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熊本県玉名市両迫間日渡遺跡で5C末奔王墨書土器(長さん)

先にこの遺跡を紹介した折発掘された日本列島
2022に、以下述べる遺物よりも70~80
年成立の早い山奉墨書土器が出土しているとの
旨を本ブログで述べた。今回は、別の祭祀用遺
構で、同じ遺跡で同じ発掘時、奉王墨書土器が
出土していて、ヤマト王権との関連が強くなっ
た事により、墨書の内容が、変化した旨を紹介
する。写真や説明は、同じく発掘された日本列
島2022に在る。
発掘された日本列島2022、文化庁、西暦2022年、
㈱共同通信社。
 遺跡の場所と出土年はそのとき述べたように、
熊本県玉名市、西暦2019年前後?で同様。
 成立年代は、遺跡の発掘地点全体が、5世紀
の古墳時代中期成立であるが、以下紹介する問
題の遺物が出土した祭祀遺構Cで発掘された遺
物は、3~40年平均よりも遅い、5C後半~
5C末であるとの旨、発掘された日本列島
2022の第44ページ付近に説明が在る。
 遺物の写真は、成書の第44ページ、下段に
祭祀遺構Cとの旨の挿入写真に、土器集合の写
真が在り、土器群の右端の方で、下から2段目
の端の、丸い椀のような形の土器が、ここで話
題にする遺物である。

両迫間日渡奔王.gif

 上図の土器の前にある、別の土器からかろう
じて顔を出すように、黒く漢字で王のように見
える煤模様が在り、その上に、やや赤く変色し
ているが、漢字で奉のように見える模様が在っ
て、縦に奉王と書かれているようにも見える。
 第1字目は、多分だが。奔である可能性は無
いように思う。成書の元の写真の方が、上図よ
りもかなり鮮明で、写真の字が小さすぎる為、
上図では、ぼやけて良く見えないだけだという
のが、私の印象である。つまり、ずばり

これはヤマト王権への貢物を入れる容器

ではないだろうか。なお、成書の第43ページ
付近に、祭祀遺構A・B。CのうちでCにだけ、
石製模造品が多数共出土しており、形態も近畿
型であるため、この遺跡と、近畿地方のヤマト
王権との繋がりが、5世紀でも中ばすぎに、急
激に強まった事を示しているのではないかと取
れる記載が、有るように思う。ひょっとすると、

山奉と土器に書いていたのが、奉王に代わった
のは、税金の納め先が変わったという事情

なのかもしれない。この墨書と疑われる遺物の
文字だけを見れば、成書の解説がずばり正しい
ように見えるのは事実である。(2022/08/21)

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山梨県塩山市下西畑遺跡で4C後半奔車墨書土器(長さん)

今回は、古墳時代の墳墓に関連する住居跡と
みられる遺跡から、漢字で奉車と書かれている
のではないかと疑われる遺物が、出土している
との旨の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
7248_1_下西畑遺跡西畑遺跡影井遺跡保坂家屋敷墓.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
山梨県埋蔵文化財センター調査報告書第196集
下西畑遺跡・西畑遺跡・影井遺跡・保坂家屋敷墓、
2002.3、山梨県教育委員会・山梨県土木部。
 遺物はこのうち、最初の下西畑遺跡の第1号
竪穴住居跡で出土した模様である。
 発掘報告書末尾の抄録によると遺跡の場所は、
山梨県塩山市赤尾769。遺物が出土したのは、
西暦1998年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、下西畑遺跡の第1号住居
跡は、発掘報告書によると、第3号方形周溝墓
と、成立年代が同じとの事であり、発掘報告書、
第9ページ付近の第3号方形周溝墓の説明によ
ると、墓の成立年代は、古墳時代前期(4世紀)
の後半と考えられているように読取れる。
 遺物の写真は、発掘報告書写真図版第6:”
下西畑遺跡・西畑遺跡”の、第3段目右の、
土器破片の集合写真の、下段左端に在る。

下西畑遺跡奔車.gif

 上図のように、破片4~5枚のうち、中央の
方形の大きな物に、反時計回りに40°前後傾
いて、字としては縦に、漢字で奉車と読めるよ
うな、煤模様が在るように見える。注意深く読
んでも第2字目は「車」に近く日本で古墳時代
の墓の周囲で、作業用に何らかの車両が存在し
たようにしか思えないように思考される。以下
も私見だが。中国等から輸入できさえすれば、
日本で車輪付きの、何らかの物品運搬器具は、
4世紀の段階でも使用出来たのではないかと、
私は疑う。(2022/08/20)

