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山形県山形市服部・藤治屋敷遺跡で古墳期奔馬墨書(長さん)

今回は、山形市の服部・藤治屋敷遺跡で、
古墳時代成立とされる、器物の台に使用され
たとみられる土器に、奉馬と書かれている例
の紹介である。

河川跡とみられるが、その他に古墳時代成立
の鉢と見られる土器に、「上」と書かれた物
が共出土している。

特に後者から、6世紀までに日本に漢字が有っ
た事は、余りに明快である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
5717_2_服部遺跡・藤治屋敷遺跡発掘調査報告書.pdf
 発掘報告書の名称は第1本文pdfの表紙
によれば以下の通りである。
服部遺跡・藤治屋敷遺跡第2次発掘報告書、
2004年、財団法人山形県埋蔵文化財センター。
 発掘報告書第2写真図版pdf末尾の抄録
によると、遺跡の場所は山形県山形市大字中
野。藤治屋敷が北側の字。服部遺跡は南側の
字である。連続した場所なので同じ遺跡の扱
いになっているようである。遺物が出土した
のは、西暦1999年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書の第16
ページに、器物台用土器、鉢用土器・・当に
分類されて紹介され、個々の遺物の形態から、
一括して古墳時代に成立と見なされているよ
うである。
 奉馬墨書があると、本ブログでみなす器物
台土器は、第2写真図版pdfの写真図版第
35の右側ページの、第2段目の右端に在り、
スケッチ図58の遺物番号第10番との旨、
ナンバリングされている。

服部58_10奔馬.gif

 上図のように、中央やや左の欠け部分の上
端のすぐ右に、漢字で奉、その斜め左下に、
漢字で馬のように読める、煤のような模様が
在る。古墳時代に、土地の有力者に、馬を献
上したのではないかと疑われる。なお発掘報
告書第2写真図版pdfの写真図版第41の
右ページの右下隅の、スケッチ図61の、第
11番とナンバリングされた口の広がった鉢
型の土器の、漢字模様の「上」は見事である。

服部61_11上.gif

 上図を見ると、古墳時代に漢字が存在した
のは、根拠が楽勝で示せるという気分に、さ
せられるように思う。(2022/08/11)

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青森県青森市野木遺跡で10C前半雷走馬墨書土器(長さん)

以前青森市の古代成立の本遺跡は「角行」墨書
土器「奉馬」墨書土器が出土し紹介済みである。
が、後者の奉馬と類似の概念である、走馬ない
し、雷走馬という、大局将棋の駒、雷走と走馬
をつなぎ合わせたような漢字模様のある遺物が
出土している事が、以前紹介した同じ発掘報告
書に載っているのを見つけたので、以下に紹介
する。

10世紀前半の平安時代に成立した「奉馬」墨
書の類であろう。

遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 以前に紹介した発掘報告書そのものであり、
pdfファイル名と、発掘報告書の名称は、
各々、以前に述べたとおり以下のようである。
1102_6_新町野遺跡発掘調査報告書II・野木遺跡発掘調査報告書II.pdf
 発掘報告書名は、以下の通りである。
青森市埋蔵文化財調査報告書第54集-2
野木遺跡発掘調査報告書Ⅱ、西暦2000年、
青森市教育委員会。
 遺物は、このケースも野木遺跡で出土している。
データベースの第1pdfは、新町野遺跡の発掘
報告書の本文pdf、第2pdfから第5pdf
までが野木遺跡の発掘報告書の本文pdfである。
前記の発掘報告書表題は、第2pdfに記載され
ていて、第1pdfは新町野遺跡に関して、別の
表題が付いた、別の発掘報告書である。
 遺跡の場所は、第5pdf末尾の抄録によると、
青森県青森市大字野木字山口。遺物が出土したの
は、西暦1998年前後。以上も既に紹介したと
おりである。
 遺物の成立年代は、第5pdfの614ページ
付近の記載から、鉄生産の行われた遺跡であって、
全体が10世紀前半の、短期間存在した遺跡では
ないかという事であった。
 遺物の写真は、第6写真図版pdfの写真図版
第188:”平安時代遺物 16”の上のカラム:
”竪穴住居跡60・63・64・65・66各号”
の最上段右から2番目にある。集合写真なので、
遺物番号は付いていないようである。遺物は杯の
カケラで、写真は裏面のようである。

