駒ルール
が完成度が高く、面白いのは判ったが、取り捨て
から、現行の完成度の高い持駒ルールが形成され
るまでに、

予想される、紆余曲折に関する議論が乏しい

と、本ブログの管理人は、常々感じてきた。
 そもそもその為に必要と見られる考察、すなわ
ち、取捨ての平安小将棋で、何が不満なのかを、
充分に、議論し尽くしたとも言えないように私に
は思える。
 不満な理由は、スローであった事に加えて、

玉の動きをする玉と、金将の2種類しか、寄せに
関係する、登場キャラクターが存在しない事

では、なのではないのだろうか。
 そこで、そのような見方から、普通唱導集時代
が、取捨てから持駒ルールへの、転換期だと、
佐伯真一氏や本ブログのように見るとして、もう
一度、その普通唱導集の、小将棋の唱導唄を振り
返ってみる事にした。すると、

第2節は、銀と桂馬以外に言及が無い

という事に、先ず気が着いた。従来は、たまたま、

歩、香、金、桂、銀のうちで後ろの2つだけ注目

したと、当然のように解釈された。
 しかし物は試しと思い、桂馬と銀将は持駒とし
て打つ事が出来るが、歩兵と香車と金将は打てな
いという、8升目32枚制の原始平安小将棋を指
してみると、一例として、
以下のような、指し終わりの局面になった。

原始平安小将棋銀桂持駒指終.gif

この将棋は展開が、走り駒がほぼ無い分、現行の
日本将棋よりスローだが、攻守のバランスは比較
的取れている。

守りの要である、打ち”歩の無い将棋は、攻撃性
の高い駒に押し切られて)負け将棋(正直に歩兵
だけ打てないとしてしまうと、つまらない)”
なのだが。

金や香車も打て無いようにして、攻撃力を低下さ
せると、バランスが回復するのである。
 しかも、桂馬と銀将が当然寄せに関与するので、
取捨ての平安小将棋より、キャラクターが増えて、
複雑化する。シャンチーやチャンギの終盤に残る
キャラクター数4~5と、ほぼ同じだからである。
 なお持駒ルールにした結果、最低でも駒が、
64升目のこの場合の将棋盤に、計10枚程度、
事実上残り続けるので、駒枯れは無い。桂馬が
後退出来ないので、入玉は有利だが、相互入玉
で、常に勝負が着きにくいとも、限らない。
 このテストだけでは、情報が限られるが、
普通唱導集に書いてあるように、寄せの段階で、
桂馬動きをする打ち駒と、銀将動きをする打ち駒
が加われば、当時は聖目越え、一発成りルールだっ
たため、従来の玉金裸王狙い将棋から、
金動き駒、銀動き駒、桂馬動き駒の3種類で、
玉動きの玉を詰む将棋に、変えれば面白いのでは
ないかという思考が、発生したとして不思議では
なさそうだ。つまり、

ゲームデザイナーに、終盤の関係駒種の種類数を
2種から最低でも4種に増やしたいという思考が、
具体的に働いた事による、持駒ルールの発生

という、動機がもしかして有ったのではないかと
も、推定できそうである。なお、普通唱導集の大
将棋の記載から、シャンチーやチャンギに対する
ゲームの出来との比較が、日本人のゲームデザイ
ナーには西暦1300年の時点で、意識されてい
た可能性があるように、私には取れている。
 今回述べたのは、結論の一例だが、冒頭で述べ
たように、

持駒ルール論には、①誕生出来た要因と②時期
(論)の他に、少なくとも③発生原因としての、
動機論が必要。

以上の点は、どうも確かなのではないかと、別族
である、複雑な可能性を抱える将棋、大将棋の思
考の立場からは、かなり疑われるところである。
(2019/10/03)

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”桂馬香車歩兵”習書木簡大宰府条坊遺跡出土の訳(長さん)

西暦1996年頃に、大宰府で出土した、表題
の習書木簡は、12世紀に将棋が普及していた
事、香車が当然有った事を証明する遺物として
有名である。

しかし、これだけの情報から、詳しい意味を
割り出すのは困難

だ。が、ここでは敢えて、それを論題とする。
つまり、この習書木簡は、

何のために作られたのかを今回は論題にしよう。

以下の論じるが結論を述べると次の通りである。

将棋駒を書くのではなく、”大宰府は、桂馬、
香車、歩兵の名の発祥地”という、旅人が旅先
で購入する”みやげ物”の記念木札などの類に
書く字の、試書きをしたもの

であると考えられる。
 では、論を続ける。
 この木簡の特徴は、習字しないと駒字が書け
ないとは思えない、達筆な人物の書であるとい
う点である。
つまり、作駒の為、