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秋田県潟上市元木山根遺跡で古代奔龍墨書土器(長さん)

今回は、久々に龍墨書土器の情報を発見
したので報告する。場所は、秋田県(旧)
南秋田郡昭和町の元木山根第2遺跡で、
古代成立である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
11359_1_元木山根2遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
秋田県文化財調査報告書第362集
元木山根Ⅱ遺跡、2003.3、
秋田県教育委員会。
 発掘報告書末尾の抄録によると遺跡の場
所は、秋田県潟上市(旧:南秋田郡昭和町
大久保字元木山根39-6。遺物が出土し
たのは、西暦2002年前後の事のようで
ある。
 遺物の成立年代は、SX45遺物集中層
で出土したが、遺跡全体で遺物の傾向が同
じであるため、遺物群の形態から古代成立
と結論されているように、発掘報告書から
は読取れると考える。少量存在するここの
縄文土器は、弥生と古墳が「中抜き」で、
孤立しているようである。
 遺物の写真は、写真図版第6:
”SX45出土遺物”の上側に在る。

元木山根王龍奔.gif

 上図のように、写真で右側の縁に近いと
ころに、奉(?)龍奉と読めるような、黒
い煤模様が有る。
 発掘報告書冒頭第3ページの遺跡の位置
の、縮尺の小さな詳細地域図によると、
遺跡のすぐ東に、

龍毛堤、豊川龍毛と、龍付きの地名が有り、
豊川油田が有り先史時代よりアスファルト
が取れる

との旨の紹介が有る。石油は燃えるので火
を吐く龍と関連が在りそうであり、

龍墨書は、石油関連のように本ブログでは
思考

する。地下資源の中でも、日本で石油が
墨書の源となっている、珍しいケースと疑
われる。(2022/08/19)

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石川県小松市二ツ梨一貫山窯跡で古代奔馬墨書土器(長さん)

今回は、須恵器の土器に発掘報告書では一文字
「完」と書かれているとされるが、不明確な
ものの「奉馬」にも見える、古代9世紀後半か
ら10世紀半ばの平安時代にかけて成立の、
墨書土器の話題である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
37812_1_二ツ梨一貫山窯跡.pdf
発掘報告書の名称は以下の通りである。
二ツ梨一貫山窯跡、2002年、小松市教育委員会。
 発掘報告書冒頭の抄録によると遺跡の場所は、
石川県小松市二ツ梨町一貫山40番地。遺物が
出土したのは西暦1994年前後の事のようで
ある。
 遺物の成立年代は、発掘報告書の第5ページ
付近によると、二ツ梨一貫山窯跡は戸津オオダ
ニ地区内の窯跡遺跡で、8世紀~10世紀半ば
の、加賀の国衙が栄えた頃の、大きな鋳物生産
地の一部であるということである。この遺物は、
その時代の成立とみなせる。発掘報告書第
340ページないし、それ以降の説明によると、
以下紹介する遺物は「F地区第7号窯灰原」で
出土したが、その地点の須恵器は、共出土遺物
の形態から9世紀後半~10世紀中の平安時代
成立と見なされているように読取れる。
 遺物の写真は、発掘報告書の写真図版第38:
”F地区第7号窯灰原及び粘土採掘坑群出土須
恵器1”の最下段左から2番目に在り、
”皿A底「完カ」墨書”と付記されている。

二ッ梨奔馬.gif

 上図のように、模様が不明確だが、模様の左
下部分が、漢字で馬と書かれているようにも見
え、その右上の部分は、不明解だが「奉」であ
ると言われれば、否定できないような模様であ
る。

国衙に関連して窯が成立していたのなら、献上
馬も合わせて飼っていても、さほどの不思議は
無い

のではないかと、本ブログの管理人に私見され
る。馬のように見える少し濃い模様の、右上の
模様は不明快であり、釈文完も否定できる根拠
は、この遺物自身の中には乏しい。他の遺物で
発掘報告書で釈文されているが「米加」という、
単純に考えて「年貢」を連想させる墨書土器や、
大とされるが夫で横棒が一本多い字かもしれず、
奉と関係があると疑われる墨書須恵器も出土し
ている点は、「奉馬」を匂わせているようにも
に私には思える。
 米は貴重だし、献上馬も国衙に納める兵器だっ
たので、付帯させる土器も、土師器よりは一段
格の高い須恵器だったのではないか。以上のよ
うな事情で、この墨書が存在するのではないか
と、私は疑っているという事である。(2022/08/18)