野木遺跡走馬.gif

上図のように、裏面の右上に、漢字で雷のような
模様が在り、その左下に漢字で、かなり明確に、
馬に見える模様が在る。ところが、馬の上、雷の
左に、”走”の土の十が、はみ出て見えないよう
な漢字模様があり、

3文字であって「雷走馬」のように見える。

 製鉄遺跡であるから、鉄を打つときの火花が、
雷のスパークを連想させ、雷神信仰もそこから発
生して平安期には盛んだったのであろう。京都へ

馬を献上するときに、駿馬である事を強調したと
考えれば、奉馬や奉龍馬の意味

ではないかと取れると思う。奉馬墨書も共出土し
ているので、その類の馬といっしょに献上する器
という事なのであろう。(2022/08/10)

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山形県寒河江市三条遺跡で古代大動王墨書土器(長さん)

今回は、奔王や自在王の起源を連想させる、
奈良・平安期の「大動王」墨書遺物の紹介
である。発掘報告書では「丈部王」と釈文
されている。

第2字目は「部」の草書に似ておらず、
丈動王や丈動玉に近いが、意味は不明

である。
 なお、以前同じ文献を2回紹介しており、
「持」墨書遺物と「香箪」墨書遺物が、共
出土している。この発掘でかなりの数の、
墨書遺物が出土した、山形県寒河江市の
三条遺跡が舞台である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
28295_2_三条遺跡第2・3次発掘調査報告書.pdf
 発掘報告書の名称は以前に紹介したとお
り、以下である。
山形県埋蕨文化財センター調査報告書第93集
三条遺跡第2・3次発掘報告書、2001、
財団法人山形県埋蔵文化財センター。
 遺跡の場所は第1本文pdf:
28295_1_三条遺跡第2・3次発掘調査報告書.pdf
の巻末の抄録によると、
山形県寒河江市寒河江字三条。発掘調査は
同じく抄録により西暦1996年前後の事
のとなっていた。
 遺物の成立年代は、抄録には平安時代
8~9世紀と書かれているが、河川(SG)
第323番で出土した以下に紹介する遺物
は、墨書土器が一般に奈良・平安期だから、
その時期のものであろうという程度しか、
判っていないようである。以前に紹介した
墨書遺物と同様である。
 遺物の写真は今度は第2写真図版pdf
の、写真図版第123の、上段中央に在り、
スケッチ図第251の第3番との旨、ナン
バリングされている、杯土器の裏面に墨書
きがが在るように見えるが、墨書土器であ
ると、発掘報告書でも紹介されている。

三条遺跡大動王.gif

 上図のように3文字であり、特に真ん中
の第2文字目が、少なくとも本ブログの管
理人には、見慣れない字である。冒頭に述
べたように、発掘報告書では、この字を部
の草書と読み、丈部王と釈文しているよう
に読取れる。第1字目は丈の方が確率は高
いと、本ブログでも思う。第3文字には、
少し離れた右の所に、テンがあり、王とこ
こでは仮に読むが、玉の可能性も否定はで
きないように私には見える。
 仮に第1字目を「大」無理読みし、第2
字目を「部」の草書ではなくて「動」の
草書を意図していると仮定、第3文字目は
王だとすると「大動王」となり、

「奔王」の先祖の事

のようにも見えてくる。
 遺物の成立年代が、正確には判らないが、

奉王は弥生時代後期から存在しても、奔王
の熟語は日本では、余り使われず、同義の
概念は、大動王と言われた

事を示唆しているのかもしれない。
 大将棋の中に奔王・奔横が発生したのは、
興福寺出土駒より、かなり後である事を、
具体的に示唆する遺物と言える可能性も、
否定はでき無い遺物であるように私見する。
(2022/08/09)