駒字の練習をしようとしているのにしては、
その点にやや、おかしい所がある。

内容は、玉将から始まって、歩兵で終わる字を
1字づつ書いたというのが、素直な解釈だが。
別の人間かもしれないが、その後

桂馬、香車、歩兵の部分だけを、割って残した
が、最終的には処分された

ようにも見えるという特徴がある。
 そこで思い出されるのが、伝来元国とここで
は推定する大理国から、将棋が博多に伝来した
とき、玉将、金将、銀将、馬、車、兵だった、
はずだという事である。
 奇しくもだが、この論だと、出土している
木簡は、

日本人作の駒名だけを集めたもの

という特徴がある。
 つまり歩兵は単純に兵の動きからだとしても、
桂馬と香車は、後一条天皇用の玩具用の豪華絢
爛進上品が、大鏡の記載から察するに、桂皮で
芳香が漂っていた事に因んだ、大宰府での命名
だったというのが、経緯の内容であり、
観光案内で、語り草を述べた記念品に書くと
良いと見られるフレーズ、

”桂馬、香車、歩兵、発祥の地。大宰府”

の一部であると、言う事になる。なお、玉将、
金将、銀将が2文字で、馬、車、兵を1文字と
いう、伝来時の状態のままにしなかったのは、
前3者を経帙牌に書いて、将棋駒として使用
してみると、駒の向きが把握しやすいという
長所があるのに、日本人棋士が気がついたから
であろう。そのため残りの馬、車、兵、特に車
を重点的に、2文字化しようとしたというのが
理由だというのが、本ブログの見方である。
 また今述べたように文字数が元々はバラバラ
なのは、字書き駒で伝来したのではなくて、
元々伝来元は、その意味の駒名を、字は書いて
いない駒に付けていたのであり、立体駒で伝来
した事を、意味していると考えるのである。
 その際、馬は桂馬でも天馬でも良く、車は
香車でも輜車でも、機能上はどれでも良かった
ので、

権威のある人物による、固定化(チョイス)が
必要

だったのであろう。
 最近になって、本ブログの管理人は、それが

西暦1020年一年ぽっきりの、大宰府長官、
藤原行成その人だった

のではないかと、疑うようになった。
 以前に述べた通り、彼は刀伊の入寇の立役者
で知られる藤原隆家の後任として大宰府に下り、

将棋駒の書き方の指導を、博多の駒師にした疑
いの強い人物

だ。しかし、書体を決めるには、そもそも駒名
が決まってないと、藤原行成には指導が出来な
い。恐らく、大宰府の将棋場で指されているう
ちに、馬と車と兵の名前が決まり、
周文裔が1020年に博多に来たとき頃に、一
例では彼が持参した、将棋駒の量産をするため
の500枚は有ったであろう経帙牌に、書く文
字内容自体は、概ね決定済みだったのだろう。
 だが、実際に能筆家の藤原行成が、その字を
書くと、

書体まで含めて、大宰府長官の提案で決まり

に、話が変化した。その結果、以降

こんにちまで、ほぼ不変に近い状態

になったのではあるまいか。
 そのような状況で、100年位経ったときに、
その和製の駒名を木簡に書いて、旅人に”記念
の地の土産”として売る者が、大宰府に現われ
ても、余り不思議は無いような気が私にはする。
 藤原行成ほどではないにしろ、その土産の
将棋駒名等を書いた木簡の書体は、有る程度の
ものである必要が、当然有ったに違いない。
 だから実際に、比較的整った字で、

桂馬、香車、歩兵の部分が残された木簡が、
出土したとも考えられはしまいか。

だとすると、この遺物は、桂馬、香車、歩兵の
駒名が、

大宰府で出来た事を示す、貴重品。

以上のような性質のものでは、絶対ないとまで
は言えないのだろう。ともあれ、この遺物1つ
では、今述べた仮説は、弱い物である。
 しかし今後、同じような遺物が仮に、福岡県
大宰府市で複数発見・発掘されたら、

その最初の一枚だったと、結論せざるを得ない

のではないか。以上のように、私はさいきん、
考えるようになったのである。(2019/10/02)

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