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宮崎県都城市肱穴遺跡で古代奔馬葉墨書土器(長さん)

今回は、宮崎県都城市肱穴遺跡で発掘された
墨書土器に、奉馬と記載されているが、牧草
の双葉のような絵が描かれており、容器であ
るから、それは献上馬の飼い葉桶に使用され
るという事が判る、遺物例の紹介である。
 遺物の写真がweb上で公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
3082_2_横市地区遺跡群肱穴遺跡1今房遺跡馬渡遺跡第1次.pdf
遺物はこのうち、肱穴遺跡で出土した、古代
成立の墨書土器である。
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
都城市文化財調査報告書第50集横市地区遺跡群
肱穴遺跡・今房遺跡・馬渡遺跡、西暦2000年3月、
宮崎県都城市教育委員会。
 発掘報告書第1本文pdfの本文末尾と、
遺跡遺構の写真図版との間部分に挿入された
抄録によると、遺跡の場所は宮崎県都城市
横井町字出水。遺物が出土したのは西暦
1998年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書の本文第1
pdfの第80ページ付近に、包含層で出土
したとされ、漠然として正確な年代が書かれ
ている箇所は私には発見できないが、全体と
して古代成立の土器に、墨書が書かれている
と、解釈されているように読取れる。
 遺物の写真は、第2写真図版pdfの写真
図版第24の下から2段目右端に在り、遺物
番号第414番との旨、ナンバリングされて
いる。土器のカケラのように、私には見える。

横市地区奔馬.gif

 上図のように、墨書と発掘報告書で解釈さ
れているとみられる部分が拡大されていて、

左に奉、右に双葉の絵が描かれていると、本
ブログの管理人は解釈する。

発掘報告書では、釈文不能と書かれているよ
うに読取れかつ、スケッチ図第83で、一文
字のようにスケッチされているという点が、
写真から受ける印象と、大きく異なるように
私見する。
 更に上図で、上の方の全体写真には、

右上に、漢字で馬と読めるように私には読め
る、煤模様のようなものが見える。

そこで本ブログでは今のところ、この墨書土
器破片には、

「奉馬飼葉」の墨書が意図されている

と解釈する。奉馬、馬奉、龍馬、といった墨
書のある土器は、献上馬の食料入れである証
拠に、

双葉の絵が、追加で描いてある場合がある。

この例の解釈に関し私は、以上のような疑い
を抱いているとの意味である。(2022/08/17)

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熊本県玉名市両迫間日渡遺跡で古墳期山奉墨書土器(長さん)

今回は、古墳時代の祭祀用の奉土器が、熊本県
玉名市からも出土したとの紹介である。なお、
玉名市市内では、本ブログの管理人が知りえた
祭祀墨書土器として、これが初となった。だが
熊本県全体としては、大津町ワクド石遺跡で、
奉の字は無いが、馬を献上している旨読み取れ
る祭祀史料を本ブログでは以前に紹介している。
 この遺物は、今までの例としては珍しく、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース上
で確認したものでは無くて、以下の成書に紙媒
体で写真が載っていたのを発見したものである。
成書名は、以下の通りである。
発掘された日本列島2022、文化庁、西暦2022年、
㈱共同通信社。
 遺跡の場所は、記載されていないが玉名市と
だけ前記成書の第42ページ冒頭にある。西暦
2019年前後に出土したのであろうか。この
年に、玉名市両迫間558・559・362番
地で、発掘調査が行われたらしい。
 成立年代は、遺跡の発掘地点全体が、5世紀
の古墳時代中期と考えられている旨が、同じく
成書第42ページに記載されている。
 遺物の写真は、成書の第43ページ、中段に
祭祀遺構A(出土遺物)との旨の挿入写真の、
ミニチュア土器集合の写真が在り、その右下の
一塊の、上側の左から2番目にある。小型の茶
碗のような形の土器に私には見える遺物である。

両迫間日渡山泰.gif

 上図の中央の土器に関してだが。
重なりを避けて覗いた部分の口の下に、比較的
大きく”山”と書かれている模様が、書籍上で
も薄く見え、その下、やや右に奉であると言わ
れれば、そのようにも見える、煤模様が在る。
 画像処理をすると、肉眼で書籍を目視した印
象の、ほぼその通りに山奉の模様が、浮き出る
ように思う。
 成書の本文に、共出土した祭祀史料が、関西
ものとパターンが同じであり、初期ヤマト王権
側に立つ豪族の支配地だろうとの旨の記載があ
るようである。支配層の為の鉱物資源の捜索等
が古墳時代中期に、少なくとも玉名市で行われ、
識字力も在り、山を奉じる神官も兼ねていた住
人が、使用していた祭祀場なのかもしれない。
5世紀の関西系の支配層が熊本県玉名市付近に、
勢力を保持していた証拠なのではなかろうか。
 なお、字が薄い為か、前記成書に墨書の指摘
は、記載されてい無いように思う。(2022/08/16)