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茨城県つくば市梶内向山遺跡で古墳期木将墨書土器(長さん)

今回は、つくば市の古墳時代成立とみられる
堀跡から漢字で木将と読めるような模様の在
る、椀状の土器遺物の紹介である。

多分だが奉山と書かれているのではないか

と疑われる。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に、登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
18950_2_梶内向山遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
茨城県教育財団文化財調査報告第199集
梶内向山遺跡、西暦2003年、
国土交通省常総国道工事事務所・日本道路公団・
財団法人 茨城県教育財団。
 発掘報告書冒頭に挿入された抄録によると、
遺跡の場所は、茨城県つくば市大字梶内字
キノサキ197番地。遺物が出土したのは、
西暦2001年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第1本文
pdf:
18950_1_梶内向山遺跡.pdf
の第11ページ及び、その少し後ろによると、
堀跡1・3は古墳時代の住居地の外堀で、出
土遺物も、その頃であると考えられているよ
うに、読取れる。
 遺物の写真は、発掘報告書第2写真図版
pdfの写真図版(PL)第37の2段目右
に在り、遺物番号第3堀跡(SD3)の第
250番との旨、ナンバリングされている。
椀のような形の土器のように、私には見える。

梶内向山木将.gif

上図のように、土器の写真で中央上端に漢字
で「木」のような煤模様があり、その下に、
黒枠文字のような、はっきりしない模様で、
ヘンが将の、旧字のように見える模様が在る。
ツクリは、将の右側のような「十」のような、
漢字としては不明確な模様である。
 大大将棋の「木将」の字が、古墳時代の土
器に書いてあったとしたら、この将棋種が、
安土桃山時代成立と見る本ブログの論とは、
大差が在る。しかし将の字が、いかにも不明
確である。
 恐らくだがこの遺物には、以前紹介した、
別のつくば市の上野陣場遺跡の山将と同じく、
奉山等と書かれていて、筑波山信仰に関連す
る祭祀用の遺物ではないか。将に見える第2
字目は、へんの縦棒と一番最後に書く部分が
本物で山の1~2画目。十字は左上部分のみ
字の一部で、山の第3画目が見えているのか
もしれない。上野陣場遺跡の遺物と同じで、

形も碗の類で、カテゴリーが同じなので。

同類なのではないかと、私は今のところ疑っ
ている。なお、字がかなりぼやけているのは
確かで、発掘報告書には、この遺物が墨書土
器であるとは、特に指摘が無いようである。
(2022/08/08)

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宮城県仙台市欠ノ上遺跡で9C中石奔墨書土器(長さん)

今回は、杯型の土器の裏面に明らかな墨書きが
あると発掘報告書でも指摘され、一見「七石奉」
と読める七の余計な奔石類字語句の墨書が有る
遺物の紹介である。

 妙見菩薩や北斗七星信仰とも関連する七つ石
の場所に納めて置く祭祀用の土器

かもしれない。中世のイメージだが、成立は
平安初期とされ、かなり早い。
 遺物の写真が、web上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
9883_1_欠ノ上Ⅱ遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
仙台市文化財調査報告書第246集
欠ノ上Ⅱ道跡発掘調査報告書、2000年3月、
仙台市教育委員会。
 発掘報告書末尾の抄録によると、遺跡の場所
は、宮城県仙台市太白区郡山字欠ノ上2-10。
遺物が出土したのは、西暦1999年前後の事
のようである。
 遺物の成立年代は、竪穴住居跡第8号で、こ
こで話題にする遺物は出土したが、発掘報告書
第55ページ付近の記載によると、9世紀半ば
で、やや前の方との旨取れる記載がある。共出
土土器遺物の、ロクロ使用の有無(使用してい
る)の形態と、住居跡の切り合いから、割り出
したとの事である。
 遺物の写真は発掘報告書の写真図版第17:
”須恵器(杯)・陶器・磁器”最上段右上に在
り、遺物番号は写真図版では4番となっている
が、第4竪穴住居跡スケッチ図では第5番と、
ナンバリングされている。

欠ノ上石奔.gif

 上図のように明らかに3文字の墨書きが在り、
発掘報告書では「七古市」と釈文されているが、
意味の議論は、私には発見できていない。
 第2字目の、第2画目の縦棒が短すぎて、
比較的整った字だが、古よりも、傷か墨そのも
のの存在によって私見だが石に見える。第3字
目は、はっきりしないが、仮に奉と読んでおく。
意味は通らないが市も、否定はできないだろう。

七(つ)石を祀る場所に、神酒を入れる容器を
置いたようなイメージ

が、一例として想像されるように思う。7つの
石を七つ星に準えた星辰信仰ではないだろうか。
 妙見菩薩とか武者神とみられる北斗七星信仰
というと、中世のイメージだが。器は平安時代
早期だという事である。仙台では、星祭が随分
と早くから行われたらしいと、月遅れの七夕を
思い出し、おおいに感心させられた。(2022/08/07)

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岩手県奥州市道上遺跡で古代泰山縄文墨書土器(長さん)

今回は、岩手県奥州市(旧:水沢市)道上遺跡
で、古代成立のゴミ捨て場から、漢字で奉山と
書かれているように見える、晩期の縄文土器が
出土したとの旨の話題である。

奈良平安期に掘り出されて墨書されたらしい。

 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
12366_1_道上遺跡第3次・合野遺跡・小林繁長遺跡発掘調査報告書.pdf
発掘報告書の名称は、下記の通りである。
岩手県文化振興事業団埋蔵文化財調査報告書第544集
道上遺跡第3次・合野遺跡・小林繁長遺跡発掘調査報告書、
2009年、岩手県県南広域振興局農林部農村整備室・
(財)岩手県文化振興事業団。
なお遺物は、道上遺跡で出土した。
 発掘報告書冒頭の例言によると、遺跡の場所
は、岩手県奥州市前沢区字白山前、遺物が出土
したのは、西暦2007年前後の事のようであ
る。他の2つの遺跡も前沢区内の別の字の場所
らしい。
 今回紹介する遺物の成立年代は、発掘報告書
の第20ページ付近によると、第1号遺物包含
層から出土した縄文土器(晩期か?)であるが、
平安時代中期までのものであると、読取れる。
弥生期に成立し、古代に掘り出されて墨書が行
われた遺物であるとして、以下は議論する。
 遺物の写真は発掘報告書の写真図版第67:
”道上遺跡出土遺物(29)”の第2段目左か
ら2番目に在り、遺物番号第389番との旨、
ナンバリングされている。上の方に横筋模様の
在る、弥生土器とも違う、縄文時代の終わり頃
の土器の破片と言われれば、そのように、私に
は見える。

道上遺跡泰山.gif

 上図のように、遺物の少し右に縦に、第2字
目が左に少しズレているが、漢字で「奉山」と
書かれているような、黒い煤模様が在る。
 古代と縄文晩期の土器が、同じ包含層から出
土している事から、西日本の

岩手県の縄文時代晩期の土器が散乱しており、
目に付いたので古代に祭祀用として再利用した

と考えても、極端な矛盾は無いと私見する。
 古代に奥州市付近の山等を奉じたのであろう。
この遺物が、古代の土器といっしょに出土して
いる点から見て、縄文時代の土器が、後に再利
用されて墨書土器になるという事が、実際に有
る事を示す証拠となる史料であると、見なせる
だろうと私見する。(2022/08/06)

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富山県富山市明神山遺跡で近世奔龍墨書土器(長さん)