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埼玉県美里町の猪俣百八燈2022年も関係者のみ実施(長さん)

埼玉県児玉郡美里町の観光協会のツイッター等に
よると、新型コロナウィルスBA.5による日々、
1万3千人程度の埼玉県県内での新規感染により、
西暦2022年8月15日夕方も、美里町の
猪俣百八燈の祭祀行事は、関係者のみの開催とし、
集客してのイベント、一般記念撮影等は行わない
との事である。
 広木上宿より、108燈片面54塚のうちで、
最大の造形物の両側計2柱に、5重塚の名称が与
えられている事に対応すると疑われるミニチュア
五色宝塔(マトリョーシカを解体したタイプ)が
出土する等、武装集団の戦勝と死者を英霊として
奉った行事を南北朝時代に、鎌倉府足利氏満等
レベルの権力者の肝入りで行ったとしか思えない、
室町後期~安土桃山時代にかけてだけ、残念なが
ら戦乱で中挫したこの祭祀行事は、コロナ禍の中
でも安土桃山時代末より、中断せずに継続されて
いて、あるべき姿を示しているとの印象が、強く
持てる状況である。
 栃木県小山市宮本町に伝わる、天満宮の管理寺
で明治初に廃絶した青蓮寺の住職が、寺の鐘を殊
更に大事にしていた話と共に、108とい数字が、
南北朝時代の小山義政・若犬丸の乱時代の将棋を
考える点で、キーになる数字であるという事を、
数百年にわたって情報保存してくれているという
意味が、特にこのケースは大きいのであろう。
 広木上宿の五色宝塔の外見が、金・金銅・銀・
銅・鉄製の東南アジアのチェス系遊戯駒で作成し
た二中歴大将棋(武蔵武士には、頭の玉は居ない)
を連想させる点からも、該イベントが将棋史関連
のものでもあるとして末永く続くよう、本ブログ
としては、心より祈る次第である。(2022/08/15)

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岩手県石鳥谷町で平安初期山泰墨書土器(長さん)

今回は、岩手県の山間部の遺跡で平安初期、
9世紀とみられる成立年代の、墨書土器が
複数発掘され、以下紹介する遺物には墨書
は無いとされるが、私見では「山奉」と書
かれている疑いのあるという史料の紹介で
ある。平安期に識字層が山間部に月見等、
自然を楽しむ享楽用の別邸を建てて、住ん
でいたようにも見える。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
21569_1_貝の淵Ⅰ遺跡発掘調査報告書.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
岩手県文化振興事業団埋蔵文化財調査報告書第428集
貝の淵Ⅰ遺跡発掘調査報告書、西暦2003年11月、
岩手県花巻地方振興局土木部・財団法人岩手県文化振興事業団
埋蔵文化財センター。
 発掘報告書末尾の抄録によると遺跡の場
所は、岩手県(当時:稗貫郡。現:花巻市)
石鳥谷町関口31-2。遺物が出土したの
は、西暦2002年前後の事のようである。
遺跡は、北上川支流の河川近くで、山間部
の丘陵地であるということである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書本文の第
41ページ付近の記載によると、遺物は第
11号住居跡から出土したが、一帯の住居
跡は、平安時代前半の成立と考えられてい
るようである。
 遺物の写真は、発掘報告書の写真図版第
29:”遺構内出土遺物(8)”の最下段
中央に在り、遺物番号第63番との旨、
ナンバリングされている、杯のような形の
ロクロを使って作成した、古代の土師器の
ようである。

貝の淵山泰.gif

 上図のように、側面図の中央少し右に、
山奉と、奉が、少し右にズレているが、
縦2文字の墨書が在るように見える。なお、
第2字目の奉の字は、図の下の方の底面図
の方が、少し見易い。付近の山を奉じた、
祭祀用のようにぱっと見には、私には見え
た。字が薄いので、発掘報告書では墨書の
指摘が無かったようである。
 なお、写真で縄文土器のような斜め筋が
見えるが、写真印刷のせいのようである。
例えばロクロ使用の墨書土師器として、報
告書の写真図版第40:”遺構内出土遺物
(19)、遺構外出土遺物(1)”の、第
2段目左に、遺物番号第152番として、
以下のような、先ほどと似た形の杯型土器
で、こちらはより墨書のはっきりとした写
真が在る。