今回は、富山市の明山遺跡で、近世の瀬戸物
椀の底に、奉龍のような字の書いてある遺物
の紹介である。

「金札」・「奉札」・「金礼」・「奉礼」の
どれかではないかとみられる。

遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
115842_1_富山市明神山遺跡発掘調査報告書.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
富山県埋蔵文化財調査報告107富山市
明神山遺跡発掘調査報告書、2022、
富山市教育委員会。
 発掘報告書末尾の抄録によると、遺跡の
場所は、富山県富山市茶屋町・寺町。遺物が
出土したのは、西暦2021年前後の事のよ
うであり、最近である。
 遺物の成立年代は発掘報告書の第38ペー
ジ付近によると、ここで話題にする遺物は、
富山県産の瀬戸物で、その形から18世紀成
立とされ、筒状の椀で墨書遺物と認知され、
「金ケ口」と3文字書かれているとの旨、紹
介・釈文されている。
 遺物の写真は、発掘報告書の写真図版第
25:”A区遺物(12)”の左上に在り、
遺物番号で第145番との旨ナンバリングさ
れている。瀬戸物や土器の裏面の写真のよう
に見える。

明神山遺跡奔龍.gif

 一見、奉龍と読んでしまうが、発掘報告書
の指摘通り、下の字は左側が欠けている上に、
ぼやけた像に劣化し難解である。第2字目の
「ケ」は、私には所在が確認できない。

第1字目は、金かもしれないが奉かもしれな
い。下の字は、礼のようだが、札も否定でき
ない

だろう。
 祝い事に使用する筒状の器で、金粉入りの
茶を注いで飲む器等が連想される。つまり
「金粉入りの茶で御礼」の意味か。
 あるいは、筒状の容器に札を立てる、祭事
や仏事用の容器か?
 室町時代に摩訶大大将棋/摩訶大将棋は有っ
たと本ブログでは見ているので、将棋名でも
矛盾は無いが。このケースは、第2字目が、
そもそも龍である可能性は少ないので、幕末
にかなり近いが、将棋とは無関係かもしれな
い。(2022/08/05)

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福島県三島町小和瀬遺跡で縄文晩期奔馬墨書土器(長さん)

今回は西日本の弥生時代である、西洋紀元前後
に成立の、福島県の縄文晩期の土器に、漢字で
奉馬と、墨書があるように見える遺物が出土し
ているとの旨の紹介である。

墨書縄文晩期土器の一例とみられる。

 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
122340_2_只見川流域築堤工事遺跡発掘調査報告.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
福島県文化財調査報告書第546集
只見川流域築堤工事遺跡発掘調査報告1小和瀬遺跡、
西暦2022年、福島県教育委員会・福島県
文化振興財団。
 発掘報告書第1本文pdf:
122340_1_只見川流域築堤工事遺跡発掘調査報告.pdf
の冒頭の例言によると、遺跡の場所は、
福島県大沼郡三島町大字桧原字
下小和瀬。遺物が出土したのは、西暦2019
年前後のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第1本文
pdfの第127ページ付近の説明によると、
遺物は深鉢の破片で、縄文時代晩期、西洋紀元
前後のものと、推定されているように読取れる。
 遺物の写真は、第2写真図版pdfの写真図
版第44:”遺構外出土土器”の第3段目左に
在って、スケッチ図第98の遺物番号第1番と
の旨、ナンバリングされている。比較的大型の
土器の破片のように私には見える。

只見川奔馬.gif

 上図のように、左下隅に、左から右に横に並
んで、漢字で奉馬と読めるような、煤のような
模様が在る。福島県の奥只見にも漢王朝時代の
中国人がおり、磐梯山・鶏頂山・那須岳等方々
で鉄鋼石を探す傍ら、渓谷の間を縫って異民族
戦争用の軍馬用の牧場を、その頃現地で経営し
ていたのかもしれない。遺物は漢王朝皇帝へ、
馬を献上する際、使用する土器なのかもしれな
いと私見している。漢の皇帝は、馬用の水鉢が、
弥生土器では無くて、晩期縄文土器である事を、
ほとんど気にしなかったであろう。(2022/08/04)

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静岡県浜松市寺海土遺跡で中世行猪墨書土器(長さん)