貝の淵月家.gif

 この遺物にも斜め筋があるが、縄文では
なく、写真のせいのようで、土師器と記載
されているように読取れる。なお蛇足だが、
発掘報告書で遺物番号第152番は文字が、
「勝」と釈文されていて、完全否定は困難
だが個人的にはそうでなく、「月家」と読
めるように思う。
 さきほどの遺物は、山を奉じているが、
杯である為祭祀用ではなく、識字層の享楽
用の別邸で使用する酒杯なのかもしれない
と、下の方の遺物の文字を私なりに解釈し
て、そのように思いなおすようになった。
 月家というのは月明かりの美しい山間部
の別邸の意味であり、平安時代初期に月見
をしたので、別邸の名称をそのように、呼
んだのかもしれないと私は思う。この原稿
を書いていたのが、たまたま満月の盆の季
節であった為、余計そのように私は疑った。
(2022/08/14)

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奈良市平城宮左京八条遺跡で奔入兵墨書土器(長さん)

今回は、奈良時代成立の奈良平城京左京八条遺跡
で東市跡とみられる場所から、~奉入兵と書かれ
た墨書土器破片が出土しているとの旨の話題であ
る。なお、発掘報告書では、上部の字が欠けてい
るので、意味不明と旨記載が有る。
 遺物の写真がweb上で公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
17419_1_平城京左京八条三坊発掘調査概報.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
平城京左京八条三坊発掘調査概報、1976.3、
奈良県。
 発掘報告書冒頭の調査の経過によると、遺跡の
場所は、奈良県奈良市東九条町姫寺960番地。
遺物が出土したのは、西暦1975年前後の事の
ようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書内で奈良時代の
遺物の箇所で説明され、奈良時代の成立と見られ
ているようである。
 遺物の写真は、発掘報告書の第35ページの、
挿入写真”各種の墨書”の最上段3番目に在る。

平城宮奔入兵.gif

 上図のように、(数学記号”角”)奉入兵と読
め、ぼぼ発掘報告書の釈文の通りである。
 土器の破片のように見えるが、詳細は不明であ
る。冒頭述べたような解説が、発掘報告書に有る。

献上物を納めた者の素性を書いたように、全体の
墨書の傾向から、私には読取れる。

 「入兵」は将棋の駒名に無いから、奈良時代に、
いわゆる日本の将棋が成立していた史料とは言え
ないと考える。読みは「山(篆書体)奉入兵」等
ではなかろうか。
 武装勢力としての山伏集団の、朝廷に対する加
勢を表明している雰囲気が、最初の記号が山を連
想させるため、淡いが私には感じられる。(2022/08/13)

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兵庫県朝来市筒江大垣遺跡で古墳期奔馬墨書土器(長さん)

今回は、馬が使用しそうな洗面器のような
土器に奉馬と墨書があるように見える、
古墳時代成立の兵庫県朝来市の遺跡の遺物
土器の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
19194_1_筒江大垣遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
朝来市筒江大垣遺跡、2008年3月、
兵庫県教育委員会。
 発掘報告書末尾の抄録によると、遺跡の
場所は、兵庫県朝来市和田山町筒江字大垣。
遺物が出土したのは西暦2002年ないし、
それより少し前のことのようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書の第25
ページ付近の記載によると、土師器鍋だと
いう事である。土師器としており古墳時代
の頃の遺物を想定しているように本ブログ
の管理人は解釈する。
 遺物の写真は、発掘報告書の写真図版第
43:”Ⅱ区出土土器1”の、下から2段
目右に在り、遺物番号第54番との旨ナン
バリングされている。洗面器の形のような、
土器に見える。発掘報告書では土師器の鍋
だとしている。

筒江大垣奔馬.gif

 上図のように、遺物の写真の中央やや右
寄りの口の直ぐ下に、模様が煤に溶け込み
滲んで潰れているが、漢字で奉に見える煤
模様が在り、その右下の底に近いところに、
やはり漢字で馬のように見える模様が在る。

古墳時代の献上馬の使用する、飼葉を入れ
るか水桶なのか、どちらかであるという事
が判るような、明快性の高い形態の遺物

だと私見し感心する。但馬の大和王権側に
つく、古墳時代後期の豪族に貢ぐ、馬が飼
われているような、牧場が近接していたの
ではないかと私は疑う。(2022/08/12)

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