今回は、静岡県浜松市の遺跡で、和将棋の
将棋駒名を連想させる、漢字で「行猪」と
書かれているようにも見える、墨書土器の
話題である。

行者と書いた、可能性が高いと見られる。

 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
21875_4_中通遺跡・寺海土遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
静岡県埋蔵文化財センター調査報告第15集
中通遺跡・寺海土遺跡、2012年、
中日本高速道路株式会社東京支社・
静岡県埋蔵文化財センター。
 発掘報告書第1pdf冒頭の例言による
と、遺跡の場所は静岡県浜松市浜北区根堅。
遺物が発掘されたのは、西暦2005年前
後の事のようである。
 今回紹介する遺物の成立年代は、発掘報
告書第1本文pdfの第388ページ付近
によると山茶碗の破片であり、鎌倉時代前
後の13世紀程度の中世のものであると、
見られているように読取れる。
 遺物の写真は、発掘報告書第4pdfの、
写真図版第100:”墨書土器(2)”の、
第4段目右側に在り、遺物番号第1633
番との旨ナンバリングされていて、「行口」
と釈文されている。

寺海土行猪.gif

 上図のように、墨書土器の破片の底部の
ように見え、第1字目は「行」。第2字目
は欠けていて、ツクリの一部しか見えない
ようにいっけん思えるが「者」の第4画目
までだけを残して消えたとすれば、一例と
して、猪が該当する。そのため和将棋・
大局将棋の将棋駒名の「行猪」のようにも
見える。なお、第1字目と第2字目の間に、
横線が有り、汚れと解釈してそうなる。
 和将棋・大局将棋は江戸時代成立とみら
れるため、鎌倉時代に、それらの将棋の、
駒名から来る墨書があるとすれば、驚きで
ある。
 そこで、文字を良く見ると、

第2字に関して、者にケモノヘン等へんが
付いているとは考えにくい。

者の字が猪にしては、左にややズレている。

「行者」の可能性が、最も高い

のではないか。中世に祭祀を行う場所が近
傍に在り、行者が居て彼が使用する土器で
ある事を示すために付けた、墨書きである
可能性が、かなり疑われると私見する。
(2022/08/03)

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新潟県小千谷市城之腰遺跡で縄文後期奔馬墨書土器(長さん)

今回は新潟県の縄文時代のたぶんだが晩期
の土器に、漢字で奉馬と書かれているよう
に見える遺物があるとの旨の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
23249_2_城之腰遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
新潟県埋蔵文化財調査報告書第29集城之腰遺跡、
1991、新潟県教育委員会。
 発掘報告書冒頭の例言によると、遺跡の
場所は、新潟県小千谷市大字山谷字城之腰。
遺物が出土したのは、西暦1980年前後
の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第1本文
pdf:23249_1_城之腰遺跡.pdf
の、第127ページ付近の記載によると、
この遺物自体が形から縄文時代後期の初め
の頃に成立したと、推定されているように
読取れる。なお、この地方の通称年代と、
絶対年代との対応については、発掘報告書
同じく第1pdfの、第114ページ付近
に説明がある。
 遺物の写真は第2写真pdfの写真図版
第110:”その他の土坑ピット出土土器
10”の下から2段目中央に在り、遺物番
号第1704番とナンバリングされている。
下部に縄文の有る、土器の小さな破片のよ
うに見える。

城之腰奔馬.gif

 上図のように、反時計回りに回転してい
る上に、第1字目がやや薄いが、縦に漢字
で「奉馬」と書かれているように私見する。
 新潟県の縄文晩期に成立したものであっ
て、帰化人により、晩期に縄文土器に、漢
王朝皇帝宛の貢物の馬にちなんで、奉馬と
墨書された西暦前後成立の、墨書ではない
だろうかと私は疑う。新潟県小千谷には、
西日本での弥生時代後期頃に、帰化人が
経営する、対異民族戦争用の戦闘馬の牧場
が、鉄鉱石の採掘を兼ねて牧場の開かれた
日本の九州や近畿と同様にその頃、ひょっ
としたら存在したのではなかろうかと、私
は疑っている。(2022/08/02)

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